第二部 第六章 徳を確保する方法について

 

 人が正しいのは、彼の行為すべてが、公益に向かっているときである。有徳な人という称号に値するために善を行うだけでは十分ではない。君主は無数の地位を与えなければならず、それらに人をあてなければならない。彼は邪魔されずに無数の人を幸せにすることができる。それゆえ彼の徳は、ひとえにその選択が正義(a)か不正かによる。もし重要な地位が問題であるときに、友情、弱さ、懇願、あるいは怠惰によって、凡庸な人をすぐれた人より優先させるならば、彼がその中で生きている社会が彼の徳義をどんなに褒めたたえようと、自らを不正とみなさなければならない。

 徳義に関して、諮り信じなければならないのは、もっぱら公共の利害であって、まわりの人々ではない。個人的利害は彼等に<あまりに>しばしば幻想を抱かせる。

 たとえば宮廷では、この〔公共の〕利害は、間違いに思慮、真理に愚かさという言葉を与えないが、真理はそこでは少なくとも狂気とみられているし、常にそうしたものとみなされざるを得ない。

 真理は宮廷では危険である。そして有害な徳は、いつも欠点の中に数え入れられよう。真理が恵みを受けるのは、ルイ12世[ルイ15世]<アンリ4世>のような、人間的で善良な君主の下においてだけである。俳優たちが劇場で君主を演じていた。廷臣たちは彼等を罰するように君主に勧告した。彼は言った。「いや、彼等は余に公平である。彼は余が真理に耳を貸すに値すると信じておる。」その後では某<摂政オルレアン>公1)によって模倣された、慎みの例がある。この公はある地方<ラングドック>にある税を課さざるを得ず、この地方の諸身分の代表からの抗議に疲れて、精彩ある答え方をした。「余の意に抗うべく、どんな力を持っておるのか。何ができるというのか。」代表は答えた。「従うことと憎むこととが。」代表にも公にも等しく名誉を与える高貴な返答である。それを聴くことが一方に難しいのは、それを実行するのが他方に難しいのとほとんど同じほどであった。まさにこの公には愛人がいた。ある紳士が彼から愛人を奪った。公は憤慨し、とりまきは復讐を扇動した。彼等は言った。「無礼者を罰してください。」彼は答えた。「余には復讐がたやすいことはわかっておる。敵を倒すには余の一言で十分じゃ。じゃによって余はそれを発せぬ。」

 こうした慎みはあまりに稀である。真理はふつう君主や貴族にはあまりにうけが悪いので、長い間宮廷にとどまれない。低俗さや追従に慣れた紳士と呼ばれる人々の大部分が、そうした悪徳を世間の習慣と名付けており、またそう名付けざるを得ない国に、どうして真理が住みつけるであろうか。効用のあるところに犯罪を認めるのは難しいであろう。しかしながら、栄光の友である君主からみれば、ある種の追従は、したがってもっと犯罪的であることを、誰が疑うであろうか。ここで謀反人の肩を持つわけではない。しかし結局追従は、よい君主をしらずしらずに徳の道からそらすかもしれないのに、反乱はときに暴君を徳の道に引き戻すことがある。抑圧された人々の不平が王座までのぼることがあるのは、しばしば御意見番として許された我が儘者の口によってだけである(b)。しかし利害がいつも、宮廷の個別社会からこうした真理を隠すであろう。真理を誘惑する幻想から身を守ることができるのは、たぶん、こうした社会から遠くで生きることによってだけである。少なくとも確実なのは、まさにこうした社会の中で強固で純粋な徳を保つことができるのは、公衆の効用という原理を習慣的に念頭におき(c)、この公衆の、したがって道徳と政治との真の利害についての深い知識を持つしかない、ということである2)。完全な徳義は愚かさの賜物ではない。知識のない徳義は、せいぜいのところ、意図における徳義に過ぎず、それに対して公衆はどんな敬意も持たず、また実際持ち得ないが、なぜなら第一に、公衆は意図についての審判者でないからであり、第二に公衆はその判断において、自分の利害にしか耳を傾けないからである。

 狩りで運悪く友人をあやめた者を公衆が助命するとき、赦しは彼の意図が無垢であったためではないが、なぜなら法によれば、眠っているときに不覚にも急襲された歩哨には厳罰を科すからである。第一の場合に公衆が赦すのは、ある公民の喪失に、別の公民の喪失を加えないために過ぎない。第二の場合に罰するのは、同様な油断が公衆に与えるかもしれない不意打ちや不幸を防ぐために過ぎない。

