難しい哲学書を読む(その二):哲学の現在12*
仲島陽一
◇シェリング「人間的自由の本質」(1809)
(渡辺二郎訳『世界の名著43フィヒテ/シェリング』1980、による)
読み直してみて、30年以上前に読んだときと違い、難解感はかなり減り、また内容的にけっこう賛成できた。少しは理解が進んで、形而上学的・神学的外皮のなかの合理的核心がよりみえたということだろうか。逆に言えば、内容的にはせっかくいいことを言っていても、「形而上学的・神学的外皮」にくるんでよくてちんぷんかん、悪くすると観念の遊び道具になってしまいがちなところに、いつもながらの「哲学」の罪深さを感じる。
自由は古来哲学の重要論点の一つであるが、 ➀意志の自由➁権利としての自由➂状態としての自由の三つに問題領域が分けられる。悪との関連が追究されている本書では①がかかわる。人が最も考えるべきなのはどのようにした悪をなくすかであるとしている私としては、読まざるを得ない。
悪の原因と克服とを明らかにしたのはルソーである(拙著『ルソーの理論――悪の原因と克服――』北樹出版、2011、参照)。これは人類の歴史で最も有益な発見の一つというべきではなかろうか。
ルソーによれば、諸悪の直接の原因は、自己愛amour de soiの利己愛amour-propreへの変容であり、その社会的土台は利害の対立である。シェリングでは、被造物の(つまり神でなく人間の)「我意」がそれ自体としては(つまり「自己愛」としては)悪ではないが、それが高まったり(437頁)独立化したり(482頁)するとき(つまり「利己愛」に変容するとき)に悪になるとされる。人類の歴史において悪のない無垢の時代があったとシェリングは言う(452-3頁)。つまり自然状態であり、したがって性悪説も否定される。ただしシェリングにおいては悪を「神のうちの自然」と関係づけ(428頁)、「自然(=本性)」の概念はルソーほど明瞭ではない。それでも自由にこそ「善と悪の能力」を正しく帰しており(420頁)、したがって悪はあくまでも(しゃれじゃないが)人間による(456頁)とする。
したがって悪の克服は直接には「中心への回復」による(438頁)。ルソーなら、「中心への関係において自らを位置付ける」ことが正しさであり(『エミール』第四編)、個別意志を一般意志に合致させることが徳である。ただこの「直接には」は第一歩としての心構えに過ぎず、反省や決意だけで悪がなくなるわけではない。そしてシェリングはそこが弱い。利害の対立をなくす社会理論は無に近く、ルソーはもとよりカントやフィヒテにも及ばない。新プラトン的流出説(拙著『哲学史』行人社、2018、81-83頁参照)に半ばとらわれている(424.433頁)ため、アウグスティヌスの自由論の「無」や自然哲学の「非有」観念への批判や解釈など、興味深い指摘もありながら、彼自身の理論における「実存とその根拠Grundとの」区別という要の点(446頁→488頁)に明瞭さを欠く。
彼が、一般論だけでなく「個々人における善悪の決定」(456頁)を考えようとしているのは正しい。道徳問題は、社会問題抜きでは底抜け(シェリングの言う無底Ungrundでなくごく普通の意味で)であるが、社会問題に還元はできない。ルソーもこの点では(文芸作品でなく「理論的」著作では)一般論をあまり出ていない。なぜある人々が残酷になったりサディストになったりするのか(一般にどういう社会がそのような性格を生み出しやすいか、についてはたとえばフロムの研究がある)もまた、重要な問題であり、主に心理学的考察が必要である。この点で私がとても有益と思っているのが、Baron-Cohen,Zero Degree of Empathy(A New Theory of Human Cruelty and Kindness),2011である。「人文研究友の会」の「英語講読講座」で輪読していた(そこまでは拙訳を『理念』に掲載)のだが、コロナ禍での教室閉鎖などで中断状態なのが残念である。Zoomによって再開したいと思っているので、参加希望の方がおられたら連絡してください。