精神論〔1758年〕

 

第三部 第13章 自尊心について

 

 自尊心は私達のなかの、自らの卓越についての真または偽の感情にほかならない。この感情は、他人と比べて自分を有利とすることにあるので、したがって人々の実在を、また諸社会の設立さえも前提する。

それゆえ自尊心の感情は、快苦の感情と違って、生得的ではない。それゆえ自尊心は美と卓越の知識を前提する人為的な情念にほかならない。ところで卓越または美は、大多数の人々がそのようなものとして常にみ、評価し、敬ったもの以外ではない。それゆえ評価されるものの観念は評価できるものの観念に先立った。この二つの観念がまもなく混同されざるを得なかったのは本当である。こうして、自分自身に満足したいという高貴ですばらしい欲望に動かされ、また自分自身からの評価に満足して、一般の意見はどうでもよいと思う人間は、この点で、自分自身の自尊心に騙され、評価されたいという欲望を、評価できるものになりたいという欲望と解してしまうのである。

自尊心は実際、公的評価への秘かで偽装された欲望でしかあり得ない。アメリカの森で、自分の身体の器用さ、力、敏捷さをうぬぼれる同じ人間は、なぜフランスでは、より本質的な性質がないときにしか、こうした身体的利点で自尊心を持たないのであろうか。身体の力と敏捷さとは、フランス人からは未開人からほど評価されないし、されてはならないからである。

自尊心が評価への偽装された愛にほかならないことの証明として、自分の卓越と優秀さを確信したいという欲望にもっぱら専心している人間を想定しよう。この仮定においては最も個人的で偶然に最もよらない優秀さが、疑いなく最も喜ばしくみえるであろう。文と武とで栄光を選ばなければならないなら、したがって彼が選好するのは前者であろう。彼は敢えてカエサル自身に反駁するであろうか。勝利の栄冠は、啓蒙された公衆によって、将軍、兵士、そして偶然に常に分有されるということを、彼はこの英雄とともに認めないであろうか。反対に学芸の栄冠は、分有されずにそれに鼓吹される人々に属することを。偶然はしばしば無知な者や卑怯な者を〔軍事的〕勝利の座に置き得たが、愚かな作者の頭に栄冠をおくことは一度もなかったと、彼は認めないであろうか。

自尊心、すなわち自分の卓越を確認したいという欲望しか問題にしないならば、それゆえ確かに、第一の種類の栄光がより願わしく彼にはみえるであろう。人が深遠な哲学者よりも偉大な大将を選好しても、この点で、彼の意見を変えないであろう。公衆が哲学者よりも将軍に大きな評価を認めるのは、啓蒙されたいと思う少数の人々にしかすぐには有用とみえない賢者の格率よりも、将軍の才能のほうが公衆の幸福に対してより迅速な影響を与えるからであることを、彼は感じとるであろう。

ところで、しかしながらフランスには、武の栄光を文の栄光よりも好まないような者がいないのは、評価できるものになりたいという欲望が評価されたいという欲望のおかげだけによるからで、自尊心が評価への愛自体にほかならないからだ、と私は結論する。

続いて、自尊心あるいは評価へのこの情念が身体的感性の結果であることを証明するためにいまや検討しなければならないのは、人が評価自体のために評価を願うのかどうかである。そして評価へのこの愛が苦への心配と快への愛の結果でないかどうかである。

実際公的評価が熱心に求められるのは、どんな他の原因に帰され得ようか。各人が自分の価値について内的不信を持っていて、したがってまた、自己評価したくてもひとりでは自分を評価できないので、自分自身について高い意見を持っているのを誇示するために、また自分の卓越の喜ばしい感情を享受するため、公的賛同を必要とする自尊心にであろうか。

しかしもし、私達が評価されたい欲望を持つのはこの動機だけによるならば、最も広い評価、すなわち、最大多数によって与えられるような評価は、異議なく、最も嬉しく最も願わしいものにみえるであろう。それは私達のなかのしつこい不信を黙らせるのに、また私達の価値に関して安心させるのに最もふさわしい評価としてである。ところで、私達に似た存在が住んでいる〔地球以外の〕惑星を想定してみよう。ある霊がいつでもやってきてそこで起きていることを私達に告げ、またある人が自国での評価とこうした天界すべてでの評価の間で選ばなければならないと。この想定では、彼が同国民からの評価よりも選好するに違いないのは、より広い、すなわち諸惑星すべての住民からの評価であろうことは、明らかではないか。しかしながらこの場合、国民的評価に味方する決心をしないような者はいない。それゆえ評価への欲望は、自分の価値について確信したいという欲望ではなく、この評価によって得られる利点のためなのである。

このことを納得するために自問して欲しいのは、公共の評価を最も欲しがると言われる者が、謀略や陰謀で邪魔されて、自国民に有用なことを何もできない時代においてさえ、大きな地位を熱心に求めるのはなぜかである。そういう時代ではしたがって、彼等は公衆のあざけりにさらされるが、公衆はその判断において常に正当で、立派に果たせない職務を受け入れるほど自分の評価に無頓着な者は、みな軽蔑する。さらに自問してほしいのは、君主からの評価のほうが信用のない男からよりもなぜ嬉しいのかである。そうすれば、すべての場合において、評価への私達の愛はそれが約束する利得に釣り合っていることがわかるであろう。

