床屋道話56 「分断」を考える
二言居士
近年、「分断」ということがしばしば話題になる。英国の欧州連合からの脱退や米国のトランプ現象などがその大きなきっかけであった。多くは、これを困ったことだとし、どうすべきかという方向で論じられる。しかし事柄はそう単純ではない。
第一に、分断自体よりも分断を嘆く声のほうを憂うべきと思われる面もある。批判を嫌う人が増えたと、近頃各方面で言われる。「つっこまない漫才」は新型としてあってもよいが、「推す批評が斬る批評を駆逐している」というのはどうか。特に政治では批判が大事である。同じ国民、仲良くやっていけばよいのに、といった感想はとても有害である。なぜ同じ国民は同じ意見でなければならないのか。これはまさにファシズムへの道である。もちろん暴力的な対立はよくない。しかし言論などでの批判は必要である。批判はあって当然であることによって、体制側や多数派の腐敗や圧政を、また暴力的対立も防がれるのである。
ここ数年、「野党は批判ばかり(でよくない)」とよく言われた。それも批判だ、というのは揚げ足取りでもあるが、当たっている反批判として反省されたい。第二にこれはまったくのデマである。国会において半分以上、地方議会では大多数が全会一致かそれに近い賛成で成立している。リツイート組は、こんな単純な知識または確認もなく、そうだけしからんと乗ってしまうのは、マスコミで大きく取り上げられるのが主として「対決型」の問題だからに過ぎない。言うまでもなくリツイート組よりも発信元の罪は大きく、デマ、ないし穏やかに言えば「印象操作」の意図を読み取らなければならない。それは一つには、「翼賛政治」的なものを「日本の伝統」としたがるイデオロギー的反動派と、「効率主義」の新自由主義からの、手間暇かかる民主主義つぶしとがある。しかしその際にも、近年の日本国民が批判嫌いになってきた(さらに言えばそうさせる戦略が効果を表してきた)ということを感じての、戦術であろう。第三に、批判でなくて代案をと言っても、たとえばモリカケ桜のような案件は代案が必要なものではない。いつまで批判してるんだという者がいるが、隠したり逃げたりばっかりだから終わらないだけである。逃げ隠れする者を追求する側を批判してまで、悪を続かせたいのか。第四に、「改革」を競うよりもむしろ現状がよいものもある。「行政改革」「政治改革」「構造改革」は日本をよくしたのか悪くしたのか、検討すべきである。改革信仰や、「スピード感」の標語には用心しよう。第五に、しかし野党は重要な政策課題では代案を出している。NHKあたりではまともに取り上げないが、立憲民主党なり共産党なりのホームページをちょっと調べればわかることだ。このように「野党は批判ばかり」は嘘で固められており、「現実的になれ」「上の方針に協力しよう」という攻撃は、与党の支持者にとってもためにならない。なお「批判嫌い」の風潮について、玉川徹(編著)『強権に「いいね!」を押す若者たち』青灯社、2020、をぜひ読まれたい。
とはいえ、今日「分断」が憂慮されるにはもっともな面もある。それは対立する陣営の間で、話が通じなくなっている面である。先ほど議論での批判はあって当然と述べたが、議論が成り立つにはなにがしか共有するものが必要である。仮に価値観では完全に相いれないとしても、基本的な事実認識の共有などである。ところが、トランプ大統領の就任式にオバマのときよりずっと多い人が集まったかどうか、というような単純な事実問題についてさえ、認識が一致しない。一方が実証的な根拠を示しても、他方は「もう一つの事実」があるとか言って認めない。大手の新聞やテレビ(勿論それらに間違いや偏りがまったくないというわけではないが)を、まるごと「フェイク」のメディアと決めつけ、他方でネットの謀略情報こそ真実と思い込むような者が増えてしまっている。こうした意味での「分断」は、確かに現代的な現象であり、克服すべき状況である。
このような悪しき「分断」にはいろいろな原因があろう。直接にはネット空間の「エコーチェンバー」作用などが指摘されるが、政治経済的な基盤もあろう。思想的な要因もある。ポストモダンの相対主義、それと結びついたパラダイム論や社会構築主義がまず挙げられる。「事実などない、すべては解釈だ」という、罪が大きいニーチェ主義は、是非克服しなければならない。