床屋道話49 ひみつきち
二言居士
「Secret base(君がくれたもの)」は2001年の流行歌だった。ガールズバンドのZONEによる。四人ともかわいいのが魅力の一つだが、小生としてはメインボーカルのMiyuが一番の好みかな――といったことはここではどうでもいい。題にもある「ひみつきち」というものに、多くの人は甘酸っぱいなつかしさを感じるのではあるまいか。そしてこども時代にそうしたものを持つことが有用なのではないか、というのが本稿の主題である。
昔は「あきち」や「はらっぱ」があちこちにあって、文字通りの小「基地」を構築することもできなくはなかった(『二十世紀少年』での河原のものなどもそうだ)。それほどでなくても、集合住宅や学校の敷地内の、人があまり行かないすみっこなどが、特別に意味づけられた場になることもある。もっと比喩的な、特別な領域や時間が、個人や小さな結びつきの「秘密基地」になることもあろう。
あらためてそのことをとりあげたいのは、今のこどもたちにそれが失われているのではないかと感じるからである。あちこちの防犯カメラだけでなく、本人に装着されたGPSによって、常に所在地が把握される。「秘密」きちなど持ちようがない。また塾やけいこ事で忙しく、道草を食ったりする時間も乏しい。親やおとなの知らないところで一人で、またこども同士で遊ぶ機会や「スキル」も(ケータイのゲームを除けば?)乏しい。
だがこどもには「自由」や「秘密」が必要なのではないか。秘密の領域は人間の内面である。「友情」が生まれるのは秘密の共有からである。秘密や秘密結社一般を悪とみなしてはならない。カメラやGPSや「心のノート」で絶えず監視されたこどもは「内面」が育たず、プライバシーを尊重する意識が生まれない。
前々回小生は、監視社会化に対して若者の危機感が乏しいことを憂えた。生まれたときからこうした状況におかれていることの影響が強いのだろうか。そしてそれに私が危機感を持つのは、ここでの「内面」とは勿論物理的な「内側」ではなくて、つまり心そのものだからである。
だが開き直った次の見方があるかもしれない。「各人心宮内の秘宮」(北村透谷)としての「内面」は近代の共同幻想であり、ポスト・モダンの今日維持されようもない、「心」でなく、脳(生身の脳と人工頭脳と)を問題にすべきだ、と。だからこその私の危機感である。
それとも私の危機感のほうがトレンドになりつつあるのだろうか。マルクス・ガブリエルのような哲学者にいま人気が出ている。彼は「私は脳でない」などと言い、心脳同一説や自然主義などに反対し、(形而上学的な、科学の成果を汲まない観念論に戻ることなく、)「精神」を復権させようとしている。何でもかんでも二種類の「脳」で説明し解決しようとする路線に、ようやく人々はうんざりしたか、おもしろいというより怖いと感じ始めたのであろうか。
パソコンやスマホを通じてあなたの「内面」や個人情報が知られるだけではない。それを使った個人の「信用スコア」がつくられる動きも進んでいる(グーグルだかアマゾンだかそうしたところで)。「マイナンバー」が国民総背番号制だとすれば、個人総合スコアは国民すべてに人間全体としての「偏差値」がつけられるようなものである。就職やローン申請などですぐ使われそうだ。お見合いなどでも求められるようになるかもしれない。他人が勝手にみられないようにするとしても、提出を求められ、拒否すると「偏差値が低いからだろう」と結局どちらの意味でも否応なく使われてしまう。もっと古い歌でしめよう。「恋は終わりね、秘密がないから」という歌の文句があったが、秘密がなくなることは人間そのものの終わりではあるまいか。
LINEは3月30日に、ヤフーは4月13日に、厚労省とデータ提供の協定を結んだ。位置情報の統計データが使われているのはもはや周知であろうが、検索・販売履歴のデータまで含まれている。コロナの暗いトンネルを抜けると、総監視社会が待っているのだろうか。