床屋道話48 「トロッコ問題」問題
二言居士
発端は、1967イギリスの倫理学者フィリッパ・フット(当時はボーザンゲト)が発表した論文である。故障した列車が進む先に、五人の人が線路に縛り付けられている。あなたのそばにある方向指示器を操作すれば列車は分岐線にはいり、その先には一人の人が線路に縛り付けられている。あなたは方向指示器を操作すべきか、というものらしい(エドモンズ『太った男を殺しますか』鬼澤忍訳、太田出版、2015)。
この問題が有名になった理由は二つ挙げられる。一つは、関連する問題が次々に提出され、いわば「トロッコ問題群」が生まれたことである。もう一つは、それをかのマイケル・サンデル教授が取り上げたことで、業界外の人々にも知れ渡ったことである(サンデル『ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上)』小林・杉田訳、早川書房、2010、では「第一回」の「講義」にこの話題がふられている)。
はじめて聞いたとき、私は違和感を覚えた。何のための問題だろうと。直感的には、功利主義を擁護するためのもののように感じられた。つまり、この場合あなたは転換機を操作するのをよしとするよね。だから、「損失を最小化する」または「大きな利得のために小さな不都合を犠牲にする」ことが正しい、という功利主義の原理に賛同していることになるよね、と言いたいのかと感じたわけである。彼女の意図がどうであったのかよくはわからない。論文そのものを読んでおらず、それに関して私がみたわずかの文献でも明瞭には述べていないからである。もっとも論文そのものにも私が知りたいことは書かれていない可能性はあり、またサンデルはこのような観点で(功利主義に有利と思われる思考実験として)これをとりあげている。違和感を覚えた最大の理由は、しかしこの問題はその意図にあっていないのではないかということである。つまり「ひとりを犠牲にする」選択肢を選ぶ者が多いとしても、それが功利主義が正しい(少なくとも多くの人が事実上支持している)ことを示すものとは言えないのではないのかということである。これについては後にまた述べよう。

フットの問題が他の多くの類似問題(前掲エドモンドの本では「トロリー問題」となっているが、本稿では「トロッコ問題」ということにする、さしている事柄は同じ)を生み出したと述べた。サンデルの「授業」ではその一つを続いてとりあげ、フットのもの(以下「原型」)と対比させる。それはジュディス・ジャーヴィス・トムソンによるもので、以下「跨線橋版」と名づけよう。暴走する列車の先に、線路に縛られた五人の人がいることは同じだが、今度はあなたは線路の横でなく、線路をまたぐ橋の上にいる。なぜか隣に「太った男」がいて、彼を線路に突き落とせば列車を止めて五人を救えるが、さてどうするか、というものである。この原論文も私は読んでおらず、提出者の意図はよくはわからない。サンデルはこれを提起して、学生に否定的な答えが多かったことを受けて、原形での対応と比べさせる。少数の犠牲で多数を助けるという意味では両者は同じはずなのに、なぜ答えが異なるのかと。
サンデルはこれについての学生の意見を聞き、また他の問題(トロッコ問題ではないが、少数の犠牲によって多数を助けるという意味では共通する問題)についても考えさせながら、次のようにまとめる。道徳の考え方は一つでなく、帰結主義的なものと定言的なものとがある。前者は「何をするのが正しくて道徳的か、ということは、行動の結果として生じる帰結で決まる」というもので、その中で「最も影響力のうる例は〔…〕べンサムが生み出した功利主義だ」(20頁)。後者は、「帰結がどうあれ、ある種の絶対的な道徳的要請や義務や権利のなかに道徳性を求める」もので、その「最も重要な哲学者は〔…〕カントだ」(20-21頁)とする。そして「今後の講義では」この両者の「対比をみていく」と述べる(20頁)。これは最低限の防衛線として必要な言葉であったろうが、私としてはやはり、道徳原理をこの二つしかないということはできないということは注意しておきたい。(なお後者の立場の名称としては「義務論」というほうがふつう。)
ここで「突き落とさない」を選んだのが思ったより多数であったが、それはひとまずおくことにしよう。サンデルがこの講義でこの「対比をみていく」というのは、どちらかを正しい結論するものでないことを含意している。それは「講義」の一つの方式として(特に「倫理学」では)あり得ることである。複数の説があることを紹介し、それについて考えさせること自体を「講義」の目的とする方式である。ただ彼自身の立場として、他の著作などから推測される限りでは、功利主義者ではないようである。
