精神論〔1758年〕
エルヴェシウス著・仲島陽一訳
第二部 第25章 全世界との関係における徳義について
もし全世界との関係における徳義が実在するならば、その徳義はすべての国民に有用な行為の習慣にほかなるまい。ところで、すべての民族の幸不幸に直接影響し得るような行為はない。模範の実行による最も寛大な行為も道徳的世界でたいした効果がないのは、石を大洋に投じれば必然的にその表面を持ち上げるが、海に対しては効果がないようなものである。
それゆえ全世界との関係における実践的な徳義はない。人々の幸福へのたえざる習慣的な望みに、またしたがって万人の幸福への単純で曖昧な願望に還元される意図の徳義に関しては、その種の徳義もまたプラトン的幻想に過ぎない、と私は言う。実際、もし、諸民族が利害の対立によって互いに永続的な戦争状態におかれていれば、もし、諸国民間で結ばれる講和が、本来長い戦いの後で二艘の軍艦が修理して攻撃を再開するためにとる時期に比べられる休戦でしかないならば、もし、諸国民が、隣国を犠牲にしてだけ征服と交易の拡大ができるのならば、最後にもし、一民族の至福と拡大とがほとんど常に他国の不幸と弱体化を伴うのならば、一人の公民にあってはとても望ましくとても有徳でとても評価できる情念、つまり祖国愛の情念が、ギリシャ人やローマ人の実例が証明しているように、普遍的な愛を絶対に排除することは明らかである。
この種の徳義を存在させるためには、一国を構成する諸家族のように、諸国民が法と相互の約束とによって、互いに結びつくことが必要であろう。諸国民の個別的利害がより一般的な利害に服することが。そして最後に、祖国への愛が人心から消えて、普遍的愛の火が燃えることが。これは長い間実現しないであろう想定である。そこから私は、全世界との関係においては、実践的な徳義も、意図の徳義さえもあり得ない、と結論する。そして精神が徳義と異なるのはこの点においてである。
実際、もし一個人の行為が万人の幸福にまったく寄与せず、またその徳の影響が一帝国の境界の向こうにはっきりとは広がらないとしても、その観念については同じではない。一人が専門的な発見をすれば、風車のようなある機械を発明すれば、彼の精神のこうした産物は世界に益する者をつくりだし得る(a)。
そのうえ、精神に関しては、徳義に関してとは違って、祖国への愛は普遍的な愛を排除しない。一民族が知識を得るのは隣国を犠牲にしてではない。反対に、諸国民が啓発されればされるほど、互いに観念を照らしあい、普遍的な精神の力と活動が増大する。ここから私は結論するが、全世界に関係する徳義はないとしても、この観念の下に考察できる少なくともいくつかの分野の精神はある。
【原注】
(a)だから精神は第一の利点であり、またそれは一個人の徳よりも人々の幸福にはるかに貢献できる。最良の立法を行い、したがって人々を可能な限り最も幸福にするために充当されるのは精神である。確かにこうした立法の物語でさえまだつくられておらず、その虚構が現実のものとなるには何百年もかかるであろう。しかし結局、サン=ピエール師1)殿の忍耐に心を強くして、想像できるものはすべて実在するようになる、と彼に従って予言できよう。
精神は第一の恩恵であると人々は雑然と感じているに違いないが、なぜなら羨みによって各人は、自分の精神のでなく自分の徳義の礼賛者であることができるからである2)。
【訳注】
1) サン=ピエール(Saint-Pière,1658-1743)はフランスの聖職者。「永久平和論」はルソーやカント等に影響を与えた。
「そうではなく、第一に、徳義は不可欠だが精神はそうでないからであり、第二に、誠実な人であることは自分次第だが才人であることはそうでないからである」。Rousseau,note sur <De l’esprit>, :Oc.t.Ⅳ,p.1129
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