難しい哲学書を読む(その三):哲学の現在18
仲島陽一
◇西田幾多郎「善の研究」(1911)(岩波文庫19792、による)(その2)
命名によって論証や理由付けの代わりをする、ということを西田の特徴として、前回この書の冒頭を引いて述べた。彼はどこまでもその流儀で押しとおる。「主客を没したる知情意合一の意識状態が真実在である」(79頁)。それにはふつうは「真実在」とはXであると示し、ところで下線部はXであると言えることを示し、ゆえに、と説明されよう。彼はそのような手続きはとらない(けだしこれは「推理」でなく「直観」だからか)。好意的に解釈すれば、これは「『真実在』という語を、私はこういう意味で使う」ということをへたに言ったものかと思われる。せめてそう書けば腹は立たないが彼はそう書かない。そう書けば、その語を他の意味で使う立場も(少なくとも可能性として)認めていることになるが、そういう気配は感じられず、自らの用語法が「正しい」もの、すなわち一つの用語法でなく真理として言っているとしか受け取れない。私は甘党で異性愛者である。辛党の同性愛者とは趣味が合わないので物足りないが、その存在に立腹はしない。趣味が合わない者にいちいち立腹していたら身が持たないが、激辛や同性を愛するのが「正しい」と押し付けられれば平静ではいられない。思想「即」人となりと私は考えないので断定は控えるが、少なくとも疑いは起こってしまう。西田という人は、他の考え方の可能性も認めず、しかも自己流の「定義」によって自説をとうとうと展開するだけで、他者とかみ合った対話をする気がないのではないか、と。
似たような詭弁を挙げよう。原子のごときは「説明のために設けられた抽象的概念であって、事実上に存在することはできぬ」(84頁)。ここで原子が現象の「説明のために設けられた抽象的概念」であることは正しい。しかしそのことは原子が「事実上存在すること」と両立不能でない。しかし彼は前者を挙げることでなんら論証なく後者の正しさを示したかのようなみせかける。こうした言い方はあちこちでみられる。
原子を認めるとは、たとえば酸素と水素の質的区別を認めることである。西田はこのような「差別的知識とはこの〔質的区別なき〕実在を反省することに由って起こる」(79頁)とする。問題はこの「反省」の真理性であり、ふつうに考えればつまりその客観性である。
内容的には、「分別」しないのが西田哲学であると「その一」で述べた。概念と直観、思考と知覚、主観的信念と客観的真理、能動と受動、「善の研究」(倫理)と「禅の研究」(宗教)などが、「種類」でなく「程度の差」であると述べられる。主観と客観では、ランプが自分にだけ見えるなら「主観的幻覚」かもしれないが、「各人が同じくこれを認めるに由りて客観的事実となる」のだと(83頁)。地球は平らとみんなが信じていたときはそれが、球体だとみんなが認めるようになればそちらが「客観的事実となる」のか。著者はそう言うかもしれない。では「客観的事実」とは多数決なのか。「パラダイム」論者はそう言うかもしれない。そしてそれに私はずっと反対を述べてきた。「意識体系の中で最も有力なる者〔…〕を客観的実在と信じ、これに合った場合を真理〔…〕と考える」(30頁)。多数決だけでなく「勝てば官軍」主義のようである。そこで「客観的」知識が目的とされる「学問といっても元は我々生存競争上実地の要求より起こった者である」(76頁)とけろっとダーウィニズムを持ち出す。進化論を悪用する自然主義哲学と同様、妥当性の問題が起源や動機ですり替えられている。ここには学問における「否定的媒介」の契機が無視されている。
質的に区別されるべきもの、特に対照的である二者を「程度の差」としてずるずるべったりに連続させるどころか、両者をいきなり一体化させるのも、西田哲学の特徴である。後には「即」の一字でそれを行い、最も悪名高いのは「絶対矛盾即自己同一」であるが、本書では随所に出る「直(ただち)に」という語が同じ機能を果たしている。「対立物の統一」は弁証法哲学のようにもみえるが、西田の場合は「否定の労苦」が媒介されない。
質的区別を排除するズルベタ的な、または煩悩「即」菩提的な一元論、自然主義(本居宣長に典型)、そして「さからふることなきをむねとする」条件での「和をもって貴しとする」ワンチーム志向、これは日本的心性の弱点である。西田哲学は「日本的哲学」と言われるが、それはわが国民の美点ではなく欠点をあらわにしたものとして、そう言えるであろう。
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