精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著・仲島陽一訳

第二部 第14章 偏見の徳と真の徳について

 

 私が偏見の徳という名を与えるのは、正確に順守しても公共の幸福に寄与しないすべての徳である。<ウェスタの巫女たちの純潔や>インド中にうようよしているあの無分別な托鉢僧の苦行などがそうである。国家にはしばしばどうでもよく有害でさえあり、それに献身する者には苦痛となる徳である。こうした偽りの徳は、大部分の国民において、真の徳よりも敬われており、それを実践する者は、善良な公民たちよりも大きな尊崇を受けている。

 ヒンドスタンでは僧侶以上に敬われている者はいない(a)。そこでは彼等が裸であることまで崇められる(b)。生涯一本の木にくっついたままの者がおり、炎の上を体を左右に振って歩く者がおり、巨大な重りのついた鎖を身につけている者、水分しか口に入れない者、口を南京錠で閉じる者、包皮に小さな鐘をつけるものもいる。この鐘に接吻しに献身の旅をする身分ある女性がおり、托鉢僧たちのところで自分の娘を売春させるのは父親の名誉となる。

 迷信が神聖という名を付与する行為あるいは習慣の中で、最もおかしいのは、異議なく、台湾島の女祭司ジュイブュスjuibusのものである。「立派に祭儀を行い、また諸民族の尊崇に値するために、彼女等は、説教し、体をよじ曲げ、うなった後に、自分は神々を見ている、と叫ばなければならない。この叫びを挙げると、大地を転げ回り、僧院の屋根の上に昇り、裸体をさらし、尻を打ち合い、小便を垂らし、裸のまま下り、衆人の面前で体を洗う。」(d)

 少なくとも、偏見の徳が滑稽なだけの諸民族は、まだしも幸いである。しばしばそれは野蛮になる(e)。コーチン1)の首都では鰐が育てられる。そしてこの動物の凶暴さに身をさらし、それに貪り食われる者はみな、選ばれた者の中に数え入れられる。マルタンバン2)の王国では、偶像が運ばれる日、山車の車輪の下に飛び込んだり、それが通るときに自分ののどを切ったりするのは、徳の行為である。この死に献身する者は聖人とみなされ、彼の名はその結果、ある本に書き込まれる。

 ところで、偏見の徳があるならば偏見の犯罪もある。処女と結婚することはバラモンにとっては犯罪である。台湾等で、裸で歩くことを命じている三月の間に、ある男が最小の布を身にまとうならば、彼は男にふさわしからぬ飾りを身につけていると言われる。まさにこの島では、妊婦にとっては、三十歳前に出産することは犯罪である。妊娠したらどうするか。女祭司の足元に横たわり、法の執行として、流産するまで踏みつけられる。

 ペグーでは、祭司または魔術師がある病人の回復または死を予言したとき、回復することは死を予言された病人にとっては犯罪である。回復期においては、各人が彼から逃げ彼を罵る。もし彼が健康だったならば、神が彼を仲間として受け入れたのだ、と祭司たちは言う。

 これらの偏見の罪のいくつかに対して、最も凶悪で社会に最も有害な大罪に対してよりも大きな名誉を与えないような国は、たぶん一つもない。

 負かした敵を貪り食う人食い民族であるジャグ3)では、自分自身のこどもを乳鉢で根、油、葉とともに粉にし、沸騰させ、パテを作って自分に擦り付けて傷つけられないようにしても罪ではない、とカヴァチ4)神父は言う。しかし、三月に、国の女王の前で若い男女一人ずつを鋤で殴りつけて戮殺しないならば、恐るべき冒涜になるという。麦の熟するとき、女王は、女官たちに囲まれてその宮殿を出、その通り道にいる者たちを絞め殺し、お供に与えて食わせる。これらの犠牲は、庶民が自分たちには失われている生命を享受するのを彼女の先祖の霊たちが見て残念がるのをなだせめるために必要なのだ、と彼女は言う。この弱い慰めだけで、彼等に収穫を祝福させられるのである、と。

