精神論〔1758年〕
エルヴェシウス著、仲島陽一訳
第三部 第26章 どの程度の情念を人々は持ち得るか
その程度を決めるために、〔エチオピアの〕アビシニア山脈にいると想定すれば、私がそこにみるのは、カリフの命令で、死を待ちかねる人々が、あるいは剣や岩の切っ先に、あるいは海の深淵に突進するさまである。しかしながら彼等にはすべてのイスラム教徒に約束された天上の快楽以外の報いは提供されない。しかしその獲得は彼等にはより保証されているようにみえる。したがってそれを享受しようという欲望は彼等においてより強く感じられ、それに値するための彼等の努力はより大きい。
アビシニア以外のどんな場所でも、君主の意志のあの盲目的で熱心な執行者の信用を固めるためにこれほどの配慮と技術が用いられることはない。この務めに定められた犠牲者たちは、狂信者を形づくるのにこんなにふさわしい教育をどこでも受けないし、受けなかったであろう。最もやさしい年齢から、後宮から離れた、無人で未開の場所に移されて、そこではイスラム教徒の信仰の闇の中で彼等の理性は迷わされ、使命、マホメットの信仰、この預言者によって行われた奇跡、そしてカリフの命令で課される完全な献身を告げられたのである。そこでは、天国の最も肉感的な描写をすることで、天上の快への最も激しい渇きを引き起こしたのである。彼等は自分の存在を浪費する年齢に達する。血気にはやる欲望によって、最も強い快を享受することに自然が持つ熱望と能力とがしるされる年頃だ。するとすぐに、若者の信仰を強め最も激しい狂信に彼を熱中させるために、祭司たちは、若者の飲み物に催眠性の飲み物を混ぜておいて、眠っている間に、彼の陰気な住まいから、その用途に充てられた魅力的な林の中に彼を移したのである。
そこで、花々の上に寝かされ、飛び散る噴水に囲まれた若者は、曙が世界に形と色を甦らせ、自然の生産力すべてを目覚めさせ、彼に恋の血気を取り戻させるときまで休息する。まわりの対象の目新しさに驚き、若者はいたるところを眺めやり、魅力的な女性たちに目を止めるが、彼の信じやすい想像力がそれを天女たちに変える。祭司たちの欺瞞の共犯である彼女たちは、誘惑する技術を教えられている。若者は彼女たちが踊りながら自分に進んで来るのを見る。その驚きの光景を彼女たちは喜ぶ。無数のこどもらしい戯れによって、彼のなかに未だ知られていなかった欲望をかきたて、それによって刺激される欲望の期待に軽い凝視で羞恥心を装う。最後には彼の恋に従う。そこで、先のこどもっぽい戯れに替えて陶酔の興奮した愛撫になり、魂がその歓喜に耐えないほどのあの恍惚のなかに彼を沈める。この陶酔に続いて静かな、しかし肉感的な感情が起こり、それはまもなく新たな快楽によって中断される。最後には、欲望で疲れ切ったこの若者は、まさにこの女たちによって甘美な宴席に座らされ、そこで改めて酔わされ、眠っている間に最初のすみかへと運ばれる… 彼はそこで、自分を魅惑した対象を探す。それは錯覚のように彼の目から消えてしまった。彼はなおも天女たちを呼ぶ。近くには導師たちしかみつからない。彼等に自分をくたびれさせた夢を物語る。額を地につけて、導師たちは叫ぶ。「おお選びのうつわよ! おおわが子よ!疑いなく我等の聖なる預言者は汝を天国に連れて行き、徳信者たちにあてられる快楽を味わわせ、汝の信仰と勇気を強固にしたのだ。だからこうした恩恵はカリフの命令への絶対的献身によって受けるべきである」。
あの回教徒たちがイシュマエル1)の後裔たるアラビア人を最も堅固な信仰で活気づけたのはこれに似た教育によってである。そのようにして彼等に、あえて言えば、生への憎しみと死への愛を持たせたのである。そして死の門を、天上の快楽への入り口のように考えさせ、ついには、若干のあいだ世界を驚愕させたあの決然たる勇気を吹き込んだのである。
私が若干のあいだというのは、この種の勇気は、それを生み出す原因がなくなるとすぐに消えるからである。あらゆる情念のなかで、天上の快楽への欲望に基づく狂信の情念が、異議なく最も強く、一民族のなかで、常に最も長続きしない情念である。なぜなら狂信は、理性が知らず知らずにその基礎を掘り崩す威光と誘惑のうえにだけうちたてられるからである。だから、アラブ人、アビシニア人、また一般にすべてのイスラム教民族は、一世紀後には、他の諸国民に対して持っていた勇気の優越全体を失った。そして彼等がローマ人にひどく劣っていたのはこの点においてであった。
ローマ人の武勇は、祖国愛の情念によって引き起こされ、物質的で世俗的な報いに基づいていた。もしもアジアの略奪とともにローマに及ばなかったなら、もし富への欲望が個人的利害を一般的利害に結びつけていた絆を砕かず、また同時にこの民族において習俗と統治形態とを腐敗させなかったなら、この武勇はいつまでも同じであったろうが。
一方は宗教の狂信に、他方は祖国への愛に愛に基づくこの二種類の勇気に関しては、有能な立法者が同国民に吹き込まなければならないのは後者だけであると、観察せざるを得ない。狂信の勇気はすぐに弱まって消えてしまう。そのうえこちらの勇気の源は盲目と迷信とであるから、国民がその狂信を失うと、愚かさしか残らない。そこでその国民は、自らのほうが実質的にすべての点で劣っているすべての民族に軽蔑されるようになる。
