二言居士
「ビック・ダディ」を覚えているだろうか。小生は特にフォロワーでなかったので、彼が南の島や東北の村でどのように暮らしていたか、よく知っているわけではない。いわんや『裸の美奈子』を購入して、「どこでも脱いでないじゃないか!」と怒ったような人間(?)ではない。ただし小生は物まねが好きでよく見る。うまいまねや意想外のまねは無論楽しいが、対象のどこを切り取るか、どこを誇張するかにも面白さを感じさせられることがある。後者の場合、まねされる人の一面が浮き彫りにされる(時には一種の批評になる)ことでのおもしろさの場合と、人々がこういうところを印象的にまたはおもしろく思うのだということに気づかされるおもしろさとがある。「旬の人」であった当時、「ビッグ・ダディ」も何人かがまねしたが、その際よく切り取られたのが今回の題にしたせりふである。彼そのものを主題としたテレビ番組などで彼のこの言葉を印象的に扱った面もあるのかもしれないが、それならそうした番組制作者を含めて、人々がこの「決めぜりふ」に何かを感じたからではなかろうか。
何を感じたのか。開き直りのせりふであり、駄々っ子のような「キャラ」を少し上からおもしろがるのにはまったのか。そうかもしれない。繰り返せば小生は彼の人となりをよくは知らない。しかしそう単純ではない気がする。車寅次郎のおとなげなさを人はまず笑うが、そのなかに何か尊いものを思い出さされることがある。ビッグ・ダディのこの言葉は、開き直りでもあるが潔さも感じさせる。理屈で言い訳したり、説き伏せたりしようとはしない。一般にはそのような構えが不快な時もある。一つは丁寧に説明すべきことについてその努力を怠ってこう言う場合である。もう一つは「上」の立場からの間接の命令としてこう言う場合である。明らかに彼は後者ではなく、妻子はこの「ダディ」を畏敬して言われるまま従ったのではなかった。前者は微妙なところもあろうが、本質的にはそうでなかったと思う。なぜなら「ビッグ・ダディ」もので焦点になっていたのは彼の「生き方」であり、生き方については最終的には「俺はこういう人間だ」ということだと思うからである。説明責任の放棄でなく、これ自体が他のすべてを説明する「最後の言葉」である。正しいかどうかの問題でなく、自分はそうでしかあり得ないという自覚である。それによって相手は、ついていくか、離れるか、着かず離れずで折り合っていくか、敵対するか、相手に委ねているのである。その点で潔く感じさせる。自分は正しいという思い上がりや、自分に従うべきだという威令ではなく、賭けであり諦めでもある。それでも「前向きな」人は、自分がこういう人間だと頑固に決めつけるのは変わろうとする努力の放棄である、と批判するかもしれない。正論めいて聞こえるが、小生は、中年以上には無駄な言説と思う。不惑をこえて生き方が変わることはまずない。ごくまれに「人が変わった」と言われるようなのは、異様な体験によってなどで、結果的に変わったのである。善意の批評としても、「変わる努力を」ではなく、彼は「こういう人間だ」ということをうけとめて、よいところを評価し、自覚していない短所で自他が困っているならそれを気づかせる、というほうがずっと有効であると思う。また長所を自覚していないことで損していると思われるなら、その指摘はさらにありがたいことであろう。それを気づかされたことから当人が潜在能力を顕在化させて、自分はこういう人間「でもあった」んだと思うこともあるかもしれない。
自分がどういう人間か、は意外とわからないものである。また我々は自分を「相手」や「世の中」に合わせて変える(それはある程度まではおとな=社会人として当然のことである)ことに汲々としており、そのなかで自分がどういう人間かを思うことすらなくしてしまいがちである。「ビッグ・ダディ」ははじめはどこが「ビッグ」かよ、と突っ込み的に笑っていても、なるほどある意味で「ビッグ」だと感じさせられてしまうものがある(三度目だが、小生の思い入れに過ぎないかもしれない)。こどもの多さを苦にせず、毀誉褒貶に動かない「昭和な」男に我々はすがすがしさを感じさせられるのかもしれない。
「そこまで俺は言う」。