それはそれとしてこの「講義」の論理に私は躓く。「跨線橋版」で突き落とすのが功利主義、そうしないのが義務論、と言えるであろうか。義務論を非功利主義の代表として広くとるにしても、たとえば非功利主義だが、突き落とすのを少なくとも「間違い」または「道徳的悪」とはしない、という選択もあるのではあるまいか。ここでサンデルは功利主義を「帰結主義」という観点でみている(そのこと自体は不当でない)が、それなら対比されるのは動機主義、道徳的善悪を決めるのは行為の(結果でなく)意図であるという立場であろう。であればそのどちらに与するかを判定する思考実験は、たとえば「意図はよいが結果が悪い」行為を「道徳的に(は)よい」行為とみなすかどうか、ということの具体例でなければなるまい。実際の「トロッコ問題」論議も、その線で進んだようであり、原形と跨線橋版とで生まれる違いを、「予期されること」と「意図されること」の区別で説明しようとする「二重結果論」論議が絡んでくる。(ただしこれには「ループ線版」とも言えるものが登場し、それで問題が解けることにはならない。詳しくはエドモンズ、前掲書。)また、カントを出すなら、「完全義務」(ex人を殺すな)と「不完全義務」(ex人を救え)の関係の問題がここでかかわるはずだが、サンデルもエドモンズもその語は出さない。その他いろいろからんでくる論点はあるが、紙数の関係で、私が最も関心を持たされたものだけを挙げよう。
ダットン『サイコパス』(NHK出版、2013、41頁以下)でふれられているものがそれである。そこでも「原型」と「跨線橋版」がとりあげられるが、注目されたのは人々の回答だけでなく、回答するまでにかかった時間である。原型の場合とは違い、跨線橋版では、「ふつうの人とはかなり違って、サイコパスは〔この〕場合もかなり短い時間で結論を出す。まばたきひとつせず、まったく平然と大柄の〔太った〕男を橋から放り投げる」。著者はこれを脳の働きと関連付けて説明する。ジレンマが「感情的性質」のものになると、偏桃体およびそれに関連する脳の回路が働くのが、「ふつうの人の神経系」である。ところがサイコパスの場合はそうならないという。つまり本来の意味での「共感」が働かず、これが反応の違いに表れているというのである。念のために断っておこう。「サイコパス」というと、凶悪犯罪者を連想する者がいるかもしれない。しかしサイコパスだからといって犯罪者や変質者になるというわけではなく、(少なくとも結果的には)「ふつうの」人々と平和的に共存している者のほうがずっと多い。そればかりかこのダットンの著作は、サイコパスには(犯罪者もいるが)現代社会の成功者となっている人々も(相対的にはむしろ「ふつうの」人々より)多いという近年の研究を紹介している。ところで、トロッコ問題でのアプローチとサイコパシー傾向が非常に強い人格との間には重要な相関があった、ということから、パーテルスとピサロは、「サイコパシーと功利主義という二つの概念を結びつけるか」に「明らかにイエス」と答えたという。必要なリストラを「可哀そうだ」と避けたり、ためらっているうちに会社を傾けたり、したけどそれをいつまでも気に病んだりする経営者は「成功」しないということである。以上のことから私がさしあたり言いたいのは次の二点である。
「跨線橋版」ではより感情がかかわるのは、他者を害することの直接性のためである。「顔」がみえる敵を撃つよりも、指令室のスクリーンのバツ印に照準を合わせたミサイルのスイッチを押すほうが、心理的負荷が少ない。重大決定が「現場」より「会議室」で行われるようになる現代社会において、本来の意味での道徳感情を持たないサイコパスは活躍しやすい。裏から言えば、サイコパス化しているのが「現代社会」である。
論理的には、反応速度でなく回答に注目するなら、トロッコ問題は、「帰結主義」かどうかという意味では功利主義か否かの判別には十分であるまい、と私は述べた。しかしこれは別の意味で功利主義にかかわる。すなわち倫理に「正解」があるということを前提しているのが、功利主義の重要な面と重なる。フットは功利主義者そのものではないようである(フット『人間にとって善とは何か』筑摩書房、2014、参照)。しかし「正しい答」があると「信じていた」(エドモンズ、前掲書26頁)彼女は、真偽でなく賛否の問題だという考え方は彼女の「忌み嫌う」(同書、28頁)もので、こうした主観主義への「本能的な反感」(同書、32頁)を持っていた点で、功利主義と重なる。だがこれこそ批判的に検討すべき論点である。サンデルもその選択がなぜ「正しいと考えるか」(前掲書、14頁)と問いを出すことによって、(少なくともこの講義の「第一回」では)「正解がある」ということを無意識に思わせる結果になっている。
