新自由主義批判の基礎視座について


  一 本稿の課題と方法

 2008年は新自由主義の「終わりの始まり」の年として記憶されることになるかもしれない。その直接で最大の契機としては、「リーマン・ショック」が挙げられよう。しかし07年からの「サブプライム・ショック」にその始まりをみることも可能であろう。日本に焦点をあてれば、さらにその前の06年には、「構造改革」路線が「格差社会」を生んだという批判が表面化し、退場したばかりの小泉政権の政策を継承するのか見直すのかが問われるようになり、ここに転換点をみることもできる。小泉時代にこの政策の旗振り役を勤めた一人の中谷巌氏が「懺悔」本を出すなど、いずれにせよこの数年は新自由主義批判の声は大きい。しかし他方で現在の恐慌は新自由主義の必然的帰結ではないとし、新自由主義を擁護する、またはさらなる推進を求める声もある。すなわち金融を中心とする現代の経済危機は経験的事実であるが、それが「新自由主義」というものの産物と言えるかどうかには理論的検討が必要である。また「新自由主義」は厚みを持った思想的・理論的な体系であるから、一時的な経済政策のようなものでなく、一時の「成功・失敗」で簡単に評価されるものでもない。仮にその大枠を変えずに経済危機が克服されても「だからそれはよい」と言えるかどうかは別問題である。またもしそれが「悪い」ものであるなら、なぜそれがいままで採用されたかを考えなければならない。これは批判者の側により大きな「説明責任」が課される問題である。
 私自身は、新自由主義は「悪い」とするのが直感的な立場である。ではそれはなぜ「悪い」と言えるのかを、「よい」とする立場をできるだけ理論的に批判しながら示すことが求められる。無論理論的誠実さからは、これは直感を不動の前提としてではなく、それ自体覆され得る吟味として行われるのでなければならない。また新自由主義はここ数年の経済状況から結果論的に単純に評価され得ないだけでなく、それ自体の内的構造や論点をほぐしていかなければならない。この二重の意味において、私は「批判的」観点をとるものの、批判そのものというより、どこに問題点があるか、またどのように批判し得るかの指摘にとどまるところもあろう。そこで本稿は新自由主義の十全な批判というより、私にとっての(うまくいけば同様な関心を持つ読者にとってもまた)問題の整理をめざすものである。

  二 新自由主義の基本的性格と構成要素

 いきなり新自由主義の定義または本質規定を与えることは難しい。そこでまずはその基本的な特徴を挙げてみたい。
まずそれは「市場主義」ないし「市場原理主義」と言われる。支持者の標語としては、「民間(私企業)でできることはできるだけ民間に任せる(べき)」という。これを裏からいえば「小さな政府(がよい)」である。「小さな政府」とは政府の機能をできるだけ少なくすることであるから、それは公企業を私有化(支持者側の用語では「民営化」)することや、政府による規制を撤廃または緩和することを意味する。以上が新自由主義のいわば主な「要求」である。
逆に新自由主義が反対するものは何か。「大きな政府」ということになるが、それは政府が市場に介入することを意味する。これにはいろいろな場合が考えられるが、五つの観点に分析可能であろう。①「福祉国家」論。国家の目的を治安や防衛だけでなく、国民の福祉にもおき、そのために政府が積極的な福祉政策を行うことを要求する。福祉を上位の価値として、市場機構を否定しないがそのために制約されてよいとする。②ケインズ政策。景気対策のために政府が市場に介入することを要求する。これも市場機構を否定しないが、「市場まかせほどよい」でなく、政府の介入なしでは市場機構自体が崩壊するとみなす。③社会主義。市場原理を原理的に否定するもの。④「混合経済」論。市場機構に基づく資本主義に原理的な欠陥があることを認めつつ、原理的な社会主義もよしとせず、両者の要素を「適度に」取り入れることで最適の制度ができるとする説。(①や②と重なる場合もある)⑤ファシズム。ふつう市場機構を正面から否定はしないが、より上位の価値(国家、人種、民族など)を持ってそれによって制約されて(統制経済面が強くなっても)よいとする。
次に新自由主義を構成する要素を整理してみたい。Ⅰ思想としては、①経済学、②経済政策、③社会思想、④人間観、とでもなろうか。それぞれにおいて問われることは次のようになろう。①ではまず、経済現象の説明として客観的妥当性があるのか、である。また従来の経済学、あるいは対抗するケインズ経済学やマルクス経済学を反駁し得ているのか、少なくともよりすぐれた理論であり得るのか、も問われよう。②ではその政策が誰にどのような経済的利益(損害)をもたらすのかということである。③はそれがどのような経済観・政治観と結びついているのか、④はそれがどのような人間観(価値観・倫理思想)と結びついているのか、である。さらに①―④の諸要素がどのように結びついているのか、どれが本源的でどれが派生的なのか、といった問題もある。これは新自由主義思想の構造の問題といえよう。
新自由主義は(「民主主義」や「修正資本主義」同様)思想であるとともに現実(の一部)でもある。そこでⅡ思想としては、新自由主義的な①経済(社会)状況、と②人間類型、としてそれぞれ考察できよう。
以上の論理としては、ここでⅠとⅡの関係をたてることができようが、それはむしろ新自由主義の歴史の問題として考えるほうが適切であろう。

