
床屋道話 (その20 密告の倫理)
ことしのNHK大河ドラマ「平清盛」は出だしからあまり評判がよくなかった。画面処理の新手法への違和感などもあったようだが、もともと主人公に悪人イメージがあるのも要因という。確かに独裁者ではあるが、(信長や秀吉のような)「人気ある」独裁者も少なくない。平清盛にはしかし陰険さが感じられるためかもしれない。彼の「イメージ」をつくった最大のものは『平家物語』であるが、その中の「禿童(かぶろ)」のくだりなどは端的な例と言えよう。例の“平家にあらずんば人にあらず”もこの箇所に出る。それによれば清盛のはかりごととして、十四、五、六歳のこどもを三百人選んで、髪を短く切って赤い直垂を着せて都を廻らせた。そして平家を悪く言う者がいるとその家に乱入して財産は没収し本人は逮捕する。役人も見ないふりをし、批判を口にする者はいなくなったという。こどもを使った監視は文化大革命を思わせる。大河ドラマでもさすがにこれは少なくとも「やりすぎ」たものとして批判的に演出された。清盛(松山ケンイチ)の右腕的存在であった「兎丸」(加藤浩次)が犠牲になり、清盛も反省したかたちがとられた。権力者が自らの支配を保つための、スパイや密告の仕組みに対して民衆が反感を持つのは当然であろう。
前々回に小生がとりあげたいじめの告発はこれとは異なる。構成員の権利を守ることを務めとしている権力(者)に対してその執行を求めるものである。これを非難するのは、被害者をさらに攻撃するものである。しかし両者がしばしば混同されるのには、二つの理由が考えられよう。第一は前々回でもとりあげた自力救済を優先させる思想、あるいは「力への信仰」思想。「道理」(right)よりも「力」(might)というのは、私達がまずもって、そしていたるところでまたあらゆる機会に闘ってつぶしていかなければならない悪の思想である。第二は、日本ないし東洋に特殊的な理由であると思われるが、「権力」の「正当性(正統性、legitimacy)」という思想の乏しさである。西洋では「権力(者)」は単なる「実力(者)」ではなく、その力の行使において正当性を有するもの(者)のことである。この区別がない場合の態度は次のどちらかになる。一つは長いものには巻かれろという奴隷根性であり、その正当性の有無などを事挙げして逆らうのは現実をみないばか者とみなすものである。もう一つは強者に逆らうのがかっこいいといういきがりであり、したがっていじめに自力でやり返すべきで告発するのは卑怯な弱虫とみなすものである。
この第二の「日本的」因習は悪い意味での「ムラ社会」と結びついており、学校だけでなく、企業や警察や「自衛」隊や原発業界などでのいじめにつきものと言えるほどである。その克服には内部告発も当然の権利であり(卑怯なチクリや「敵」を利する裏切りどころか)社会的責務でさえあるという認識が広がり、実行が保証されることが必要である。オーナー側の巨額の損失隠しのための不適切な会計処理が明るみに出た「オリンパス」で、内部告発した社員浜田正晴氏は、いじめとして畑違いの部署に異動された。浜田氏は上司の執行役員と会社を提訴し、異動を無効とする判決を勝ち取った。いままではこういうとき、負けた会社側が金を払った上で「円満退社」にするのが定番であったが、浜田氏は会社に残っていることも注目すべきである。しかし金目的でなく、自分の組織をよくしたいがために敢て裁判に訴えもしたのであるから、これが本当と言うべきなのである。その浜田氏に、だが裁判で負けた会社はまだいじめを続けている。「注目すべき」と言ったが、残念ながらこうした事柄をマスコミは十分報道していない。オリンパス不祥事関係では元社長のイギリス人ウッドフォード氏の言動を少し伝える程度であり、浜田氏の件が今後の日本社会に大きな意味を持ち得ることが把握されていない。(イギリスで映画化の噂。)
日本では内部告発の意義はようやく認知されだした段階であり、法的保護も一般の意識もまだまだである。イギリスでは「公益通報制度」としてずっと進んでいる。我が国では、かなり明瞭な違法行為で、しかも自分で裏づけがとれないと踏み切れない。イギリスでは「まずいんじゃないか」という疑問でも提起すること自体は、事情を知ったり危険を感じたりした者として自然のことととらえられるようになってきたという。
権利が大切にされ、「権力」とはそのためにあるというようにしたいものである。
仲島陽一 / 北樹出版 |
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