道徳と相対主義(哲学の現在6)
第一回で私は、「哲学は科学ではない」と述べた。「それなら宗教や趣味と同じなのか」という問いが出るとしたが、これは相対主義の問題にかなり重なる。つまり伝統的には、(科学と違って)主観的な好悪は相対的でしかない、という観念が前提されている。かつては「倫理学」や「道徳哲学」を普遍的な規範を研究する学問と思われもしたが、現代では道徳の相対主義が幅を利かせている。しかし私は道徳的相対主義には反対である。
道徳の相対主義の基盤の一つとして、前回とりあげた存在論や認識論における相対主義が使われることもあろう。しかし基盤として、規範を強制されたくないという気持ちのほうが大きいように思われる。いわゆるリバータリアニズムはこの気持ちを支え進める社会倫理思想である。まずいかにも「哲学的」な揚げ足取りをすると、社会倫理思想である以上はこの思想も、「強制するな」ということを他者に強制したいわけであり、あらゆる規範に反対するものではない。したがって問題はどの水準での強制を認めるかである。実際問題としてよく論点となるのは、成人が自分の意志で行う薬物・買春・ばくちなどに対して、法規制に反対するのがリバータリアニズムであり、これらに対して共同体の「共通善」の立場から規制もありとするのがコミュニタリアニズムである(両者の論議についてのわかりやすい概説を含むものとしては、藤原保信『自由主義の再検討』岩波新書、などがある)。後者にあっても、「精神の自由」「身体の自由」は多数決で強制されてはならない「人権」と認めることは可能だが、単なる感覚的快楽や経済的利得のための「愚行」を、共同体の意志として制約することは「人権侵害」とは考えないのである。私はこの立場を支持し、日本国憲法もこの立場に立っている。また一見「理論的」ないし「思想的」な論争のようだが、リバータリアニズムの黒幕が、人間の自由でなく自分の強欲をめざしていることを見逃すべきではない。「自由主義」を旗印にしたイギリスは、薬物を売り込むために戦争にも訴えた(「自由貿易」の象徴「穀物法廃止」とアヘン戦争はともに1840年代)。「皇軍」もまた、阿片と人肉の売買「業者」に広範な営業の「自由」を保障していた。今日はまた国際的カジノ資本が日本の「開国」をいまや遅しと手ぐすね引いている。リバータリアンの「自由」の本質は、愚行する個人の自由というより、人間の欲をかきたて欲につけこんで、業者や企業が人間を壊し国を荒廃させてぼろもうけする自由にある。リバータリアニズムは、新自由主義と功利主義とともに三位一体攻撃で、「パンとサーカス」(あるいはベーシックインカムとオリンピック?)で飼われる新たな愚民支配を進めている。
コミュニタリアニズムは個人主義ではないという意味で相対主義ではないが、普遍性を完全に排除するならば相対主義の一種になり得る。事実問題として「負荷なき自我」はないし、普遍的「だから」価値があるとは私は考えない。しかし普遍的な規範はあるし、民族性や国民的伝統の尊重も、人権を否定してはならないとも私は考える。
普遍的な道徳規範の主張という点では、カントのヒューマニズムを私は支持するし、「人間の死」というような、構造主義やポストモダニズムは悪しき反動と私は考える。この点でハーバーマスがカント的普遍倫理を継承しようとしているのは理解でき、またそれを言語の水準に移すのはあり得べき現代化でもあろう。しかしそのア・プリオリ性にまでこだわる(『討議倫理』法政大学出版局、その他)のは同意できない。
けれどもア・ポステリオリなら相対主義になりはしないのか。そうではない。私はたとえば人権が普遍的な規範であることを望んでいる。趣味とは違う。仮に私の好みが巨人・大鵬・卵焼きであるとしても、西武ファンやハンバーグ党をなくしたいとは思わない。私は普遍的な道徳規範が(社会的に特殊な価値規範とともに)存在すると考えるが、そのことを(科学的に)「証明」できるとは考えない。ゆえに私は倫理思想が「科学」としての倫理学になるとは思わないが、倫理は相対主義が当然という立場でもない。人権の普遍性には、「コミュニケーション行為」というよりももっと広範な人間的生活過程が土台として存在すると考えるが、それがある「から」人権が普遍的だと主張してもあまり意味はなく、いつでもどこでも人権が保障されるように要求し、獲得するという実践を通じて、その普遍性を「確証」するしかないであろう。思想家として公民として人間として、私もその実践に自分なりに加わっているつもりである。