第二部 第10章 公衆から称賛される人が、

              社交界の人々からは必ずしも評価されないのはなぜか

 

 個別的な社会に気に入られるためには、とてもたくさんのことを知っている必要はない。ただし社交界と呼ばれるものを知り、そこに出入りし、それを研究しなければならない。反対に、なんであれなんらかの技芸、なんらかの学問で名を挙げ、したがって公衆の評価に値するためには、ずっと前に言ったように、まったく別の研究をしなければならない。

 道徳学を学ぶ気になっている人々を想定しよう。彼等がその精神の力の大小にしたがって、いろいろな高さまで高まることができるのは、歴史の助けによって、また省察の翼に乗ってだけであり、その高さから町々を発見する者も、諸国民を発見する者もあり、また世界の一部や世界全体を発見する者もあろう。大地がしらずしらず、哲学者の前に小さな空間に縮まり、彼の目には、中国、イギリス、フランス、イタリアという名の、要するにいろいろな国民に与えられるすべての名を持ついろいろな家族が住む集落という形をとるのは、この観点から大地を眺め、この高さに上ることによってだけである1)。そこから、習俗、法、習慣、宗教、いろいろな情念の景観の考察に至って、諸国民の賛辞にも風刺にもほとんど無感動となり、偏見のあらゆる枷を断ち切り、人々の臆見の対照を平静な目で検討し、修道院から後宮へ驚きもせず通り過ぎ、人間の広範な愚行を喜んで眺め、アルキビアデスが、アテネ人の軽薄さを嘲るために自分の犬の尾を切る2)のも、マホメットが世界の称賛を享受するために洞窟に閉じこもるのも、同じ目で見ることができる。

 ところで、こうした観念は沈黙と孤独の中でしか現れない。詩人たちが言うには、詩神が森や牧場や泉を愛するのは、そこでは町にはない静かさが味わえるからである。また社会の卑小な利害から離れて、人が自分自身に関して行う反省は、人間一般に関してなされ、人類に属し、人類の気にいる反省である。ところで、いやいやながらのように学芸の習練に向けられるこの孤独の中では、社交界の人々の日々の話の種である無数の卑小な事柄に、どうして専心するだろうか。

 だから、私達のコルネイユやラ=フォンテーヌは、上流社会の夕食においては、ときおり気が利かないようにみえた。彼等のお人よしぶりでさえ、彼等がそう判断される材料になった。単純さの衣の下に著名な人を認めることが、社交界の人々にどうしてできようか。真の功績に通じている人はきわめて少ない。大部分のローマ人はアグリコラ3)のやさしさと単純さに欺かれて、彼の外面的な慎ましさの裏にある偉大さを求めてもそれを認められなかった、とタキトゥスは言う。だから偉人、とりわけ慎しみ深い偉人は、個別的社会の軽蔑を免れるならもっけの幸いで、そうした社会の大部分の実感的評価を諦めなければならない、と感じられる。だから彼は彼等に気に入られようという欲望には弱々しくしか動かされない。彼が雑然と感じているのは、これらの社会の評価は、彼の観念と彼等の観念との類比しか証明しないであろう、ということである。この類比はしばしばほとんど気に入るものではあるまい、ということである。また公衆の評価だけが羨みに値し、望ましいものであって、それというのもそれは常に公衆の感謝が贈るものであり、したがって現実の真価の証明だからだ、ということである。だから偉人は、個別的社会の気に入るのに必要な努力はどれもできないが、一般的評価に値するためにはなんでもできることがわかる。ローマ人が、〔諸外国の〕王たちに命令するという自尊心によって、厳しい軍事的規律の償いを得たように、著名な人々は、評価されるという高貴な喜びによって、不運による不正さえも慰める。彼等がこの評価を得たらどうか。自分たちが最も望ましい善を所有していると信じる。実際、世論4)に対するどんな無関心を装っても、各人は自分自身を評価するように努め、また自分がより一般的に評価されているのをみる度合いに応じて、それだけ自分が評価されるべきものと思う。

