哲学と文芸(哲学の現在9)
仲島陽一
哲学は「学問」である必要はない、というのが私の考えである。では哲学と文芸ははたして、またどのように区別されるのか、という問題が生じる。文芸形式で表現される哲学があることは、ほとんどの哲学者が認めるであろう。モンテーニュやパスカルなどが実例である。この形式のためにこれらを「少なくとも哲学としては」低くみる哲学者もいるが、まったく哲学ではないとまでは言いにくいであろう。ところでモンテーニュやパスカルが(あるいはもっと古典的な例を挙げればプラトンやルクレティウスが)文芸であることをまったく否定することもしにくく、つまりこの区別は概念にかかわるものである。
そのうえで私の考えを言えば、哲学は文芸とは区別される。その理由は、哲学は著者の思想を述べるのが本質だからである。文芸の本質はそこにはない。著者の思想がわからなくても文芸として成り立つ。シェークスピアがどんな思想を抱いていたのか私達にはわからず、『イリアス』はホメロスという個人の思想表現であるとは考えられていない。それは前近代の文芸だけではない。バルザックは王党派であったそうだが、二、三の代表的傑作を読んでもそれはわからず、そんなことを気にしなくても十分楽しめる。徳田秋声の『新所帯』のような作品は、作者の思想とは無関係なところで成立している。また思想性が強い作家や作品でも、文芸作品である以上は、それだけをとりあげられるならば不本意であろう。トルストイでもドストエフスキーでも、文芸上の形式や工夫は、もっぱら「自分の思想」を表現するためのものではないはずである。
では文芸の目的は何か。自分の思想の表現である場合もある。それが文芸として成り立っているならば、その作品は哲学であるとともに文芸である(概念上の区別なので一つの作品が二つの領域に属していてもかまわない)。しかしそれは必要条件ではない。芸術一般と同様、感情の表現と伝達が本質であるというのが私の考えである。要するに一番広い意味で面白ければよいということである。この場合作者がおもしろければ、という側に力点があれば純文芸、読者がおもしろければ、という側に力点があれば大衆文芸となろうが、これももちろん概念上の区別であり、また意図についてであって結果についてではない。
ポストモダン「哲学」がこうした区別に否定的である理由は、二つの面から考えられるように思う。
一つは、それが実体としても主体としても「個人」に否定的であることである。現代文芸における「作者の死」に対応している。事実問題としてはもっともな面はある。「私以外私じゃないの」がゲスの極みでない根拠はどこにあるのか。事実問題でなく権利問題にあるのであり、道徳的な責任主体として(社会から要請されて)あるのである。文芸は道徳性を本質としない(不道徳でよいという意味ではないが詳述は省く)。シェークスピアでの評価対象は倫理でなく技術である。バンクシーがある作品を「自分の」ものと認めるかどうか不明にしたり、鑑賞者が素人の落書きに最高の感動を受けたりしても、かまわない。自己主張を否認する現代哲学者は、同様に面白ければよいと考えているのであり、面白いものを書いた「技術」を評価されればよいとしているのである。哲学は知的なお遊びの一つであり、倫理的責任をとるようなものでないということである。
もう一つは、それが概念を嫌うことである。文芸にとって概念は本質でない。論理でなく修辞で言葉を運ぶことができる。概念の本質は同一性であり、これをポストモダンは敵視する。確かに差異なき同一性はない。そして西洋伝統哲学が「同一」面に固執したことを免罪符のようにして、ポストモダンは逆に「差異」や「他者」に一面的に固執する。構造言語学の評語「言語の中には差異しかない」は修辞としては気の利いた逆説だが、論理としては一面的であろう。そしてここでも「人権」や「男女平等」を考えればわかるように、「同一性」を決めるのは事実問題というより倫理的観点である。すべてを「差異の戯れ(遊び)」とするのは没倫理的観点であり、面白いかどうかは倫理的価値でなく自然的な快苦の問題である。そして両者を区別せず自然的快苦の一元論だと「勝てば官軍」になる。