美学と芸術の歴史 第四章 北方ルネッサンス

 

【1 総論】 「北方ルネッサンス」は「アルプス以北(特にフランドルとドイツ)におけるルネッサンス」をいう。「ルネッサンス」とは、14-16世紀の欧州における文化の革新運動であり、その発生地および中心はイタリアであった(本稿第三章)。ここで問題になるのは、この「北方ルネッサンス」が、「北方におけるルネッサンス」として、「ルネッサンス」を種的同一性を持つものとして、「北方」を、イタリア中心のものに対する種差として考えるのか、それともそれを、イタリア・ルネッサンスに対応する北方の文化運動として、「ルネッサンス」を類比的統一性を持つものとして考えるのか、ということである。これは「ルネッサンス」の本質をどう規定するかということ、あるいは「イタリア」と「北方」との共通性と差異のどちらに力点を置くかということが問われているのである。裏を返せば、共通性と差異があること、まったく違うものでもまったく同じものでもないことはみなが認めているということでもある。両者の適度な関係性をどうみるかが、各人に問われるところである。西洋美術全般についてまだ多くを知らない者には、「ルネッサンス」の一環という大きなくくりでみるほうが有効であろうが、前章で「イタリア・ルネッサンス」を学んだ私達としては、その違いに注意することで、より興味深くみていくことができよう。

ルネッサンス一般にあてはまる特徴としては、「人間」と「個人」の重視ということがあり、この点では、イタリア・ルネッサンスにおいてみてきたことを北方ルネッサンスでもみることができよう。他方違いを列挙すれば、まず、イタリアでは「人間中心主義」が強いのに対し、北方では「自然の評価」がみられる。イタリアでは理想主義的であるのに対し、北方では一方では現実性、他方では幻想性の評価がみられる。イタリアでは美そのものが第一の価値とされるのに対し、北方では真や善の優位もみられる。相対的にイタリアでは世俗性がより強く、北方では宗教性がより強い。技術面では、イタリアにおける遠近法の完成に対し、北方では油彩法の高度化が注目される。

両者の差異の面に関して、当事者の言葉を一つの証言として引こう。ミケランジェロによる、北方ルネッサンスの風景画に対する否定的な評価である。すなわちそれは、外面的な視覚を欺くために目に快いものを描き、内容も力も、道理も技量も、均衡も比例も、選択も勇断もない、と( 166頁)。私達には驚くべき断罪だが、ここからまた「イタリア・ルネッサンス」がこだわっていたものについてもわかってくる。

【2 ファン・アイク】 ファン・アイクJan Van Eyck,c.1390-1441、文献⑩などでは「ヴァン・エイク」)。また兄(Hubert,?-1426、実在を疑う説もあり)とともにファン・アイク「兄弟」とも言われる。フランドルの人で、ソンブルク(ランブール)生まれか? 1422年頃、ホラント伯(ハーグ)の宮廷画家になっている。25年、ブルゴーニュ公フィリップの画家兼侍従となった。スペイン、ポルトガルに旅行した。32年、ブリュッヘに移住し、結婚。同地で没した。

古くは油絵の発明者とされたが、厳密に最初の者ではなさそうである。しかし乾燥油と樹脂や希釈剤を用いた新しい素材の改良者であり、油絵の技術を使いこなして歴史的な傑作を残した最初の者とは言えよう。深い宗教性と象徴性を持っており、この意味ではむしろ中世的な肖像画の完成とされるかもしれない(文献⑩項目「エイク」)。

