科学の擁護:哲学の現在13
仲島陽一
哲学は科学ではない、と私は主張した。これは、客観的真理の追求ということを哲学の本質や定義とはみなさない、ということを意味する。他方で私は、科学が客観的真理の認識であると認める。これは「哲学者」は必ずしも認めない。特に「現代哲学」がそうで、科学も哲学ないし形而上学の一種、あるいはその派生物のようにみる者が少なくない。私が反対するそうした主張全体をここでは扱えないが、現代物理学そのものから、客観的真理の認識という科学の伝統的理解を否定する議論も出た。というより私としては驚きだが、いまだにあるようだ。そのことをとりあげたい。
代表は、量子論における「観測問題」からのものである。素粒子など、いわゆるミクロの対象は、位置を確定しようとすると運動量が、逆に運動量を確定しようとすると位置が不確定になる。ここからそのような対象を「客観的実在」とみなしてよいかという問題が生じる(並木美喜雄『量子力学入門』岩波新書、1992、54頁。専門の科学者による入門書でかつ「観測問題」にこだわった本である)。つまりそれは主観の関与があるということであり、そもそも科学が「客観的実在」の認識であるという観念が現代科学そのもので破綻したという哲学者が現れた。日本の有名な哲学者としては、西田幾多郎の後継者とも言われた京都学派の田辺元などがはやい例である。むろんこれは専門家の批判を受けた。これも日本の早い例を挙げれば、湯川や朝永とともにわが国の現代物理学のパイオニアである坂田昌一などが挙げられる(「量子力学の解釈をめぐって」『科学(29-12)』岩波書店、1959、など)。要点は、この際の「観測」というのは単なる主観の働きでなく、客観的かつマクロの実在である観測装置を用いること、また肉眼で見えない対象を「みる」には光などを当てる、すなわちエネルギーを与えるので対象のあり方を変えてしまうこと、また位置と運動量を「同時に確定」はできないがその粒子の状態は客観的に(たとえば波動方程式で)示されこと、などがかかわっている。
量子論では素粒子の位置が確率的に示される。古典理論では確率は大量の事象に使われるもので、一つの粒子が特定の時間に特定の場所にある確率が何割だ、ということは客観的にはない。そこでアインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない」と言って量子論的確率論に反対した。かのアインシュタインでさえ反対するほどだ、ということで現代「科学」の混沌、あるいは「客観的真理の認識としての科学」そのものの否定に持っていきたい者がいるようである。討幕の英雄西郷隆盛が新政府への抵抗勢力になったように(?)、すぐれた科学者が新たな科学革命に抵抗することがあっても、それは科学者の問題であって科学の(破綻と言った)問題ではない。アインシュタインの問題は今日までの量子力学で解決されている(並木、前掲書、191頁)。さらに注目すべきは、このアインシュタインの言葉から、彼の反対理由が科学そのものからでなく彼の哲学(科学的基盤のない哲学すなわち形而上学)からきているのがわかることである。私は以前ダーウィンについて、彼の中の「科学者」と「形而上学者」の齟齬を指摘した(「共感論からダーウィンを読む」『国際地域学研究』第22号、東洋大学国際学部、2019)。同様なことがアインシュタインにも言える。古典的因果律が階層の異なる領域にも妥当する普遍法則だと思い込んだのが、彼における形而上学だったのである。
量子論研究の科学者自身のなかにも混乱はあった。ノイマンとウィグナーは、量子現象に人間の「意識」を導入した。これも並木氏によれは、彼等の理論がミクロとマクロの階層性を「区別なしに」適用するこだわりによる。この理論は「間違った方向の迷路に踏み込んでしまった」のであり、「破綻」していると彼は言う(前掲書、164-168、また坂田昌一、前掲書、4頁など)が、これが現代の大方の科学者の意見のようでもある。後者は単にそれを無視するが、並木氏がウィゲナーに「人間存在に単なる自然現象を超えるような意義を与えたいという思いがあるようだ」とさらに指摘しているのは興味深い。
この「思い」自体は了解できるし哲学としては不当でない。しかし主観を事実認識に持ち込むと、観念論哲学や形而上学になり、科学の科学性の否定という誤りを導く。
