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精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

第三部 第14章 友情について

 

 愛するとは、欲求を持つことである。欲求なしにはどんな友情もない。それは原因なしの結果であろう。人々がすべて同じ欲求を持っているわけではない。それゆえ友情は、互いの間で、異なる動機に基づいている。快の欲求や金の欲求を持つ者がおり、信用の欲求を持つ者がいる。自分の苦労を話すことに欲求を持つ者もそれを人に委ねることに欲求を持つ者もいる。したがって快楽の友、金銭の友(a)、陰謀の友、才気の友、不幸の友がいる。友情をこの観点で考察し、そのはっきりした観念を形づくること以上に有用なことは何もない。

友情において、恋愛においてと同様に、しばしば物語がつくられる。いたるところにその英雄が求められる。いつでもそれがみつかったものと信じられる。最初に来たものが標的となり、彼がよく知られず、また知りたいと思われる限り、愛される。好奇心が満たされたらどうか。愛想が尽きる。自分の物語の英雄に出会わなかったということだ。こうして熱中は受け入れるようになるが友情は受け入れられなくなる。友情の利害自体のために、それゆえそのはっきりした観念を持たなければならない。

付け加えて言えば、友情を相互的欲求として考察すると隠せないのは、長い目で見れば、同じ欲求が、したがってまた同じ友情が(b)二人の間で持続するのはとても難しい、ということである。だから古くからの友情以上に稀なものは何もない(c)。

だが恋愛よりもずっと長続きする友情の感情が、しかしながら生まれ、育ち、衰えるならば、少なくとも、最も激しい友情から最も強い憎しみに、そしてかつて愛した者を大嫌いになるように移り変わらないと、誰が知ろう。友人にその相手がいなくなったらどうか。彼に対して怒ることはない。人情に掉さして呻き、泣き叫ぶ。私の友はもう同じ欲求を持たないと。

友情についてはっきりした観念をつくるのはかなり難しい。私達のまわりのすべてが、この点で私達を欺こうとする。人々のなかには、自分自身の目にもっと評価できるものになるために、友への感情を自分自身に誇張し、友情で物語めいた描写をし、それが現実だと自分に説得し、しかしついには彼等とその友との迷いをさます機会が来て、彼等が考えているほどには愛していなかったことを教わる、そんな者もいる。

こうした種類の者は、愛する欲求ととても激しく愛される欲求とを持っていると、ふつう主張する。ところで、ある人の徳にとても強くうたれるのは、はじめて会ったときだけである。習慣になれば、美にも才気にも魂の長所にも感じなくなる。最後には驚きの快によってしか強く感動することはない。ある才人がこの題目でかなりおもしろく言ったところでは、とても激しく愛されたい者は、友情でも恋愛同様、多くの浮気心を持ち情熱を持たないことが必要であると。なぜなら、彼がさらに言うには、はじめのときはそれぞれ別のもので、常に最も激しくまた最もやさしいときだから、と言うのである。

しかし、自分自身に幻想を持たない一人に対して、友情のなかに、自分が体験しない感情があるふりをし、欺く相手をつくるが自分は欺かれない、十人の偽善者がいる。彼等は友情を強い、しかし偽りの色で描く。自分の利害にしか注意せず、他人が彼等に有利なようにこうした肖像に基づいて自らをかたどるように促すことしか望んでいない(e)。

こんなに多くの誤りにさらされているので、それゆえ友情のはっきりした概念をつくることはとても難しい。しかしこの感情の力を少し誇張して何が悪いか、と言われよう。自然が与えない完全性を友人に要求することに人々を慣れさせるという悪弊があるのである。

こうした描写に誘惑され、しかし結局は経験によって啓蒙されて、生まれつき感じやすくはあるが、たえず幻を追うのには飽きた無数の人々は、もしも小説じみた観念をつくりあげなかったなら身の丈に合っていた友情にも嫌気がさしてしまう。

友情は欲求を前提する。この欲求が激しいほど、友情は強くなろう。それゆえ欲求はこの友情の尺度である。難破を逃れた男女が無人島で助け合うとしよう。そこでは祖国を再び見る希望もなく、獰猛な獣から身を守るため、そして絶望しないために、互いに助け合うことを強いられるとしよう。もしパリに残っていたらあるいは嫌い合ったであろうこの男女のものほど、激しい友情はあるまい。二人の一人が死ぬことになったらどうか。他方は自分自身の半分を本当に失ったのだ。その苦しみに等しい苦しみは何もない。そのありったけの激しさを感じ取るには、無人島に住んだのでなければならない。

