床屋道話 (その21 「飛ばないボール」に賛成)
球春である。
ことしはプロ野球で統一球、いわゆる「飛ばないボール」採用の三年目となる。反対論もあいかわらず強いが、小生は賛成派だ。ただし賛成派の理由として最大なのは、「本場」アメリカに合わせるということだが、小生はそのためではない。もとからそのような事大主義には反対してきた(第17回「ダル、ちっちぁいぜ」参照)。
この点ではむしろ桑田真澄氏の意見がよい。桑田氏は、統一球を対米上受け入れたうえで慣れと練習でその「弊害」を克服する、という路線はとらない。むしろそれを、①日本的「スモールベースボール」の磨き上げの好機ととらえ、また②それが野球本来の魅力を引き出すことでもあると言っている。二つとも同感だ。
「飛ばないボール」で本塁打を量産する日本選手は少ない。それゆえそこで勝つには、堅い守備で失点を最小にし、盗塁や犠打をからめて少ない好機に得点していくという戦術が必要だ。これは「スモールベースボール」と呼ばれるもので日本のお家芸であり、いままでのWBCなどでもこれで勝ってきた面が強い。だとしたらいまさら無理やり身の丈に合わぬ衣装をつけて苦しむ必要はないというのが①である。
だがそれはつまらないという意見もある。統一球問題以前からのものだ。日本「野球」はbaseballでないゆえにだめとする形式論はおくとして、前者の「ちまちました」ところや自己犠牲的なところを嫌い、後者の「パワフル」で個をありったけ出すスタイルを称揚するものだ。それへの反論が②である。およそ「パワー」のあるものが勝つというだけなら「スポーツ」はまったく成立せず、弱い者いじめに過ぎまい。「強いものが勝つのをみたい」、「誰(どちら)が強いかを知りたい」という欲望は反道徳的であり、非難されるべきである。またそんなものをおもしろがるのは悪趣味である。趣味にも洗練があり、道徳上の意味とは違うが「よしあし」があって、よい趣味へと陶冶されることが望ましい。(スポーツファンの何割かあるいは何%かは、勝つあるいはむしろ負かす側と同一化して強さの意識を得たいだけである。)野球でいえば本塁打は大味であっけない。たまに「きれいなアーチ」や「びっくりするような場外弾」があるのはゲームに味を添えるが、ポンポンはいる試合はつまらない。本塁打は草野球でも出るものであり、ブロの試合が素人と最も違うのは守備である。重殺や捕殺を含め華麗な守備をこそ、小生はプロの野球では見たい。また野球が団体競技である以上、犠打や進塁打が場面において重要なのは当然である。小技に巧みな者や足の速い者など、むしろ多様な個性を生かすうえでも有効だ。作戦も幅広くなり、考えながらみる楽しみが倍増する。パワーヒッターばかり並べ、長打を期待するだけというのはなんとつまらぬ試合だろうか。個々の場面についても、「まっすぐ勝負に思いっきり振り切る」のが醍醐味のように言う者もいるが、いささか単純すぎないか。まして、ルール違反でもないのに、変化球でかわす投手や四球を意識して粘る打者を、まるで卑怯のように評する者もいるのはいただけない。昔Fルーズベルト米大統領は、野球が最もおもしろいスコアは八対七だと言ったという。これを紹介した日本人は自分は七対六くらいだと書いた。小生の感覚では五対三だ。どちらかが六点もとられるようでは試合がしまった感じがしない。昨年は一試合平均で約一本の本塁打が出たが、これはちょうどいい程度ではないか。
桑田真澄氏はことしは体罰問題でも正論を吐き、かの橋下徹大阪市長もぎゃふんと言わせた。小生は実は選手としての桑田氏はあまり好きではなかったのだが、現役引退後解説者としては理論的かつわかりやすく、しゃべる人としては評価できる。
今年の野球、試合とともに、野球をめぐる文化観や世界観にも変化があるかどうかの観察を含めて、楽しむことにしたい。