精神論〔1758年〕
エルヴェシウス著・仲島陽一訳
第二部
第15章 いままでの章で確立された原理の認識は
道徳学にどのような効用があり得るか
道徳学がいままで人類の幸福にほとんど寄与しなかったのは、巧みな表現や多くの雄弁や正確さがあっても、モラリストたちがそこに精神の深さや魂の高揚をあまり結び付けなかったからではない。これらのモラリストがどんなにすぐれていたとしても、むしろ認めなければならないのは、彼等が諸国民のいろいろな悪徳を、そのいろいろな統治形態に必然的に依存するものとして十分にみなさなかったということである。しかしながら道徳学が人々に本当に有益になり得るのは、この観点で考察するときだけである。今日まで、道徳学の最も見事な格律は何を生み出したか。けだし自ら非難する欠点をもった若干の個人を矯正したではあろう。それ以外では、諸国民の習俗にどんな変化も生み出さなかった。何がその原因か。一民族の悪徳は、敢て言えば、その立法の根底に常に隠れていることである。その悪徳を生む根を引き抜くためには、そこをこそえぐらなければならない。それを企てるのに必要な知識も勇気も備えない者は、この分野では、世界にほとんどどんな有用性もない。一民族の立法に付着した悪徳を、この立法にどんな変化も与えないで破壊しようとするのは、不可能事をなすとうぬぼれることである。原理が認められているのにその正しい帰結を拒むことである。
女性の嘘に反対する多くの雄弁があるか、もしこの悪徳が、法律と上品さとによって女性が装わざるを得ない感情と、自然からの欲望との間の矛盾の必然的結果であるならば、何を期待するのか。マラバル1)において、マダガスカルで、すべての女性が正直なのは、そこでは自分の気まぐれすべてを醜聞なしに満たすからであり、無数の色男を持っていて、何度も試みた後に一人の夫の選択を決意するからである。ニューオーリンズの未開人たちも同様であるが、その諸民族は、太陽の親戚の女性や血の王女たちは、自分の夫がいやになったときは、離婚して別の夫と結婚できるのである。これらの国では嘘つき女はみられないが、なぜならそうであることにどんな利害関心も持たないからである。
私はこれらの例から、同じ習俗を私達のところへも導入すべきだと結論するつもりはない2)。上品さと法律のためにいわば必要とされる嘘のために女性を非難するのは不合理であり、要するに原因を存続させておいては結果は変わらない、ということを言っているだけである。
悪口を第二の例としよう。悪口は疑いなく、悪徳の一つである。しかしそれは必然的な悪徳である。なぜなら、公民が公事の管理にまったく与らないすべての国では、彼等は学ぶことにほとんど利害関心を持たないので、恥ずべき怠惰に浸らざるを得ない。ところでもしその国で、社交界に身を投ずることが流行と習慣であり、そこでおおいに語るのが格好いいならば、無知な人は、事柄について語れないので、必然的に人物について語らざるを得ない。賛辞はすべて退屈であり、風刺はすべて快い。退屈だと非難されたくないので、それゆえ無知な人は悪口屋にならざるを得ない。それゆえこの悪徳は、それを生み出す原因を滅ぼさずに、公民を怠惰からひきださずに、したがってまた政体を変えずに破壊することはできない。
なぜ才人はふつう社交界の人よりも、個別的社会において中傷家でないのか。なぜなら才人はより大きな対象に専心していて、一般に人々について語るのは、それが偉大であるときのように、大きな事柄に直接の関係を持つ限りにおいてだからである。才人は復讐のためにしか悪口を言わず、悪口はきわめて稀であるからであるが、逆に社交界の人は、語るためにはほとんど常に悪口を言わざるを得ないからである。
悪口について言ったことを、私は放蕩について言うが、これに対してはモラリストたちが常にとても激しく荒れ狂ったものである。放蕩は贅沢の必然的帰結であることがあまりに一般的に認められているので、私は立ち止まってそれを証明することはしない。ところでもし贅沢が、私はまったくそう考えるものではないが、しかしふつうに考えられているように、国家にきわめて有用であるならばどうか。もし容易に示されるように、贅沢への好みを押し潰し、公民たちに贅沢禁止令を実行させることが、政体を変えずにはできないならば、それゆえ、放蕩へのこの好みを消すことができるだろうと思えるのは、この〔政治の〕分野でなんらかの変革がなされた後でしかあるまい。