 三 新自由主義の略史

「新自由主義」の始まりは、ハイエクの『隷従への道』発行(1944年)とモンペルラン協会の創設(1947年)に求められよう。前者は新自由主義の綱領的文書とみなせるし、後者によって学派または思想集団としての新自由主義がはじまったとみなせるからである(注 創設大会の出席者にはハイエク、フリードマン、ポパー等36人、以後ほぼ隔年で大会が開催されている)。それから六十年以上がたっており、新自由主義も歴史を持ち、いくつかの段階を経ているといえよう。
第一はむろん出現期である。その契機は何か。先に新自由主義が「敵」とするものを挙げたが、その出現ないし台頭への反動ないし危機感であろう。まずはロシア革命(1917)以来「社会主義」が思想や運動としてだけでなく現実の社会体制としても現れだしてきた。第二にファシズムもイタリア(1922)やドイツ(1933)で政権を獲得した。第三にアメリカでは世界恐慌(1929)後の「ニューディール政策」により「大きな政府」への転換があった。第四にイギリスでも労働党の政権入り等を通じて「自由放任」から社会民主主義的「福祉国家論」への動きが始まった。これらすべてに新自由主義は反対であり、したがってそれを批判する必要を感じていた。ところで上の四つは複雑な影響や対抗の関係を持っており、それをどうとらえるかは論者で意見が分かれる。『隷従への道』はこのとらえ方に関するハイエクの考えを述べることが、大きな目的となっている。そこで検討すべき課題は、新自由主義の本来の狙いあるいは主張の妥当性ということになろう。ただしこのように登場した新自由主義は、60年代まで少数派であった。思想界でも、経済学でも、経済政策の現場でも、大きな影響は持たなかった。
1970年代は新自由主義の第二段階と言えるかもしれない。それを示すものは、まず学界での復権ないし台頭である。1974年にはハイエクが、1976年にはフリードマンがノーベル経済学賞を受賞した。私はこの二人が新自由主義の代表者と言ってよいのではないかと思う。以後「シカゴ学派」とも呼ばれるその潮流の学者たちの受賞が続く。ただし、経済学賞は他の部門と違い1968年に銀行の拠出金で始まり存在やあり方に異論もあること、また受賞者は以後推薦者に加わるので弟子筋が受賞しやすくなることを考慮する必要がある。つまりノーベル経済学賞受賞は、純粋に学問的な評価とは言いがたい面もあるが、経済学界における潮目の変化を示すものであるとは言えよう。ではこの変化の契機は何なのか。そこで逆に問えばそれまで脚光を浴びていたのは何かと言えばケインズ経済学であろう。それゆえ変化の契機を一言で言えば、ケインズ政策の危機であるということになろう。こうしてここで検討すべき課題は、ではケインズ政策の危機の原因は何か、それはケインズ理論そのものの間違いまたは限界によるものなのか、ということであろう。次に新自由主義がケインズ政策にかわる有効性を持つのか、ということであろう。後の問題に関しては、理論内部でだけ検討をする意味はいまではあまりない。なぜなら主要国のいくつかが実際にこれを行ったことにより、それをふまえて検討すべきだからである。すなわち1980年代は、新自由主義の政策的勝利の時期と言えよう。イギリスのサッチャー政権(1979-91)、アメリカのレーガン政権(1980-88)、日本の中曽根政権(1982-87)がその代表である。前にみた新自由主義の構成要素のうち第一段階では、社会思想が最も中心になっており、最も本質的な敵と意識されていたのは「社会主義」と「ソ連」であるように思われる。しかし第二段階では、「西側先進国」の「社会民主主義」や「リベラル派」が、むしろそれ自体として槍玉に挙げられ、構成要素としては経済政策と経済学が主戦場になったようである。
1990年代以降が、第三段階と言えよう。これは新自由主義自体の質的変化というより、状況変化によるその拡大ないし世界化の時期である。状況変化の一つは、1989年以降の東欧旧体制の崩壊そして1991年のソ連崩壊である。これによりこれらの地域が市場経済圏に入った(92年に中国も「社会主義市場経済」の方針を出した)。またそれは市場経済の勝利または成功という意見が広く流布された。第二の状況変化は、インターネットの普及を中心とするいわゆるIT革命である。そこで検討することも二つに分けられる。第一が、旧「東側」諸国の体制転換は市場主義の「正しさ」ないし「よさ」を実証したものと言えるかどうかという点である。第二が、90年代以降の技術変化がどのような意味で新自由主義に棹差したのか、したがってそれは今後も進む力と言えるのかどうかという点である。

 四 成立の要因

新自由主義の思想的出発点として、ハイエクの『隷従への道』がある。これは1944年、すなわち第二次世界大戦中にイギリスで出されたものである。新自由主義の敵として私は五つを挙げておいた。すなわち①「福祉国家」論②ケインズ政策③社会主義④「混合経済」論⑤ファシズム、であるが、この書でもそうなっている。そこでは⑤が悪であることはほとんど自明視されている。これは今日の私たちにとっても不自然なことではないし、当時のイギリスがファシズム諸国と軍事的に戦っていたことからも、自然ではある。問題は残りである。③に関して言うと、社会主義を称していたソ連とは同盟関係にあった。しかしそれは軍事的な必要からやむをえない一時的連携であって、政治経済的にはソ連の体制は敵とみなすべきだ、という主張は不可能ではない。事実ハイエクはそうみなす立場であり、(いまは国家関係としては敵対しているが)むしろ思想制度としては社会主義とファシズムとは同じ穴の狢だとみなすのである。この問題に関しては、以下の二点の指摘だけにして本稿では深入りしないことにしたい。a:両者を左右の「全体主義」として同一性ないし共通性を重く見る主張は、「自由主義」的立場にときおりみられるものであり、ハイエクないし「新自由主義」に固有なものではない。そしてそれに対する批判意見も勿論ある。b:マルクス等が構想した「社会主義(ないし共産主義)」と、実際のソ連等の現実とは、いわんやスターリン体制化のそれとはかなり違いがあり、そこをよく区別しないままあれこれ述べることには大きな危うさがある。本稿でより問題にしたいのはしたがって①②④についてであり、これはイギリスの社会民主主義的路線としてひとまとまりとしてもよいと考える。ファシズムの「悪」については自明であり、ソ連の「悪」については賛否は分かれようが当時のイギリスで理解不能な主張ではなかったろうが、①②④への批判は、すぐに理解されるものでなかったろうと思われる。ハイエクがそれらをなぜ「悪」とみなすかを一言で言うと、それらが結局は社会主義やファシズムに導くからであり、つまり「隷従への道」だから、ということになる。これがおそらくこの本の独自性をなす主張であり、著者自身重視した論点である。はたしてこの主張は正しいのか、が問われるべき問題である。
当時のマルクス主義者が言ったように、イギリス労働党(および同種)の社会民主主義はその後の実践からみても社会主義ではなかった。「社会主義」を別様に定義すればその言い方は単純すぎると言われるかもしれないが、少なくともそれが、マルクスの想定した階級も搾取もない社会をつくらなかったことは確かであるし、それへの「漸次的な移行」であるといまも本気でとっている者が多いとも思われない。だがここでは社民主義と社会主義の区別の問題、そして両者の評価の問題には立ち入らない。問題にしたいのは、社民主義への当初の存在意義あるいは支持理由として、ハイエクの意見とは逆に、それが社会主義への防波堤として役立つ、というものがあったことである。すなわち政府による不況対策なり福祉政策なりがなければ、労働者階級は社会主義を支持するだろうというものである。実際に、ロシア革命後に資本主義諸国が労働法制や社会政策を強めたのは、そうした意図があった。このことにハイエク的な立場からはどう答え得るのか。論理的には三つが可能である。A:社会主義は「隷従」体制で、経済的貧窮などより悪いものであると労働者階級にも説得することで革命を防止できる(恐慌も甘受させられる)とする。B:労働者への説得は無理だが革命運動などは力で抑え込めるとする。C:政府の市場介入がなくても恐慌を起こさず福祉国家でなくても貧窮者が革命を志向しないような体制が可能であるとする。――この三つのうち、新自由主義に最も好意的な想定はCであろう。Cの場合、この「体制が可能である」と表現したが、この「体制を作れる」とは表現できない。なぜならハイエクは「自生的秩序」に価値を置き、社会体制の制度設計ということはそれ自体悪とみなすからである。したがってCの主張も積極的でなく消極的でしかあり得まい。つまり自由放任の市場経済(古典的資本主義)が必然的に恐慌を導く(というマルクスとケインズに共通する)主張は正しくない、ということになるが、これをハイエクは示している(あるいは示せる)のであろうか。マルクス派の主張(社会主義による恐慌の克服)はここでも触れないことにする。ケインズ理論の実践的確証として挙げられるのは、アメリカ政府がニューディール政策によって世界恐慌を克服したということである。この論理への反対を探すと、恐慌克服自体は否定できないもののその原因はニューディール(ケインズ政策)ではなくて第二次世界大戦に求めるべきだとするものがある。この少数意見は、仮に正しいとしても、ケインズ派への否定的要因にはなっても新自由主義への肯定的要因になるであろうか。つまり恐慌が戦争によってしか克服できないのなら、やはり古典的資本主義は否定されるべきだとならないであろうか。

