精神論〔1758年〕
エルヴェシウス著、仲島陽一訳
第三部 第28章 北方諸民族の征服について
北方人の征服の自然的原因は、自然が勇気と力のあの優越を南方の諸民族よりも彼等に与えたことに含まれている、と言われる。この意見は、ほとんどすべて自らの源を北方の諸民族から引き出す欧州の諸国民の自尊心を喜ばすのに適しており、反論する者をみいださなかった。けれども、こんなに気にいる意見の真理を保証するために、北方人が実際に南方の諸民族よりも勇敢で強いかどうか、検討しよう。このために、はじめに勇気が何であるかを知ろう。そして道徳学と政治学の最重要問題の一つに光を投げかけ得る原理まで遡ろう。
勇気は、動物にあっては、欲求の結果に過ぎない。欲求が満たされるとどうなるか。だらけてしまう。飢えた獅子は人を、満腹した獅子は果実を攻撃する。動物の飢えがひとたびおさまると、すべての生き物は自己保存を愛するので、あらゆる危険から遠ざかる。それゆえ勇気は動物にあっては欲求の結果なのである。草食動物に臆病という名が与えられるのは、糧を得るために戦うことを強いられていないからであり、彼等は危険を冒すどんな動機も持たないからである。彼等が欲求を持っているならどうか。勇気を持っている。盛りのついた鹿は大食の動物と同様に猛々しい。
動物について言ったことを人間に当てはめよう。死は常に苦痛の後に来る。生は常になんらかの快楽を伴う。それゆえ人は苦痛を恐れ快楽を愛して生に執着する。生きるのが幸せであるほど、命を失うのを恐れる。豊かさのなかで生きている人々が死の瞬間に体験する恐れはここからくる。逆に生きるのが幸せでないほど、命を失うことを惜しまない。農民が死を平然と迎えるのはここからきている。
ところで、人間存在の愛が苦への恐れと快への愛に基づいているならば、それゆえ幸せでありたいという欲望は私達において生きることの欲望よりも強い。それの所有が自分の幸福に基づいている対象を得るためには、それゆえ各人は程度の差はあれ危険に身をさらすことができるが、しかし常に、その目的を持ちたいという欲望の大きさに応じてである(a)。絶対的に勇気なしでいるためには、絶対的に欲望なしでなければなるまい。
人々の欲望の対象は多様である。貪欲、野心、祖国愛、女性への愛、等々いろいろな情念に動かされる。したがって、最も大胆な決心ができる人間は、この情念を満たすために、他の情念が問題になるときには、勇気を持たないであろう。何度も見られたのは、人間味というよりも武勇に動かされる海賊が、獲物の希望に支えられたときには、侮辱に返報するために勇気を持たないでいることである。栄光へと進んでいたときにはどんな危険にも驚かなかったカエサルは、山車に震えながらだけ上り、流布しないようにしなければと想像していたある語句を迷信深く二度唱えなければそこに座ることはなかった(b)。どんな危険にもおびえる臆病な男が、自分の妻、愛人、こどもを守るのが問題になると絶望的な勇気に動かされることがある。こうした仕方で説明できるのが、勇気の現象の一部であり、同じ人が、おかれたいろいろな環境次第で勇敢にも臆病にもなる理由である。
勇気が欲求の結果であり、また情念によって伝えられ、偶然や他人の利害によって自分の幸福におかれる障害に対して行使される力であることを証明した。これに続いていまや、あらゆる反論を防ぎこれほど重要な題目にもっと光をあてるために、二種類の勇気を区別しなければならない。
私が真の勇気と名付けるものがある。危険をあるがままにみてとり、それに直面することに存する。いわば結果としての勇気でしかないもう一つのものがある。ほとんどすべての人に共通なこの種の勇気は、危険に無知であるためにそれを冒すものである。情念が、自分の欲望の対象に注意全体を固定させて、そのために身をさらす危険の少なくとも一部を隠してしまうのである。
この種の人々の真の勇気を正確に測るには、情念または偏見が隠している危険の部分全体を差し引くことができなければなるまい。しかしてこの部分はふつうかなりのものである。突撃開始に心配する同じ兵士に町の略奪を提案せよ、貪欲によって目が輝くであろう。攻撃の時をじりじりして待つであろう。危険は消えるであろう。貪欲であればあるほど大胆になるであろう。無数の他の原因が、貪欲の作用を生み出す。老兵が勇敢なのは、いつも危険を免れたという習慣から、危険が見えなくなっているからである。勝ち誇った兵士が大胆に敵に進むのは、抵抗を予期せず、危険なく勝つと信じているからである。後者が大胆なのは自分の幸運を信じているからである。前者は自分が猛者だと信じているからである。また別の者は、自分が巧妙であると信じて大胆になる。それゆえ勇気が真に死を軽視することに基づくのは稀である。だから剣を手にして大胆な人は、銃の戦いではしばしば臆病であろう。戦闘で死をものともしない兵士を舟の上に移したまえ。彼は嵐のなかに死をみて恐れるばかりであろうが、なぜなら実際そこにしか死をみないからである。
