「起きていることはすべて正しい」か(床屋道話10)
二言居士
上の「」内の言葉は勝間和代氏のものである。厳密に言えば、彼女が同僚から教わったものだそうだが、彼女が「座右の銘」とし、著書の題にもしている(ダイヤモンド社刊)ので、彼女の言葉として扱ってもよかろう。
勝間氏と言えばまずは市場のカリスマの一人である。19歳で会計士補の資格を得、マッキンゼー、JPモルガン等米証券界で実績を挙げ『ウォール・ストリート・ジャーナル』でもとりあげられた。こうした勝ち組としてのキャリアをひっさげて経済評論家として近年人気の物書きとなった。「カツマー」と称される追随者(単なるファンでなく自らの指針にする者)もいると言う。二十年前の「アムラー」や「シノラー」以来の現象だぜ(?)。しかし他方、小泉・竹中らが推し進め「格差社会」をつくった新自由主義のいまさらのイデオローグとして批判も受けている。著者もはじめからそう感じており、これをみて「やっぱりな」と思った。すなわちこれは新自由主義の核心的な考え方であり、また私が最悪の思想として戦っている「勝てば官軍」だからだ。
しかしこの考え方にも一見もっともと思わせるものはある。まただからこそ本人や追随者は納得してしまうのだし、だからこそ批判の必要がある(一見して間違ったものや愚かなものは批判に値しない)。勝間氏の実例では(朝日新聞、09年6月「勝間和代の人生を変えるコトバ」欄)、商品開発が失敗したとき、「市場が間違っている」と現実を直視せずに認識を歪めるのでなく、「市場の反応は正しい」と認め、自分の仮説の甘さや戦略の見込み違いを受け入れ、次に生かすことだという。
以上の言い分で正しいのは、現実に起こることには(したがって失敗にも)必ず原因または客観的な根拠がある、という点である。また私が賛成するのは、望ましくない現実から目をそむけたりごまかしたりしてはならず、成功したければ原因を究明して対応を変えよ、という点である。
誤っているのは、「根拠がある」ということを「正しい」と表現する点である。「正しい」というのは、厳密にはある判断(または命題)についてだけ言われることである。日常語ではある現実についてもそれは「正しい」と言い得るが、それは「根拠がある」という意味ではなくなんらかの「正当性がある」という意味である。はじめから「よろしかったでしょうか」と過去形で尋ねるのは文法的に「正しい」かとか、公訴時効の廃止を既に起こった犯罪にも訴求適用することは法的に「正しい」かとか言われるときがそうした例である。戊辰戦争での新政府軍の勝利には確かに原因や根拠があるが、それは薩長側に正当性があったかどうかとは別である。ことわざ「勝てば官軍」の意味の一つはまさにそのこと、つまり成功は正当性の保証ではない、ということだ。アウシュビッツもヒロシマも起こったことだから「正しい」のか。それが勝間氏の言いたいことではないであろうし、それらを「正しい」こととは彼女も認めないであろう。
(そう思いたい。)しかし彼女の言い方(論理)だと客観的にそうなってしまう。
成功を正当性と誤解すれば、もはや勝ち負けから独立した「正・不正」「善悪」の判断は無用になる。現実をすべて「正しい」ものとして受け入れ、そのわくの中で自分の側を変えることで勝てるように考えるべきであり、わく自体を「不正」とか「悪」とかみなして変えようとすることは、「現実逃避」「負け犬の遠吠え」「弱者のルサンチマン(怨恨)」と罵倒されることになる。公正への要求は、成功者への妬みだ、足をひっぱるな、と逆に非難される。これはまことに勝者・支配者・強者に都合よい言い分(思想)で、弱い者を黙らせ追い詰め、屈服させようとするものである。
その意味でこの「コトバ」を批判しようと思っていたところ、新聞連載の最後の回で彼女が出したのが、まさに「妬まない、怒らない、愚痴らない」だった(10年3月)。これは「他者のせいにするという考え方を禁じる」と自分で言うとおり、まさに「自己責任」イデオロギーであり、観念論(彼女は仏教と結び付けている)と市場主義による民衆支配の「コトバ」である。
私達は正しくない現実におおいに怒らなければならない。そして確かに感情的に怒るだけでなく、不毛な妬みや愚痴に終わるのでなく、正しくない現実がなぜ起こっているのかを追究し、悪い奴をやっつけ、悪い制度を変えていく行動へと結び付けなければならない。
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