仲島陽一
哲学は科学ではない、と私は主張した。これは、客観的真理の追求ということを哲学の本質や定義とはみなさない、ということを意味する。他方で私は、科学が客観的真理の認識であると認める。これは「哲学者」は必ずしも認めない。特に「現代哲学」がそうで、科学も哲学ないし形而上学の一種、あるいはその派生物のようにみる者が少なくない。私が反対するそうした主張全体をここでは扱えないが、現代物理学そのものから、客観的真理の認識という科学の伝統的理解を否定する議論も出た。というより私としては驚きだが、いまだにあるようだ。そのことをとりあげたい。
代表は、量子論における「観測問題」からのものである。素粒子など、いわゆるミクロの対象は、位置を確定しようとすると運動量が、逆に運動量を確定しようとすると位置が不確定になる。ここからそのような対象を「客観的実在」とみなしてよいかという問題が生じる(並木美喜雄『量子力学入門』岩波新書、1992、54頁。専門の科学者による入門書でかつ「観測問題」にこだわった本である)。つまりそれは主観の関与があるということであり、そもそも科学が「客観的実在」の認識であるという観念が現代科学そのもので破綻したという哲学者が現れた。日本の有名な哲学者としては、西田幾多郎の後継者とも言われた京都学派の田辺元などがはやい例である。むろんこれは専門家の批判を受けた。これも日本の早い例を挙げれば、湯川や朝永とともにわが国の現代物理学のパイオニアである坂田昌一などが挙げられる(「量子力学の解釈をめぐって」『科学(29-12)』岩波書店、1959、など)。要点は、この際の「観測」というのは単なる主観の働きでなく、客観的かつマクロの実在である観測装置を用いること、また肉眼で見えない対象を「みる」には光などを当てる、すなわちエネルギーを与えるので対象のあり方を変えてしまうこと、また位置と運動量を「同時に確定」はできないがその粒子の状態は客観的に(たとえば波動方程式で)示されこと、などがかかわっている。
量子論では素粒子の位置が確率的に示される。古典理論では確率は大量の事象に使われるもので、一つの粒子が特定の時間に特定の場所にある確率が何割だ、ということは客観的にはない。そこでアインシュタインは「神はサイコロ遊びをしない」と言って量子論的確率論に反対した。かのアインシュタインでさえ反対するほどだ、ということで現代「科学」の混沌、あるいは「客観的真理の認識としての科学」そのものの否定に持っていきたい者がいるようである。討幕の英雄西郷隆盛が新政府への抵抗勢力になったように(?)、すぐれた科学者が新たな科学革命に抵抗することがあっても、それは科学者の問題であって科学の(破綻と言った)問題ではない。アインシュタインの問題は今日までの量子力学で解決されている(並木、前掲書、191頁)。さらに注目すべきは、このアインシュタインの言葉から、彼の反対理由が科学そのものからでなく彼の哲学(科学的基盤のない哲学すなわち形而上学)からきているのがわかることである。私は以前ダーウィンについて、彼の中の「科学者」と「形而上学者」の齟齬を指摘した(「共感論からダーウィンを読む」『国際地域学研究』第22号、東洋大学国際学部、2019)。同様なことがアインシュタインにも言える。古典的因果律が階層の異なる領域にも妥当する普遍法則だと思い込んだのが、彼における形而上学だったのである。
量子論研究の科学者自身のなかにも混乱はあった。ノイマンとウィグナーは、量子現象に人間の「意識」を導入した。これも並木氏によれは、彼等の理論がミクロとマクロの階層性を「区別なしに」適用するこだわりによる。この理論は「間違った方向の迷路に踏み込んでしまった」のであり、「破綻」していると彼は言う(前掲書、164-168、また坂田昌一、前掲書、4頁など)が、これが現代の大方の科学者の意見のようでもある。後者は単にそれを無視するが、並木氏がウィゲナーに「人間存在に単なる自然現象を超えるような意義を与えたいという思いがあるようだ」とさらに指摘しているのは興味深い。
この「思い」自体は了解できるし哲学としては不当でない。しかし主観を事実認識に持ち込むと、観念論哲学や形而上学になり、科学の科学性の否定という誤りを導く。
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