 それゆえ、誠実であるためには、魂の高貴さに、精神の光〔知性〕を加えなければならない。こうした自然の賜物を合わせ持つ者はみな、常に公益という羅針盤に導かれるであろう。こうした効用が人間のあらゆる徳の原理であり、あらゆる立法の基礎である。これが立法者に霊感を与え、彼の法に服するように人民を強いなければならない。彼のすべての感情を、人間性の感情に至るまで捧げなければならないのは、結局この原理に対してである。

 公的な人間愛は、諸個人に対して時に無慈悲である(d)。ある舟が長い凪ぎに襲われ、飢えのために、是非を言わせぬ声で、仲間の食糧として役立つべき不運な犠牲者を運命に委ねるように命じたとき、罪責感なしに彼を貪ることになる。この舟は各国民の象徴である。公的救済〔le salut publique〕のためには、すべては正当となり、有徳とさえなる3)

 私がいま言ったことの結論は、徳義に関しては、勧告を用いるべきなのは、自分がその中で生きている社会からではなく、ただ公益からだけだ、ということである。常に公益に諮る者は、国家を害することなく、公衆に直接有益な、あるいは諸個人に有利な行為しかしないであろう。ところでこうした行為は、当人に常に有益である。

 功績ある不幸な人を助ける者は、異議なく、一般的利害にかなう善行の例となる。彼は徳義が富に課す税を免れる。

 誠実だが貧しい人は、有徳な富者の宝以外の後援者を持たない。

 この原理に導かれる者は、自らの徳義についての有利な証言を自らに帰し得るし、誠実な人という称号に実際に値することを自らに証明できる。私が「値する」と言うのは、この分野でなんらかの評判を得るためには、有徳であるだけでは十分でなく、さらにコドルスやレグルスのように4)、私達の行為が公益におおいに影響し得る時代、環境、そして立場に幸運におかれていなければならないからである。他のどんな地位においても、一公民の徳義は、常に公衆には知られず、いわば、自分とともに生きている人々の慣習にだけ属する個別的社会の一性質に過ぎない。

 ある私人が他の国民に有用で推奨されるものとなるのは、もっぱらその才能によってである。一個人の徳義が公衆にとっては何であろう。<(1)>この徳義は公衆にはほとんど何の効用もない(e)。だから公衆は、後世が死者を裁くように生者を裁く。後世はユウェナリスが邪まであったか、オウィディウスが放蕩者であったか、ハンニバルが残酷であったか、ルクレティウスが不敬であったか、ホラティウスが放縦であったか、アウグストゥスが陰険であったか、カエサルがあらゆる夫の妻であったかどうかを問い合わさない5)。後世が裁くのは、もっぱら彼等の才能である。

 ここから私が注目したいのは、著名人の私的悪徳に対して激怒する人々の大部分は、公共の福利に対する彼等の愛よりも、才能に対する彼等の羨みを明らかにしている、ということである。それはしばしば当人の目には、徳の仮面をつけているが、たいがいは装われた羨みに過ぎないのであって、そのゆえは一般に彼等が、功績ない人の悪徳には同じ恐怖を抱かないことにある。悪徳の弁護をしようというのではない。どれだけ多くの誠実な人々が、もしその原理と低劣さとを暴かれるならば、彼等が信じている感情のために赤面せざるを得ないであろうか。

 たぶん公衆は、徳に対してあまりに多くの無関心を示すであろう。私達の作者たちは、ときおり、自分たちの品行よりも自分たちの作品を直すことにより配慮するであろうし、アヴェロエスを範とするであろうが、この哲学者は、言われるところでは、いたずらをほとんど有害でないとみなしただけでなく、自分の評判に有用なものとさえみなして自らに許した。彼が言うには、これによって彼は自分の競争相手をごまかし、彼等が自分の作品に対して行ったかもしれない批判を、彼の品行のほうに巧みにそらした。その批判は疑いなく、彼の栄光に対して、より危険な打撃を加えたかもしれない、と言うのである。私はこの章で、個別的社会からの誘惑を避け、無数の個別的で異なる利害の衝撃から、常に揺るぎない徳を保つ方法を示した。そしてこの方法とは、そのふるまいすべてにおいて、公益を考慮することに存する。

【原注】

(a)ろばの皮で要路の人々を覆っていた諸国があるが、それは彼等が、礼儀や好意と呼ばれるものには何も負うべきでなく、すべてを正義に負うべきであることを彼等に教えるためであった。