「ヘント(ゲント)の祭壇画」c.1426-32、ベルギー、シント・バーフ大聖堂)は、大きな三連祭壇画である。教義と、近代的写実との見事な融合がみられる。12枚のパネルに20の場面が描かれており、それぞれに見事であるが、なんといっても中央下の「神秘の子羊の礼拝」が印象的である。主題としては宗教画だが、自然が「背景」を超え、緑豊かな色彩美においても細やかな写実においても目をひきつける。「魂の救済を求める中世の人々にもまたゲント祭壇画で実現された新しい自然主義は、大いに訴えるところがあったにちがいない」(文献①55頁)。「アルノルフィーニ夫妻の肖像」1434、イギリス・ナショナルギャラリー蔵)は市民夫婦の肖像画である。作者の署名が入れられているのは近代的である。「宰相ロランの聖母」c.1434、フランス・ルーヴル美術館蔵)は祭壇画である。「宰相ロラン」はこの絵の寄進者である。寄進者の姿が絵の中に描きこまれることはイタリア・ルネッサンスでもあるが、下のほうに慎ましくではなく、このように聖母子と向き合うかたちで大きく描かれるのはきわめて異例である。また風景が大胆に取り入れられている。橋の上から遠くを眺める後ろ姿の人物とともに、鑑賞者もまた実に細かく描かれた「背景」を見飽きない。この作品は、「宗教画」と「肖像画」と「風景画」の三要素の融合であるように感じられる。

【3 ボス】 ボスHieronymus Bosch,c.1450-1516、「ボッシュ」とも)はネーデルランドの人である。スヘルトヘンボスに生没とされるが、これは当時ネーデルランドの四大都市の一つであり、オルガンの製造など音楽文化の拠点であり、武器の鋳造工場もあった。ケンピスの『キリストに倣いて』(1472)を生んだ宗教運動devotio modernaが盛んな地であったともされる。早くから名声を得、スペイン王フェリッぺ2世などにより収集された。約30点の板絵が現存する。

人物表現は理想化されない。つまり「美しく」はない。寓意(アレゴリー)が多用されている。グロテスクな怪物が随所に活躍する。この点ではグリューネバルトと重なる。

「手品師」(c.1475-c.85)は寓意画である。「石の切除手術」(c.1475-85)も同工異曲である。人間の愚かさを風刺している。

「乾草車」(c.1485-c.1505、現プラド美術館)。

「愚者の船」c.1485-1505、フランス・ルーヴル美術館蔵)はいわゆる阿呆船を主題としている。ドイツの詩人ブラントの同題の著作(1494)に直接の動機を得たものか。

「聖アントニウスの誘惑」c.1485-c.1505)は宗教画である。しかし、悪魔の誘惑にうちかつ聖人のすばらしさよりも、作者の関心は、彼の幻想に現れる魑魅魍魎たちを生々しく描くことにあると感じざるを得ない。

「快楽の園」c.1505-c.16、スペイン・プラド美術館蔵)は三連祭壇画である。いやらしさと美しさ、恐ろしさと楽しさが同居した、なんとも言えない作品である。

「十字架を運ぶキリスト」(ヘント美術館)。民衆の表情が生々しい。

 【4 グリューネバルト】 グリューネバルトGrünewart,c.1470/75-1528)はドイツの画家である。ただし間違ってその名で記録され定着したもので、本名はMatthias Neithard Gothartとされる。1485年頃からアシャッヘンブルクに住み工房を持ち祭壇画などを作った。1508年頃から、マインツ選帝侯・大司教の宮廷画家兼芸術顧問を務めた。1514年頃から「イーゼンハイム祭壇画」(現コールマール・ウンターリンデン美術館)を制作したが、彼の最大傑作である。イエスの痛ましい死体の迫真性が強烈である。もともと当時猛威をふるった病気の守護聖人を表に立てた教会のためのもので、参詣者はイエスの苦しみを自分達への共苦とうけとったであろう。奇怪な化け物たちの跳梁、復活するイエスの神々しさや天使の総額なども、彼の筆を通じて、私達の目にも印象的であるが、当時の人々には創作というより現実そのものと映ったであろう。彼自身、人々の苦しみに強く共苦する人だったのか、1525年、農民戦争が起こるとその側に立ち、選帝侯・大司教のアルブレヒトから追放された。そして異郷で寂しく死んだ。20世紀初めに再発見され、再評価が進んだ。

【5 デューラー】 デューラーAlbrecht Dürer,1471-1528)はドイツの画家である。ドイツ最大の画家とする者もいる。ニュールンベルクに生まれ、同地で没した。父は金細工師。1494年、結婚し、ヴェネチアに赴き、イタリア・ルネッサンスを研究した(05-07年にもヴェネチア行き)。95年に帰郷して工房活動を開始。ザクセン選帝侯らのため祭壇画などを描いた。

