精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

 

第三部 21章 恣意的権力に服する帝国の転覆について:専制主義の第四の結果

 

 徳に対する東洋人の無関心、無知、および魂の卑しさは、彼らの統治形態の必然的帰結であり、互いの間で詐欺師で、また同時に敵に向かっては勇気の欠如した公民たちをつくらざるを得ない。

 ギリシャ人とローマ人が驚くべき速さでアジアを征服した原因がこれである。主の控えの間で育てられ養われた奴隷たちが、専制主義によって染みついた恐れの習慣的感情を、ローマ人の剣の前でどうして押し殺したであろうか。魂の高揚もなく、弱者を鞭打ち強者に這いつくばる慣れ、鈍感にされた人々が、ローマ人の大度、政策、勇気にどうして屈しなかったであろうか。また勧告においても戦闘においてもどうして等しく卑怯にならなかったであろうか。〔そうしたことはあり得なかった。〕

この件でプルタルコスは言う。エジプト人が順々にすべての国民の奴隷になったのは、彼等が最も厳しい専制主義に服していたからである。だから彼等はほとんどいつも卑怯さの証拠しか与えなかったのだと。スパルタから追放された王クレロメネスがエジプトに亡命し、ソビシゥスという名の大臣の陰謀で毒を盛られ、警備隊を殺戮し鉄鎖を砕いたとき、この君主はアレキサンドリアの街に現れる。しかし彼がそこで、彼の仇をうつように、僭主制のくびきをほどくように公民たちに勧告しても無駄である。プルタルコスが言うに、彼はいたるところに、不動の礼賛者たちしかみいださない。この卑しくて卑怯な民には、偉大な行動を称賛するがそれを実行はしないような種類の勇気しか残っていなかった。

奴隷的民族が自由で強力な民族にどのように抵抗するであろうか。恣意的権力を用いても罰されないためには、専制君主は臣民の精神と勇気をなえさせなければならない。彼を対内的に強くするものが対外的に彼を弱くする。自由とともに、彼は自らの帝国からすべての徳を追放する。それは卑しい魂には住むことができない、とアリストテレスは言う。既に引用したように有名な裁判長モンテスキューが加えて言うが、よい奴隷になるためには悪い公民であることから始めなければならない。それゆえローマ人のような民族の攻撃に対置できるのは、政治と軍事の学において絶対的に新しい、そして自らがその意義をたわめ精神をくじいたまさにその国民のなかから得られた評議会と将軍たちだけである。それゆえ彼は敗北せざるを得ない。

しかしながら徳は専制諸国においてときに最も輝いた、と言われようか。然り、王座が次々と何人かの偉人によって占められたときには。僭主制の出現で飲み込まれた徳は、有徳な君主をみて甦る。彼の登場は日の出に比べられる。大地を覆っていた暗雲を火の光が貫き散らすと、すべてがよみがえり、すべてが自然のなかで活気づき、林は風の合奏を響かせ、天の羽翼の住民は柏の頂まで飛んで、太陽の復帰をそこで歌う。トラヤヌス治下のタキトゥスは叫ぶ。「ああ幸せな時代よ、人は法のみに従い、自由に考えることができる。また考えることを、自由に言える。万人の心が君主の前に飛んでいくのがみられ、彼の意図はそれだけで一つの善行である!」

しかしながら、こうした国民が放つ輝きは常に長続きしない。時折彼等が力と栄光の最高度に達し、全分野での成功で名を挙げても、これらの成功は、前に言ったように、彼等を統べる王の知恵に付着していて、輝かしいと同様に常につかの間であった。こうした国の力は、どんなに威圧的であっても、幻の力に過ぎない。粘土の土台に立つネブカドネザルの巨像である。こうした帝国はすごい樅と同様である。頂は天に届くほどである。平原と空の生き物はその影の下に避難所を求める。しかしあまりに弱い根で大地に付いているので、最初の暴風で倒れてしまう。これらの国は、あまり野心的でなく恣意的権力に服している国民に囲まれているのでなければ、一瞬しか存在しない。こうした諸国の各々の力は、そのときそれらの弱さの均衡に存する。専制的な帝国は何らかの挫折を被ったならどうか。もし王座が雄々しく勇敢な革命によってしか再び構築され得ないなら、その帝国は破壊される。

それゆえ恣意的権力のもとに呻吟する諸民族は、一瞬の成功、雷のような成功しか持たない。彼等は遅かれ早かれ、自由で敢為な国民の軛を負わざるを得ない。しかし、特殊な環境と立場が彼等をこの危険から免れさせると想定しても、そうした王国の悪しき行政が彼等を破壊し、人口を減らして荒れ野に変えるに十分である。そのすべての成員を次々にとらえる無力感によって、その結果がつくられる。専制主義の特徴は情熱を押しつぶすことである。ところで、情熱の欠如で魂が活気を失って、公民たちがいわば贅沢の麻薬、暇と軟弱さに飲み込まれると、そのとき国家は衰える。この国家が享受するうわべだけの穏やかさは、啓蒙された人の目には、死の前触れの衰えに他ならない。国家には情熱が必要である。それが国家の魂であり命である。最も情熱的な民族が、長い目で見て勝利する民族である。

情念の穏やかな活発さは帝国の健康によい。帝国はこの点で、もしも波を立てて嵐が浄化するのでなければ、たまった水が世界に有害な瘴気を腐らせることで発散する海に比べられる。

 しかし、恣意的権力に服した国民の偉大さが一時のものに過ぎないならば、政府の偉大さについても同様であり、その権力は、ローマやギリシャのように、人民と、お偉方ないし王との間で分有されている。これらの国家では、個人の利害が公共の利害と密接に結ばれて、人間を公民へと変える。その成功が、その統治体制自体による民は、持続的な成功が約束され得る。そのとき公民が重要な対象を占有することにある必然性、彼がすべてを考えすべてを言うことについて持つ自由が、魂により多くの力と高揚を与える。大胆な精神が心に通う。それによって精神はより広範でより大胆な企てを心に抱き、より勇敢な行為を実行する。次のことさえ付け加えよう。もし個人の利害が公共の利害から完全に分離しているのでないのならば、もしローマ人のような民族の習俗がねマリウスやスラの時代ほど腐敗していないならば、公民が互いに観察し牽制することを強いる党派の精神が、こうした帝国を保たせる精神であると。彼等は反対の利害の重みによってだけ支えられている。こうした諸国の基礎は、いまにも崩れそうにみえるあの外的発酵のとき以上に確実であることはけっしてない。こうして、水面で荒れ狂う北風が深淵までひっくりかえしているようにみえるときでさえ、海底は穏やかで静かである。

東洋的専制主義において、大臣たちの無知、徳に対する民衆の無関心、この政体に服する帝国の転覆の原因を認めた後で、私は〔次の章で〕、国家の他の体制において、反対の結果の原因を示すことにしよう。

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