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  1. 2019/07/31 感情論
  2. 2019/07/31 科学と相対主義


床屋道話45 感情論

二言居士

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 この春、経団連の中西宏明会長が、原発の早期再稼働を求める発言を行った。そのなかで、「エモーショナル〔感情的〕な反対をする人たちと議論しても意味がない。絶対いやだという方を説得する力はない」として、対話そのものに対しても消極的な姿勢を示した。これに対して、原発そのものの問題はもとより、再稼働を急ぐ財界の考えに対してもいろいろな意見が出ている。しかしここで扱いたいのは、「感情論」という非難で話し合いを「無意味」とするスタンス一般についてである。

 最終的な価値を決めるのは感情である。感情を排した議論に「意味がある」のは、価値観が一致しているときである。いやそのときに問題になるのは損得勘定だけであるから、どちらの計算が正しいかを検証することだけが残っており、それこそ「議論する」意味はないとも言える。

中西氏の発言の根底には、この問題に対する(客観的に)「正しい答」があるという想定がある。客観的真理であるから理性的検討が必要であり、「エモーショナル」なスタンスはそれを妨げるから無意味だというのであろう。だが原発再稼働で問われているのは客観的真理の問題ではなく、主体的選択の問題なのである。自分たちの価値観を「正解」として、その価値(たとえばGDP)に合わせた「最適解」を自分達は知っており、他方「感情的な大衆やそれを煽っている反体制インテリ」をディスるというのが、近年の「エリート」や自分はそちらの側だと思っている「保守派」と「改革派」である。(この際「リベラル派」と「守旧派」が攻撃対象となる。)

一ノ瀬正樹氏は、原発問題に関して、「お金より命」という言説を、経済によって命が守られる側面を見落とした幼稚な思考形態とする(『思想』2019年第3号)。その側面を持ち出すことで、しかし彼は、どこかでどちらかを選ばざるを得ない側面を隠蔽しているように思われる。一般的には経済的豊かさは善であろう。しかしたとえば経済成長にマイナスだったり電気料が高くなったりしても原発をやめるかどうか、根本の価値が問われることもある。彼は功利主義に立つようだが、それと異なる倫理説の一つとされる「義務論」との関係について、「同質化している」とか「融合している」など取り込みたい意向のようだが、我田引水ではなかろうか。彼は、高校に導入予定の新教科「公共」に関して、「多様な立場や意見をぶつけ合った上で、最適解を見つけて確定していく、という手順を学ぶ場」と位置付ける(下線は引用者)。立場や意見が異なっていた者が、討議を通じておりあっていくことが可能な問題や必要な場面ももちろん存在する。しかし彼はその可能性や必要性をあまりに性急に、かつ過度に言い立てているように思われる。小中学校の「道徳」の教科化に続く高校の「公共」科目の位置づけがここにあるとすれば、大きな不安を抱かざるを得ない。こうした「最適解」に納得できない者は、よくて劣等生、悪くすれば非国民にされてしまうのではないか。ここには功利主義と、それと癒着する現代国家主義の危険をみないでいられない。

感情には理由がある。中西氏などからすれば、「絶対嫌だ」という意見は「根拠のない不安」にしかよらないと言いたいのかもしれない。確かに絶対事故が起こるとは言えないし、事故が起こる確率や、事故のときの死傷者を数値で出せるわけではない。しかし絶対事故が起きないと言えるわけでもないし、何万年も危険な放射能が残るのを必ず被害を出さないと断定するほうがよほど不合理であろう。不確かさのために怖がることは合理的であり、明確な数値(「エビデンツ」)が出ないものは「無意味」だとしりぞけることは理に反した狂信である。

さらに大事なことがある。異なる価値感情に接することはけっして「無意味」ではない。人がどんな気持ちで反対(または賛成)しているのかを知らなければならない。そしてそれを知ることで自分の気持ちも変わるかもしれない。根本的な価値感情は、確かにそう簡単には変わらない。それでも異なる、または対立する相手と直接接することで、相手に対する見方や接し方が少しは変わることもある。どちらも変わらないにしても、少なくとも変わる可能性に対して自分を開いておくということはとても大切なことである。エモーショナルな相手に接するのは無意味だというのは認識としても浅薄だし、思い上がった感情の発露である。

こういう人々の「感情論だ」という非難に屈してはならない。特に、いじめられている者、不正や被害を受けている者は自分の感情をはっきり訴えよう。感情を言う訓練や、感情を聞く訓練もしよう。念のために言えば、感情「を」言うことは、感情「で」言うことではない。追い詰められた人がヒステリックになってしまうのを非難するのは大人げない。しかし感情「を」うまく表現する努力をまったくしない人が、都合が悪くなると黙り込んだり怒鳴り散らしたりする、いわゆる「感情的な」態度は、無論よいことではない。