 コンゴ、アンゴラ、マタンバの王国では、夫は恥ずかしげもなく妻を売ることができる。父は息子を、息子は父を。これらの国では、ただ一つの罪しか知られないが、それは、国民の大祭司であるチタンべChitambéの初穂を拒むことである(g)。ラバ5)神父の言うところでは、これらの民族は、あらゆる真の徳は欠けていて、この習慣をきわめて細心に順守している。もっぱら彼の収入の増加を気にかけていて、チタンべが彼等に勧めることはそれだけであることが、よく判断される。彼は、自らの黒人たちがより啓蒙されることはまったく望まない。徳についてのあまりに健全な観念が、迷信も、そのせいで彼が得る貢をも減少させることを心配しさえする<l>。

 偏見の罪と偏見の徳について言ったことで、これらの徳と真の徳との違いを感じ取るには十分である。すなわち真の徳とは、公衆の幸福に絶えず利益を与え、またそれなしでは社会が存続し得ないような徳である。

 徳のこの二種類に応じて、私は二種類の習俗の腐敗を区別しよう。一方を宗教的腐敗、他方を政治的腐敗と名づけよう(h)。しかしこの検討に入る前に、私が書くのは神学者でなく哲学者という資格においてであることを宣言する。つまりこの章および後の諸章において私が扱うつもりなのは、純粋に人間的な徳であると。以上を告げた上で、本題に入ろう。そして習俗に関して宗教的腐敗の名が与えられるのは、あらゆる種類の放蕩、また主に女性に対する男性のそれである、と言おう。この種類の腐敗は、私が弁護するものではなく、神を傷つけるゆえに疑いなく犯罪的であるが、しかしながら一国民の幸福と両立できないものではない。いろいろな民族が、この種の腐敗は犯罪的であると信じたし、またいまだに信じている。それはフランスでは、国法を傷つけるゆえに、疑いなく犯罪的である。しかしもし女性が共有であり、こどもは国家のものと宣言されるならば、さほど犯罪的ではあるまい。この犯罪はそのときには政治的にはもはやなんら危険なものを持つまい。実際、地上を経巡れば、私達が放蕩と呼ぶものが、習俗の腐敗とみなされないだけでなく、法によって認可されていたり、宗教によって神聖化されたりさえしているような、いろいろな国民があることがわかる。

 東洋における、法の保護下における後宮は言わずもがなである。トンキンでは、多産が名誉とされ、石産女には法によって罰が科されるが、これはその夫に対して、快い娘を探し紹介することである。この立法の結果、トンキン人は一人しか妻を持たないヨーロッパ人を滑稽と思う。私達の間では理性的な人々が、貞節の誓願によって神を敬っているとどうして思うのかわからないし、それができるならば、命を持たない者に命を与えないことは、既に命を持っている者から命を奪うことと同じくらい犯罪的だ、と主張する(i)。

 シャムの女たちが、胸と腿とを半ばはだけて、かごの上で通りを運ばれ、きわめてだらしない態度で現れるのは、同様に法の保護の下にである。この法はティラダTiradaと呼ばれる彼女等の女王の一人によって設定されたが、彼女は男たちに、より不名誉な色恋〔男色〕を嫌悪させるために、美の力全体を用いなければならないと思った。シャムの女たちは、この企ては成功したと言う。この法はしかも十分に賢明であるとも言う。男たちには欲望を持つことが、女たちにはそれをかきたてることが快いと言うのだ。それは両性の幸福であり、天が私達を苦しめる諸悪に混ぜ込む唯一の善である。またさらにそれを私達から奪おうとする者があるならば、なんという野蛮な魂の持ち主であろう!(k)