しかし友情の力が常に私達の欲求に釣り合っているならば、したがって友情にとってより好都合な統治形態、習俗、身分、そして最後に時代がある。

騎士道の時代、武装した連れを持ち、二人の騎士が栄光と危険を共にし、どちらかが卑怯だと他方の命と名誉を奪うかもしれない。そのとき、自分自身の利害によって、友を選ぶにはより注意深くなり、彼等はより強く結びついていた。

決闘の流行が騎士道の地位を占めたとき、みんなが毎日ともに身を死にさらしている人々は、確実に互いに親しくならざるを得なかった。そのとき友情はおおいに崇拝され、美徳に数えられた。少なくとも、決闘する者や騎士たちにおいては、多くの忠誠と武勇とを前提した。おおいに名誉を与えられ、またそのときそれが極度にならざるを得なかった美徳であるが、なぜならそれはほとんど常に実行されたからである(f)。

同じ美徳がいろいろな時期において、各時代での有用性が等しくないのにしたがっていろいろな価値がつくのを、ときおり思い返すのがよい。

混乱と革命の時期、そして徒党が跋扈する統治形態においては、平穏な国家においてよりも友情が強く勇敢であることを、誰が疑おう。この分野では、無数の英雄主義を歴史が提供している。そのとき友情は、人間において、勇気、慎重さ、堅固さ、勇気、思慮を前提する。こうした乱世に絶対に必要だが、同一人物にはめったに集まらないこうした長所は、彼をその友に対して極度に大切なものにするに違いない。

 現在の習俗において、こうした長所がもはや友に求められないのは、それが私達には無用だからである。もはや委ねるべき重要な秘密も、身を投ずべき戦いもないからである。したがって友の思慮も、知識も、慎重さも、勇気も必要とされないからである。

 私達の政府の現在の形態においては、個人はどんな共通の利害によっても結ばれていない。財をなすためには友よりも後ろ盾を必要としている。あらゆる家の戸を開く贅沢が、また社交精神と呼ばれるものが、無数の人々から、友情の必要〔欲求〕を取り除いた。どんな動機もどんな利害も、友からの現実のあるいは銘々の欠点をいま我慢させるのに十分ではない。それゆえもはや友情はない(h)。それゆえもはや友という語にかつてと同じ観念が付与されることはない。それゆえこの時代では、アリストテレスとともに(i)、「おお友よ、もはや友はいない」と叫ぶことができる。

 ところで、もしも時代、習俗、統治形態によって友の必要〔欲求〕度が違うならば、またもし友情の強さがこの欲求の激しさに常に釣り合っているならば、心が友情によりたやすく開かれるような条件もまたある。そしてそれはふつう、最も多く他人の助けを必要とする条件である。

 不運な者は一般に最もやさしい友である。不幸の共通性で結ばれて、彼等はその友の禍に同情しつつ、自分自身に同情する快を享受する。

 条件について言えることは、性格についても言える。友なしでいられない性格がある。まず弱くて臆病な性格であり、行いすべてにおいて、他人の勧告の助けでしか決定しない者である。次に憂鬱で厳しく専制的な性格で、圧政の下におく者の熱い友である。それは、ソクラテスの二人の妻の一人で、この偉人の死の知らせに、他方よりも激しい苦痛に身を委ねた妻にかなり似ている。なぜならこの他方の妻はやさしく愛らしい性格で、ソクラテスの死で夫を失っただけであるが、前の妻のほうは、彼の死で、自分の気まぐれの殉教者、この気まぐれに耐えられる唯一の人間を失ったからである。

 最後に、野心すべて、強い情念すべてを免れていて、教養ある人々の会話を自らの無上の楽しみとする人々がいる。私達の現在の習俗においては、この種の人々は、もし有徳であるならば、最もやさしく最も節義ある友である。その魂は常に友情に開かれ、その魅力全体を知っている。前提によれば自分の中にこの感情に対抗できるどんな情念も持たないので、この友情の魅力が彼等の唯一の欲求となる。だから彼等はとても啓蒙されとても勇敢な友情を持ち得るが、それはしかしながらギリシャ人やスキュタイ人の友情と同じ程度にそうであることはない。

