難しい哲学書を読む(その四):哲学の現在15
仲島陽一
◇プラトン「国家」(藤沢令夫訳、岩波文庫、1979、による)
有名な「洞窟の比喩」の部分(第七巻1-5章)だけだが、三十数年ぶりに読み直す機会を得た。感動した。
まずは「現象の知」と「イデアの知」の区別が問題になる。後者を「本質の知」または「客観的な知、すなわち真理」ととらえるなら、前者を通じて後者に至ることが理論または学問の務めであり、この意味ではプラトンは実にまっとうである。そしてそれに反対するのがいわゆる「現代思想」である。ニーチェからすれば、これは「背後世界を説く」ものである。ニーチェについては「神は死んだ」くらいしか知らないという者でも、彼が「キリスト教は大衆版のプラトン主義である」とも言うことを聞けば、プラトンが彼の主敵とも言えることがわかるであろう。その意図は、一面では、客観的真理としての学問の否定(反合理主義)、他面では、プラトンの「イデア」がidealすなわち理想であることからすれば超現実主義、「力」がすべての勝てば官軍主義である。
プラトンは理想主義ではあるが合理主義であり、イデアは天与の少数者または単独者のものでなく、それを見る視力はみなはじめから持っている(105頁)と性善説的である。これもニーチェが嫌う楽天主義である。
ところで、現象から本質へが理論の務めと述べたが、これはプラトンでは「魂の向きかえ」と言われている。ここには評価点と批判点がある。現象と本質との関係性において、飛躍の契機をみているところが評価点、連続の契機をみないところが批判点である。後者から言うと、プラトンは現象にまさに「背を向け」ることで否定する。しかし理論家は現象から、現象を通じて本質に至り、本質のなかにも現象にあるものが(「契機として」)含まれている。他方で飛躍の契機というのは、一つはそこに質的区別があるということである(たとえば文章の「要約」というのは全体の本質を示すことであって単に量的に短くするだけでは駄目である)。もう一つは、それは単に知的な操作であるのでなく倫理性も持った行為だということである。これはプラトンにおいては、1)眼だけでなく「体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能」(104頁)と言われ、2)本質すなわちイデアが究極的には「善のイデア」とされ、3)また悪知恵の存在への注目(105頁、「徳は知である」という初期の定是は事実上乗り越えられている)ことから、認められよう。この意味では、プラトンにおける「魂の向きかえ」は、キリスト教における復活と重なる。(ついでに言えば、1)さきほどニーチェに言及したが、プラトンとキリスト教のある種の同質性は、事実問題としては正しい、2)キリスト教における「復活」は本来はこうしたものではないか、つまり生物学的な「死」と「再生」というのは後から生まれた神話であって、「一度死んだつもりで生き直す」というのがイエスの意図ではなかったのか。)プラトンにおいて哲学が「死を学ぶこと」とされるのもこのように理解され得るし、禅仏教なら「大死一番」というところであろう。少なくとも私達は、それらの「神秘的外皮の合理的核心」を把握すべきだが、当人たちの意識は別であり得る。
プラトンの洞窟で人を壁向きに縛っているものは肉体である。ピュタゴラスおよびプラトンの「神秘的」教説で、それゆえその縛めを解く「魂の向きかえ」が肉体からの離脱=死になるのである。それを批判する点ではニーチェは正しいが、彼の「生の哲学」は反対側の極論である。死を絶対悪としないが肉体蔑視でもないルソーは中庸を進む。生まれるつまり肉体を持つ時点では、彼によれば人間は自由かつ善良である。無垢な魂を縛ってしまうのは肉体でなくmaillotである(『エミール』)。ふつうは「産着」と訳されるが今日のものとは違い、赤子の体をがちがちに拘束するものであった。ルソーがそれを批判するのは、文字通りの意味でもあり、また、人々の自由と善性を奪っているものが(「肉体」ではなく)悪しき社会制度であることを示すためでもある。