 バティムナ6)王国では、女はすべて、どんな身分であろうと、法によって、また違反すると死刑で、彼女を欲望する者すべての恋に従うことを余儀なくされている。拒否は違法であり逮捕され処刑される。

 この種類の習俗の腐敗について、私達と同じ観念を持たないすべての民族の一覧表をつくろうとするならば、きりがあるまい。それゆえ私は、法が放蕩を裁可しているいくつかの国を挙げた後で、まさにこの放蕩が宗教的祭祀の一部をなしているいくつかの国をひくことでとどめよう。

 台湾島の諸民族では、酩酊と猥褻とが、宗教上の行為である。悦楽は天が生んだものであり、天の神聖な贈り物だ、とこれらの民族は言う。それを享受することは、神に名誉を与えることである。神の善行を用いることである。恋の愛撫と享受との光景が神に喜ばれることを、誰が疑うであろうか。神々は善である。そして私達の快楽は、神々にとって、私達の感謝の最も快い貢物である。この推論の結果として、彼等はあらゆる種類の淫行に公然と身を委ねる(m)。

 戦争を宣告する前に、ジャグの女王が、最も美しい女たちと、彼女の戦士たちの中の最も美しい男たちとを自分の前に来させ、彼等がいろいろな姿勢で、彼女の面前で恋の快楽を享受するのも、やはり彼等の神々に好意を示すためである。どれだけ多くの国で、放蕩がその神殿を持っていることか、とキケロは言った。どれだけ多くの祭壇が、売春女性のために建てられたことか! ウェヌスとコチュット7)Cotyttoの古代祭祀を思い出すまでもなく、〔インドの〕バニヤー族は、バニニの女神の名の下に、その女王の一人を崇めているが、彼女は、ゲメリ・カレリ8)の証言によれば、「彼女の宮廷をあらゆる種類の自らの美しさを見せて享受させ、自分の好意を幾人かの恋人に次々と、また同時に二人にさえ惜しまなかった。」

 私はもはやこの件では、「異教ノ誤マリニツイテ」と題された論文の中で、二世紀の教会の神父ユリウス・フィルミクス・マテルヌス9)によって報告された一つの事実だけを引こう。この神父は言う、「アッシリアは、アフリカの一部と同様、ユノーあるいは処女ウェヌスの名の下に、空気を崇める。この女神は諸元素に命令する。彼女のために寺院が作られる。その寺院は祭司たちによって管理されるが、彼等は、女のような着物で飾りをつけ、なよなよしたあえぎ声で女神に祈り、男たちの欲望をそそり、それに身を任せ、彼等のみだらさを誇り、そしてこの準備的な快楽の後で、女神に大きな叫びをあげさせ、楽器を演奏し、自分が神の霊に満たされていると言い、予言しなければならない、と思っている。」

 それゆえ、私が宗教的腐敗と呼ぶ習俗の腐敗が、法によって裁可されたり宗教によって神聖化されたりする国が無数にある。

 この種の腐敗にはどれだけの悪が伴うか、と言われよう。しかし放蕩が一国家において政治的に危険なのは、国の法律に反するとき、または統治のなんらかの他の悪徳と結びついているときだけだ、と答えられないのか。こうした放蕩が支配している民族は世界から軽蔑される、とさらに言っても無駄であろう。しかし、あらゆる種類の快楽に身を委ね、内部では幸せで外部には恐ろしい東洋人と、未開または戦士の民族のことは言わずにおいても、ギリシャ人以上に有名な民族があろうか! いまなお人類の驚き、賛嘆、そして名誉となっている民族である。彼等の徳には致命的な時代であったペロポネソス戦争の前は、どんな国民どんな国が、有徳な人々や偉人をより多く生んだであろう。しかしながら最も不名誉な愛〔同性愛をさす〕に対するギリシャ人の好みは周知のとおりである。この好みはきわめて一般的であったので、義人と仇名されたアリステイデス、いつもほめられるのに飽きていたとアテネ人に言われていたあのアリステイデスは、しかしながらテミストクレスを愛していた。彼等の魂の中に最も激しい欲望をもたらし、相互に憎しみの炎をかきたてたのは、ケオス島の若いステフィレオスの美しさであった。プラトンは放蕩者であった。アポロンの神託によって最も賢い人であると告げられたソクラテスでさえ、アルキビアデスとアルケラオスを愛していた。二人の妻がいて、あらゆる娼婦とともに暮らしていた。それゆえ、良俗について形成された観念に関して言えば、最も有徳なギリシャ人たちも、ヨーロッパでは腐敗した人々とみなされるであろうことは確実である。ところで、この種の習俗の腐敗は、ギリシャでは、この国があらゆる分野で偉人たちを生み出し、ペルシャ帝国を震え上がらせ、最も輝いていたまさにその時期に最も極度に進んでいたので、私が宗教的と名づける習俗の腐敗は、一国家の偉大さや至福と両立しないものではない、と考えられよう。