 反対の理由により、一般に他人から独立すればするほど友情を持てなくなる。だから金や権力のある人々は、ふつう友情にはほとんど心を動かされない。彼等はふつう冷酷な者として通りさえする。実際人々が冷酷であっても罰せられないときはいつも本性上残酷であるからにせよ、金持ちや権力者は他人の悲惨を彼等への非難とみるからにせよ、最後に彼等は不幸な人々のしつこい要求から免れたいからにせよ、確かに彼等はほとんどいつも悲惨な者を虐げる(k)。不幸な人を見ることは、大部分の人に対して、メデューサの頭の効果をつくりだす。その光景で、心は岩に変わるのである。

 さらに友情に無関心の者もいる。自分自身で十分な者である(l)。自分の中に幸福を求めることに慣れ、またそのうえあまりに啓蒙されていて欺かれる快を味わえないので、彼等は人々の邪悪さについての幸せな無知を保てない。(この貴重な無知が、ごく若いときには、友情の絆をとても強く結ばせる。)だから彼等はこの感情の魅力をほとんど感じないが、それをうけいれられないわけではない。おおいに才気ある一女性が言ったように、「彼等はしばしば、感受性のない人というより、欺かれ〔て懲り〕た人々なのです」。

 述べられたことからの帰結として、友情の力は常に人々が互いに対して持つ必要〔欲求〕に釣り合っている(m)。またこの必要は時代、習俗、統治形態、条件および性格の違いにしたがって異なる。しかし友情が常に必要〔欲求〕を前提するとしても、それは少なくとも身体的欲求〔物理的必要〕ではない、と言われよう。友とは何か。私達が選ぶ親族である。友を望むのは、いわば彼の中で生きるため、私達の魂を彼の魂のなかに吐露するため、また信頼によって常に喜ばしくなる会話を享受するためである。それゆえこの情念は、苦痛への恐れにも身体的快への愛にも基づかない〔、などと言われるのだ。これに〕私は答えよう。しかし友との会話の魅力は何によるのか。そこで自分について語る快による。ひと財産できて恥ずかしからぬ身分になったらどうか。自分の財産、名誉、信用、評判を増やす手段について友と話し合う。貧しくなったらどうか。赤貧から抜け出す手段を、まさにこの友と探す。そして彼との会話によって、私達は少なくとも、不幸のなかでも、どうでもよい会話の退屈を免れる。それゆえ友に語るのはいつでも自分の苦または快についてである。ところで、前に証明したように、身体的快苦以外に真の快苦はない。またそれを得る手段は、快の実在を前提し、いわばその一帰結である希望の快にほかならない。そこからの帰結として、友情は、貪欲、自尊心、野心、および他の情念と同様に、身体的感性の直接の結果である。

 この真理の最後の証明のために、私がこれから示すのは、まさにこの快苦をもって、私達のなかのあらゆる情念をひきおこせるということである。またこうして感官の快苦があらゆる感情を生み出す芽であるということである。

 

