床屋道話68

「半分もある」か「半分しかない」か――相対主義の詭弁の一つ――

二言居士

 

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  一リットル入りの器に水が0.5リットル入っている。これは水が「半分もある」とも「半分しかない」とも言える。――詭弁のほとんどがそうであるように、これもそれ自体としてはただちに間違いとは言えない。ただ使われ方として、詭弁であることが多い。よって問題がどこで生じ、どのように有害なのかをほぐしていきたい。

 この言葉で意味されるのは、同じ事態でもその評価は人によって異なり、場合によっては反対でさえある、ということだ。そしてそのことも「それ自体としては」間違いではない。ここでまず問題になるのは、ここから「客観的事実などというものはない」と飛躍されてしまうときで、この言葉を持ち出す者の多くはそうもっていきたいのだ。こうなると詭弁である。「一リットル入りの器に水が0.5リットル入っている」ということは客観的事実だ。事実認識と価値評価を区別しなければならない。哲学では、そもそも客観的事実などいうものはないとか、両者の区別はできない、とかいう主張もあるが、ここでは常識に基づき論ずる。(実は「哲学」の半分以上は非常識な詭弁なのだ。)

 もっと厄介な問題に進もう。この言葉を言う者の意図が、むしろ(上の問題はそれとして)「物事をどうみるかはみる人による」ということであるときだ。これもごく曖昧な意味では間違いとは言えないが、それによって事柄の本質などというものはない、あるいはそれを知ろうとするのは無駄だ、とするならば有害な詭弁になる。本質を知ることは重要だ。まず(ただの「知識」でない)理論にとってはまさにそれが重要だ。実証主義はまさにそれを否定する有害な哲学である。(相対主義の批判が相対性の否定でないように、実証主義という哲学への批判は実証科学の否定ではない。)しかしここでも哲学論は棚上げにしよう。日常的生活世界においても、本質の探究は重要である。たとえばある「事案」が「トラブル」なのか「性暴力」なのか。「性暴力」も「トラブル」の一種ではあるから、その事案をどう見るかはみる人次第であるとも言える。しかしその事案の「本質」をどうみるかということになると、「トラブル」一般とするか「性暴力」とするかが問われる。そうすると詭弁家が言いそうなのは、なら「本質」は多数決で決まるのか、だ。この場合はある意味ではそうだ。(自然現象の「本質」に関してはそうでないのだが、それを論ずるには科学論の、つまり哲学の領域に入ってしまう。それを避けて、むしろ詭弁家に有利な領域を敢えてとりあげる。)この反問で詭弁家が準備している論法は三つの場合がある。1)この案件は多数決で本質を決めるのにふさわしくない。2)そもそも多数決で物事の本質が決まることはない。3)多数決を含め、人の意見が事柄の「本質」を決めるということはできない。 それぞれの機会でどの場合なのかをみきわめなければならない。1)については論じなくてよいだろう。この場合は少ない。またもしその場合で、こちら側が正当化しようとすると、問題の事案の本質が多数決で決めるのがふさわしいかどうかを決めるのはやはり多数決だ、となりやすく、そうすると2)か3)の場合に移るからでもある。3)を選ぶ詭弁家は「倫理的自然主義」に立っていることになる。これも(他の多くの「哲学」同様)常識的ではないが、「論駁」するのは難しい。人間も自然の一部だ、という認識は正しいが、自然に過ぎない、というこの哲学は非常識であるとともに誤りである。確かに常識が正しいとは限らないが、幸いにもこの哲学が真理であると証明されているわけでもない。人も自然の一部だ、というのは正しいが、自然物でしかない、とするのは常識に反するので、「誤りと証明されない限りは常識に従う」を原則とする会話では、自分はその立場には賛成しない、と言っておけばさしあたりは足りる。そこで残ったのが2)だ。これと3)は反対方向に向かうが、共通する前提は、「本質」という概念が客観性を含意していることだ。たとえば「重要」というのは、「私にとってはこれが重要だ」のように主観的、ひとそれぞれであり得るが、「私にとってこれが本質だ」というのは不適切な言葉使いとなるだろう。ここから3)は、「本質」を言うなら人の意見でなく、人間の問題でも人もモノとしてみる必要があるとするのに対して、2)は人間の問題で「本質」を持ち出すことに反対し、すべては主観だとするのである。自然現象の「本質」についてはふれないことにしたが、その社会的文脈で語るときはその現象ないし事実がおかれている位置から語ることになる。たとえば「1ℓの水がある」というとき、「平均的成年男子の1日の摂取量として」なのか、「ある料理一人前に必要な量として」なのかで、客観的に多いか少ないかが決まる。その際に健康に悪くてももっと多くあるいは少なく望む、という者はあろう。それでも「ぱさぱさ」のごはんであるとか「つゆだく」の牛丼であるとかいうのは、多数決で決まる。人間関係の「本質」も同様で、ある事案の本質を「トラブル」とするか「性暴力」とするかは多数決で決まる。その場合の「多数」は一定じゃないでしょと言われればその通りである。ある場合に「性暴力」とされる事態に、別の時代や別の国では単なる「トラブル」とする者が大多数かもしれない。多数決である以上は少数意見もあり得る。社会事象の「本質」が何であるかはさしあたり多数がどうみているかを示せばよく、その「正しさ」なり「妥当性」なりを「証明する責任」はない。少数派がそれに不満ならそちらの側に挙証責任があり、それによって多数派に転じることもある。それをしないで、単に「ものの見方は人それぞれだ」、「物事の『本質』などはなく各人が自分に重要な面を取り出しているだけだ」など言うのは、話をぶち壊すだけの詭弁になる。