 一帝国の崩壊を準備し、その破滅を予告する、他の種類の習俗の腐敗がある。私はそれに、政治的腐敗という名を与えよう。

 民族を構成している大多数の個人が、自らの利害を公益から切り離すとき、この腐敗に犯されている。この種の腐敗は時々宗教的腐敗と結びついていたので、多くのモラリストは両者を混同してしまった。一国家の政治的利害にしか諮らないならば、政治的腐敗のほうがたぶん危険であろう。ある民族が、はじめは最も純粋な習俗を持っていても、この腐敗にとりつかれれば、必然的に内部では不幸になり、外部にはほとんど恐ろしくなくなる。こうした帝国の持続は偶然次第となり、遅かれ早かれ没落する。

 あらゆる利害のこの無政府状態が、国家の中でどれだけ危険かを感じさせるためには、一集団の利害と共和国の利害との対立だけが生み出す禍を考察しよう。仏教の僧侶に、私達〔キリスト教徒〕の聖人の徳すべてを与えよう。もし僧侶集団の利害が公衆の利害に結びついていなかったら、もしたとえば、僧侶の信用が民衆の盲目によるならば、この僧侶は必然的に、彼を養う国民の敵であり、この国民に関して、ローマ人が世界に対してそうであったところのものになろう。〔つまり〕身内では誠実だが、全世界との関係では山賊であろう。各々の僧侶が個人としては権勢からおおいに離れているとしても、その集団はそれでもやはり野心的である。その成員はすべて、しばしば自覚せず、その増大に努めるであろうし、有徳な原理によってそれが権威付けられていると信じるであろう(o)。それゆえ一国家において、その利害が一般的利害に結びついていない集団ほど危険なものは何もない。

 異郷の祭司たちがソクラテスを死なせ、ほとんどすべての偉人を迫害したのは、彼等の個別的福利が公衆の福利と対立すると思ったからである。偽りの宗教の祭司たちが、<人民>諸民族を盲目の中にひきとめ、またこのために彼等を啓蒙できる者すべてを苦しめることに利害を持つからである。真の宗教の執行者によってときおり模倣される例であるが、彼等は、同じ要求なしにしばしば同じ残酷さに頼り、偉人たちを迫害し圧迫し、凡庸な著作の弁護者にして卓越した人々の批判者になり、[また続いて彼等よりも啓蒙された神学者たちによって否認された(p)]。

 たとえば、〔モンテスキューの〕『法の精神』のどの刷りも入国させないようにしたいくつかの国の禁令ほど滑稽なものがあろうか。君主が一人ならずその息子に再三再四読ませている著作なのに。ある才人に従えば、この禁令を懇願することで、僧侶たちはスキタイ人がその奴隷に対するようにふるまった、とこの件で繰り返せないであろうか。スキタイ人は、奴隷があまり気を散らさずに臼を回すように、彼等の目をつぶしたというのであるが。