(b)詩人サアディは言う。「王たちの耳に不幸な人々の嘆きを届けるべきなのは、大臣たちの臆病な声ではない。民衆の叫びが直接に王座まで届くことができなければならない。」

(c)この原理に従って、ド=フォントネル氏は嘘を、「言うべき真理を言わないこと」と定義した。ある男がある女の寝室から出て、その夫に出会う。「どこから来たのですか」と夫が彼に言う。何と答えたらよいのか。そのときには彼に真理を言うべきか。ド=フォントネル氏は言う。「否。というのもそのときには真理は誰にも有用ではないから。」6)ところで真理そのものは公共の効用という原理に服する。それは歴史の構成、技芸の研究を主催すべきである。それは貴族の前に現れ、公衆に有害な欠陥を彼等の目から覆っているヴェールをひきはがすべきでさえある。しかしそれはその人しか害さない欠陥をけっして暴露すべきではない。それは真実であるという口実の下に効用なく人間を苦しめることであり、邪悪かつ野獣的なことである。それは真理を愛するというより、他人を辱めて自らに栄光を与えようとすることである。

(d)アラブ人達において、バフラの知事で、有名なジアド7)が与える厳しさの実例を与えたのは、この原理である。この町にはびこっていた暗殺者たちを一掃しようと無駄に努めた後、彼は通りで夜に出会う人間みなに対して死刑を宣しなければならないと思った。そこである外国人が逮捕された。彼は知事の法廷に連行される。彼は泣き落としを試みる。ジアドは彼に言う。「不運な外国人よ、私は、お前が知らなかったかもしれない命令違反を罰することで、お前には不正にみえるに違いない。しかしバフラの公安はお前の死にかかっている。私は泣いてお前を処刑する。」

<(1)公衆は一個人の徳義を称賛すべきである。しかし公衆が本当に愛するのは、自分に有用な種類の徳義だけである。前者は実例に役立つ。そしてそれが社会に有害でないときには、それは公衆に有用な徳義の芽となり、少なくとも一般的調和に貢献する。>

(e)彼の心情を称賛することは許されるが、彼の精神〔才気〕をではない。なぜなら前者は前例とならないからである。こうした称賛が公衆から得るものはほとんとないであろうことを、羨みによって予見できる。

【訳注】

1)オルレアン公(Duc d'Orl ans,1674-1723)はフランスの軍人・政治家。ルイ13世の孫。ルイ15世の摂政(1715-23)。

2)「反論すべし。この論法では哲学者のところにしか真の徳義はなくなる。確かに、彼等は互いに実にうまく褒め合っているものだ。」  (Rousseau,note de <De l'esprit>, uvres compl tes,t,4,p.1126

3)「公的救済は、もしすべての個人が安全でないならば無である。」 (ibid.,p.1126)エルヴェシウスのこの発言とそれへのルソーのこの批判とは、フランス革命中の「公安委員会」による「恐怖政治」について私達を考えさせずにはいないであろう。

4)コドロス(Kodros)はアテネの伝説的な王。ドーリア人との戦争のとき、自分が死ねば勝利できるという神託を知り、きこりに身をやつして戦って死に、祖国に勝利をもたらした。レグルス(Regulus,?-c.BC.249)は古代ローマの将軍。カルタゴの捕虜となり、捕虜交換交渉の使者として戻った際、国益のためにこの交渉を拒否するように訴え、カルタゴに戻って処刑された。

5)ユウェナリス(Juvenalis,c.50-c.130)は古代ローマの風刺詩人。オウィディウス(Ovidius,BC.43-c.AD.17)は古代ローマの詩人。『変身物語』などで名声を得るが、淫らな詩と不明の罪のために皇帝アウグストゥスにより追放され、流謫の地に客死。ルクレティウスは 原子論的物質論により(神の存在は認めたが)宗教を否定した。カエ サル(シーザー)は老若男女に対して放縦であり、ある演説では「あらゆる女の男で、あらゆる男の女よ」と呼ばれた(スエトニウス『ローマ皇帝伝』国原吉之助訳、岩波文庫、上、一九八六、59頁)

6)「おかしな例! まるで人妻を安んじて寝取る男が、嘘をつくのにためらうかのようだ! 脅迫された者が嘘を余儀なくされることはあり得る。しかし立派な人は嘘つきでも姦通者でもあろうとはしない。」 (Rousseau,op.cit.,p.1126

7)「バフラ(Bafra)の知事で、有名なジアド(Ziad)」は不祥。




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