 たとえ欲求、情念、そしてとりわけ怠惰のために、評価へのこの欲望が私達の中でおさえつけられても、この評価に値するための努力をしない者はおらず、自分について自ら持つ高い評価の保証として公的な賛同を望まない者はいない。だから、名声の軽蔑、また財産や尊敬のために名声を犠牲にすることは、有名になることへの絶望によって常に起こると言われる。人はおのれの持っているものを誇らざるを得ず、持っていないものを蔑まざるを得ない。これは自尊心の必然的な結果である。それに欺かれていないように思われるなら、それに逆らうかもしれない。そうした場合に、彼の軽蔑の真の動機に関して当人を啓蒙することは、あまりに残酷なことであろう。だから真価はけっしてこうした極度の野蛮には至らない。人はみな(事のついでに考察することを許されたいが)、生まれつき邪悪でないならば、また情念のために理性の光が遮られていないならば、常に、啓蒙されているほどいっそう寛大であろう。この点で、真価ある人に公平であるならば、私は、彼の寛大さの動機の中にさえ、彼が個別的社会からの評価をほとんど重視しない原因と、したがってまたそこで彼が得べき成功をほとんどおさめない原因をよりはっきりと認められるだけにいっそう、これは証明を不要と思う真理である。

 偉人が常に偉大なのはなぜか。また人々によって害を加えられなければ善行がなされたとみなし、不公平な彼等に放っておかれれば贈与がなされたとみなすのはなぜか。最後に他人の欠点に対して憐れみの緩和剤を注ぐのは、またそれに気づくのが遅いのはなぜか。それは彼の精神が高所にあるために、一個人の悪徳や滑稽さにはこだわらず、人々一般のそれらをみることになるからである。人々一般の欠点を彼が考察するならば、それは羨みという、邪まで常に不正な目によってではない。人間の心情と精神とを知ろうとして、教育の二つの題材、精神的実験の二つの生きた講義として互いをみる二人が、互いを検討する際の晴朗な目によってである。自分から逃げ去る名声に飢え、嫉妬の毒に常に餓え、たえず他人の欠点を待ち構え、人々が滑稽でなくなれば自分の卑小な価値もすっかり失ってしまうような、あの半可通たちとは、この点でまったく違っている。人間精神の認識が属するのは、こうした人々にではない。彼等は、才人たちを窒息させるために行う努力によって、才人たちの名声を〔かえって〕広めるために生まれている。真価は火薬のようなものである。圧縮されればされるほど、爆発は強くなる。しかも、これらの妬み深い者たちがどんなに嫌われようとも、それでもやはり彼等は非難されるよりも同情されるべきである。真価の存在が彼等につきまとっている。彼等がそれを敵として攻撃するのは、また彼等が邪悪なのは、彼等が不幸だからであり、才人たちの中に、真価が彼等の虚栄心に対して行う侮辱を訴追しているからである。彼等の犯罪は復讐にほかならない。

 真価ある人が寛大になる他の動機は、彼が人間精神について持っている知識による。彼はその弱さを何度も経験した。アレオパゴスの喝采のただ中で、フォキオン5)のように、何度も友のほうを振り返って、自分が馬鹿なことを言わなかったか尋ねたくなった6)ので、彼は常に自分の虚栄心を警戒して、自分自身がときおり陥った誤りを他人が犯してもすすんで恕すのである。才人という言葉がつくられたのは一群の馬鹿者のおかげであり、またそれゆえ凡庸な人々がたっぷりと彼に与える侮辱を、怒らず、感謝して聞かなければならないと感じている。こうした人々は、真価に対して与える滑稽さや、才気に対して抱くという軽蔑を、互いにまた密かに誇るがよい、彼等はふるえながらでなければ冒涜しないあの不敬な空威張り屋に似ている。

 真価ある人の寛大さの最後の原因は、彼が人間の判断の必然性についてはっきりした観点を持っていることによる。彼が心得ているのは、私達の観念は、敢えて言えば、自分が生きている社会、読む本、目に入る対象の必然的な帰結なので、すぐれた知性の持ち主は、私達に現れた対象によって、私達の思想を見抜けるであろうし、また同様に、私達の思想によって、偶然私達の目に入った対象の多さや種類を見抜けるであろう、ということである7)