 それゆえ、公衆の幸不幸が分かれるのはただ、諸個人の利害が一般的利害と合致するか対立するかによるようにみえる。そして結局、習俗の宗教的腐敗は、歴史が証明するように、大度、魂の偉大さ、知恵、才能、要するに偉人をかたちづくるすべての性質にしばしば結びつき得るようにみえる。

 この種類の習俗の腐敗に染まった公民が、最も厳格な修士以上に重要な奉仕をあまり祖国になさなかったことは疑えない。自分の、あるいは娘の美しさを保証するために、はじめて彼女らに種痘させたコーカサス女に、何を負わないであろうか。種痘がどれだけのこどもを死から救ったことであろうか。これほど大きな善行によって世界にほめられるものになり、したがって世界の感謝に値した女子修道会の開祖がいるだろうか。

さらにこの章の終わりになお繰り返さなければならないと思うが、私は放蕩の弁護をするつもりはなかった。あまりにもしばしば混同され、雑然とした観念しか持たれなかったようにみえる、この二種類の習俗の腐敗についてのはっきりした概念を与えようとしただけである。問題の真の対象についてよく学ぶほど、その重要性をよく知ることができるし、この二種類の腐敗に向けるべき軽蔑の程度についてよりよく判断し、二種類の悪い行為を認めることができる。一つはあらゆる政体において悪徳であるが、もう一つがある民族において有害でありしたがって犯罪的であるのは、まさにこの行為と国の法律との間にある対立によってだけである。

 病の認識がモラリストたちに与えるものが多いほど、治療への手立ても増える。彼等は、道徳学を新たな視点から考察し、また、むなしい学問から世界に有用な学問をつくることができよう。

 

【原注】

(a)      バラモンは施与を求める独占的特権を持っている。彼等はそれを与えるように説き、自らは与えない。

(b)      これらのバラモンは言う。「我等は母胎より恥ずかしげなく出てきたのであるから、なにゆえ、人となって、裸で道行くことを恥じよう。」 

 カリブ人は私達が裸体でいるのに劣らぬ羞恥心を衣服に持つ。大部分の未開人が体の幾分かの部分をおおっているのは、自然の羞恥心の結果ではなく、ひ弱さ、若干の部分の感じやすさ、そして森や林を通るときに傷つくおそれからである。

(c)      ペグー王国では、サントスと呼ばれる隠者がいる。彼等は、たとえ飢え死にするようになっても、何も求めない。実際まわりが彼等の欲望すべてを察して満たしてやるのである。彼等に懺悔する者は誰でも、どんな罪を犯していても、罰を受けることはない。これらのサントスは木の幹に住み、野に枕する。死ぬと神々として崇められる。

(d)      『オランダ・インド会社の旅』

(e)      マダガスカルの女たちは、吉日と凶日、吉時と凶時があると思っている。凶日または凶時にはらんだときには、子を獣に与えるか、埋めるか、絞めるかすることが宗教上の義務である。

ペグー帝国の寺院では乙女たちが育てられる。毎年偶像の祝日には、この不運な娘の一人が犠牲にされる。聖衣を着た祭司が彼女を裸にし、絞め殺し、心臓を抜き出して偶像の鼻先に投げる。犠牲がすむと、祭司たちは食事をとる。恐ろしい形の衣をまとい、民衆の前で踊る。同じ国でも他の寺院では、男たちだけが犠牲にされる。このために見た目のよい奴隷が買われる。この奴隷は、白い服を着せられ、3日間朝ごとに洗われ、それから民衆に見せられる。四十日たつと祭司たちが彼の服を裂き、心臓を取り出し、彼の血で偶像をぬたくり、彼の肉を聖なるものとして食べる。祭司たちは言う、「無垢の血は、国民の罪の贖罪として流されなければならない。それに、誰かが偉大な神の近くに行って、その民を思い出してもらうことがぜひとも必要である。」この祭司たちが決して手数料を取らないことは注目してよい。

