第二部 第9章 上品さ、および美習について

 

 あらゆる社会は、利害と好みとで分かれ、互いを「下品」第二部 第9章〔mauvais ton、悪い口調〕であると非難し合う。若者は老人に、情熱的な人は冷静な人に、苦行僧は社交界の人に気に入らない。

 「上品さ」〔bon ton、よい口調〕ということで、あらゆる社会で等しく気に入られるのに適した口調を意味するなら、この意味では上品な人はいない。そうであるためには、あらゆる知識、あらゆる種類の精神、そしてたぶん、あらゆる多様な隠語を持たねばなるまい。これは実行不能な想定である。それゆえこの「上品さ」という語で理解され得るのは、その観念とまさにその観念の表現とが、最も一般的に気に入られるはずの分野の会話だけである。ところで、「上品さ」はこのように定義されると、どんな個別的な階級の人々に属するものでもなく、形而上学、戦争、道徳、商業、政治のような〔一般的な〕技芸から汲まれ、偉大な観念に専心し、人類に関心ある対象をたえず精神に提供する人々だけに属する。この種類の会話は、異議なく最も一般的に興味をひくものであるが、さきに言ったように、各々の個別的な社会にとっては最も快いものではない。各々の個別的社会は自分の口調を才人のそれにまさるものとみなす。そして才人の口調を単に他のあらゆる種類の口調にまさるものとみなす。

 社会はこの点で、自国民の言語〔標準語〕よりも自分の州の方言を好んで話すが、しかし他の地方の方言よりは国語〔標準語〕を好む、いろいろな地方の農民のようなものである。上品さ〔よい口調〕とは、各々が自分の口調の次によいとみなす口調のことである。そしてその口調は才人のそれである。

 しかしながら私が告白しなければならないのは、社交界の人々に有利なことであるが、もしいろいろな階級の人々において優先すべき口調を一つ選ばなければならないなら、それは異議なく宮廷の人々のそれであろう、ということである。市民〔ブルジョワ〕が社交界の人と同じだけの観念を持っていないからではない。両者とも、敢えてこういう表現をすれば、しばしば空虚なことを語り、たぶん観念に関しては、どちらも他方に優越していない。しかし社交界の人のほうは、その位置によって、より一般的に興味ある観念に専心しているのである。

 実際、もし王たちの品性、傾向、偏見、性格が、公共の幸不幸におおいに影響するならば、もしあらゆる知識が、この点で興味をひくものであるならば、しばしば自分の王のことを語らずには自分の心を占めていることについて語れない、宮廷に接する人の会話は、それゆえ必然的に市民の会話ほど味もそっけもないものでない。他の点で社交界の人々は一般に欲求をおおいに超越しており、快楽への欲求以外には満たすべき欲求をほとんど持たないので、彼等の会話がこの点で彼等の身分の利点を利用するに違いないことは、やはり確かである。そのため一般に、宮廷の女性たちは他の女性たちに対して、優雅さ、才気、愛嬌においておおいにまさることになる。またこのために才女たちの階級は、ほとんど社交界の女性によってしか構成されないことになる。

 しかし宮廷の口調が市民階級の口調にまさるとしても、貴族はしかしながら、王たちの私生活に関する興味深い挿話について言及できるとは限らないので、彼等の会話は最もふつうには、彼等の職務による特権、生まれの特権に関して、食卓で蒸し返される滑稽談に関して彼等の艶っぽい冒険に関してめぐるに違いない。ところでこうした会話は、大部分の社会においては無味乾燥に違いない。

 それゆえ社交界の人々は、自分自身に対しては、ある仕事に強く没頭した人々とまさに同じである。彼等はそれを、自分たちの会話の唯一かつ永遠の主題とする。したがって彼等は「下品」と非難されるが、なぜなら退屈した人が退屈な人に復讐するのは、常に軽蔑の言葉によってだからである。

