床屋道話(その13:人生に必要なすべてはア太郎から学んだ その2)
去年の後半、ある高校三年生と何度か話す機会があった。S君としておこう。彼は徹底的な性悪論者だった。人はみんな自分の利益を求めて行為するという説をあくまでも主張した。
はじまりは警察の話で、彼はいまの日本の警察に腐敗がはびこっていること、というより体質的に不正であり、権力と暴力に従って弱者を支配していることを認めた。ところが聞いてみると警察官志望なのだという。そこで小生は、内部から改革しようという気持ちなのかと考えた。しかし彼はあっさり否定し、そのつもりはないし改革などできないと答えた。志望先に選んだのは、他の省庁と比べて一般職員に対してエリート(いわゆるキャリア)の割合が少なく、その分出世が早いからであり、当事者はまさにその仕組みに乗って私利を追求しているがゆえに、実際に「改革」されることは不可能なのだという。そして当事者の意識をそう考える根拠として彼が言うのは、彼等だけでなく、いや人間はみんなそうだ、というはじめにあげた人間観なのであり、それゆえ自分もそうであって当然だという道徳意識なのである。
小生も年のせいか、「親の顔が見たい」と言う言葉を実感するようになってきた。それは、基本的な考え方は、授業や書物で得るものでなく(したがって「頭のよしあし」とは関係なく)、幼少時期の実体験、特に家庭環境によるところが大きいと思わせられるということである。演歌の「おふくろさん」は「雨が降る日は傘になり、お前もいつかは世の中の傘になれよと教えてくれた」。S君のような人の母親は、雨が降る日は他人を傘にして自分は濡れずに世の中を渡っていくように、こどもに(言葉でなり行為でなり)教えるのだろうか。
――ところでこうした突込みを愉快がる人と不快に思う人とがいる。無論、ブラックユーモア好きでも実生活ではまじめで親切な人もいるし、皮肉に眉をひそめても実際の振る舞いの腹黒さに自分でも気づいていないような冷酷な人もいる。しかしまたこうした感受性の違いが道徳性とまったく無関係とも言えないのではなかろうか。この段落は余談である――。
無論親だけで決まるわけでなく、このような「経験の豊かさ」が「人間的豊かさ」をつくるのであろう。小生は(半ばフォローのつもりで)まあ若いうちは悪ぶってみたいものではあるが、と言った。しかしS君は歩み寄ろうとせず、「ではおとなになればお人よしになるんですか?」とあくまで攻撃なさる。小生は「よりバランスがとれた見方をするようになる」と答えた。これは単に、世の中には善人も悪人もいる、といった凡庸な真理だけのことではない。たとえば教員は(あるいは親は)どこまでも生徒を(子を)信じよ、などと言われる。そして小生もこれは間違っていないと考える。しかしそれは何も、生徒が嘘をつくことはまったくないと信じるべきだということではない。とんでもない嘘をついたり悪事を行ったりするこどもも、反省したり立ち直ったりする可能性は必ず持っている、ということを信じなければならない、という意味であると理解する。
仮に親に恵まれなくても、こうした人間性への信頼感を、どこかで体験し、身につけてほしいものである。斉藤祐樹君はスポーツを通じて、彼が「持っている」ものを得たのかもしれない。小生が「恩師」を尋ねられたら答えたい。たとえば高校の近くに沖電気の本社があり、当時不当な指名解雇に屈せず闘っていた労働者たちが、私の恩師である、と。また大学でも、セツルメント活動で苦しい人々を助けながら自分でも喜びを感じていたような先輩にも接することができた。授業に劣らずこうした人々のおかげで、私もそんなに邪悪にならずに生きてこられたのではないかと思うのである。またS君のような発言に、そういう奴もいるさと簡単に流すことができずに、いわばいきり立ちむきにならざるを得ないのも、それではこうした自分の恩人たちを裏切ることになってしまうと感じるからである。