 五 台頭の要因

1940年代に現れた新自由主義は、60年代までは有力ではなかった。70年代におけるその台頭の要因として私は前にケインズ政策の危機を示唆した。ここで言いたいのは、ケインズ経済学の純理論的な面の信認低下というより、その政策的有効性への懐疑や批判の高まりということである。それは何を意味するか。第一に、70年代の不況である。確かに恐慌と言われる状況ではないが、経済成長率は低下した。第二に、インフレーションである。公共投資に積極的なケインズ政策はインフレ促進傾向があり、しかも70年代はそれが不況と重なるスタグフレーション状況になった。これに対して非ないし反ケインズ的政策を求める力が強まり、政治的にはそれが80年代における、サッチャー、レーガン、中曽根の政権における新自由主義の採用をもたらしたと考えられる。
だがここで問われなければならないのは、70年代のこうした状況がケインズ政策に帰せられるべきかということである。第一に、この時期にこれらの諸国は低成長であったが、全体としてマイナスではない(日本では74年のみわずかにマイナス)ということである。高度成長しなければよくない、あるいは成長率が高いほどよい、という価値観は自明のものではない。言い換えればケインズ派は雇用確保に、新自由主義は経済成長にと、重視する目標に違いがあるということである。第二にこれらの諸国の成長率低下の要因である。イギリスは第二次大戦の被害のほかに、植民地を失い「大英帝国」からふつうの先進国へと地位を下げており、経済力の低下(「英国病」)を労働党政権の福祉国家政策や労組のせいにするのは疑問である。アメリカは大戦後は経済的には最強であったということは、二十年以上たてば他の諸国の復興によって相対的に地位低下することは不可避であり、また60年代後半からは自らヴェトナム戦争にはまり込んで経済的にも傷を負った。最後に70年代は石油危機があり(第一次73年、第二次79年)、日本やアメリカには打撃であった。70年代低成長の主要因をケインズ政策に求めるのはあまり説得力がない。
ということは、80年代の新自由主義の政治的勝利は、理論的というよりイデオロギー的だということになる。つまり客観的真理というより役立つ思想だったからということだが、万民に役立つものだったわけではない。上にみた性格から新自由主義は、失業防止よりもインフレ対策に、福祉よりも高度成長に関心を持つ企業家に役立つものであった。それゆえ彼等を中心とする支配層が政策転換によって導入したわけで、政策主体の社会層が革命的変化を起こして導入されたのではない。しかしつまりそれは労働者、特に貧困層には不利な政策であり、また新政策に不満または不安な人々は支配層にもいるから、それらの反対にうちかてたのはなぜか、という形で問題点は残る。
ただし「70年代におけるケインズ政策の行き詰まり」という言説に客観的根拠がまったくなかったとまではいえまい。第一に、いわゆる乗数効果の低減は客観的事実である。ここで問題なのは公共投資の原理的是非というより具体的有効性である。たとえば東海道新幹線は大いに効果的であったが北陸新幹線の有効性は疑わしい。これは公共投資一般の問題というより、両者の歴史的・経済地理的状況の違いによる。ニューディールに代表されるようなインフラ整備は、(ゼネコン中心の汚職構造を生みやすいほかに)今日では経済効果を薄めていると考えられる。ただしこの批判点は「原理的是非」ではないだけに、公共投資のあり方を転換する、というかたちでケインズ派はかわすことができる。(ただし実際面はもとより、理論的にもこの点での「修正ケインズ理論」の展開が順調とはみえない。)
第二により多くの説得力を持つのは、新自由主義の官僚主義批判である。景気対策も福祉政策も、「大きな政府」になるが、その弊害の問題がある。ヴェーバーも指摘するように、近代社会が官僚制(bureaucracy)組織を採用するのは必然性があり進歩でもあり、これと官僚主義(bureaucratism)とは理論的には区別する必要がある。しかし実際にはどこでも後者なき前者は成り立ち難かった。社会生活のすべてが経済効率で評価できないのは確かだが、「大きな政府」が無駄と言うべき非効率を多く含んでいたことも事実であった。大きくなった「公務員」(および特殊法人等それに近い人々)が、特権階層化しがちであったことも事実であった。社会主義は、(究極の形として「国家の死滅」を掲げたはずということまで持ち出さないとしても)官僚主義批判をマルクスもレーニンもしたはずだが、現実の旧東側体制も、少なくとも結果的にはかなり同様の(少なからずもっとひどい)官僚主義になっていた。これに対し新自由主義は、効率的な「小さな政府」を掲げる。これを、福祉国家の再分配政策で高い税を払う富裕層、規制の緩和や撤廃で「ビジネス・チャンス」の拡大を望む企業家らが歓迎することは当然である。しかし一般国民の中からも、「不当に恵まれた公務員」が「既得権に胡坐をかいて」非効率な無駄遣いをしたり、「特権官僚」や天下りが甘い汁を吸い続けるために談合体制が経済活力を奪っている、という印象、むしろ不満を持ちやすくなったのである。つまりここで問題なのは、理論的にも実践的にも、社会主義も社会民主主義も、官僚制が官僚主義に転化しないための条件についての取り組みが不十分であったということである。新自由主義の「成功」はここをついたことによる面が大きいのではなかろうか。