キリスト教徒がトルコ人に対してあんなに多くの利点を得たのは、イスラム教徒的愚かさのおかげである。彼等は、フォラール騎士2)が言うには、もしもその戦闘秩序、その規律訓練とその武器を何か少し変化させれば、もしも刀をやめて銃剣に変えるならば、また要するに迷信によっていつまでもとどめられている愚かさから脱することができるならば、その数だけによっても恐るべきものとなろう。この有名な著者は付け加えるが、それほど彼等の宗教は、この国民の愚かさと無能さとを永続させるのに適している。
情念が、敢えて言えば、私達のなかで高揚して奇跡をもたらしうることを、私は示した。この真理が証明されるのは、イスマエルの後裔たるアラビア人の絶望的な勇気によっても、新米は三十七年の引きこもりでしか終わらないインドの裸行者の瞑想によっても、托鉢僧の野蛮で持続的な苦行によっても、日本人の仇討ち熱によって(a)も、ヨーロッパ人の決闘によっても、そして最後に、剣闘士の気骨によってもであり、この剣闘士というのは、危険に襲われ、致命的な打撃を受け、戦っていたときと同じ勇気で闘技場に倒れ、そして死ぬ人である。
私が証明をもくろんだように、それゆえすべての人が一般に、自分の怠惰にうちかつのに、そして知性の優越が付与される連続的注意力を備えるのに十分以上の程度の情念を持ち得る。
それゆえ人々のあいだに才能の大きな不平等が認められるのは、もっぱら受ける教育の違いと、おかれる環境の知られない多様な連鎖による。
実際、精神の働きすべてが、感じること、思い出すこと、そしていろいろな対象が互いにまた私達に対して持つ諸関係を観察することに還元されるならば、明らかなのは、すべての人が、私がいま示したように、感官の繊細さ、記憶の広がり、そして最後に最も高い観念に上るのに必要な注意力を備えているのだから、五体満足の人々(b)の間では、したがって、大きな才能によって名を挙げられないような者はいない、ということである。
この真理の第二の証明として私が付け加えたいのは、第一部で証明したように、すべての誤った判断は、無知か情念かの結果であることである。求めている真理かそこから帰結すべき比較対象が、自分の記憶にないときには無知からである。情念からであるのは、それがおおいに変容して、私達があるがままとは異なる対象を見ることに利害関心を持つときである。ところで、私達の誤りのこうした二つの独特で一般的な原因は二つの偶然的な原因である。無知は第一に必然ではない。それは身体組織の欠陥の結果ではない。なぜなら、この第三部の初めで示したように、最も高い真理の発見が要求する限りなくより多い対象を含むことのできる記憶を備えていない人はいないからである。情念に関しては、身体的欲求は人によって直接に与えられる唯一の情念であり、また欲求はけっして欺かないので、やはり明白なのは、精神における正確さの欠如は身体組織における欠陥の結果ではないことである。私達はみな自分のなかに同じ事柄に対して同じ判断を下す能力を持っているということである。ところで、同様に見ることはひとしく才気を持つことである。それゆえ確実なのは、私がふつうよい身体組織と呼んでいる人々のなかに認められる精神〔才気〕の不等性は、彼等の身体組織の卓越の程度にはけっして依存しないということである(ⅽ)。受ける教育の違い、身を置く環境の多様性、最後にほとんど考えない習慣、したがってごく若いうちに、専心することへの憎しみを身につけ、もっと年をとれば専心することが絶対にできなくなるということによるのである。
この意見がどれほど本当らしくても、新しさのために驚かれるかもしれないので、自分の古くからの偏見からなんとか離れてほしいし、最後にある体系が真理であるのは、それに依存する諸現象の説明によって証明されよう。私の諸原理にしたがって私は次章で、みな天分を持ってつくられている多くの人々のあいだに、天分ある人々がなぜごくわずかしかみられないのかを示すことにしよう。
【原注】
(a)彼等は自分を攻撃した者の面前で自分の腹を裂く。そして相手は、恥辱の苦痛で同様に自分の腹を切り裂くことを余儀なくされる。
(b)すなわち大部分の人がそうであるような、身体組織にどんな欠陥も認められない者。
(c)この主題で私が観察したいのは、〔本書〕第一部で示したようにもし才人の資格が、公衆に示される観念が多いことや繊細なことにではなくそれらのうまい選択に認められるならば、またもし、経験によって証明されるように、偶然によって私達の研究が多かれ少なかれ興味深い研究に決まり、ほとんどいつも私達が扱う主題が選ばれるならば、精神〔才気」を自然の恵みとみなす者は、この想定自体において、精神は身体組織の卓越よりもむしろ偶然の結果であり、それは自然の純粋な恵みとみなすことはできない、と認めざるを得ない。「自然」という語で、世界のすべての出来事を結びつけ、そのなかに偶然の観念自体が含まれているのがみられるような、永遠で普遍的な連鎖を意味するのでない限りは。
【訳注】
1) イシュマエルはアブラハムが女奴隷に産ませた息子で。嫡男イサクの誕生後は追放され(創世記16:4)、その子孫はアラビア半島の遊牧系部族になったとされる(同25:12-16)。『クルアーン』ではムハンマドを含むアラブ人の祖先で、アブラハムとともにカーバ神殿の創設者とされる(2:124-125)。
2) フォラール(Jean-Charies Folard,1669-1752)はフランスの士官。ルイ14世末期の戦争に加わった後、スウェーデンのカール12世に仕えて手柄を立て、フランスに戻って1719年の対スペイン戦でも戦った。いくつかの軍事的著作を著した。
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