私達が選ばれた少数の人々からの評価よりも、知識のない多数からの評価を選好するのは、多数において、評価が人心に与えるこの種の影響力に服するより多くの人々をみるからである。より多数の称賛者のほうが、彼等によって得られる快いイメージをよりしばしば私達の精神に呼び起こすからである。

この理由で、何の関係もないような民族からの称賛には無関心なので、大チベットの住民が評価してくれるということでおおいに心を動かされるようなフランス人はほとんどいない。全世界の評価を奪い取り、南極地方からの評価さえ欲しがるような人々がいるとしたら、その欲望は評価に対するより大きな愛の結果ではなく、より大きな幸福という観念を、より大きな評価という観念に結びつける習慣を持っているからに過ぎない(a)

この真理の最後で最強の証拠は、最大の報いが価値と区別されない時代では、評価に嫌悪が抱かれること(b)と、偉人が乏しいことである。大きな才能や大きな美徳を得られる人は、自国民と黙約しているように思われる。彼のそばにすべての快楽を集める限り、感謝した同国民が、彼の苦痛を減らすように注目し、彼等に有用な才能と行動によって名を挙げるように促される、という黙約を。

すべての時代と国において、偉人が多いか少ないかは、こうした黙約を果たす公衆が、怠惰であるか精勤であるかによる。

それゆえ私達は評価のために評価を愛するのではなく、もっぱらそれが得させる利得のために評価を愛するのである。クルティウス1)の実例でこの結論に反対して武装しようとしても無駄である。ほとんど唯一の事実は、最も多数の経験に支えられた原理に反して何も証明しない。とりわけまさにこの事実が、他の諸原理に帰され得、また当然他の諸原因によって説明され得るときには。

クルティウスのような人間を形づくるためには、生きるのに疲れた人が、多くのイギリス人に自殺の決心をさせる体調不良にあることで十分である。あるいは、クルティウスのときのようにとても迷信的な時代に、他人以上に狂信的で信じやすく、自分が身を捧げれば神々の間に席を得られると信じる人が生まれることで十分である。どちらの想定においても、自分の悲惨を終わらせるためであれ、天上の快への門を開くためであれ、死へと身を捧げることができる2)

この章の結論は、評価できるものになりたいと願うのは評価されるためにほかならず、人々からの評価を願うのはこの評価につきものの快を享受するためにほかならない、ということである。それゆえ評価への愛は快への偽装された愛である。ところで、快には二種類しかない。一つは感官の快であり、もう一つは、まさにこの快を得る手段である。この手段を快の分類の中に並べたのは、ある快への希望は快の始まりだからである。しかしながらこの快が実在するのはこの希望が実現可能なときだけである。それゆえ身体的感性は自尊心の、また他のすべての情念を生み出す芽である。こうした情念の中に私は友情を含めるが、これは外見上感官の快から独立しており、この実例を通じて、私が諸情念の起源について言ったことすべてを研究するために、検討されるに値する。〔その検討が次章でなされる。〕

 

【原注】

(a)人々は、よい教育の諸原理を通じて、幸福の観念を評価の観念と混同することに慣れている。しかし、評価という名の下で、彼等が本当に願っているのはそれが得させる利得だけである。

(b)評価が不毛な諸国においては、人は評価に値するためにはほとんど何もしない。しかし、評価が大きな利得をもたらすいたるところで、人は、レオニダスのように、三百人のスパルタ人とともに、テルモピュレーの険を守りに駆けつける。

 

【訳注】

1)    クルティウス(Marx Curtius, ?-BC.362)は古代ローマの貴族の青年。神託に従い、フォルムに突然生じた地割れのなかに馬で飛び込み、この犠牲によって裂け目はただちに閉じたという。

「人はみな自分の利害のために一般の利益に協力するものだと言われている。しかし、正しい人が自分の損になっても一般の利益のために死んでいくというのはいったいどういうわけか。〔…〕有徳な行動に当惑させられるような哲学、そういう行動にも卑劣な意図と徳性のない動機とをでっちあげなければ切り抜けられないような哲学、ソクラテスを卑しめたり、レグルスを中傷したりしなければならないような哲学は、あまりにも忌まわしい哲学と言わなければなるまい。たとえそんな学説が私達の間に芽生えてきたとしても、本性は、そして理性も、ただちにそれに反対の声を上げ、その学派のたった一人にでも、本心からその学派の人として弁明する余地をけっして与えないであろう。/私はここで〔…〕哲学を論じようとは思っていない。ただ、自分の心にきいてみることであなたを助けてあげたいのだ。私が間違っていることをすべての哲学者が証明するとしても、私が正しいことをあなたが感じるなら、それでいい」(ルソー『エミール』第四編)。


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2020/02/12 19:08 2020/02/12 19:08
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