【原注】

(a)人はいままで四苦八苦して、友のなかに、金のためにだけ愛するような欲得ずくの友情を数え入れてはならない、と次々に繰り返してきた。この種類の友情は、疑いなく、最も嬉しい友情ではない。それでもやはり本当の友情である。たとえば人は財務総監のなかに、彼が持つ世話をする力を愛する。彼等の大部分において、人々への愛は金への愛と同一視される。どうしてこの種の感情に友情の名が拒まれようか。誰かを愛するのはその人自身のためでなく、常にある原因のためである。そしてその原因はある他の原因と同じ価値を持つ。ある男がある女を愛するとしよう。彼が彼女において愛しているのは、その目あるいはその顔の美しさだけだから、彼は彼女を愛しているのではない、と言われようか。しかし富んだ男が赤貧に陥るとすぐに、彼が愛されることはなくなる、と言われよう。疑いなく然りである。しかしもしあばたが女を損なったら、ふつう彼女とは別れるが、この手切れは彼女が美しかったときには愛されなかった、ということを証明しない。最も信頼し、その魂、精神、性格を最も評価する友が、突然盲目で聾唖になるとしよう。私達は古くからの友が失われたことを、彼において惜しむであろう。私達はなおも彼の木乃伊を敬うであろう。しかし、事実においてはもはや彼を愛していないが、それは財務総監が愛したような男ではないからである。財務総監が寵をうしなったら、もう愛されない。彼は突然まさに盲目かつ聾唖になった友〔と同じ〕である。しかしながら金に飢えた人が自分にそれを得させるかもしれない者に対しておおいにやさしかったのはそれでもやはり本当である。この金への欲求を持つ者は誰でも財務総監の、またその地位を占める者の生まれながらの友である。彼の名は、生まれながらの地位に属する家具調度の発明者の中に記されているかもしれない。欲得ずくの友情に友情の名を拒むのは、虚栄心のためである。これに基づき私が観察するのは、友情に関しては、最も堅固で最も持続的なのはふつう有徳な者たちの友情である。しかしながら悪徳もまた友情を持ち得る。認めざるを得ないように友情が二人の人間を結び付ける感情にほかならないならば、悪人の間に友情はないと主張するのは最も正統的な事実を否むことである。たとえば二人の共犯者は、最も強い友情で結ばれることを疑い得ようか。ジャフィエ1)は将軍ジャック・ピエールを愛さなかったであろうか。オクタウィアヌス〔アウグストゥス〕は、確かに有徳な人ではなかったが、確かに弱い魂しか持たなかったマエケナスを愛さなかったであろうか。友情の強さが計られるのは、二の友の誠実さにではなく、二人を結びつける利害の強さに基づいてである。

(b)二人の友が出会うことになる環境が二度与えられ、また彼等の性格が知られており、もし二人が仲たがいするなら、おおいに才気ある人が、この二人が互いに有用であることをやめる瞬間を指示して、その決裂の時を、天文学者が蝕の時を計算するように計算できることを、誰も疑わない。

(c)友情と、習慣の絆、公然の友情に対して抱かれる評価すべき敬意を、また最後に、私達が友人と呼ばれる人々と生き続けさせる、社会に有用なあの幸せな名誉にかかわる点を、混同してはならない。最も強い感情を友人のために受けた人は、彼等にちょうど同じ奉仕をするであろう。しかし、事実において、彼等がいまいることはもはや必要ではなく、人はもはや彼等を愛していないのである。

(d)友情は、若干の人々の主張とは違い、やさしさの永続的な感情ではないが、なぜなら人々はまったく長続きしないからである。最もやさしい友人間にも、冷たいときがある。それゆえ友情とは、やさしさと冷たさの感情とのたえざる継続で、冷たさがとても稀なものである。

(e)これについて敢てはっきりした観念を与えるためには、勇気が、そして友情を持ち得る自己自体が、たぶん必要である。少なくとも自らに抗して友情の偽を取り除くことを確信している。自分の手柄を常に語る臆病者のような種類の人々がそうである。自分が友情を持ち得ると言う者は、ルキアノスの『トクサリス』2)を読むがいい。友情がスキュタイ人やギリシャ人に実行させた行為を自分がとれるかどうか、自問するがよい。本気で自らに問うならば、今の時代には、この種の友情は観念さえ持たれていないことを認めるであろう。だから、スキュタイ人やギリシャ人においては、友情は徳の列に入れられていた。一人のスキュタイ人は二人以上の友を持つことはできなかった。しかし彼等を救うためには、すべてを企てる権利があった。友情の名の下に、部分的に、彼等を活気づけたのは評価への愛であった。友情だけではそんなに勇敢にならなかったであろう。

(f)「勇敢な人」は当時「紳士」と同義語であった。忠誠心ある誠実な人を表すのに今でも「勇士」と言われるのはこの古義の名残による。

(g)今の時代では、友情はほとんどどんな長所も要求しない。無数の人々が、世間でひとかどのものであるために真の友と自称している。何もしなくてよいという退屈から逃れるために、他人の仕事の陳腐な請願者になる者がいる。奉仕をするが、退屈の代価と自由の喪失を恩人に支払わせる者もいる。最後に、預かりものの確実な守り手となり金庫番の徳を持っているから友情にとても値すると自ら恃む者もいる。

