第二部 第8章 公衆の判断と個別的社会の判断との違いについて

 

公衆と個別的社会とが同じ人々に対して異なる判断を下す原因を発見するために、観察しなければならないのは、一国民はそれを構成する公民の集合にほかならない、ということである。各々の公民の利害は、なんらかの紐帯で、公共の利害に常に結ばれている、ということである。無人の空間につるされ、二つの主要な運動、すなわち遅いほうは(a)宇宙全体とともに共通で、早いほうは個別的な、二つの運動によって動く諸々の天体に似て、各社会は、異なる二種類の利害によって動かされるということである。

弱いほうの利害は、一般的社会、すなわち国民とともに各公民に共通である。強いほうの利害は、彼にとって絶対的に個別的である。

 この二種類の利害に従って、個別的社会に気に入るのに適した、二種類の観念がある。

 第一の観念は、より直接に公共の利害に関係し、商業、政治、戦争、立法、学芸を対象とする。この種類の観念は、彼等の各々に対して個別的に興味をひき、したがって社会の大部分からは最も一般的に、しかし最も弱くしか評価されない。私が大部分というのは、学界〔学者の社会〕のように、最も一般的に有用な観念が最も個別的に快い観念であり、その個人的利害がこうした仕方で公共の利害と混ざっているような社会もあるからである。

 他の種類の観念は、各社会の個別的利害に、すなわちその好み、その嫌悪、その計画、その快楽に直接の関係を持つ。この理由で、この社会からみればより興味深くより快いが、公衆からみればふつうかなりどうでもよいものである。

 この区別が認められると、この後の種類の観念を、すなわち自分が暮らしている社会にとって個別的に興味ある観念を、とても多く獲得する者はみな、したがってそこでは、とても才気あるものとみなされるに違いない。しかしこの人が、著作の中であれ要路についてであれ、公衆の目にふれるならば、彼等にはしばしばごく凡庸な人としかみえないであろう。寝室の中では魅力的だが、劇場では弱々しすぎる声のようなものである。

 反対にある人が一般的に興味ある観念にしか専心しないならば、彼は自分が生きている社会にとってそれほど快くはないであろう。そこではときに重々しく場違いにさえみえるであろう。しかし彼が、作品においてであれ要路に立ってであれ、公衆の目に示されると、そのとき天分をひらめかせ、すぐれた人という称号に値するであろう。彫刻家の仕事場では奇怪で不快でさえあるが、公共の広場に立てられると公民に称賛される巨像のように。

 しかしどうして両方の種類の観念を自らの中で結び付けないのか。そして国民の評価と社交界の人々の評価とを同時に得ないのか。それは公衆にとって、あるいは個別的社会にとって興味ある観念を得るために身を献げなければならない研究の分野が、絶対的に異なるからである、と私は答えよう。

 社交界で気に入られるためには、どんな題目も深めてはならず、主題から主題へとたえず飛び回らなければならない。とても多様で、そこからしてとても表面的な知識を持たなければならない。一事を完全に知るために時を失うことなく、万事を知らなければならない。したがって自らの精神に、深さよりも広さを多く与えなければならない。

 ところで、公衆は表面的に普遍的な人々を評価することにまったく利害関心を持たない。たぶん正確な公正さを彼等に帰することさえなく、また異なる分野にあまりに配分されている精神〔才気〕を、けっして骨を折って測りはしない。

 公衆がもっぱら利害関心を持つのは、ある一分野ですぐれてこの点で人間精神を進める人々を評価することであり、〔反対に〕社交界の精神はほとんど尊重しないに違いない。

 それゆえ、一般的評価を得るためには、自らの精神に、広さよりも深さを与え、熱したガラス炉の中のように、いわばただ一点の中に、自らの精神の熱全体とすべての光線とを集中しなければならない。ああ、どうしてこれら二つの分野の研究の間で自分を分け与えられようか。一方または他方に従うために導くべき生活が完全に異なるのに。それゆえ人は、他方を排除することでだけ、これらの〔二〕種類の精神の一方を持つのである。

 もしも公衆にとって利害関心のある観念を得るために、私が後の章で説明するであろうように、沈黙と孤独の中で思念を凝らさなければならないのなら、反対に個別的社会にとって最も快い観念を提示するためには、絶対に社交界の渦中に身を投じなければならない。ところでそこでは間違ったまたこどもっぽい観念を頭につめこまずに生きていくことはできない。「間違った」と私が言うのは、ただ一つの考え方しか知らない者はみな、必然的に自らの社会をすぐれた世界とみなすからである。彼は諸国民を、彼等がその習俗、宗教、そして異なる衣服に対しても互いに軽蔑することにおいて、真似せざるを得ない。自らの社会の観念すべてに矛盾するものすべてを滑稽と思わざるを得ない。したがって最も粗雑な間違いに陥らざるを得ない。個別的社会の卑小な利害に強く専心する者は誰でも必然的に、つまらぬ事柄にあまりに多くの評価と重要性とを付与せざるを得ない。

 ところで、誰がこの点で、自分の自習室に監督がおらず、自分の執務室に評議官がおらず、自分の勘定台に商人がおらず、自分の守備隊に士官がいないのを見るとき、自愛心の罠を免れ得ると浅はかに信じ得ようか。世界が自分に利害関心ことに専心していると、誰が思わないであろうか(b)。