それゆえ勇気はしばしば、直面する危険をあまりはっきりみないことの結果や、まさにこの危険に無知であることの結果である。夜に恐れずにパリからヴェルサイユに行く者が一人もみられないのに、どれだけの人が、雷の音に恐怖を感じ、街道から遠くの森で夜通るのを恐れることであろう。しかしながら、街道で御者が下手であったり暗殺者に出くわしたりすることは、もっとふつうの事故であり、したがってまた、落雷や遠くの森でのまさにその暗殺者との遭遇よりも恐れるべきである。いったいなぜ第一の場合のほうが第二の場合よりも恐れが一般的なのか。稲光や雷の音が、森の暗さと同様、パリからヴェルサイユまでの道は喚起しない危険のイメージを精神にたえず提示するからである。ところで、危険があることを心に保つ者はごく少ない。その様相は彼等には多くの力を持つので、自分の腰抜けぶりを恥じ、侮辱に返報できずに自殺する人々がみられた。敵をみても名誉の叫びを押しつぶした。その叫びに従うには、自分だけで、この感情に自ら燃えて、敢えて言えば、自ら気づかずに死に身を委ねる興奮の時間を彼等がとらえる必要があったのだ。ほとんどすべての人に対して、危険を見ることで生まれる結果を避けるために、戦争では、逃亡をとても困難にする命令に兵士を従わせるだけでなく、アジアでは、麻薬で彼等を熱くすことも望まれるのである。欧州ではブランデー、そして太鼓の響きや叫びを挙げさせることでぼおっとさせることである(c)。身をさらす危険の一部を隠して名誉への愛を恐れと釣り合わせるのは、この学問によってである。兵士について言ったことは船長についても言える。最も勇敢な者のなかでも、布団のなかでも(d)首つり台の上でも、平静な目で死を考えた者はほとんどいない。戦闘においてはあんなに勇敢だったあのビロン元帥1)は、拷問ではどんな弱さを示したことであろう。
死の現前に耐えるためには、生に飽きているか、さもなければカラノス2)、カトー、ポルキア3)に死を決意させた、あの強い情念にさいなまれているのでなければならない。こうした強い情念に動かされている者は、ある条件でしか生を愛さない。情念のために身をさらしている危険を彼等は隠さない。それをあるがままにみ、それに立ち向かう。ブルートゥスはローマを専制から解放しようとする。彼はカエサルを暗殺し、武器を取り、攻撃し、オクタウィアヌスと戦う。彼は敗れ、自殺する。生は彼にとっては、ローマの自由なしでは耐え難いのである。
これほど激しい情念を持てる者は誰でも、最も大きなことができる。死だけでなく苦もものともしない生への嫌悪のために死を選ぶような人々とは違う。彼等は勇敢というのとほとんど同じくらい賢明という名に値する。大部分の人は拷問にあっては勇敢になるまい。その苦しみに耐えるのに十分な生命と力とを持っていない。生の軽視は彼等にあっては、強い情念の結果ではなく情念の欠如の結果である。不幸であるより存在しないほうがましだと自分に証明する計算結果なのである。ところで、こうした傾向の魂の持ち主は大きなことをなし得ない。生を嫌悪する者は誰でもこの世の事柄にほとんど関心を持たない。だから、自発的に死を選んだ多くのローマ人のなかで、暴君の虐殺によって、死を祖国に敢えて役立てた者はほとんどいない。僭主制の宮廷を四方から囲んでいる守備隊のため、そこへの接近が妨げられていたのだ、と言っても無駄である。腕に武器を取らせなかったのは体刑の恐れであった。そうした人々は、投身自殺をし、自分の血管を開かせるが、残酷な体刑に身をさらしはしない。どんな動機によっても、彼等はそのような決意はしない。
苦への恐れによって、この種の勇気のあらゆる奇妙さが説明できる。自分の頭を打ち抜く勇気ある人が短剣で身を一突きしないならば、、もし彼がある種類の死への恐れを持つならばその恐れはより大きな苦への真のまたは偽りの恐れに基づいている。