(h)ことわざが言うが、だからたくさん友がいると口にし、ほとんどいないと信じる必要がある。

(i)アリストテレスによれば、各人は友がいないと繰り返す。そして個々人は、自分がよい友であると主張する。友情に関してこんなに矛盾したこの二つの命題を言い張るには、偽善者と自分自身に無知な者が多くいるに違いない。この後者は、既に述べたように、この章の若干の命題に反対して立ち上がるであろう。私は自分に反対する彼等の抗議を受けるであろう。そして残念ながら、自分に賛成する経験を持つであろう。

(k)彼が少しでも過てば、すべての助けを拒むのに十分な口実である。不幸な人々が完全であることが望まれるのである。

(l)これにあてはまる人はきわめて少ない。また自分自身で満足するというこの能力は、神の属性の一つとされ、神においては敬わざるを得ないが、人間において出会われると常に悪徳の列に入れられる。このようにしてある名目では称賛されるものが他の名目では非難される。フォントネル氏は、自足するという、すなわち人々のなかで最も賢く最も幸せであるという、彼が持つこの能力を、無感覚という名目で何度非難されたことか。

 マダガスカルのお偉方は、自分達より多数の兵隊を持つ近隣の豪族に戦争を行うとき、常に次の言葉を繰り返す。「奴等は我等より豊かで幸せな敵だ」。彼等に倣って、大部分の人は賢者に対して同様に戦争を行うと確言できる。彼等は賢者が節度ある性格を持ち欲望を所有に切り詰めることで、彼等のふるまいの批判となっていることを憎む。賢者を彼等から超越させる、その独立性をすべての悪徳の芽とみなす。自分たちのなかでは、人間愛の源は相互的必要の水源と同時に枯れてしまうであろうと感じているからである。

 しかしながらこうした賢者は社会にはとても大切であるに違いない。極度の賢明さによって彼等がときおり個人的な友情には無関心になるとしても、サン=ピエール師とフォントネルの例が証明しているように、彼等の知恵は、激しい情念によって私達が一個人に集中せざるを得ないやさしさの感情を、人類に広げさせる。騙されているからだけ善良〔お人よし〕であり精神が啓蒙されるにつれて善良さが減っていくような人々とは違い、賢者だけが変わらずに善良であるが、なぜなら賢者だけが人々をよく知っているからである。人々の邪悪さは賢者をいらだたせない。彼等のなかに、デモクリトスのように、愚か者またはこどもだけをみるからであり、彼等に対して腹を立てるなら滑稽であり、怒りよりも哀れみに値するというのである。要するに、技師が機械を見る目で彼等を考察する。人間愛を侮辱することなく、ある人が他の人を滅ぼして自己保存に執着する自然を嘆く。自然は、自らを養うために、鳩にとびかかること鷹に命じ、虫を貪り食うことを鳩に命じ、各々の生物を暗殺者にしたのである。

 法律だけがむら気のない裁判官であるならば、賢者はこの点で、法律に比べられる。その無関心は常に正しく、常に不偏である。友への大き過ぎる欲求が常にいくぶんかの不正を必要とするのに比べて、それは要路にある人間の最大の美徳の一つと考えられなければならない。

要するに、賢者だけが寛大であるが、なぜなら独立しているからである。互いの有用性で絆を結ぶ者は、互いに対して気前よくはなれない。友情は交換であり、独立だけが贈与である。

(m)もしも友を彼自身のために愛するのであれば、彼の安楽以外のことは考えないであろう。彼が会いに来ず手紙も書かない時間を非難しないであろう。〔自分に時間を使うより〕明らかに楽しく過ぎしているのだ、と言うであろう。そして彼の幸福を祝福するであろう。〔しかしそんなことはない。〕

 

【訳注】

1)    ジャフィエ(Jaffier)は不詳。

ルキアノス(Loukianos,c,120-c.195)はギリシャの文芸家。宗教・政治・社会の愚昧や悪徳への風刺が持ち味。『トクサリス』は、ルキアーノス『神々の対話』呉・山田訳、岩波文庫、1953、に和訳所収。



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2021/06/15 16:51 2021/06/15 16:51
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