存在論の問題(その二)(哲学の現在14)
仲島陽一
「哲学の現在7」で「存在論の問題(その一)」を述べた。そこでは私の考えるあるべき存在論についての基本性格を示し、具体的論点については改めてとした。この「その二」では「その一」を踏まえて、二つの論点をとりあげたい。
科学が「分科の学」であるのに対し、「全体」を考えるのが哲学だと述べた。ここでまず問題になるのが「全体」の観念である。「存在するものの全体」を「世界A」とし、可能的経験の対象の全体を「世界B」としよう。カント的な分け方である。後者は科学の対象であるが、ただし諸科学の総括としてである。「その一」で私は、あるべき存在論は諸科学に「先立つ」ものでも「超越する」ものでもなくそれに「基づく」べきだとしたので、「世界B」がこの存在論の対象と言える。では「世界A」については何も言えないのかと言われれば、「意味あることは何も言えない」ということは言える。これもカントの考えに近い。ただ彼はそれを示すのに「純粋理性の二律背反」のような論理を用いたが、はじめから「アプリオリな認識」をしりぞける私にはそれはいらない。そのような対象について何か考えても、その真偽を調べることができないのだから無駄だ、と考えるだけである。それでもそういうかたちで消極的に「考えて」はいると言えるから、「世界A」は「思考することはできるが認識することはできない」とカント風に言ってもよかろう。そして以下これを「仮想的世界」、「世界B」を「経験的世界」と呼ぼう。そして私の考える「科学的世界観」としての存在論で前者について触れるのは、それを扱うことは意味がないという消極的規定においてだけであり、内容ある考察は後者においてなされることになる。それは進歩する科学に基づくものであるから、絶対の「究極原理」ではなく常に更新され得る。物質的世界とも言えるこの経験的世界が、たとえば「無限の豊かさを持つ」、「人知で汲み尽くせない」ことなどはたぶん真理であろうが、いままでの科学から言えば、である。
可能的経験の対象としての全体世界の存在論としてまず問題にできることは、その「階層性」であると思われる。これはまさに科学の発達によって裏付けられた世界像であり、たとえば現在の物理学の教科書もその概念と用語を用いている(岸根順一郎・松井哲男『物理の世界』放送大学教育振興会、2017、280頁以下)。これは直接にはマクロの物質とミクロの物質では、必ずしも同じ法則が当てはまらないというところからくる。とはいっても両者がまったく別の物質、別の世界であるわけではない。たとえば原子・分子は「素粒子からできている」。そして構成する素粒子から(たとえば陽子を何個持っているか)によって原子の性質がかなりの程度まではわかる。しかし素粒子の振る舞いが理解できればそこから構成される原子などの現象を記述できるという、「要素還元的にとらえればすむのだと発想するのは間違い」(同書、281頁)だという。これはまた、単純な要素が相互作用しながら膨大な数集まることによって予想もつかない全体的性質を顕す、ということにもつながる。「これは『全体』は『部分』の単なる和ではないという重要なメッセージ」(同書、282頁)だという。こうしてこの教科書は「階層間の断絶と結合をどうとらえていくか、ということこそが物理学の大きな課題」(同書、281頁)とまとめる。しかしこれはまさに、連続と飛躍の問題として哲学で扱われてきたものの一環といえる。特に、そのどちらか一面への固執を退ける弁証法哲学は、ここで言われている階層性と適合しそうである。以下三つ付け加えよう。
階層性は、小さいほうだけでなく大きいほうにも言える。地上の「ふつうの」物体に対して「天体」は別の階層であり、その「天体」も「銀河」を含めいくつかの階層としてみられそうなことは、たとえば吉岡一男『初歩からの宇宙の科学』(放送大学教育振興会、2017)にうかがえる。
大小どちらの方向でもこれらは無機的世界だが、生物の誕生はどうなるか。生物は分子からなるが「その単なる和」でないだけでなく、無機的世界の諸階層における飛躍とはまた質の違った飛躍というべきではなかろうか。