 どんな社会も社交界の人々を「下品」として非難することはない、とたぶん答えられよう。社会の大部分がこの点で沈黙するのは、生まれと尊厳とが彼等への尊敬の念を起こさせ、自分の意見を表明したり、またしばしばそれを自分自身にさえ認めないようにさせるからである。このことを納得するためには、この件に関して良識ある人に尋ねるがよい。社交界の口調とは、実にしばしば、滑稽な冷やかしに過ぎない、と彼は言うであろう。宮廷で使われるこの口調は、疑いもなく、自分の陰謀を隠すために、何も言わずに語ろうとした術策家によって導入されたものである。この冷やかしに欺かれて、彼に続く者たちは、何も隠す必要がないのに、彼から隠語を借り受け、かなり調子よく案配された言葉を発していれば何ほどかのことを言っていると思ったのである。要路にある人々は、お偉方を重要事から引き離すために、また彼等をそれに無能にするために、この口調を称賛し、それを「才気」と名付けることを許し、まずはじめにそれにこの名をつけたのである。しかし、この隠語をどんなに称賛しようとも、上流社会でこんなに愛好されているこうしたしゃれの大部分を評価するために、もしそれを他の国語に翻訳するならば、その値打ちは消えうせ、こうしたしゃれの大部分は意味ないものと思われるであろう。だから多くの人々は、輝いている人々と呼ばれるものに対して、とても顕著な嫌悪を抱くのであり、しばしば喜劇の、

  上品さが出てくりゃ良識はひっこむ

という文句を繰り返す、とこの良識ある人は言うであろう。

 それゆえ真の上品さとは、どの身分に属するものであっても、才人の口調のことである。

 ある人は言うであろう。社交界の人々が、あまりに卑小な観念に執着して、この点で才人に劣ることを望むと。つまり少なくとも自分の観念の表現の仕方では後者にまさらない、と。前者の主張はこの点では、異議なくよりよい根拠があるようにみえる。言葉はそれ自体で高貴でも下賎でもないが、またイギリスのように、民衆が尊敬されている国では、こうした〔社交界の人と才人との〕区別がなされないしなされるべきでもないが、〔逆に〕民衆に対してどんな敬意も払われない君主国においては、言葉は、それが宮廷で使われるか退けられるかに従って、こうした〔高貴、下賎の〕名称のどちらかを帯びざるを得ないのは確かである。そしてこうして社交界の人の表現が常に優雅であらざるを得ないのは確かである。また実際にそうである。しかし大部分の宮廷人は、浮薄なやり方でしか表現しないので、貴族の言語の辞書は、この理由によりきわめて不十分で、小説の分野においてさえ足りず、社交界の人々で小説を書こうとする者は、自分が文人におおいに劣っていることにしばしば気づくであろう。(a)

 まじめなこととみなされ、技芸や哲学に基づく主題に関しては、経験から私達が知るところでは、こうした主題に関しては、社交界の人々は、骨折って自分の考えをどもりながら語ることしかできない(b)。ここから帰結することとして、表現に関してさえ、彼等は才人に対するどんな優越も持たない。そしてこの点では、ふつうの人々に対する優越を持つのも、自分たちがとても熟練し、その研究を行ったことがあり、いわば特殊な技術を持っているところの、軽薄な題目に関してだけである。これはやはりよく確証されていない優越であり、ほとんどすべての人が、生まれのよさや地位の高さに対して抱く機械的な敬意によって過大評価されている優越である。

 しかも、上品さを独り占めしているという社交界の人々の思い上がりがどんなに滑稽であっても、これは彼等の身分よりも人類により多く属する滑稽さである。自尊心はお偉方に、自分達と同じ種類の人々とが会話で最も気に入られるのに適した才気に恵まれていると、どうして確信させないであろうか。まさにこの自尊心は、あらゆる人々一般に、自然が太陽に火をつけたのはただ、空間の中で地球という名のこの小さな点を肥沃にするためであり、星にあかりをもたらしたのはこの点を夜間照らすためだけにであると、しっかり確信させた以上は。

 人は罰を受けないことが可能であるときはいつでも、虚栄を張り、他人を軽んじ、したがって不正となる。それゆえ人はみな、地上において、自分のものと比べられる世界の一部はなく、世界の中での国民、国民の中での地方、地方の中での町、町の中での社会〔交際仲間〕について、自分のものと比べられるものはないと思い込んでいる。そのうえさらに誰が自分を、自らの社会のすぐれた者と信じないであろうか。また少しずつ自分が宇宙の第一の人間であると自分自身に許すことで、自ら欺かれてしまわないであろうか(C)。だから上品さへの独占的な要求がどんなに愚かであっても、またこの件で公衆が社交界の人々をどんなに滑稽に思っても、この滑稽さはいつも、この点で無駄に苦い薬を免れさせるはずの、寛大で健全な哲学の前では大目に見られよう。