 「<もある>とも<しかない>とも言える」がどういうときに、またどういう意味で詭弁であるかを述べた。これはなぜ生じるのか、そしてどう対したらよいのか。まずそれは頭が悪いからではない。極度に愚かな者は詭弁を弄することもできない。そこには意図がある。相対主義一般の意図はいろいろあり、全部を並べて論ずる余地はない。自分の見方の表明を避けたいという意図についてだけとりあげたい。その理由もいくつか考えられるが、そうするのか本人にとってつらすぎたり、大きな被害や損失を招きかねない場合もある。だから言わない、とすっと言ってくれたほうが会話は楽に続くのだが、よくも悪くもそのこと自体も言いたくない場合もあり、そういう事情が察せられるときには、詭弁とわかっても「そうですね」と流すのもありだろう。そうでない場合は?

 一般論への移し替えには乗らず、あなたは「もう」と思うのか「まだ」と思うのか、としれっと聞くのがいいだろう。それに答えたくない詭弁家が対抗してもちだすかもしれないのは、主観を話し合うのは無駄だ、というさらなる一般論だ。科学そのものでない哲学やまして一般的会話で、客観的妥当性のない意見を無駄として排除するのは、科学主義の詭弁である。(相対主義批判が相対性の否定でなく実証主義批判が実証科学の否定でないように、科学主義批判は科学そのものの否定ではない。)では逆にエビデンスに基づかない「神学論争」にどんな意味があるのか。1)多くの人にとっては他人がどのような信仰(比喩的な最も広い意味で)を持っているかということにこそ大きな関心を持っている。なおa.その際それについて(知るだけでなく知って)共感し合いたいとか議論したいという欲求を持つ者も少なくない。b.そんなことにはまったくまたはほとんど関心を持たない者も少数だがおり、彼等がそれを当然とかあるべきとか思い込んでいることでこのような詭弁につながることもある。2)他人の意見を知ることで自分の見方が深まったり、ときには変わることもある。たとえばいまエンタメ界で話題になっている事柄が、むかし殿様や若様が腰元や村娘を「手籠めにする」ことと「本質的には変わらない」という意見もあろう。確かに両者に共通性もあり、そこをみることは無意義ではない。しかし現在の日本では、それは少数意見だろう。ではなぜ、時代や国によって多数意見は違うのか。それを考えることによって、たとえば「封建社会」や「近代社会」とは何なのか、考えることになる。これは「人間社会なんていつどこもそんなものよ」にとどまる(と言うのはそういう面もなくはないからだ)認識よりも深いし有用である。

 自分の意見を言わないことをもっともに思わせるのにもちだされることがあるもう一つの論理は、それは「敵か味方か」になる、というものだ。それはその通りだ。私達が会話する最大の目的は、客観的真理の探究ではない。相手が自分の敵か味方か知りたいということなのだ。それがなぜよくないのか。マウント取りたいんですか、と言われようか。そういう人もいるが、それは悪用だと言えよう。善用とは何かといえば、先に出たように、異論と闘うことによってこそ、自分の意見が深まったり修正されたりすることが最大の善用だろう。「論敵」との「闘い」は道徳的には悪でなく善である。事実認識の深まりは、「どうすべきか」の認識も進める。令和日本の性暴力も、いつでもどこでもあり得る出来事、としてしかみないならば、自分や身内が巻き込まれないように注意する、という程度の対策しか出てこないだろう。誰かを「敵視」するのはよくないといった偽善的論法の影に、「敵」に叩かれた体験から、それを避けたいという気持ちがあることもあるだろう。気の毒とは思うが、小ずるい戦略だとも言うべきだろう。打たれ強くなるように鍛えなければならない。物理的攻撃はもちろんなされるべきではない。しかし言論による批判は自由でなければならない。批判の内容や仕方で不適切で、不当に相手を傷つけるものは確かにある。しかしだからと言ってあらかじめ「論争」そのものをおきないようにしようとするのは卑怯な弱虫と言われてしまうだろう。利害の対立は会話だけで解決できるものでないが、「論敵」はよきライバルでありたいものだ。異論や批判も対話のスパイスにしてしまうような、おとなの貫録を持てるようにしたいものだと思う

 最後にこのような道徳的あるいは教育的な「効用」だけではない。たとえば巨人ファンが相手もG党だとわかると喜ぶのは当然だが、虎キチを相手に「口撃」を交わし合うのも、それはそれで楽しいものだ。


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