思うに、上に確立した原理によって、この分野のすべての難問すべてが解決する。そして若干の者が主張するのとは異なり、勇気が風土からの気質の違いの結果ではなく、すべての人に共通な情念と欲求の結果であることが証明される。私の主題の限定からして、「勇敢」「武勇」「大胆」その他のような、勇気に与えられているいろいろな名前について語ることはできない。これらは本来、勇気が現れる際のいろいろなあり方に過ぎない。
この問題が検討されたので、私は第二の問題に移る。人が主張するように、北方民族の征服は力〔強さ〕と、そう言われるように自然によって与えられた特殊な活力のためとすべきなのかどうか、知ることが問題である。この意見の真理を確かめるために、経験に頼っても無駄である。いままでのところ、細心に検討する者に対して、自然が、北方の製作において、南方よりも強力であることを示すものは何もない。ところで北方には白熊としゃちがいるならば、南方には獅子と犀、そして象がいる。若干数の黄金海岸またはセネガルの黒人を、同数のロシア人ないしフィン人と戦わせたことはない。どれだけの重さを彼等が持ちあげられるかでその力の違いを計ったことはない。この点で何かを確証したというにはほど遠いので、もし偏見を持って偏見と争わせようとするならば、北方の人々の強さについて言われるすべてのことに対して、私はトルコ人に対してなされる賛辞を対抗させよう。それゆえ北方人の強さと勇気について抱かれる意見を支持できるのは、彼等の征服に基づいてだけである。しかしそのときは、すべての国民が同じ主張をし、同じ資格で自らの征服を正当化し、自分たちが自然から厚遇されているとみな等しく信じ込むことができてしまう。
歴史を眺めてみよう。フン族がアゾフ海を離れて、自国の北方に位置する諸国民を鎖につなぐのがみられよう。サラセン人が大挙してアラビアの焼ける砂地から下って、大地の仇を討ち、諸国民を服従させ、スペイン人に勝利し、フランスの中心部まで荒廃をもたらすのがみられよう。まさにこのサラセン人が、勝利の腕で十字軍の旗を砕くのがみられよう。そして欧州諸国民が、繰り返し試みても、パレスチナで負けと恥を重ねるのがみられよう。他の諸地域に目を向けるならば、やはり私の意見が確かめられるのがみてとれる。インドの端から、勝利者としてシベリアの氷の風土まで征服していったチムールの勝利によって。インカ族の征服によって。キュロスの時代には、最も勇敢な民族とみなされ、彼等の名声にとても値するテンブレイアの戦いに現れたエジプト人の武勇によって。そして最後に、その勝利の武器をサルマティア4)まで、またブリテンの諸島にまで運んだあのローマ人によって。ところで認めてみよう。勝利は南から北へ、北から南へと交互に飛んでいったと。すべての民族が順々に、征服する側にもされる側にもなったと。歴史が教えるように、北方の民族が(e)南方の燃える情熱に感じやすいのは、南方の民族が北方の冷淡な気取りに感じやすいのに劣るものではないと。そして彼等は自分達のとあまりに異なる風土において等しく不利ななかで戦争を行うと。〔以上のように認めれば〕北方人の征服はその風土からの特殊な気質とは絶対に独立していることは明瞭である。また精神的なものによって単純で自然な説明が与えられる事実の原因を、自然的なもののなかに求めても無駄なことも明瞭である。
北方が欧州の最後の征服者を生み出したのは、そのときの北方陣がそうであったような、獰猛でいまだ未開な民族が(f)、フォラール騎士が注意しているようにそのときのローマ人がそうであったような(g)、ぜいたくと怠惰のなかで育ち、恣意的な権力に服従した民族よりも、はるかに勇敢で戦争に適しているからである。末期の皇帝の下では、ローマ人はもはや、ガリアとゲルマニアを征服し、南方もまたその法の下においていた、あの〔かつての〕ローマ人ではなかった。そのときあの世界の主〔と呼ばれたローマ人〕は、彼等が世界を征服した際に持っていたのと同じ〔北方人の〕武勇に屈したのである。
しかしアジアを征服するためには、彼等は鎖を持って行きさえすればよかったのだ、と言われよう。私は答える。アジアを迅速に征服したということは、南方民族の無気力を証明しない。北方のどんな町が、マルセイユ、ヌマンティア5)、サグントゥム6)、ロドス以上の頑強さで防衛したか。クラッススの時代、ローマ人はパルタイ人のなかに、自らに値する敵をみいだしたであろうか。それゆえローマ人が迅速に成功したのは、アジア人の隷従と怠惰のためである。