しかし感情「を」言うことは必要であり、「人の気持ち」を聞こうとする態度は重要である。事実を知ることは必要である。これはあることに関してどれだけ知ることができるか、ということについての「事実」も含む。また確かに論理的でなければ意見は有効性を持たない。しかし事実信仰・論理信仰になってはならない。事実と論理からは価値はでてこない。こうした信仰が「感情論」を否定するとき、自分の価値を所与(逆らってはならないもの)として押し付けようとしているだけのことが多い。


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2019/07/31 20:34 2019/07/31 20:34
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科学と相対主義(哲学の現在 第五回)

 

第一回で私は、「哲学は科学ではない」と述べた。「それなら宗教や趣味と同じなのか」という問いが出るとしたが、これは相対主義の問題にかなり重なる。つまり伝統的には、(科学と違って)主観的な好悪は相対的でしかない、という観念が前提されているのだが、現代では科学そのものにおいても相対主義的立場が幅を利かせている。そして私はそれに反対である。

科学が客観的認識であることを否定する哲学的立場としては、実用主義(pragmatism)がある。またフッサールやハイデガーのように現象学的立場から、科学ははじめから特定の態度によって認識内容を仕立て上げるものだとするものがある。ニーチェにおける「すべては解釈」という主観主義とも結びついて、これは「ポストモダン」でかなり共有されている。ローティのように、これを実用主義と統合するものもある。さらにこうした哲学的動きを助長したのが、科学史論における「パラダイム」論である。科学を科学者の合意による間主観的認識とか、イデオロギーと同様とみる社会構築主義などもこの流れに乗っている。

パラダイム論のもっともなところは、科学の進展が、知識が増えるといった量的変化だけでなく、考え方の新しい枠組みの確立のような質的変化を持つことである。しかしこの変化は主観的な好みの変化によるのでなく、科学者は変えることを(客観的根拠で)余儀なくされる。新旧の枠組み(パラダイム)は別のスポーツやゲームの規則のような共役できないものでなく、その変化は「発展」である。たとえば相対性理論によればニュートン物理学は「厳密には」正しくないが、物体の速度が光速度に対して小さい場合は近似的には真理である。ニュートン物理学は自然の一側面の近似的な客観的認識である。アインシュタイン物理学は、自然のより一般的な認識であり、よって古典物理学からの単なる転換でなく発展なのである。同様に、非ユークリッド幾何学はユークリッド幾何学の拡張であり、後者は前者の限定された真理である。量子論の場合はもっと複雑だが、これは自然を(その階層性に即して)「より深いところから」認識したものと考えられる。等々。ただ、より「広い」とか「深い」とかいっても(カントや現象学者がうるさく言うように) 絶対的な自然「自体」の認識ではないので相対性を持つとは言える。しかしより広く、より深くという客観的方向性はあるので、相対主義は一面的な態度である。

近似的であれ客観的と言えるのは実験(実践)による検証による。これに対し、観念論・不可知論・懐疑論は、それは検証されたとあなた()が思って(言って)いる観念で(物自体でない)と、と言う場合がある。確かにその通りなのだが、これは同義反復的真理であり、「批判」として成り立っていない。私()が思ったり言ったりすることはすべて私達の観念であるが、ある観念について、それが客観的真理である、つまり私()がそう思っているだけではない、と思ったり言ったりすることには、何の矛盾もない。

社会構築主義者などは、科学における認識内容と認識活動との混同があると思われる。科学においても認識活動としては主観的関心が働いており、価値自由ではない。「2+2=4」も「水は水素と酸素からなる」も、数学や化学を役立てたいという、あるいは単にそうした知識自体を価値あるものとして得たいという欲求が生んだものではある。しかしそれは加算や化学組成の正しい認識内容が、それを人間が価値あるものとしているということではない。熱力学は、科学活動としては、産業革命時代の英国の産物と言ってもよかろう。しかしその認識内容としてのたとえば「エネルギー保存の法則」は、中世ドイツにも平安朝の日本にも、人類が生まれる前の地球でも、つまり客観的に成り立つ。「男女平等」は、古代ギリシャや先カンブリア紀の地球には成り立たない。これがどちらも「人間の観念」であっても、科学的認識とイデオロギーとの違いである。

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ところでただし、以上の主張は科学そのものでなく「科学哲学」という哲学の一分野に属する。ゆえに(私としては残念ながら)「客観的真理」であると証明できない部分を含んでいる。こうした問題を含め、私とかなり重なる立場にあって、科学哲学の諸問題をわかりやすく解説している本として、戸田山和久『科学哲学の冒険』(
NHKブックス,2005)は、お勧めできるものの一つである








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2019/07/31 20:21 2019/07/31 20:21
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