 才人が心得ているのは、人々は自らがならざるを得ないものである、ということである。彼等に対する憎しみはみな不正だということである。馬鹿者が愚行をするのは、自生の若木が苦い実をつけるような〔自然な〕ことだ、ということである。彼を侮辱することは、オリーヴでなくどんぐりを実らせるからといって柏の木をとがめることだ、ということである8)。もし凡庸な人が彼の目には愚かならば、彼は凡庸な人には馬鹿だ、ということである。なぜなら、馬鹿はみな才人でないならば、少なくとも才人はみな知能の劣った人々には常に馬鹿にみえるであろうからである。それゆえ寛大さは常に、情念によって働きを遮られないなら、知性の結果である。しかしこの寛大さは、主に栄光への愛が活気づける気高い徳に基づくので、啓蒙された人間を、個別的社会の評価に対してきわめて無関心にする。ところで、真価ある人は、公衆なり上流社会と呼ばれるものなりに気に入られるのに必要な、いろいろな分野の生活や研究に、このように無関心でいるので、ほとんど常に、社交界の人々にはかなり不快な人間となろう。

 個別的社会との関係における精神について私が言ったことの一般的結論は、もっぱら自らの利害に服して、各々の社会は、まさにこの利害の尺度で、観念と精神のいろいろな分野に自らが与える評価の程度を計る、ということである。小さな社会は一個人のようなものである。この個人が訴訟をしたらどうか。もしそれが難しいものならば、彼は、デカルト、ロック、コルネイユを受け入れる以上に熱心に、また敬意と評価をより多く証拠だてて、自らの弁護士を受け入れるであろう。もしそれが調停されたらどうか。弁護士よりこれらの天才に敬意を示すであろう。彼の立場の違いが、彼のもてなしの違いを決めるであろう。

 この章を終わる前に、私は、仕事に気をとられ、または自分の財産への配慮から、大きな才能を証明できなかった、きわめて少数の慎み深い人々を安心させたい。また上に確立された原理にしたがって、精神に関して、自分たちが実際に評価されるに値するかどうか知り得なかった人々を。この点で彼等を正当に扱おうと私がどんなに望んでも、偉大な精神を示す人は、どんな才能によっても卓越しなくても、貴族の称号を持たずに高貴と言われる人にまさにあてはまることを、認めなければならない。公衆は事実によって証明された真価しか知らず、評価しない。公衆がいろいろな身分の人について判断しなければならないときはどうか。軍人には、どんな勝利をもたらしたのか、と尋ねる。要路にある人には、民衆の悲惨をどのように軽減したのか、と尋ねる。個人には、どんな仕事によって人類を啓蒙したのか、と尋ねる。これらの質問に何も答えられない人は、公衆に知られず、評価されない。

 権力の威信によって、それをとりまく豪奢によって、要路にある人が配分する寵愛への希望によって、大多数の人が、大きな権力を認めるところに大きな真価を機械的に認めることは、私も知っている。しかし彼等の賛辞は、それが惜しみなく与えられる人々の信用同様、公衆の健全な部分には尊敬の念を起こさせない。あらゆる誘惑から守られ、あらゆる利害から免れ、公衆は、真価ある人としては、自分の才能によって卓越した人しか認めない外国人のように判断する。公衆が熱心に追い求めるのはこういう人だけである。その熱心さの対象となるのはいつも喜ばしい(a)。もったいぶった委任状がなくても、それは真の功績の確実なしるしである。

 それゆえ自分の値打ちを正確に知りたい者は、それを公衆からしか知り得ないし、したがって公衆の判断に身をさらさなければならない。この点で、自分の国民の評価を著者という資格で熱望する人々を滑稽にみせようと人が努めることは周知のとおりである。しかしこうした滑稽さは真価ある人にはなんの印象も与えない。彼はそれをあの卑小な精神の妬みの結果とみなすが、卑小な精神は、もし誰も真価を証明しないなら、自分が誰とでも同じだと信じられると想像して、人が同様な資格を生み出すことに耐えられないのである。しかしながらこうした資格なしでは、誰も公衆の評価に値せず、それを獲得しない。

