精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

 

第三部 第24章 この真理の証明

 

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 この〔前章で示された〕命題が逆説にみえることをすっかり取り除くには、人々の欲望の最も一般的な二つの対象が富と名誉であることを観察すれば十分である。この二つの対象のなかで、その名誉が自愛心に媚びるあり方で配分されるときは、人々がより渇望するのは名誉のほうである。

 この名誉を得たいという欲望によって、そのとき人々は最大の努力もできるようになり、そのとき彼等は奇跡を成し遂げる。ところで、祖国に果たされる奉仕に対して払うにはこの〔名誉という〕貨幣しかなく、したがってその価値を保つことに最大の利害関心を持つ民族以上に、この名誉がより大きな正義で割り当てられるところは、どこにもない。だからローマとギリシャの貧しい共和国は、東洋の広大で豊かなすべての帝国よりも多くの偉人を生み出したのである。

 富裕で専制主義に服している民族においては、名誉という貨幣はほとんど評価されていないし、またそうならざるを得ない。実際、もし名誉がその価値を彼等が管理されているやり方から得ているなら、またもし東洋ではスルタンがその配分者であるなら、彼等がこの貨幣で飾る者の選択がまずくてその価値をしばしば落とさざるを得ないと感じられる。だからそうした国では、名誉は本来称号に過ぎない。それは自尊心を強くうつことはできないが、なぜならそれが栄光に結びつくことはめったにないからであり、栄光は君主でなく民衆が配分するものである。栄光は公衆の感謝の喝采にほかならないからである。ところで、名誉が卑しめられると、それを得ようという欲望は冷める。もはや人々はこの欲望で偉大な事柄に向かうことはない。そして名誉は国家のなかで無力なばねになり、要路の人々がそれを用いるのを怠るのはもっともなことである。

 アメリカのある邦では、一人の未開人が勝利をもたらしたり、交渉を巧みに処理したときには、国民集会で「お前は男だ」と言う。この賛辞によって彼は、専制的諸国において才能によって名を挙げた人々に提示されるあらゆる高い地位以上に、偉大な行為へと駆り立てられるのである。

 彼等を管理する滑稽なやり方が名誉に対してときおり投げつけるはずの軽蔑全体を感じ取るには、クラウディウスの統治下で行われていたその濫用を思い出すがよい。プリニウスが言うには、この皇帝の下で、ある市民がずるさで有名な烏を殺した。この市民は死刑になった。この烏には壮麗な葬式が行われた。笛吹が先行し、奴隷二人が烏の安置台を担い、葬列のしんがりは無数の老若男女が務めた。この件につきプリニウスは叫んでいる。最初の王たちを地味に埋葬し、カルタゴとヌマンティア1)の破壊者〔スキピオ〕の死に復讐しなかったまさにこのローマで、もしも我等の先祖が烏の葬儀に参列するならばなんというだろうか2)

 しかしこう言われよう。恣意的権力に服する諸国において、しかしながら名誉はときおり真価の報いであると。疑いなく然り。しかしより多く、悪徳と低劣さの報酬である。名誉は、こうした統治においては、荒れ野の中の疎林に比べられる。その実は、ときおり天の鳥によって持ち去られ、あまりに多く蛇の餌食になる。その蛇は木の根元から、樹冠まで這い登って来たのである。

 名誉がひとたび卑しめられれば、国家に果たされる奉仕はもはや金を払うことでしかない。金でしか支払わない国民はみな、まもなく支出が積み重なり、力尽きた国家はまもなく支払い不能になる。そうなったら才人の徳にもはや報酬がない。

 必要によって啓蒙された君主は、この窮地にあっては名誉という貨幣に頼らざるを得まい、と言っても無駄である。もしも、集団としての国民が恩恵の配給者であるような貧しい共和国では、こうした名誉の値を高めることが簡単であっても、専制的諸国でそれに価値を与えることほど難しいことはない。

 名誉という貨幣のこの管理は、それを流通させようとする者のなかに、どんな徳義を前提するであろうか。廷臣の陰謀に抵抗するには、どんな力強い性格が必要であろうか。こうした名誉を大きな才能や徳を持つ者にだけ与え、その信用を落とすようなあの凡庸な人々すべてにはいつも拒むには、どんな分別が必要であろうか。

 富のような名誉はない。もし公衆の利害が金や銀の貨幣においては改鋳を禁じても、名誉が人々の意見だけに負う価値を失ったときには、公益は逆に、名誉の貨幣における改鋳を要求する。

 私がこの件で注目したいのは、財政管理に多くの人をつけながら名誉の管理を見張るためには誰も指名しない、大部分の国民のふるまいを考慮しても、人が驚かないことである。しかしながら、高官に挙げる人々の真価についての厳しい議論以上に有用なことがあろうか。なぜ各国民は、深くて公の検討によって、自らが報いる才人の真実性を保証するような、法廷を持たないのであろうか。どんな価値を、そんな検討は名誉におくであろうか。それに値しようというどんな欲望を生むであろうか。どんな変化をこの欲望は、私教育においても、また少しずつ公教育においても、ひきおこすであろうか。その変化にたぶん、諸民族間に認められる差異すべてが依存している。

 アンティオコス3)の卑しく怠惰な廷臣たちのなかに、もしもこどものときからローマで育てられたなら、どれだけ多くの人が、ポピリゥスのように、自分を奴隷またはローマ人のようにすることなしには抜け出せないような円を描いたことであろう。

 大きな報酬は大きな徳をつくること、名誉の賢明な管理は、個別的利害を一般的利害に結びつけ有徳な公民を形づくるために立法者が用い得る最も強い絆であることを、既に証明した。若干の民族が徳に対して愛しているか無関心であるかが、彼等のいろいろな統治形態の結果であることを、そこから結論する権理があると、私は考える。ところで、私が例にとって徳への情念について言っていることは、他のすべての情念に適用できる。それゆえ、いろいろな民族がうけいれられるようにみえる情念がこのように程度が等しくないのは、自然のせいにしてはならない。

この真理の最後の証明のために、私は〔次の章で〕情念の強さは、それをひきおこすのに使われる手段の力に常に釣り合っていることを証明しよう。

 

【訳注】

1) ヌマンティア(Jean Louis Guez de Balzac,1597-1654)は現スペイン。ローマに抵抗したが、BC.133スキピオによって破壊された。

2) プリニウス『博物誌』で「烏」が出てくる箇所と「クラウディウス(帝)」が出てくる箇所すべてをあたったがこの記述はなかった。他の著作か、あるいは小プリニウスの著作か?

3) アンティオコス(Antiochos)はシリアの王。ここでは一世(BC.323-261)か?




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