床屋道話54 黒柳徹子
二言居士
長寿テレビ番組「世界ふしぎ発見」の回答者の一人である。小生より年長の者は、概して彼女に感心する。よく正解する、賢い、というほかによく勉強するということでも。しかし年下の世代(1960年代以降生まれ)ではそういういわば素直な賛嘆はあまり出ず、むしろ冷ややかな声が聞こえる。「東大枠」「インテリ枠」などで選ばれているクイズ番組ではないのだから、わからぬことはわからぬでしゃかりきに当てようとしなくても、適当にボケておけばいいのではないか、と。
「徹子の部屋」はさらに長寿のトーク番組である。すぐれた聞き手ゆえだ、と思っている者も年長者には多いようだ。これも若手の受け止めとは異なる。この十年くらい、これをネタにしたパロディがもはやベタであることが示している。そこではキャラ「徹子」がゲストに、「あなたが〇〇さんと一緒に××したとき△△になって困ったという話をしてくださらない」などとふって、「いや全部言われちゃったし」とゲストがこける。よく調べておくことはいいが、自分の予定通りに進めたがりすぎることや、ゲストが「想定外」の反応をしてもそれに対応する気がほとんどみえないことなどへのいらだちか感じられる。
こうした世代差は何を意味しているのか。実は小生は、1980年代の日本に重大な精神的変動があったと考えている。それに気づいている者と言えるのは、山藤章二である(『ヘタウマ文化論』岩波新書、2013)。この転換は、一つの言い方としては、「まじめ」に「努力」して「正解」や「上達」を得ることを野暮とする価値観の台頭である。70年代にみんなが感動したスポコン漫画や熱血学園ドラマが笑いのネタになったことにも表れている。これはそうした価値観にどっぷりつかった人々からすれば「堕落した」とも感じられよう。しかしそう単純ではない。というのは、「堕落した」面もまったくないことはないのだが、それを本質とみなせるほど、いわんやそれに尽きると片づけられるほど「単純ではない」ということである。よってこの小文で論じきれるものではないが、一つだけ言っておこう。これは新傾向ではあるが、実は日本精神において何度か現れたものへの回帰でもあり、ある意味での成熟の表れでもある、ということを。
「徹子問題」では正反対とも見える角度からのものもある。彼女の「自由さ」への評価であり、これはベストセラー『窓際のトットちゃん』の好評とも重なる。ただし新世代には素直にウケたり解放感を得たりはしにくい。たとえば王貞治とのインタヴューで、左打者は打ったら三塁に走ったら、と聞いたのは有名だ。「自由な発想」ではあろうが、スポーツはルールがあってのおもしろさだ。世の中自体もそうだが、ルールをよく知ったうえでそれを裏返してみるような視点を出すことは愉快であったり痛快であったりするが、単なる無知からくるボケた発言では興が醒める。(むしろ左打者が一塁に走るには有利であることは野球ファンなら誰でも知っている)。確かに世の中には理不尽な「ルール」もあり、たとえ「障害」による無知からくるものだとしても、それ(特に「暗黙の」ルール)に疑問を持ったり別行動をとったりすることも許される、というのは望ましい進歩ではあろう。しかし今日は次の段階にきているのではなかろうか。いや確かに、問題にされなければならない古い無理解や差別もいまだにある。それでもたとえば「障碍者」といえば、ハンディに負けず頑張っているといった紋切り型の美談や感動の押し売り、はやめてくれ、などと当事者側から大きく言われるようになった。障碍者にもこずるい者やだらしない者などもいるのを「ふつう」のこととして受け止めたうえで共生の道を広げてくれ、と言われる。これも一種の「成熟」ではあるまいか。
この文は、黒柳徹子が偉くないとかつまらないとか言いたいのではない。彼女への評価が変わったことが、単に若い世代が彼女の「偉さ」に無知であるとか彼等自身の人間性が低下したからではなく、そこにかなり大きな意識変化があることが理由として認められるのではないか、という考えの表明である。
◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