床屋道話58
ウクライナ問題、日本人にできること
二言居士
東部に手を出してくることはあるかもしれないと思っていた。しかしこのような全面侵攻を行うとは思っていなかった。なぜこの行動か。
ロシア側に立って考えてみると、直接には、前回述べたようにウクライナのNATO加盟へ動いたことである。まただんだんわかってきたところでは、「冷戦終結」後の三十年、ロシアは「西側」がその精神(ないし少なくともロシアの解釈では「約束」)に反してNATOを拡大させてきたことへの憤りや危機感があったようだ。だとしても、全面的な軍事侵攻には飛躍がある。特に、ウクナイナを兄弟国と言っていたことからすれば。
と書いたが、実はそこに答えの一環もあるように思われる。つまりウクライナを言うことを聞く弟分とみていたのであり、敵側と同盟を結ぼうとするような政権は力づくでも倒さなければならない、という論理である。こうしてみるとこれはスターリン以降のソ連が東欧に対した態度、たとえば「人間の顔をした社会主義」を求めたチェコスロバキアに軍事侵攻した(1968年)のと同じである。しかしソ連とチェコは「ワルシャワ条約機構」でつながっていたのに対し、ロシアとウクライナとは同盟関係はない。ただウクライナは旧「ソ連」を構成する国であったから、「ロシア」からすれば自分たちの勢力圏、という意識があるのだろう。しかしそれでは「ソ連崩壊」(1991年)の意味をロシアが理解していないことになる。
心理的にはそうなのだろう。それは多くのロシア人にとっては、旧ソ連における特権官僚の支配や自由の抑圧の終わりとして評価されても、覇権主義への反省にはつながらなかったのだ。むしろまさにその点で多くのロシア人は(ロシア以外の全世界と違って)ゴルバチョフ(執筆中に訃報を聞く)を否定的にみているのだ。東ヨーロッパを失い、さらには「ソ連」に加わっていた多くの国まで手放してしまった悪い奴、と。そしてまさにこの点で、スターリンをいまだに評価もするのだ。バルト三国などを「ソ連」に加え、また戦争に勝利して東欧をわが勢力圏にすることに成功した英雄として。ウクライナ侵攻に対してロシア人の反対論が思ったほど多くないことも、(情報統制や言論統制のせいだけでなく)ロシア人大衆における大国主義意識の強さが一因ではあるまいか。二十年ほど前、ある大学の新学部の立ち上げの会(教員だけ)で、新任講師が担当科目を紹介する場があった。ロシア語担当の女性が、ロシア語は世界で〇億人も使っている、と力説したこととその態度に小生は驚いた。小生はロシア語教育には大賛成だが、その有用性や魅力を伝えるには他のやり方もあると思う。しかしソ連崩壊して十年たっても、またふつうのロシア人でも大国意識が根強いことにショックを受けたのである。
だがこうしてみるとひとごとではない。わが日本も、領土や勢力圏の拡大を栄光とし、兄弟的な民族であるがゆえに日本人が導いてやるのだと高慢になり、あるいはその盟主として彼等を悪い奴らから解放するのが使命だと合理化したりしていた。いまのロシアを非難するのは正当であるが、その際日本自身が同様であったことの反省があるだろうか。
ウクライナ問題を日本にとっての他山の石とする論議では、日本がいまのウクライナのようにならないにはどうすべきか、がほとんどである。それは不要とは言わないし、前号ではそのごく一端について管見を述べもした。しかし日本がいまのロシアのようにならないにはどうすべきか、はほとんど聞かれない。そんな議論は必要ないならばなくてかまわないが、そうは言いきれない。日本人もまた、「大日本帝国」の反省をしっかりしたとは思われないからである。それなのにいまやまた、そこに戻ろうとする動きが強まっているからである。そしてそれを反省しようとする動きに対しては、「自虐的」であるとか、外国に洗脳されているとか言ってたたく力が激しいからである。だがそういうなかで、わが国も核兵器を持とうとか、五年で軍備を倍にしようとかすることは、「日本を守る」ためにも逆効果なのではあるまいか。念のために言えばこれは日本だけではない。ロシアもアメリカも中国も、かつての覇権時代をよしとして「メイク・グレイト・アゲイン」の風潮になっている。大国主義・帝国主義の価値観を変えさせる必要があり、日本こそその先頭に立たなければならないのではないか。
ウクライナ軍に加わりたいと志願したり、ロシアへのサイバー攻撃に参加している日本人もいるという。主観的には正義感でのことかもしれないが、日本人の行動としてはまったく的を外していよう。