床屋道話 (その26 ありのままの倫理)
                                                                 二言居士

 
 いま真夏に小生はこれを書いているが、添付画像今年一番の当たりになることは間違いないだろう。母親に連れられて見て来た女の子が尋ねた。あの女王様はほんとはありんこだったの? 「ありのまま」という日本語になじみがない小さすぎるこどもだったので、「蟻のまま」と解したらしい。ほんの少し上の姉が答えた。そうじゃなくて蟻のお母さんよ。こちらは「蟻のママ」と解したようだ。ところで巷に鳴り響く「レリゴー」を聞くと「スーパースリー」の主題歌を思い出してしまうのは小生だけだろうか。冒頭の「ラリホー、ラリホー」がメロディも音韻もよく似ている。

 マクラはこれくらいにして本題に入ろう。原曲”Let it go”と日本版「ありのままで」には微妙な違いがある。文化が違う以上もとより「完全に正確な」翻訳は不可能で、特に制約の多い歌詞では当然ではある。しかし逆にそのずれを通じて文化の違いが垣間見え、この歌の場合も少し興味深く感じた。がそれくらい他にも考えている人はいるだろうとネット検索をしてみたら案の定で、小野真弘という人のものがすぐに出た。「イギリス在住の免疫学者・医師」とある(5月27日ツイート)。以下それも参考にして書いてみる。(劇中歌なのでほんとは文脈を考慮する必要があるがここでは捨象する。)題の”Let it go.”と「ありのままで」を含め、第一印象としては原詩のほうが日本語版よりも強い。が内容を検討すると趣旨はおおまかには同じであり、違いは「ニュアンス」の次元の話である。

 原詩でまず気にかかるのは、”Don’t let them in, don’t let them see./Be the good girl you always had to be.”は引用符がつく部分と思われるが、誰が言っているのかである。自分に言い聞かせていた言葉かもしれないが。いずれにせよ原詩では「他者」への強い意識があり、これがこの歌を「強く」感じさせている。この部分の”them”を受けて”Well, now they know !”となって姿勢を転じる。そして”I don’t care what they’er going to say.”という句がまさに”Let it go.”の中身と考えられる。もっと後になるとこの”they”は”you”となって面と向かった他者となり、”You’ll never see me cry.”と挑戦的な宣言となる。こうしてみると日本版が見事に「他者」を消す訳になっていることに気づく。たとえばいま挙げたところは「二度と涙は流さないわ」でtheyもyouもない。言語構造のためだけではない。というより言語的理由の背景に文化的な構造があると見るべきだろう。もう一箇所挙げれば、”The wind is howling like this swirling storm inside.”が単に「風が心にささやくの」である。嵐の風を「ささやく」ものとやさしくし、原詩では直喩のところ(下線部)が日本版ではせいぜい隠喩となる。原詩では他者に対する自己主張としてチャレンジングであるが、日本版では自分探しの結果の決意表明として不動の悟りに至ったかのようである。

 小野氏は次のように述べる。「自分のパートナーに『ありのままの自分を受け入れてほしい』というのは、しばしば今の日本社会で〔…〕みられる幻想だろう。自分のそのままの成長していない〔…〕状態で評価されるとしたら、それほど楽なことはない。努力をして自分を成長させることで、より高い人格になろうという進歩的な考えはそこにはない」。「ありのままに」〔に〕は含まれていないものが、まさに今の日本の社会で欠けている要素の一つのように思えてならない。」――これはいかにも欧米在住のインテリの言あげと思われる。小生はこれに賛成するところとしないところがある。
 
 まず賛成できる点は、ありのまま評価が確かに日本社会に強いという事実認識である。ただし小野氏の言う「今の」日本というより伝統的である。衣食住から芸術まで自然の「素材の良さを生かす」ことをめざす。外なる自然だけでなく内なる自然、人間性(human nature)についても、「素朴」を愛し、正直・素直であれば神が宿るとか、煩悩に満ちたままで仏性を持っているとかする。伝統的「自然(じねん)」は「ありのまま」の意味である。詳しくは専門家に委ねたいが、日本精神史は「♪ありのー、ままでー!」の大合唱である。そしてそこには弱点がある。あまりにも諦めがよく、既成事実に弱く、「現実」のベタの全肯定になりがちである。

 次に賛成しない点。小野氏が「自分のパートナーに『ありのままの自分を受け入れてほしい』というのは」云々と言うとき、この『パートナー』は仕事の相棒とかでなく恋人や配偶者のことととるのが自然だろう。この違いが重要だ。(他人と違う)そういう「パートナー」や親には、「ありのままで」受け入れられることを期待するのがふつうでよしとされる(それを求めないのは「水臭く」受け入れないのは「冷たい」ことでよくない)のが日本文化の伝統である。小野氏はこの違いに留意せず、また(明示していないが論理的には)このような日本的「甘え」を評価しないことになる。(聖母マリアのような超越的存在でなく)生身の誰かに甘えられるという救いがない欧米のような国に、小生は日本を変えたくない。

 最後に原詩と日本版のそれぞれについて、小生が素直にいいと思えないところを一つずつ挙げたい。(A原詩)「いつもよい娘(こ)であらねばならない」(Be the good girl you always had to be)という因習的な縛りを解き放って、自分の力を試してみよう、というのはよい。”The perfect girl is gone.”というところは最もよい。しかし、”No right, no wrong, no rules for me./I’m free !”というのはひどい。「自由」とは善悪やルールがないことじゃないだろう。ディズニー板「ニーチェの言葉」か?! 原詩を二読三読すると、最後の”Let the storm rage on !!”のstormとは、つまり世間の非難や悪評のことと思われる。それをものともしないというのは最悪と思う。ちなみに小野氏がエルサは「let it goという思い切りにより、むしろ悪魔的になった」と評しているのはこの点でうなずける。(なお彼は、だからlet it goはこの物語の=人生における最後=完成でなくそのプロセスにおいてむしろ乗り越えられるべき局面ととらえる。)(B日本版)自分にうっとりネエちぁんというのは昔からいて少しヒクが、抑圧を破って自己肯定感を得られた女性、としては祝福してもよい。素直になれなくなるのは、この肯定が強すぎて、わたしたち一人ひとりのというより、世相のそれと重なって感じられてしまうからである。自虐はもうやめよう、日本のすばらしさを誇ろう、という政治くさい、そしてはなはだ危なっかしい近頃の大宣伝(本でも雑誌でも怒涛のような「自虐」批判・日本賛美の嵐だ)にも、この2014年で日本の「戦後」がはっきり終わり新たな戦前になったことが知られる。「ありのままで」がその最初の軍歌かもしれないというのは言い過ぎではあるが。

 松たか子に、あるいはMay J.になりきって歌いながらも、考えてみたい。







-------------------------------------------------------------------------------------------------

◆仲島陽一の本◆ 本の購入が出来ます↓クリック


クリックすると「ルソ-の理論」の詳細情報ページへ移動します


ルソ-の理論
悪の原因と克服

仲島陽一 / 北樹出版
2011/12
¥3,045 (税込)


クリックすると「入門政治学」の詳細情報ページへ移動します



入門政治学
― 政治の思想・理論・実態

仲島陽一 / 東信堂
2010/04
¥2,415 (税込)



クリックすると「共感の思想史」の詳細情報ページへ移動します



共感の思想史

仲島陽一 / 創風社
2006/12
¥2,100 (税込)


2014/08/26 19:03 2014/08/26 19:03
この記事にはトラックバックの転送ができません。
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST