床屋道話51 「ニュー・ノーマル」はノーマルなのか?
二言居士
コロナ禍はなかなかおさまらないが、「ウィズ・コロナ」「ポスト・コロナ」の話題も「気が早い」とは言えないほど、既に耳慣れてきた。コロナ対策が厄介でうっとうしいのは、誰にとっても同じであろう。小生としては、それに加えて、以前からいやに思っていた風潮が、これで増幅されたことがある。
昨年のここと思う、「伊達マスク」が現れているという話題を聞いたのは。「伊達眼鏡」は目が悪くない人のものであるように、風邪ひきでもないのにマスクをする人々がいるという話である。ただ伊達眼鏡はおしゃれのためだが、伊達マスクは顔をさらしたくないためだという。聞いていかにもという気がした。そういう人が増えている空気を感じていた。
さらに一、二年前のことだろうか。たまたまテレビで、マツコ・デラックスと有吉のおしゃべりを聞いた。中華料理屋で、カウンター席に仕切りをおいて、一人分の空間を隣席から隔てるようにした店が現れているという話題が出た。今日の「アクリル板」を連想させるが、無論新型ウィルスなど問題になっていなかった時期である。他者との直接の接触を防ぎたいという意図らしい。マツコの、「みんなこんなふうになっていくのかしら」という危惧と、「独房みたい」というたとえが印象的だった。
マスクにせよ仕切り板にせよ、共通するのは他者とのなまの、または「密」な関係を避けたいということである。電話を嫌がり、なんでもメールで済まそうする若者というのも、こうした流れの表れと言えよう。さらに言えば、言葉にやたらに「とか」をつけてぼかしたり、自分のことなのに「私って……じゃないですかぁ」と半疑問形にしたりするのも、同様であろう。
年配者の多くがそうであるように、小生もこうした風潮を苦々しく思っている。すぐありそうな反論は、それは時代に逆らう守旧派の嘆きにすぎないというものだろう。世の中は変わっていくこと、そして変化にはみなそれなりの理由があることは、もっともである。しかし変化がすべて「よい」変化とは限らないこと、悪い変化には反対すべきことも、見落としてはならない。さしあたり理由の問題はおいて、この変化を「いやに思っていた」人間にとっては、コロナがしかしそれを後押しする結果となったことが忌々しい。これを書いているとき、石田ゆり子さまが、「マスク会食」への嫌悪感を投稿したのをみたが、さすがゆり子さまと喜んだ。しかし慣れというのは強力であり、また新事態で利を得た者がそれを維持しようとすることは想定できる。つまり「ポスト・コロナ」においても、いろいろな意味での「ソーシャル・ディスタンス」を促す生活が権威づけられるのではなかろうか。無論「ポスト」でなく渦中における感染対策として協力するのはやぶさかではない。また発達障害のあるものが、新方式でかえって勉強や仕事で参加しやすくなったということなどは、多様な人々を包摂する合理的配慮として、生かされるべき経験であろう。しかし今度は逆に新方式全般、をすべての者が従うべき「ニュー・ノーマル」とか言って、ノーマル(ふつう・規範的)なことにしてほしくない。