 貝の中に閉じ込められ、その貝が付着している岩以外の世界を知らない動物が、宇宙の広さについて判断できないならば、卑小な社会の中に集中して生きて、いつも同じ対象がまわりにあるのを見、そしてただ一つの意見しか知らない社交界の人が、どうして事物の真価について判断できるであろうか。

 真理は、反対意見の発酵の中でしか気づかれず、生まれない。宇宙はそれと私達が交通する宇宙によってしか、私達に知られない。ある社会に閉じこもる者はみな、その偏見を取り入れざるを得ないし、そうした偏見が彼の自尊心に阿るときにはとりわけそうである。

 無知の共犯者である虚栄心が、誤りを生みそれに値打ちを与えるときには、誰が誤りから抜け出すことができようか。

 同じ虚栄心の作用によってこそ、社交界の人々は自分たちだけが「美習」〔le bel usage〕の保持者だと信じるのだが、これは彼等によれば、真価の中でも第一のものであり、それなしではどんな真価もないのだとされる。彼等が特別に世界の習慣だとみなすこの習慣が、彼等の世界〔社交界〕の特殊な習慣に過ぎないことに、彼等は気づかない。実際、王がくさめするときには、廷臣すべてがくさめしなければならず、またくさめが宮廷から町に、町から地方に届くので、帝国全体が一般的な風邪に苦しんでいるようにみえるモノモタパ1)においては、他人よりも高貴にくさめすることを誇らないような宮廷人はいないことを、誰が疑うであろうか。この点で自分だけが美習の保持者であると、誰がみなさないであろうか。またそのくさめがあまり調和していないように思われるすべての個人やすべての民族を、悪い仲間、あるいは野蛮な国民と誰が扱わないであろうか。

 マリアナ諸島の人々は、礼儀とは名誉を与えたい人々の足を取ること、自分の顔を静かにこすること、そして目上の前ではけっして唾を吐かないことにある、と主張しないであろうか。

 シリガン人2)は、半ズボンが必要だと主張しないであろうか。ただし美習はそれを、私達が帽子をそうするように腕の下につけることであると。

 フィリピンの住民は、自分の妻に愛の最初の喜びを体験させるのは夫ではない、と言わないであろうか。それは支払いをして他の誰かに任さなければならない一つの苦痛であると。結婚のときにもまだ娘であるような娘は、価値のない娘であり、軽蔑にしか値しない、と彼等は更に言わないであろうか。

 扇を手にした王が応接の間に進み、宮廷で最も美しい、そして彼の快楽に当てられ、同時に通訳でもあれば彼の意を告げる伝令使でもある四人の若者を前にすることが、美習であり品位であると、ペグーでは主張されないであろうか。

 もしすべての国民を巡回するならば、私は至るところで異なる習慣をみいだすであろう(d)。そして各々の民族が個別的に、自らが最良の習慣を持っていると信じるであろう。ところで、社交界の人々の目にさえ、こうした主張〔思い上がり〕ほど滑稽なものは何もないならば、もし彼等が自分自身を顧慮してみれば、彼等が他の名前の下で嘲笑しているものが、自分自身であることをみてとるであろう。

 ここで、「社交界の習慣」と呼ばれるものが、普遍的に気に入られるどころか、逆に最も一般的に気に入られないに違いないことを証明するために、「社交界の習慣」と呼ばれる身振り、話し振り、礼儀のあの一組に最も通じた伊達男と、この点における無知のために愚かな、あるいは悪しき仲間と扱われる分別ある人とを、中国、オランダ、イギリスに次々に連れて行くがよい。この分別ある人のほうが、こうしたいろいろな民族において、伊達男よりも本当の「社交界の習慣」により通じた者として通るであろうことは確実である。

 こうした判断の動機は何か。一国の流行や慣習から独立した理性は、どこでも奇妙でも滑稽でもないからである。反対に、他国には知られない一国の習慣は、それがより熟練し、より巧みになっていればいるほど、その習慣の観察者にはいっそう滑稽になるからである。

