床屋道話 (その16 年賀状の倫理)
吾輩は年賀状である。年に一度の吾輩の季節だ。がどうも近頃あまり振るわない。同時期のクリスマスは、バブル期のバカ騒ぎこそ見られなくなったが、各種イベントはさかんな限りだが。キリスト教徒でもないのにべらぼうなことだと思うがねたみと言われそうだ。それでもこの前近所のガキが教会の飾り付けを見て「教会でもクリスマスやるんだねえ」と言ったときにはがくっときた。前の月にはハロウィンとかいうさらにわけのわからねえ行事まで付き合う暇な御仁も増えてきたようだ。どてかぼちゃめらが。七夕などは衰えていないところをみると、単に西洋物におされた結果とも決められない。
従来から吾輩に向けられた批判は「虚礼」だというものだ。実用主義が強まる昨今の風潮は確かに吾輩に厳しい。そこで自己弁明をしたいのだが、「礼」が大切だという説教を天下り的に垂れるつもりはない。ここで言いたいのはむしろ「無用の用」の観点だ。
賀状は確かに用があって出すものではない。本当に世話になった相手に心から感謝を表す場合もあろうが、それなら年始に他といっしょくたでなくてそのときに別個に表すのが本当だ、というのは屁理屈気味ではあるが筋論でもある。ということは逆に賀状を出す意味は消極的に、自分が相手に少なくとも敵意や嫌悪は持っておらず、さしあたり今年一年もかかわりをこちらから断つ気持ちまではない、というしるしだと言えるのではないだろうか。消極的というより因循姑息だと嫌う人もいるかもしれない。しかしそうではない。むしろ大事なことだと吾輩は訴えたい。より早くより厚く返礼しなければならぬものではないだけに、半ばは礼儀の意識からと言える。また半ばはこの「顔つなぎ」がひょっとしたら役立つこともあるかもしれないという下心もある。徳義と実益とのあいまいな混じり物でいいのではないか。だから熱い「正心誠意」でない正月気分の文面でよく、かといって必要ないから出さないという冷たい実用主義でもない、適度なぬるさでよいのだ。
ことしは震災などもあって「絆」が見直されているという。その中で、家族や親友のような強い絆のかけがえなさは言うまでもない。他方でケータイにいちおう登録してあり、必要なら使うがそうでなければいつでも「削除」できるようなのは「絆」というより「情報」であろうが、ないよりは多く持つほうがいいとは言えるだろう。「賀状を出すだけの中」はいわばその中間の「ゆるい絆」であろうが、逆に今日その大切さは強調してよいのではないか。
印刷だけの賀状でもいいと吾輩は考える。そんなのだったら出さないほうが潔いという人もいるが、出すこと自体に意味がある「虚礼」として、変にまじめに理屈づけなくてもいいと思う。ヤな奴と思われるかもしれないが、正直にうちあけよう。賀状をくれる人、返書は出す者、それさえない奴を、吾輩は毎年記録しており、その人に対する判断にかなり大きく影響する、と。
正直ついでに嬉しくない賀状も記そう。まず当人しか知り合いでないのに、家族の写真をつけてくるもの。イケメンの夫やかわいい赤ん坊を見せたくなる気持ちはわからぬでもないが、世の中には結婚できないことやこどもに恵まれないことを苦にしている人もいることを、やはり気にしてほしい。ここでもひがみと言われるかもしれないが、幸せ自慢のどや顔がちらつくような葉書は、それ自体新年から苦い思いをさせられる。家族の現状を言葉で知らせてくれるのはむしろ望ましいが、「家族」の一員として犬や猫まで記載するのはやめてほしい。これも当人にはかけがえのない同居者ではあるのだろうが、他人にまでその公認を求めると、それも「家族」なのかよ、と毒づきたくなってしまう。最後に電子メールによる賀状。この理由はいろいろあるが、いままで言ってきたこととの関連で一つだけ記そう。たぶんメールを使うことの長所は、手数的にも料金的にもより省けることにある。それはまさにあまりに合理主義的で、「虚礼」としての賀状の意味をなさないと感じさせる。事務連絡かよ、と思ってしまうのだ。つまり毎年判で捺したような「謹賀新年」だけでもよい、わざわざそれを郵便物という形で手間をかけて出すというところに意味があると考えるからである。

遅くなりましたが、ルソー本、ありがとうございました。イデーも届きました。
ルソーの本は会社の金総宰(社会部長)さんが是非読ませてほしいと言うので貸してますが、ブログでの本の紹介は近日中に行う予定です。←画像は撮っておきましたので・・・