(f)      あるジャグが死んだとき、なぜ生を捨てたのか尋ねられた。ある祭司が、死者の声を偽装して、先祖に十分犠牲を備えなかったと答える。この犠牲は祭司たちの収入のかなりの部分をなしている。

(g)      ラオ王国では、国の祭司であるタラパンtalapainたちは、王自身にしか裁かれ得ない。彼等は毎月懺悔する。この掟には忠実だが、彼等は他の点で無数の醜行を犯して罰せられない。これほどに君主を盲目にしているので、あるタラパンが贋金で有罪にされたのに、王によって赦免された。彼は言った、「俗人なら、より大きな贈り物を彼にしなければならなかったであろう。」国の最大部分はタラパンたちに、最も低い奉仕をすることを大きな名誉としている。タラパンが少しの間でも着た衣は、何人も身にまとうことはできないであろう。

<(l)チトンベは昼夜聖なる火を保ち、その薪をきわめて高く売る。買うものはあらゆる禍を免れると信じている。この大祭司はどんな裁き手も認めない。彼が支配している地方を訪れるために留守にする間は、禁欲が強いられ、破ると死罪になる。黒人たちの確信では、もし彼が自然死を遂げるならば、宇宙の破滅をひきおこすであろう。だから彼が病むと、後継ぎに予定された者が彼を絞め殺す。>

(h)      この区別が私に必要なのは、第一に、私は徳義を哲学的に、また宗教が社会に対して持つ関係から独立して考察するからであり、それをこの著作の全体の中で見失わないように読者に願いたい。また第二に、偶像崇拝国民において宗教の原理と政治および道徳との間にある永遠の混乱<矛盾>を避けるためである。[NB :1818年版はこの注をJ.M.本文に挿入。]

(i)      ジャグ人においては、娘に受胎のしるしが認められると祝いをする。このしるしが消えると、もはやもたらせない生命に値しないものとして、死なせてしまう。

(k)   この件である才人が言った。一般的福利に反する快楽はすべて男に異議なく禁止しなければならない。しかしこの禁令の前に、才知を尽くして、この快楽を公衆の幸福と和解するよう努めなければならない、と。さらに言った、「男たちはとても不幸なので、より以上の快楽は、政府のために彼が持つかもしれない危険なものから救い出そうとする苦労に十分値する。またたぶんこの計画において、これらの快楽が許されている国の立法を検討するならば、たやすく成功するであろう。」

(l)    『両インドのキリスト教』第四巻、308頁。

(m)  チベット王国では、娘たちは首に、淫乱の贈与品を、すなわち恋人たちからの輪をつける。それが多いほど、結婚が祝われる。

(n)   バビロンでは、すべての女性は、ヴィーナスの寺院に宿って、生涯に一度、罪滅ぼしの売春によって、罪の赦しを得なければならない。彼女等の体の享楽によってその魂を清めたいと思う最初の外国人の欲望を、彼女等は拒めなかった。美しい女やかわいい女はすぐに贖罪を満足させたことがたやすく予見される。しかし醜女は、恵みの状態に戻してもらうことになる恵み深い外国人を、時には長い間待っていた。

仏教寺院には偶像がいっぱいある。それらは、妾という資格で受け入れられる。飽きることはないのか。そのときは送り返し、とりかえる。これらの寺院の門は修道女たちによって取り囲まれているが、彼女等は、そこに受け入れられるために、僧侶に贈り物をし、それを彼等は自分たちに許された恵みとして受け取る。

コーチンの王国では、バラモンは、若い新婦に愛の最初の快楽を味わわせたくて、王と民衆に、この神聖な技を課さなければならないのは彼等であると思い込ませる。彼等がどこかにはいるときには、父と夫は、その娘とともに彼等をそのままにしておく。

