認識論とイデオロギー論(哲学の現在 1 0)
仲島陽一
科学的真理は客観的認識である、というのが私の立場であった。それを一切否定する懐疑主義や実用主義と異なるのはもとより、社会構築主義やパラダイム論などとも違い、それも主観的ないし社会的な価値づけによるものとはみなさない。とはいえ、認識内容でなく認識活動として科学をみたとき、誤りを生む要因としては人間の価値観がかかわる。特に、個々の科学上の認識というより大きな枠組みにおける誤りは、単純な不注意で間違えたというより、社会的価値観(イデオロギー)による歪みが大きい。先学期に受講した放送授業「生物の進化と多様性」で学んだことも含めて、進化論で例示しよう。
そもそも進化論は Ch.ダーウィンが 1 8 5 9 年に初めて提唱したのでなく、古代ギリシャからあった。ではそれがなかなか受け入れられなかったのはなぜか。科学内の理由と科学外の理由を挙げられる。進化は素朴な観察では認められない(「大進化」に関しては現在もそうである)ことが前者である。これに対して後者は、進化を認めると結局は人間もその産物であることに導くが、これは人間に他の生物との(特殊性にとどまらない)特権性を認めたいという価値観にぶつかることが大きい。1 9 世紀後半以降の科学者は上の二つの障害を乗り越えて進化を客観的真理と認めた。しかし進化の要因としてダーウィンが提出したもののうち「自然選択」を認めても「性選択」はなかなか受け入れなかった。その理由も二つの面があり、当時「性選択」は観察事実というより擬人的説明と思われた(人間行動さえ機械論的に説明しようとする方向性への逆流となった)のが科学内的な理由である。(自然「選択」の場合と違い、この「選択」は比喩ではない。しかし現在では観察も実証もある、長谷川眞理子氏の著書などに詳しい。)だがもう一つ、科学外的な理由として、「選択」があるとしてもそれは雄からのものであるはずで、雌が主な主体となるこの観念は受け入れがたいとする「ジェンダーバイア
ス」のためと言われる。
また 2 0 世紀半ば以降明らかになったのは、進化の出発点である突然変異は、生存に有利でも不利でもない「中立的」なものが最も多いということであった。進化は目的論的に起こるものではないのだから、まずは進化という結果につながるかどうか無関係な変異が多い、というのは考えれば当然のことである。しかしそれが百年間考えられなかったのは、生物の世界は闘いであり、よって「勝敗・優劣」がなにより重要だ、という二項対立の枠組にとらわれていたのである。今日では進化は「勝利・優越」へのゲームである以上に、多様化への道ととらえられる。男女平等や多様性が価値づけられるようになった「から」か。いやそれは、穿った、しかし誤った論理である。いくら科学者がそのような価値観を
持っても、対象世界に性選択や中立進化が実在しなければそれを理論化できない。彼等はそれを発見するのであって構築するのではない。男尊女卑や優勝劣敗の価値観は、真理の発見を妨げたり科学者の世界像を歪めたりするという意味で、認識過程としての科学に影響する。逆に言えばしかし、まさにこうした価値的偏りを排除することによって、価値自由な客観的な認識内容として、科学的真理は成立する。百歩譲ってゆるい言い方をすれば、科学とは、より客観的で脱中心化した認識への過程である。この過程には知識の量的増大だけでなく、質的発展もあるが、それは各時代の科学者たちの主観的な選好による、通約不能な「枠組み」の決定のようなものではない。
ついでにもう一つ触れれば、性選択・突然変異・中立進化といった 1 9世紀の主流科学者が認めなかった現象の位置づけは、進化における偶然性を深刻にうけとめることを強いるものである。概して西洋思想は必然性を重視する傾向があり、それが「合理主義」に有利に働いたと言えようが、そこには非合理的な「合理信仰」の要素もあろう。特に 1 9 世紀は、社会理論を含めて「必然性」を過度に前提した面(いわば「決定論」イデオロギー)があるように思われる。
当事者やまわりが「科学」であると思っていてもそうでない場合があり、その大きな要因として、その時代には「自明」「自然」「健全」などと思われるイデオロギーがある。科学はそうした主観的価値から自由な認識を追求する過程である。科学的真理の内容そのものは、イデオロギーと区別される客観的な認識である
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