「イタリアの山」(1494-95)は水彩画である。きわめて早い風景画であることが注目される。

帰国直後の1498年、制作した木版画集の「黙示録」により名をあげた。宗教画であり、木版画を多く描いたことも彼の特徴の一つである。

「自画像」1500、現ミュンヘン、アルテ・ピナコテーク)も注目される。自画像という分野の登場自体が「ルネッサンス」の大きな内容であり、またイタリア・ルネッサンスではそれは群衆の一人にまぎれこませるようなかたちで現れてきたことは前章で述べた。「自画像の誕生は、彼等〔画家〕がもはや自らを卑しい身分とみるどころか、自尊を抱いたことを示している」(前章)。自画像は四種に区分できる。①モデル代を払う必要がないので練習として描くもの、②端役の一人として描き入れるもの、③扮装をさせて(建前上は別人として)描くもの、があるが、④しかしここでデューラーは真正面からの本格的な自画像を描いており、画期的である。なおデューラーの人となりについて、ナルシシズムに近い虚栄心を指摘するものもあり、彼の場合に(一般論として「芸術家」の自尊心ないし虚栄心は検討課題となり得よう)それも一因と言えるかもしれない。

「アダムとエヴァ」1507、現プラド美術館)は宗教画である。しかしおそらく宗教的動機に劣らず、人体の造形が彼を動かしている。そしてこれはドイツで最初の理想的裸体像なのである。

「聖三位一体の礼拝」(1511、現ウィーン、美術史美術館)は宗教画の大作である。

「メランコリア」(1514)は銅板による寓意画である。「メランコリア」(羅、英メランコリー)は、古代からの四体液論によれば、黒胆汁が優位な性格で、内向的な憂鬱質である。そしてもともとはのらくら者など否定的評価を伴うのがふつうであったが、まさにルネッサンスに逆転が起こる。学者や芸術家など、創造的天分と結びつけられたもので、書物ではフィチーノの「三つの生活について」(1505)などに現れている。デューラーのこの作品はその美術版とも言える。

1520-26年にフランドルに旅行。

「四人の使徒」(1526、現アルテ・ピナコテーク)は宗教画である。1517年、ルターによる宗教改革が始まった。デューラーも宗教改革とともに進むことになる。

またデューラーは草木や小動物のデッサンにも、きわめて見事な写実力とともに独特の魅力を持つものがある。彼は一木一草も神の被造物として価値あるものと考えたようである。これは地中海文化にはほとんどみられない、自然と風景への北方的関心である。しかし越氏によれば(文献②105頁他)、彼と同時代のインテリを魅したのは、風景よりも古典神話に裏付けられた寓意的人物像であり、彼も結局は人物像を最高とするイタリア的美意識に従ったのだという。

【6 クラナッハ】 クラナッハLucas Cranach,1472-1553)はドイツの画家として最も名を成したが、半ばルネッサンス的「万能人」に属するとも言えそうである。クローナハで出生。父もおそらく画家であった。1501/02-05年、ウィーンで制作活動し、ドナウ派に属する。また当地の人文主義者たちと交わった。05年、ザクセン選帝侯フリードリッヒ(賢侯)の宮廷画家としてヴィッテンベルクに居住。08年、皇帝マクシミリアンへの使者としてネーデルラントに赴いた。1512/13年、ゴータの市参事会員の娘と結婚。17年、ルターが宗教改革を始めるが、19年、そのヴィッテンベルク市の参事会員になった(-45)22年、ルター訳の『新約聖書』が出版されたが、その木版挿絵を描いたのが彼であった。24年、ニュールンベルクに行き、デューラーに肖像を描かれている。25年、「ルターとカタリーナの肖像」を描いた。30年、「ヴィーナスとミツバチ泥棒のアモル」を描いた。神話画である。33年、「ルクレティア」を描いた。歴史画である。34年にはヴィッテンベルクの市長に選ばれた(中断を経て44年まで)46年「若返りの泉」を描いた。寓意画である。53年、ヴァイマールで没した。