もっといえば、実際に接した人々でなくても、たとえば漫画を通じてでもいいのである。ということで(強引に?)題につなげる。小生はこの雑文の第四回で、赤塚不二夫の「もーれつア太郎」からかなり倫理的影響を受けてしまった、と書いた。無論この漫画だけではないが、そのついでで今回も使っておこう。すなわちここにはこうした信頼が繰り返される主題になっている。「子分になったブスタング」(第五巻)「てってい的なひねくれブタ」(第九巻)「ひねくれのら犬」(第十二巻、最終話)など、馬・豚・犬と手を変え品を変えたベタな人情話(学園ものにもよくある)だ。ネタ不足とあげつらうのは簡単だが、反復されるテーマがまさにそれであることは、作者の「思想」の面から、また「需要」の面からも、やはり大きいということだろう。ではその「思想」とは何か。義理人情である。「義理と人情のデコッ八」(第五巻)を見よう。悪がきテルは、意気投合したデコッ八を裏切るはめになってしまう。より「おとな」のア太郎親分にあきれられても、あくまでもテルを信じるデコッ八。いつもは人を騙してきたテルも、その信義にこたえようと、親に逆らってデコッ八への約束をついに果す。感動の再会。「おれのまけだよ」と認めるア太郎もいさぎよい。唯一悪役そうなテルの父クモルも、自分に逆らって去った子に、「あいつは、おれににたかっこいいヤツだぜ…」と最後につぶやくのも泣かせる。そうだ、かっこいいとはこういうことなのだ。
ところでこの大団円の次の一こまがラストシーンなのだが、それはなんと、テルの行為を「クーダラナイ」と笑うココロのボスのものなのだ。「感動巨編」ならぬギャグマンガの「お約束」と言えばそれまでだが、ここにはより考えるべきものもあると言いたい。コメディの常道は、非常識な主人公を「常識」の立場で笑うことである。この「常識」は単に平均的なふつうさでもあるが、上質のコメディでは「良識」であることもある。そしてここでテルを笑っているのは、功利主義という「おとなの常識」である。ニャロメは黒猫を救うべく自分が身代わりに十字架につく(「黒ネコのタンゴロー」第九巻)。対してケムンパスが「人の罪をかぶるなんてそんでやんす」というのも同様の功利主義である。では功利主義を打ち破るのは何か。人情である(ネコだけどね)。タンゴローの心を知ったニャロメは、自分も被害を受けたのに彼を赦し彼を救おうと願ったのである。この一篇は福音書のパロディーなのだが、キリスト教の本質をフォイエルバッハに劣らずよく示している。小生はギャグで言っているのではない。実にイエスの行いは功利主義的には馬鹿馬鹿しくて笑うしかないではないか。神聖なものは愚かで馬鹿げたものと一体である。(このことを漫画において最もよくえがけたものは――いわゆる宗教漫画でなく――ギャグ漫画のジョージ秋山作「デロリンマン」ではあるまいか。)
そしてむしろ功利主義が罪の原因でさえあることも、この漫画は示しているように思われる。「ひねくれブタ」は、ブタ松親分に信従している豚たちに言う。「バカ! ブタはな、人間のたべ物だ! ブタはそれしかないんだ。」 功利主義的にはまことに正しい答えというしかない。この漫画で悪役として登場(し後に改心)するキャラクターたちは、このように、強者に利用されたり、理不尽な暴力に傷を負ったりした者である。たとえば黒ネコのタンゴローが母を殺されたように、無差別テロをしたブタは兄が人間に食われたと思って復讐をしていた(第三巻)。悪の原因は本性にはない。それゆえ我々は悪をなす者にも、「その放心を求め」(孟子)て善にたちかえらせる可能性があると信じるのである。「ブタ松の里帰り」(第四巻)は、功利主義の末路もえがいている。利口な飼い犬を誇り、忠義だが愚かな子分達を持つブタ松を馬鹿にした者が、飼い犬に裏切られる。
小生が理想とする人間は、「義理に強くて人情に弱い」人間である。
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