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第二部 第11章 公衆との関係における徳義について

 

 この章で問題にされるのは、もはやある個人、または小社会との関係における徳義ではなく、真の徳義、公衆との関係において考察された徳義である。この種類の徳義だけが、真にそれに値し、一般にその名を得る徳義である。誠実さについてのはっきりした観念を形成し、徳への導きがみいだされるのは、この観点から徳義を考察することによってだけである。

 ところで、この観点の下で私が言いたいことは、個別的社会と同じく公衆も、その判断において、もっぱら自らの利害という動機によって心を決める、ということである。公衆が、誠実、偉大、または英雄的という名を与えるのは、公衆に有益な行為にだけだ、ということである。そして公衆はあれこれの行為に対する評価を、その行為を実行するのに必要な力、勇気、または寛大さの程度にではなく、この行為と公衆がそこからひきだす利点の重要性自体に釣り合わせる、ということである。

 実際、武器があることに奮い立てば、一人でも手負いの三人と戦う。この行為は、疑いなく評価すべきであるが、しかしながら私達の擲弾兵<兵士>はたいていでき、そしてそんなことをしても歴史に名を残すことはけっしてない行為に過ぎない。しかし全世界を征服することになる一帝国〔ローマ〕の救済が、この戦いの成否に結び付いているならば、〔この人物〕ホラチウスは英雄である。同胞市民からの賛嘆と歴史に轟く彼の名は、最も遠い時代にまで及ぶ。

 二人の人物が深淵に飛び込むとしよう。これはサッフォーとクルチウスに共通の行為である。しかし前者は恋の不幸から逃れるために、後者はローマを救うために身を投げる。サッフォーは馬鹿であり、クルチウスは英雄である。何人かの哲学者が、この二つの行為に等しく狂気の名を与えても無駄である。彼らよりも自分の真の利害に関して啓蒙されている公衆は、公衆の利益において狂気を演ずる人々に、馬鹿という名をけっして与えないであろう。

2015/05/30 21:03 2015/05/30 21:03
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