この件に関する弁論はみな、政治的でなく神学的には結構である。政治と立法がもくろむ目的は、権勢と、諸民族の一時的幸福である。ところで、この目的に関連してもし贅沢が本当に国家で有用であるならば、贅沢への好みと両立できない厳格な習俗を導入しようとしても滑稽であろう、と言いたい。あるがままの国家に、通商と贅沢とがもたらす利点(そこから放蕩を追放するためにはあきらめなければならないであろう利点)と、女性への愛がひきおこす無限に小さな悪との間ではまったく釣り合いがとれない。豊かな鉱脈の中で、金脈に混じった若干の銅の薄片があるのを嘆くようなものである。贅沢が必然であるところではどこでも、色事を道徳的悪徳とみなすのは政治的不都合である。またもしそれを悪徳と呼び続けたいとしても、それが若干の時代や若干の国には有用であることを、そしてエジプトが肥沃であるのはナイルの泥のおかげであることを、認めなければならない。
実際、浮気女のふるまいを政治的に検討してみてほしい。若干の点では非難すべきではあるが、他の点では公衆にきわめて有用であることがわかるであろう。たとえばその冨をふつう、最も貞淑な女性たちよりも国家に有利な使い方をする。浮気女をリボン屋、生地屋、流行服屋に導く、気に入られたいという欲望は、贅沢禁止令の実行によって追い込まれた貧窮から、無数の職人を救い出すだけでなく、最も啓発された慈愛の行為を吹き込みもする。贅沢が一国民に有用であるという前提においては、贅沢品つくりの職人の精勤をひきおこして、彼等を日々国家に有用にするのは、浮気女たちではないのか。貞淑な女性たちは、乞食や犯罪者たちに金をばらまいて、それゆえ、浮気女が気に入られたいという欲望と動機による程度と比べて、その指導者〔僧侶〕からうまく導かれているとは言えない3)。浮気女は有用な公民たちを養っている。しかして貞淑な女性たちは、無用な人々を、あるいはこの国民の敵をさえ養っている。
私がいま言ったことから帰結するのは、立法における変化の後にしか、一民族の観念において何か変化させられると思ってはならない、ということである。習俗の改革を始めなければならないのは法律の改革からであり、ある政府の現形態において有用な悪徳に対する論難は、政治的には、空虚なものでないならば有害なものであろう、ということである。しかし一国民の大部分は法律の力によってしか動かされないので、この論難は常に虚しいであろう。さらに、ついでに観察することを許されたいが、モラリストのなかでは、私達の情念を相互に対抗させることで、自分達の意見を採用させるために情念を有用に使うすべを知っている者はごく少ない。彼等の勧告の大部分はあまりに侮辱的である。しかしながら彼等が感じざるを得まいことは、侮辱は、利点があっても感情に対抗して戦えないことである。ある感情にうちかつのは〔他の〕感情であることである。たとえば浮気女に、公衆に対しもっと慎んで控え目にさせるためには、その媚態に対して虚栄心を対置しなければならないことを。羞恥心は恋愛と洗練された快楽との発明である(a)のを感じさせなければならないことを。世界の楽しみの大部分は、まさにこの羞恥心が女性の美しさを覆っている薄布のおかげであることを。マラバルでは、快い若者たちは集会に半裸で現れ、アメリカのいくつかの地域では、女性たちが覆いをかぶらず男性の視線に身をさらすが、そういうところでは、欲望は好奇心のために生き生きと伝わるものをすっかり失ってしまうことを。これらの国では、堕落した美は欲求としか関係を持たないことを。反対に、羞恥心が欲望と裸体の間にヴェールをかける民族においては、この神秘的な覆いが男をその恋する女にひざまづかせる魔術となることを。要するに、美女の弱い手に、強者に命令する杖を与えるのは羞恥心であることを。彼等は浮気女に言うであろう、不幸な人は多数であることをさらに知れ、と。幸せな人の生まれながらの敵である不運な人々は、幸福をその人の犯罪とすることを。自分たちとはあまりに無縁の幸福を憎むことを。あなた方の娯楽の光景は彼等の目からは遠ざけなければならないものであることを。そしてみだらにすれば、あなた方の快楽の秘密が暴かれ、彼等の復讐の標的にされる、と。