 上流社会に忌み嫌われる、重苦しくしゃちこばった様子を避けるために、私達の若者がしばしば軽率さを演じたならば、イギリス人、ドイツ人、スペイン人の目には、私達の伊達者が、この点で、自ら「美習」と信じるであろうことを遂行しようと注意深くなればなるほど、それだけ滑稽にみえることを、誰が疑うであろうか。

 それゆえ確実に、少なくとも私達に快く思われる人々が外国でどう迎えられるかによって判断するならば、彼等が「社交界の習慣」と呼ぶものが、普遍的に成功するどころか、反対に最も一般的に気に入られないはずである。また確実に、この習慣は、常に理性に根拠をおく真の「社交界の習慣」と異なるのは、礼儀が真の礼節と異なるのと同様である。

 一方は作法についての知識しか前提せず、他方は人々への好意の、繊細で習慣的な感情を前提する。

 しかも、「上品さ」と「美習」とへのこうした独占的な要求以上に滑稽なものは何もないけれども、前に言ったように、上流社会の中で生きてその間違いのいくつかをとりいれないというのはきわめて難しいので、この点に最も警戒している人も、そこから身を守ることは必ずしも確かではない。だからこの分野では、最も快いものを偽りで卑小な精神〔の持ち主〕の列に入れるように公衆を決意させるのは、極端に多数になった間違いだけである。私が卑小と言うのは、精神はそれ自体で偉大でも卑小でもないが、こうした偉大さや卑劣さといった命名のどちらかを、それが考察する対象から常に借用するからであり、社交界の人々は、ほとんど卑小な対象にしか専心しないからである。

 前の二つの章から帰結することは、公共の利害はほとんど常に個別的社会の利害とは異なるということである。したがってこうした社会から最も評価されている人々は、公衆の目には必ずしも最も評価すべきではない、ということである。

 これから私は、公衆の側から最も評価に値する人々は、彼等の生き方や考え方によって、個別的社会にはしばしば不快であらざるを得ない、ということを示そう。

 

【原注】

(a)社交界の人々に有利な幻想を最も多くつくりだすものは、くつろいだ様子、彼等の話に伴い、階級的利点が必然的に与える自信の結果とみなさざるを得ない身振りである。彼等はその点で、ふつう文士よりもずっと優越している。ところで、アリストテレスが言うように、弁論術は雄弁の第一の部分である。それゆえ彼等は、この理由により、軽薄な会話において、文士に対する利点を得ることができる。これは書くとなると消えてしまう利点であるが、なぜならそのときにはもはや弁論術の威信によって支えられていないからだけでなく、彼等の著作はその会話の文体しかけっして持たないからである。そして人は語るように書くならば、ほとんど常に下手に書くからである。

(b)私がこの章で語っているのは、社交界の人々のうち精神が訓練されていない人々のことだけである。

(c)シラノ=ド=ベルジュラックの喜劇の愚弄された衒学者、をみよ。

(d)ジュイダ3)の王国では、住民が出会うと、自分の釣り床を下に投げ合い、互いの前に膝まづき、大地に口づけし、手を打ち、お世辞を言って立ち上がる。この国の人気者たちは、彼等の挨拶の仕方が最も洗練されていると確実に信じている。

 マニラの住民は、挨拶するときには、体をとても低く折って両手を頬に当て、片足を空中に上げ、膝を折ったままにすることが、礼儀であると言う。

 ニュー=オーリンズの未開人は、私達が王に対して礼儀を欠くと主張する。彼等が言うには、「私が大酋長の前に出るときには、叫び声で挨拶する。それから彼の部屋の奥に進むが、酋長が座っている方向は少しも見ない。そこで私は腕を頭の上にあげ、三度叫んでまた挨拶する。酋長は小さなため息で私に座るよう招く。私は新たな叫びで彼に感謝する。酋長が御下問されるたびに、私は答える前に一度叫ぶ。そして私はそこから辞するが、その際には御前を去るまで叫びを続けるのだ。」

 

【訳注】

1) モノモタパは古代ジエバヴエ王国であるが、明らかに著者はここでフランスを念頭においている。当時のフランスでla cour(ベルサイユの)「宮廷」に対してla ville「町」というときはパリをさす。

2) シリガン人(Chiriguans)は不祥。

3) ジュイダ(Juida)は不詳。




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2015/05/28 21:01 2015/05/28 21:01
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