 各人はジェジュおばさんの話を自分にあてはめることができるが、彼女は「思慮」と「優越」との間の論争に立ち会って、応接室で最初にみつけた者に尋ねる。「セシルおばさんとテレーズおばさんとが来て喧嘩していることを知っていますか。でも、あなたは驚くの? なんですって、本気であなたは彼女らの争いを知らないんですか。いったいあなたはどこから来たの?」私達はみな多かれ少なかれラメール=ジュジュである。私達の社会が専心していることは、すべての人が専心すべきことである。彼女が考え、信じ、言うことは、全世界が考え、信じ、言うことである。

 陰謀、宮廷の策謀、恩寵で出世し、失寵して転落する人々のことしか語らない世界で広く知られ、そして自分の社会の広いサークルの中に、多かれ少なかれ、同じ観念に影響されない人を見ない宮廷人は、宮廷の策謀が人間精神にとって省察に最も値する、そして最も利害関心のある対象であると、どうして確信しないであろうか、と私は言おう。彼は想像できるであろうか。自分の館の隣の店では、彼を知らず、彼が話すことすべてを知らないと。彼の心をこんなに激しくとらえている事柄の存在をさえ、そこでは思ってもみないと。彼の地下室の片隅に哲学者が住んでいて、野心家たちがヨーロッパのあらゆる勲章で身を飾るために形作る策謀や陰謀も、彼にとっては、一箱のボンボンを奪うための小学生達の悪巧みと同様にこどもっぽく、分別はもっとないものに思われ、要するに野心家たちは自覚のないとっちゃん小僧でしかないと思っていることを。

 宮廷人は、こうした観念の存在をけっして思いつかないであろう。もし思いついても、あのペグー1)の王のようであろうが、その王は、何人かの〔都市共和国を形成していた〕ヴェネチア人に彼等の君主の名を尋ねて、彼等が自分たちは王によって統治されていないと答えると、この答えを滑稽と思って抱腹絶倒した、というのである。

 一般にお偉方はこうした疑いをあまり持たないことは確かである。彼等の各々は地上で大きな地位を占めていると思っており、人々の間に掟となるべき唯一の考え方があり、この考え方は社会の中に含まれている、と想像している。たとえ時々、自分とは異なる意見があるということを聞いても、彼はそれらの意見を、いわば漠たる遠方にしか認めない。それらはみな、ごく少数の無分別な人々の飛び離れた意見だと思っている。彼はこの点では、あの中国の地理学者と同様の馬鹿であるが、その地理学者は、祖国への高慢な愛に満ちて世界地図を書き、その表面はほとんどすっかり中華帝国で覆われ、四辺にようやくアジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカが認められるだけのものであった。各人は世界の中の全体であり、他人はそこではなにものでもない。

 それゆえ、個別的社会に快いものになろうとして、社交界に出入りし、卑小な利害に専心し、無数の偏見を身につけざるを得ず、公衆の目には不条理で滑稽な無数の観念をしらずしらずに頭に詰め込まざるを得ないことがみてとれる。

 しかも私が告げておきたいことは、ここで社交界の人々として意味しているのは、ただ宮廷人だけではないということである。テュレンヌ、リュクサンブール、ラ=ロシュフコー、レス、それに同じ種類の他の何人かは、位が高ければ必然的に浮薄になるわけではないことを証明している。そして社交界の人々として理解しなければならないのは、その渦中でしか生きていない人々のことだけだということである。

 それは公衆が、まったく正当にも、分別を絶対的に欠いているとみなす者である。私はその証拠として、「上品さ」と「美習」に関する彼等の愚かな、そして独占的な主張を〔次の章で〕持ち出すであろう。若い人々が、社交界の隠語にだまされ、そのおしゃべりを才気とし、良識を愚かさととることがあまりに多いだけに、私はいっそうすすんで、こうした主張を例として選びたい。

【原注】

(a)古代の哲学者たちの体系

(b)どんな訴訟人が、彼の訴訟事実の朗読に夢中にならないであろうか。そしてそれをフォントネルや、人間の精神と心情の認識に関して書いたあらゆる哲学者の著作よりも、深刻で重要だとみなさないであろうか。彼は言うであろう。こうした人々の著作はおもしろいが、浮わついていて研究対象にまったく値しない、と。各人が自分の仕事にどれだけ重要性をおくかをよりよく感じてもらうために、私は『小夜鳴き鳥論』と題された本の序文から数行をひこう。著者は次のように言っている。

 「私はこの作品をつくるのに二十年を費やした。だからしかるべく考える人々は、この世で味わえる最も大きな、そして最も純粋な楽しみは、自分を社会に有用にすることで感じるものだと常に感じてきた。それが自分の行為すべてにおいて持つべき観点であると感じてきたのである。また自分にできることすべてにおいて一般の福利のために働かない者は、自分が自分自身のためと同様他人の利益のためにも生まれたことを知らないように思われる。この『小夜鳴き鳥論』を公衆に差し出すことを私に促した動機はこのようなものである。」著者は数行後でさらにこう言っている。「私にこの著作を公刊するよう促した公共の福利への愛により、私はそれを、率直かつ誠実に書くべきことを忘れなかった。」

【訳注】

1)    ペグー(Pegu)は、14-17世紀、下ビルマの古都。海上貿易で栄えた。

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2015/05/22 11:09 2015/05/22 11:09
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