床屋道話 (その23 「プライド」の倫理その1)

      
 近年「プライド」はおおいに語られている。「誇り」「自尊心」などの言葉も使われるが、単に最も多用されるという理由で以下「プライド」の語を使うことにする。それらはしばしばプライドを「持て」という方向性での話であり、しかして小生はそれに対して多く否定的な発言をしてきた。個人としても国などの集団としてもその強調には危うさがある、ということをちらちらと言ってきた。「ちらちら」でなくもっとつっこんで言う必要があろうが、今回は逆の方向性で書くことにしたい。つまりあらゆる意味でそんなものは「持つな」「捨てろ」という意見ではないので、「もっと持て」と言いたい局面さえあるので、今回はそちらというわけである。

 夏目漱石が博士号を辞退した話は比較的有名であろう。小生はずっとこれを誰もが「痛快な」エピソードとして喜ぶものと疑わなかった。しかしそうとも限らず、批判意見もあり得るようだ。批判者はたとえばこう言い得よう。“お前はもう学者を辞めて小説家になった。いまころ博士号でもあるまい、というのはいちおうもっともだ。もらいたいとこちらから頼んだわけじゃなし、とも言えよう。もっと言えば、物書きとして少しばかり人気の出た自分に名誉を与えるかっこうで、自分たち(政府ないし文部官僚)もまったくの野暮天じゃないよ、在野の才人を褒賞する眼力と太っ腹を持ってるという宣伝にしたいんだろう、と。そういう面もなくはないと認めよう。でもそれだけでもなかろう。出す側にある程度の評価と好意とがあることは認めてやってもいいだろう。直接出す側だけでなく、そのようにもっていったまわりの人々の世話や気持ちも考えるべきじゃないか。そういう人たちの中には、お前の生活が苦しいのを知って、博士にでもなったら少しは楽になるかと思ったかもしれない。勿論これは学位というものについても、「死ぬか生きるか維新の志士の心で」文士になったおまえについてもさっぱりわかっていないと言えよう。しかしだからと怒っていきがるのでなく、そういう人々にもわかってもらえるように辛抱強く努めるべきなのじゃないか。また博士になったからと言って読むような者にしいて自分の小説を読んでもらおうとしたくはないかもしれない。しかしそれは他の人々より自分を上においているのであり、わからぬ者はわからなくてよいというひとりよがりだ、と。”さらに考慮できるのは、漱石が国民的文豪として偉人入りしたのは戦後に過ぎないことである。生前はある種の人気作家であっても「文壇」の中ではすみっこのほうに位置しており、そもそも戦前は「作家」の社会的地位はめっぽう低かった。“勿論そうした状況自体が「不当」だったかもしれないが、現にそうである中ではそうした枠組みも使いつつ他者の善意にこたえていくのが、作家一般の地位を上げるのにも寄与するのではないか。またなるほど第一作の『吾輩は猫である』にすでに「博士」の称号が風刺的に扱われており、漱石の考えは読み取れる。にもかかわらずそれを与えれば頼みもしていない漱石が嬉しがるだろうと思うなら、まさに『猫』さえろくに読んでいないことが丸見えであり、逆にばかにするなと言いたくもなろう。それでもその制度自体は否定していないのだから、俺をわかっていないなと苦笑しつつも自分の側が太っ腹になって受け取るのもありではないか。むしろ漱石は西園寺公望首相が文士たちを招くパーティを開いたときも出ず、断りの葉書におちょくっているとも思われかねない俳句を書くなど、「権威と闘う」ということにこどもじみた陶酔を感じているのではないか。”こうした批判にあなたはどうこたえるか。同時代に身をおいたとき、とりわけ身内や仲間内など、漱石をリアルに支えたいと思っている人からすれば、彼の行為は決して「痛快な」ものではなく、よくて困ったところ、悪くすれば彼のいやなところの表れとみえたのではないか。これを読者に聞きたいのというのが、今回の文章の第一のねらいである。

 小生は稲門の出である。赤門以外は「大学」じゃない、という人もいることは承知するが、全国で知られた、一般的には名門校と言えるだろう。入学時に思ったことの一つは、しかし自分は早稲田の学生である、ということで威張るまい、ということであった。――ここから続きがちなことは、”むしろ自分が大学の名誉を傷つけないようにしよう”という心構えかもしれない。しかしそのような「謙虚な」話ではない。小生が考えたのは、”早稲田の○○”ではなく、”かの○○が出た早稲田”と言われるようにしよう、ということであったから。――以上についての注釈二つ。その一つはここで議論をさきの漱石の件と重ねたがっているのは、まさに「プライド」というより傲慢ではというあり得る批判に対してだ。問題時点の漱石は「国民的偉人」でないと断ったが、それでも大学入学時のお前と比べ物にはなるまい、お前はもう漱石気取りなのか、と言われ得よう。それへの答えは、端的に言えば、いや俺は漱石なのだ、となる。その注釈がつまり、これもまたごたいそうな議論と言われそうなのを承知の上で言えば次のようになる。十五にして学に志し云々という『論語』の言葉は誰しも知る。王陽明は言う。これは単に孔子個人の記述的言明ではなく、一般にこうありたいものだという規範的言明である(ここまではよくある解釈だ)。そしてここでかなめになるのは「志」という語であり、これは「学」だけでなく後すべてにかかると解する。すなわち三十にしては「立つ」ことを「志す」のであり、四十にしては「惑わない」ことを「志し」云々と。このような志こそ、人間において最も重要なものではあるまいか。新入生に過ぎない、新入社員に過ぎない、という意識ではどうしようもないのではないのか。入社した時点において、志においては、自分は日本のビル・ゲイツなんだ、平成の松下幸之助なんだ、と思わずに何ができようか。漱石は分身的なある登場人物に、裟翁ももうだめだぐらい言えなくちゃいけないと言わせている。シェークスピアの偉大さを彼が認めていたことは、『文学論』その他を持ち出すまでもない。しかしおそらく彼は最後まで、裟翁何するものぞの志を失わないように自分に鞭打っていたに違いないと想像する。もう一つの注釈は上からもわかろうが、入学時の小生は「この私」の「プライド」としてそう思ったのではなく、誰もが思うべきこととしてそう志したということである。そして小生は今でもそう考えている。つまりたとえば早稲田にはいる者なら誰もが、伝統ある学校に入れてもらってありがたいと思うのでなく、大隈を超え、逍遥を超えるつもりになるべきだと考えている。みなさんはそうは思わないのだろうか。このような考えは昔風のいきがったものなのだろうか。それとも「おのれ」を世間よりも上におく、独りよがりな悪しきものなのだろうか。もう一度言えば、小生は「プライド(を持つこと)」について全体的には否定的な考えなのだが、今回問題にしたことに限定していえば、人はもっとプライドを持ってしかるべきだ、と思っているのだが…

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2013/09/06 18:19 2013/09/06 18:19
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