 個別的社会の中であんなに称揚される、あの大才人すべてを一瞥するがよい。公衆によって凡庸な人々の列におかれ、何人かの人がそれで飾り立てる才気の評判を彼等が得るのは、悪い作品によってさえ、自分の馬鹿さ加減を証明することができないためであるに過ぎないことが、みてとれよう。だから、こうした「すばらしき人々」の間で、最も多くを約束する者でさえ、敢えて言えば、たかだか「ひょっとして」才気に富むに過ぎない。

 この真理がどんなに確実であっても、また慎み深い人々が、公衆の試練を通らなかった功績を疑うことにどんな道理があろうとも、それでもやっぱり確実なのは、ある人が、精神に関して、自分が実際に一般的評価に値すると思い込み得るのは次のときである。すなわち第一に、自分が最も多く魅力を持つと感ずるのが、公衆と外国の国民とから最も評価される人々に対してであるとき。第二に、キケロが言うように、既に称賛されている人によって褒められるとき(b)。第三に最後に、作品によってまたは要路にあって大きな才能で既に盛名ある人々の評価を得るときである。彼等が彼を評価する前提は、彼等の観念と彼の観念との間の大きな類似である。そしてこの類似は、もし彼等のように公衆のまなざしにさらされれば、彼等のようにその評価に幾分寄与したであろうということの、完全な証明でないとしても、少なくともかなり大きな蓋然性として、みなされ得る。

 

【原注】

(a)フォントネル氏を最も喜ばせた賛辞は、パリにはいったスウェーデン人が、彼がそこに滞在しているかどうか、市門の係たちに尋ねたことであった。役人たちはそれを教えることができなかった。スウェーデン人はこう言った。「なんですと! あなたがたフランス人は、あなたがたの最も著名な公民の存否を知らないのですか。あなたがたは彼に値しませんね」。

(b)私達に気に入るのに必要な才気の程度が、私達が持っている才気の程度の十分に正確な尺度である。

 

【訳注】

1)「見事。」Rousseau,notes sur <De l'esprit> d'Hélvtius

Œuvres complètes, t.4,Gallimard, 1969,p.1127.

2)アルキビアデス(Alkibiades,BC.450c-04)はアテネ出身の政治家。 名と富と美貌とに恵まれ、わがままかつ傍若無人に暮らした。日和見主義と変節で有名。刺客の手に倒れる。その立派な犬の尾を切ったことで皆が非難していると言われた彼は笑って、「では、私の思う通りになったのだ。アテネの人々がその文句を言えば、もっと悪い私のことを言わないからな。」(プルタルコス『対比列伝』アルキビアデス篇第9節)

2)アグリコラ(Agricola,40c-93)はローマの政治家。77年執政官。

 78-85年、ブリタニア総督として同島のローマ化を進めた。ドミティアヌス帝に呼び返され、不遇のうちに没。女婿タキトゥスの手になる彼の伝記は有名。

3)原文<union publique>(公共の結合)を<opinion publique>(世論)の誤植と解する。

4)フォキオン(Phokion,BC.402c-318)はアテネの将軍・政治家。プラトンの弟子。ナクソスの海戦で名を挙げたが政争により刑死。

6)「称賛への軽蔑は真実ではなく、称賛者は称賛される者の目にはけっ して愚かではない、と前に言ったことを著者は忘れている。」

 (Rousseau,ibid.)

7)「著者は寛大さの一理由としてこの確信を他の人々に与えていない。 こういうことを言ったり信じたりした者は彼以前にはいないと私は確 信する。」(ibid.)

8)「疑いなく、悪人もまた同じやり方で罪を犯すのであり、彼を吊るすことはどんぐりを実らせたことで柏を罰することだ。」(ibid.)



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2015/05/29 18:26 2015/05/29 18:26
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