精神論[1 7 5 8 年]
エルヴェシウス著・仲島陽一訳
第二部 第 1 6 章 偽善的なモラリストについて
と悪税の廃止とを。
公共の福利への愛はこのようなやり方で表れる。私はこのような監察官〔気取りのモラリスト〕に言おう。もし本当にこの情念に動かされているのなら、各々の悪徳へのあなたの憎しみは、それが国家に与える禍に釣り合っている。自分を害する欠点にだけ強く感じるなら、あなたは道学者〔モラリスト〕の名を簒奪しているのであり、利己主義者〔エゴイスト〕に過ぎない。
それゆえ、モラリストが祖国に有用になれるのは、自分の個人的利害からまったく離れて、立法の学問を深く研究することによってである。そのとき彼は、ある法や慣習の利点と不都合とを計り、それが廃止されるべきか存置されるべきかを判断することができる。人はあまりにしばしば、悪弊や野蛮な習慣にさえふけることを余儀なくされる。ヨーロッパでこんなに長く決闘が許されたのは〔古代〕ローマとは違って祖国への愛に動かされず、勇気はたえざる戦争によってしか発揮されない諸国では、モラリストはたぶん、公民の心中に勇気を保ち国家に勇敢な守り手を供給する他の手段を思いつかなかったからであろう。こうしたお目こぼしによって、小さな悪を代価に大きな善を買えると思い込んだのである。彼等は決闘という個別的事例において誤っていた。しかしこの選択に帰する他の無数の誤りがある。天才が見分けられるのは、しばしば二つの悪の間でなされる選択においてだけである。完全性の偽りの観念を誇るあの衒学者すべてから遠ざかろう。国家においては、小さな範囲の観念に集中し、自分の愛人に言われることをたえず繰り返す、才気のないあの不平屋のモラリストたちが、欲望を慎むように絶えず勧め、万人の胸中から情念を滅ぼそうとすることほど、危険なことは何もない。ある環境におかれた若干の個人には有用な彼等の教訓が、それを採用する諸国民を破滅させるであろうことを、彼等
は感じ取らないのである。
実際もし、歴史が教えるように、ギリシャ人やローマ人における自尊心と祖国愛、アラブ人における狂信、カリブの海賊の貪欲、のように強い情念が、最も恐るべき戦士を常に生むならば、こうした戦士に情念のない者しか向けない者はみな、怒り狂った狼に臆病な子羊でだけ対抗することになろう。だから賢明な自然は、人間の胸中に、こうした哲学者たちの理屈に対する予防策をしまっておいた。だから諸国民は、意図においてはこれらの教訓に従っても、事実においては常に不従順であることになる。こうした巧みな不従順がなく、彼等の格律を細心に順守する民族は、他の諸民族から侮られてその奴隷となるであろう。
情念の火をどの点まで掻き立てたり鎮めたりすべきかを決めるためには、政府のあらゆる部分を包括するあの広大な精神が必要である。それが与えられている者はみな、立法者の傍らで顧問官(a)を務め、「才人はただの公民ではなく真の行政官である」というキケロの言葉を正当化するために、
いわば自然によって割り当てられている。
道徳学についてより広範でより健全な諸観念が世界に提供する利点を示す前に、ついでに注目できると私が思うのは、まさにこれらの観念があらゆる学問と、その進歩が道徳学の進歩であると同時に原因である歴史学に対しても、限りない光明を与えるであろう、ということである。歴史の真の対象についてより学べば、そのとき著作家たちは、ある王の私生活については、彼の性格を生み出すのに適した細部しか描かないであろう。彼の品行、彼の家庭的な徳と悪徳を、もはやそんなに物見高く描かないであろう。彼等は感じ取るであろう。公衆が君主に求めるのは、彼の夕食でなく彼の勅令についての説明であることを。公衆が統治する人間を知りたいのは、その人間が統治に参与する限りにおいであることを。そしてこどもっぽい挿話に替えて、教えかつ楽しませるために彼等が描くべきなのは、公衆の至福の快い光景か、彼等の悲惨の恐ろしい光景、そしてそれらを生み出した原因なのである、と。この光景を単に提示するおかげでこそ、無数の有用な反省や改良が得られよう。
歴史について私が言ったことは、形而上学、立法についても言える。道徳学とまったく関係を持たない学問はほとんどない。それらすべてを結びつける鎖は思っている以上に広い。すべてが世界では支えあっている。
【原注】
(a) 中国では二種類の役人が区別される。引見と署名を行う長官がいる。他方顧問官の名を持つ者。彼等は企画をつくり、示された企画を検討し、また行政においてなされることの時と状況が求める変更を提案することの配慮を、課されている。
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