 六 制覇の要因と検討課題

1990年代以降の第三段階の契機の一つは、旧東側体制の崩壊であり、もう一つはインターネットの普及を中心とするいわゆるIT革命であった。そこで検討課題は、第一に旧「東側」諸国の体制転換は市場主義の「正しさ」ないし「よさ」を実証したものと言えるかどうか、第二が、90年代以降の技術変化がどのような意味で新自由主義に棹差したのか、であった。
第一点は、直接には明らかに「否」である。格差社会が「蟹工船」リバイバルをよび、サブプライムやリーマンの「自壊」をみた今日からすると、「歴史の終わり」の論者こそ既に終わっている状況である。しかし市場(原理)「主義」でこそないが市場そのものの位置づけという面では、旧東側の瓦解についてはさらに究明されるべきである。これは経済内部においても、また広く市場原理と結びつく自由論や(哲学的)価値論の問題としてもそうである。
第二点として私が考えているのは、たとえば日本的経営の問題である。終身雇用、年功序列、企業別労組、系列取引などは、新自由主義からは除去すべき悪とされた。これらはもともとアメリカ的経営あるいは教科書的な「市場経済」からは障害であったが、ITなどの新分野特にベンチャー企業などにとっては不都合である。
80年代までの日本的経営を新自由主義者は「社会主義」と呼んでけなすことがあった。これは彼等が社会主義も修正資本主義もファシズムも封建制も一緒くたにする粗雑な図式によるが、旧日本と旧ソ連とに共通する弊害もまったくなかったわけではない。しかしその「弊害」は市場原理主義の悪を阻止、緩和、あるいは代償する要因とも結びついていた。それゆえ旧日本や旧ソ連にどんな悪弊があったとしても、90年代以降の新自由主義の導入はそのどちらの場合も(そして中南米等の場合も)失敗せざるを得なかった。
ところで英米モデルの新自由主義の世界化は、(旧東側、日本、中南米等)それぞれの国での行き詰まりを土壌としつつも、インターネット等技術上の進歩も要因としていた。また新自由主義そのものも金融の規制緩和等これを進める要因ともなり、相互作用で進んだ。
ここで検討すべき課題がまたみえてくる。グローバリゼーションの評価である。新自由主義を批判する立場からすると、一つには、「自由貿易がよい」を原理とすることに反対し、鎖国ないし原理的保護貿易でないにしても、国益のために外国からの参入を制限したり、場合によってはより厳しくしたり禁止したりする選択肢があり得る。もう一つは、人・物・資本・情報等の国をこえた量的な増大には抵抗しないが、国際的次元での民主的規制を増やすという選択肢である。おそらくこの二つの選択肢同士は、二者択一でなく、新自由主義的グローバリゼーションへの対抗原理として組み合わせ方を考慮すべきなのであろう。
ところで規制や計画を嫌悪する新自由主義の動機として、一方では競争や弱肉強食のほうが経済効率がいいという物質主義があるが、他方では自由の確保という人間精神にかかわる問題がある。前者は人間疎外として批判しやすいが、後者に対して自由とは必然の洞察であると切って捨てるならば粗雑な、おそらく誤りでもある反論であろう。官僚制と官僚主義の問題は、社会的自由の観点からもさらに研究される必要があろう。