(o)   真の宗教においてさえ、蒙昧の時代は、王権を侵害するために民衆の敬虔さを乱用した祭司たちがいた。

(p)   以下は、「書物よりも人々を研究するほうが有用であるか」に関するディジョンのアカデミーでの受賞論文における、イエズス会士ミロ10)神父が、モンテスキュー氏に関して表明したところである。「王冠に、そして権力を持っているすべての者の心に刻まれるべきであろう、政府のあの行動規則、あの確律、それらは人々の深い研究のおかげで得られるのではないか。彼はその証人である、著名な公民、法の代弁者で裁判官であり、フランスと全ヨーロッパは、その死に涙を注ぎ、しかしていつまでもこの天才が諸国民を啓発し、公衆の至福の計画を描くのをみるであろう。すべてをみてとったので、すべてを要約した不滅の著作家である。私達が読むことよりも考えることを必要としているので、考えさせようとした。どんな熱意で、どんな聡明さで、彼は人類を研究したことであろう! ソロンのように旅行し、ピュタゴラスのように省察し、プラトンのように会話し、キケロのように読み、タキトゥスのように描き出し、常にその対象は人間であり、その研究は人々の研究であり、人々を知っていた。彼が諸民族と諸帝国の温和派の人々の心にまいた実りある種は、既に芽生え始めている。ああ! 感謝してその果実を取り入れよう」等々。ミロ師はある注でこう加えている。「徳義が認められ、力強く思考し、常に考えるとおりに表現する著作家は、はっきりした用語で言う、『来世の至福以外の目的を持つように思われないキリスト教は、さらに此岸の至福をもつくりだす。』彼がベール11)の危険な逆説に反論して、『心によく刻まれたキリスト教の原理は、君主制の偽りの名誉、共和制の人間的な徳、そして専制国家の卑しい恐怖よりも無限に強いであろう。』すなわち『法の精神』で確立された、政体の三原理よりも強いであろうと加えるとき、もし彼の〔この〕著作を読んだならば、そこにキリスト教への致命的打撃を与えるつもりだったとしてこのような著作家を非難できようか。」

 

【訳注】

1)   コーチン(Kochi、底本ではCochin)はインド南西部の町。オマーン海に面し、ケララ州に属する。1502年にバスコ・ダ・ガマによってポルトガルの支店が置かれ、ザビエルも滞在した。後オランダの統治下に入り、1643年からはイギリス領。

2)  マルタンバン(Martemban)は不詳。

3)  ジャグ(Giagues)は不詳。

4)  カヴァチ(Cavazzi、底本ではCavazi)はイタリアの宣教師で旅行家(v.1621-92)。著書に『コンゴ、マタンバ、アンゴラの三王国の地誌報告』(1687)。

5)  ラバ(Jean-Baptiste Labat1683-1738)はフランスのドミニコ会士で旅行家。アンティール諸島で宣教師としてイギリス人と対立、帰国後『アメリカ諸島新旅行記』(1722)公刊。

6)  バティムナ(Batimena)は不詳。

7)  コチュット(Cotytto)はトラキアの女神。その祭りは狂乱の儀式を伴っていた。

8)  ゲメリ・カレリ(Gemelli Carreri)はイタリアの旅行家。著書『世界周遊記』(Giro del mondo1699

9)  ユリウス・フィルミクス・マテルヌス(Julius Firmicus Maternus)は(原文では「二世記」とあるが実際には)四世紀の人。弁護士出身でユダヤ天文学を中心とする学者。

10)              ミロ(Claude-François-Xavier Millot,1726-85)はフランスの歴史家。リヨンのコレ-ジュの教師。本書に引かれた論文により、イエズス会を抜けるように決められた。

11)              ベール(Pierre Bayle,1647-1706)はフランス出身の思想家。オランダで『文芸共和国通信』を発行。著書に『歴史批評辞典』(1697)など。カルヴァン派の立場から寛容を説いたが、当時は多く無神論者と思われていた。






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