こうして、モラリストたちがこの格律を採用させることができるならば、それは侮辱の口調はやめて利害の言葉を使うことによってである。私はこの題目をこれ以上引き伸ばすまい。本題に戻ろう。そして人はみな自分の幸福だけをめざす、と言おう。この傾向を取り去ることはできないと。それを企てることは無駄で、それに成功することは危険であると。したがって、人々を有徳にできるのは、個人的利害を一般的利害に結びつけることによってだけであると。この原理が定立されると、道徳学は、政治学や立法と混じり合わされないなら、浮薄な学問でしかないことは明白である。ここから私が結論するのは、世界に有用であるためには、哲学者は対象を、立法者が眺める観点で考察しなければならない、ということである。同じ権力で武装されてはいないが、同じ精神で動かされなければならない。モラリストが法律を指示し、立法者が権力の印を押してその施行を保証するのである。
モラリストのなかで、この真理を十分強くつかんだ者は、疑いなくきわめて少ない。その精神が最も強い観念に達するようにつくられている人々の間でも、道徳学の研究と彼等が悪徳でつくる人物描写において、個人的利害と特殊な憎しみによってだけ動かされている者が多い。したがって彼等は、社会における不都合な悪徳の描写にしか専心しない。そして自分の利害の圏内に少しずつ閉じこもる彼等の精神は、偉大な観念にまで高まるのに必要な力をまもなく失ってしまう。道徳の学問では、精神の高揚はしばしば魂の高揚による。この分野で、人々を永遠に有用な真理を把握するためには、一般的福利への情念に燃えなければならない。そして不幸にも、宗教同様道徳でも、多くの偽善者がいる。
【原注】
(a) 有徳な人は、国民の面前でしてならないことは内面的にも何もしないと主張した、ストア派や犬儒派4)の議論に答えられるのは、羞恥心をこの観点で考察することによってである。彼等はこの結果愛の快楽に公然と身を委ねられると思ったのである。大部分の立法者がこれらの犬儒的原理を断罪し、羞恥心を徳に数え入れたのは、享楽の光景を頻繁にみせつけられると、種の保存と世界の持続に結びついている〔性的〕快楽に対してある種の嫌悪がひきおこされることを彼等が心配していたからだ、と答えられよう。しかも彼等は感じたのである、女性の魅力のいくつかを覆うことで、着衣のために、すべての美点が強い想像力で〔かえって〕美化され得ることを。この着衣が好奇心を刺激し、〔男性の〕やさしさをより快くし、〔女性の〕恩恵をより嬉しくさせ、最後に男性たちの不運な連中において快楽を増やすことを。リュクルゴス5)がスパルタからある種の羞恥心を追放し、娘たちが民族全体の前で、若いラケダイモン〔スパルタ〕の男たちと裸で戦ったのは、母親が、こうした訓練によってより強くなり、より丈夫なこどもを国家に与えることを望んだからである。裸の女を見る習慣が、その隠された美しさを知りたいという欲望を弱めるならば、この欲望は、夫がその妻の好意を秘かにまたこっそりとしか得られない〔スパルタのような〕国では特に消えることはないと彼は知っていた。しかもリュクルゴスは、恋を彼の立法の主要なばねの一つとし、それがスパルタ人の仕事ではなく報いとなることを望んでいた。
【訳注】
1) マラバルはインド南西部、アラビア海沿いの地方。前章注1)のコーチンはそこにある町。
2) 当時の風習としては未婚男女の交際は認められないこと、カトリックでは離婚できないことが考慮されるべきである。
3) 「貞淑な女性は苦しんでいる人々を助けており、浮気女は金持ちになりたい人々を助けている。贅沢品作りの職人の精勤をひきおこすことで、浮気女はそうした職人のなり手を増やす。その二・三人を富ませることでその身分を得ようとする二十人を生み出すが、彼等はそこで悲惨なままにとどまるだろう。無益な職に就く臣民を増やし、必要な職につく臣民を欠乏させる。」(Rousseau,notes sur <De l’esprit>, :Œuvres complètes,t.4,Gallinard,1969,p.1128.)贅沢の評価をめぐっては当時の論点の一つで「奢侈論」などと言われるが、ここには奢侈擁護派のエルヴェシウスと批判派のルソーとの対立がみられる。
4) 犬儒派(キュニコス派)は古代ギリシャの哲学者の一派。奇行で知られるディオゲネスなどがいる。自然に従うことを唱えた。本能を満たすことは恥ずべきことでないとして公然と行ったことが「犬のようだ」と言われたことが学派名の由来とする説もある。
5) リュクルゴスはスパルタ(古代ギリシャの都市国家の一つ)の伝説的な立法者。スパルタの立法に関する情報は主としてプルタルコス『対比列伝』のリュクルゴス篇によっている。