 七 まとめと他の課題

新自由主義に対して、私は直感的には否定的であると述べた。少なくとも今までの考察を通じても、純理論的にも価値観としても、反対方向に向かせる要素はみいださない。では、どうすべきか。
新自由主義者であり続けている者は「改革」を止めるなとか後戻りさせるなとか言うが、では反対者としては、単に「改革」以前に戻ることを主張すべきなのか。単なる後戻りでもおそらく、多くの人々特に庶民には、マイナスよりプラスが多いと考える。後戻りは「不可能だ」という反論も予想されるが、大部分は「不可能」なのでなく彼等が望まぬだけであると思われる。
それにしても逆行は新自由主義より「まし」ということであって、たとえばケインズ派の主張が理論的に最も正しいとか価値的に最も望ましいとかいうものではない。マルクス派の問題も含めて、新自由主義にて傷を負ったのは弱点があったからであり、そのまま戻るだけでは同じ敗北を繰り返しかねない。ではどうすべきか。一つは攻勢的な戦略で主として価値観にかかわり、もう一つは修正的な戦略で主として経済・政治制度にかかわる。前者は、経済成長と競争を価値とする新自由主義に対して、別の価値観を積極的にうちだすことである。それは、市場原理を止揚する「共同体」をめざす社会主義や、福祉や連帯を重視する社民主義だけでなく、和と義理人情を保つべき価値とする保守派にも通じるはずである。確かにそれには彼ら自身からの反対も予想される。いわく封建的なものの温存し、ナショナリズムや全体主義に導く道であると。あるいは禁欲や清貧の説教に過ぎぬ観念論で、技術進歩や個人の自立に背く反動姿勢だと。また活力なき負け犬の遠吠えに過ぎぬと。だがそうではない。日本で言えば戦後三十年の七十年代半ばでは、国民の大多数が衣食住の基本は得られるようになった。そこまでは経済重視の進歩信仰と個人的自由重視の民主化とは、かなりもっともな選択であった。つまりこの時点で考え直し、人間の幸福や公正な社会についての次の展望を持つべきであったのが、むしろ新自由主義はそこには無反省で、品格なきバブルへと、人格の尊厳なき格差化へと、勤労倫理なきカジノ資本主義へと、その場で勝てばよいというルールなきジャングル社会へと「進歩」させただけであった。後者の修正的な戦略として、新自由主義を「前方に」乗り越えるための課題設定をすれば、次のような定式が考えられよう。民主的に規制された、官僚主義的にならない、そして最大多数の個人の(新自由主義者がそれと同一視する私企業の、ではない)自由と両立し拡大する、経済制度の構想。
関連するが本稿で触れなかった論点もいろいろあろうが、そのうち私が関心を持つものいくつかだけを挙げて終わることにしたい。①政治的な新保守主義(ネオコン)との関連。②文化的なポストモダニズムとの関連。③リバータリアニズムとの関係。④近年のスポーツにおける競争イデオロギーの問題。


添付画像






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