パルタイ人の君主制よりもゲルマン人の自由のほうがローマ人に恐ろしい、とタキトゥスが言ったとき、彼がゲルマン人の優越を帰したのは彼等の統治形態にである。それゆえ北方人の征服を帰すべきなのは、北方諸国の精神的原因にであって特殊な体質にではない。
【原注】
(a)最も勇敢な国民は、この理由によって、武勇が最も報われ、臆病が最も罰される国民である。
(b)〔ブルッカ―〕『哲学の批判的歴史』をみよ。
(c)サックス元帥7)は、プロイセン勢について語って、この件で、その『夢想』のなかで、武器をもって進む彼等の習慣はとてもよいと言う。この仕事に気を取られて、危険をみてとるのが減る、と付け加えている。
恐ろしい仕方で体に色を塗る、アリ人という民族8)について語るとき、なぜタキトゥスは、戦いのなかで目が最初に負けると言うのか。新しい対象によって、兵士の記憶に、雑然としかみていなかった死のイメージがより判明に、思い返されるからである。
(d)若者が一般に老人よりも、死の床ではより勇敢で死刑台ではより弱気なのは、最初の場合は若者のほうが希望を保ち、第二の場合はより大きな損失を蒙るからである。
(e)北方人が南方人よりも飢えと寒さによく耐えるならば、南方人のほうは暑さと渇きによりよく耐える、とタキトゥスは言う。
まさにそのタキトゥスは、「ゲルマン人の習俗」において、彼等は戦争の疲れに持ちこたえない、と言う。
(f)オーレ・ヴォ-ム9)はその『デンマーク人の古代』において、自らの知識の大部分をデンマークの岩から、すなわちそこにルーン文字またはゴート文字で刻まれた碑文からとったと打ち明けている。そうした岩は、北方の文書庫のほとんど全体を構成する、一連の年代記と物語を形づくっていた。
なんらかの出来事の思い出を保つためには、とても大きな自然石を用いた。他人人は何か対になる物を与えた。こうした石の多くがイギリスのソールズベリ平原でみられるが、それはブルトン人の君主や英雄たちの墓所として役立っていた。そこから大量の骨や甲冑が出ることで証明される。
(g)カエサルは言う。かつてはゲルマン人よりも好戦的であったガリア人がいまでは武術の栄光で彼等に譲るのは、ローマ人に交易を教えられて以来、豊かになり文明的になったからであると。
タキトゥスは言う。ガリア人に起きたことがブルトン人にも起きた。この二民族はその自由とともにその勇気も失ったと。
【訳注】
1) ビロン(Biron,1524-92)はフランスの軍人・元帥。アンリ4世を支持して勇戦し、戦死。
2) カラノス(Kalanos,BC.c.398-328)はインドのバラモン僧、裸行者。アレクサンドロス大王に同行したが、老衰を感じ、自ら生きたまま火葬。
3) ポルキア(Prcia)は小カトーの娘でブルーとぅすの妻。共和国ローマ婦人の典型と言われ、共和制滅号後に自殺。
4) サルマティアはバルチックからカスピ湾まで及ぶ地域。
5) ヌマンティア(Nimantia)はBC.134-133年、ローマに激しく抵抗し、スキピオによって征服されたスペインの都市。
6) サグントゥム(Saduntum)はBC.219年、カルタゴに劫略され、第二次ポエニ戦争の発端になったスペインの都市。
7) サックス(Saxe,1696-1750)はフランスの軍人。マールバラおよびオイゲン公の下で戦い、フォントノワ、ロワールの戦いで勝利して元帥になった。
8) 現在のアフガニスタンのヘラートに「アレクサンドロスのアリー」があったが、これを指すかどうかは不詳。
9) オーレ・ヴォ-ム(Ole Worm、ラテン語ではOlaus W(底本ではV)ormius,1588-1654)はデンマークの医師、博物学者。コペンハーゲン大学教授。発生学で業績をあげたほか、ルーン文字の研究でも知られる。
コルネリウス・タキトゥス(Cornelius Tacitus, 55年頃 - 120年頃)は、帝政期ローマの政治家、歴史家。個人名はプブリウス(Publius)ともガイウス(Gaius)ともいわれるがどちらかは不明で、通常は個人名を除いて表記される。サルスティウス、リウィウスらとともに古代ローマを代表する歴史家の一人であり、いわゆるラテン文学白銀期の作家として知られる。その著作では、ローマ皇帝ティベリウス・カエサルの治世中にユダヤ総督ポンテオ・ピラトがイエス・キリストを処刑したことも書いている。
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