時効について(床屋道話8)
二言居士
刑事事件の時効を廃止すべきだという意見が強くなってきた。法務省も検討を始めたようだ。ここで小生はそれに反対だ、とすぐ断定する気持ちではないが、その意見の理由として言われることの中には違和感を覚えるものがあり、すぐに賛成はしかねる。実は数年前に既に変更があり、現在は最も長い場合は二十五年である。これは逮捕されれば死刑になるような犯罪と考えてほぼよいであろう。それでも時効を廃止すべきだというならば、二十五年では短い、という意味になる。
そもそも時効の意味がわからない、という廃止論者もいる。法律そのものには時効の意義を記していない。それゆえその意義について語られることはすべて「説」であるから、ここではあまりとらわれずに考えてもよかろう。その「説」をいくつか挙げよう。①時効がないと警察は永遠に捜査義務を負ってしまう。②二十五年捜査して駄目だったのがその後逮捕できる可能性はきわめて少なく、無限でない労力や費用はそのためによりも起こったばかりのは犯罪に向けるべきである。③あまりに時間がたつと立証または反証が難しくなる。これらは無視してよいわけではないが、どちらかというと技術的であり、最も本質的な論点とは言えまい。④次に一見揚げ足取りのようだが、意外と本質的かもしれない問いを、廃止論者に発してみたい。ではあなたは一切の時効に反対なのか、つまり微罪について短い時効があることにも反対なのか、と。そうだ、というなら極論であり少数意見であろう。ずいぶんけちくさくめんどくさいヤツだ、と世間から叩かれそうである。実際いま問題になってるのはそういうことではなく、殺人のような大罪を犯した者が時効で裁かれないままでいいのか、ということである。だとしたら時効にしてもよい罪とそうでない罪との境をどう、何を根拠にひくのか、ということが難しかろう。しかしこの問題もつっこまないでおこう。
小生が違和感を抱くというのは、犯罪者がいつまでも裁かれずにのうのうと生きていることが許せない、という(時効廃止論の理由として述べられる)言い分である。この言い分のうち、「生きていることが」許せないというところに力点があるものはここではとりあげる必要がない。つまりそれはそうした犯罪者は死刑にすべきだということになり、死刑そのものの是非に論点がずれてしまう。問題にしたいのは、(被害者側はいつまでも苦しんでいるのに)加害者が「のうのうとして」生きていることが許せない、というところに力点がある発言である。ここで小生が疑問なのは、そういう発言をする者は犯人の状況をどうしてそう断定するのか、ということである。むしろ相当つらいんじゃないの、ということだ。実は今回小生がもう一つ意外に思ったのは、時効の理由として、このように逃げ隠れして生きることが既に罰を受けているようなものだから、というのが有力な説として挙げられないことだった。逃げ隠れする加害者には、指名手配されている場合と、自分が犯人と悟られていない場合とがある。前者の場合、名を偽り知り合いのない土地に移り、住民票や免許証、カード類の使用はほとんどあきらめなければならないのでかなり苦しいことはすぐわかるはずだ。後者はその点ではより楽そうだが、前者の苦労は技術面にまぎらせられる面もあるのに対し、いつかわかるのではないか、あるいはむしろ自ら今からでもうちあけるべきではないかと、より倫理的な葛藤の辛さがあるかもしれない。まあ確かに、こうした辛さをまったく味わわず「けろっと」すごしている加害者も中にはいよう。しかしそうしたごく少数の存在を論拠にすることは妥当であるまいし、いずれにせよそうした異常な犯罪者(脳の器質的障害にでもよるのか)は、仮に刑罰を受けてもやはり慙愧の念や良心の呵責などは持たず、ついてないぜ、くらいしか思わないなら、はじめから別問題とすべきであろう。というより小生は、たとえこういう考えが浮かんでも発言できないだろう。「じゃあお前が犯人なら捕まるまではのうのうとしてられるのか?」という反問をすぐ思ってしますからである。つまり、こうした発言の背景には、「罪を犯した人間」の心理についての感受性のなさ、あるいはそれへの想像力のなさという問題があるのではと疑いたくなる。今回最も問題にしたいのはこの点である。
ところで近年「加害者」に対する厳罰要求が強まっており、時効廃止論もこの一環かもしれない。悪い奴を甘やかせている、という「空気」をつくりあげ、更生よりも処罰を強める少年法改定をしたり、「人権派」弁護士等が冷静に法的手続きの保証を求めることまでたたいたり、憑かれたような恐さも感じさせる。今回は深入りしないが、この変化の理由と意味についても注意を促したい。
だがお前は執念深さをむしろ肯定しており、PTA会長を告発し続けたニャロメをほめ(第四回)、元AV女優をテレビで持ち上げることに反対した(第六回)ではないか、と言われるかもしれない。時効に限って、もういい加減許してやれよ、というなら一貫していないではないか、と。違いは、時効は「社会的制度」だ、ということにある。被害者側が、時効になったからといって犯人をゆるさないぞ、と思っても小生は第三者として反対はしない。ゆるすことが大切です、と説教することはないだろう。ただ時効になったら警察が捜査することはもうゆるしてやろうよ、ということである。(それは国民がその費用を税として負担することを含め、捜査に協力する義務からもゆるしてやろうよ、ということである。この意味では、被害者側が犯人をつきとめたり犯人が自首したりした場合に裁判には時効がないというのはあり得る制度かもしれない。)今回の第三の主張は、この意味で時効は当人の感情や意志の問題でなく社会制度の問題だということである。これはたとえば喪の問題と同じではないか。服喪期間が終わったからと言って、悲しみの気持ちを無理やり終わらせなければならないわけではなく、そういう人の感情自体は第三者が非難はできない。問題は社会的なけじめなのであり、その人の前では未来永劫にしゅんとしていなければならず、その人には社会的義務を免じ、またたとえばその人の家族はいつまでも結婚できないとか、そういうことはもうゆるしましょうよ、という制度なのである。
--------------------------------------------------------------------------
◆仲島陽一の哲学の本◆
ある事件が、本当の意味で「終わり」を告げる日は、犯人が逮捕された日でも、刑が執行された日でも、加害者が謝罪した日でもない。
被害者が、加害者を「許した」日である。