デューラーの理想的人体と比べ、クラナッハの人物はより写実的である。小生のような下根の者は、古典的なプロポーションを持つが冷たいイタリア的・デューラー的裸婦には美しいのだろうが「ふん」と通り過ぎたくなるのに対し、生々しさを感じさせるクラナッハの裸婦のほうにひきつけられるものがある。美術「鑑賞」としてはいけないのでしょうか。対象に即して言っても、「若返りの泉」のような世俗的官能性と、ルターへの肩入れとがどう折り合えるのか、不思議な気がする。ルターは「酒と歌と女」を愛する人でカルヴァン以下の「禁欲的プロテスタント」と違うからかまわないのか。もっともクラナッハはカトリック諸侯の肖像も描いている。

【7 アルトドルファー】 アルトドルファーAlbrecht Altdorfer,c.1480-1538)はドイツの画家であり、建築家である。亡くなったレーゲンスブルクの生まれか。ドナウ派最大の画家とされる。1519年、レーゲルスブルク市会議員になり、26年からは同市の「公的建築家」として、城壁や塔(1535)の造営に携わった。

「聖ゲオルギウスのいる森」(1510)はいちおうキリスト教伝説に基づく主題だが、本質的には風景画である。森が生々しい。

「マクシミリアン帝祈祷書」の挿絵(c.1515)はデューラーとの共同制作である。

「アレクサンダー大王の戦い」1529)は歴史画である。しかし俯瞰した大画面には、膨大な人馬が細かく細かくうじゃうじゃと描かれ圧倒される。本質的には歴史画というより地表の熱病的な煮えたぎりと越氏は言う(文献③149頁)。

「ドナウ風景」c.1532)は、最初の純粋な自然風景画ともされる。それは、具体的な場所の実景に基づき人間抜きの風景画であるという意味においてである。ちなみに、特定できる現実の景観を描いた最初の作例とされるのは、ヴィッツの「奇跡の漁り」(1444、現バーゼル、無論少なくとも建前的には宗教画)のようである。西洋美術において基本的に多くない「風景画」のなかでも、まったく人がいない(家のような人工的なものもない)作品は現在に至るまできわめて少ない。一見そう見えても、寄って観ると、隅のほうに小さく人物ないし神の姿があったりしがちである。私はがっかりするとともに、どうしても人間なしにはいられないのかと、西洋の強迫観念を感じる思いがする。越氏は「人物の消失」に、魂の救いがすべての原動力であった「中世」の克服をみる(同書、155頁)。しかし私達日本人からすれば、自然への融解にこそ救済があるのではないか。「うつせみはかずなき身なりやまかはのさやけき見つつみちをたづねな」(大伴家持、なお家永三郎「日本思想史における宗教的自然観の展開」参照)。西洋でも特にゲルマン系には自然を評価化する精神はあり、それはロマン主義で前面に出て来る。しかしそれでも西洋との違いはある。夏目漱石は学生時代から、イギリスロマン派の詩と漢詩とにおける「自然」観念の比較研究などを行っていたが、「東西文学ノ違」について次のようなノートも残している。「nature.Wordsworthnatureinterpretationヲ見ヨ。Arnold,Browninginterpretationヲ見ヨ。吾人はnaturenatureトシテ渇仰スルナリ花ヤ鳥其物ガ愉快デタマラヌナリ。其裏面ノ主意ヤontological meaningハ不必要デアル」(『漱石資料――文学論ノート』岩波書店、1976197)。日本的本覚思想の行き着いた先としての木非成仏論はこの精神をもっとも端的に表しているのではなかろうか(拙稿「自然成仏の思想と文化」『唯物論』第83号、東京唯物論研究会、2009、参照)

なお中世の風景画として、ランブール兄弟による時祷書の挿絵がある。これはこれで美しく、また魅力的なものである。しかしそこでは人間が自然に持ち込んだ秩序というラテン的精神がみられるのに対し、アルトドルファーでは秩序に敵対する自然という、すなわち自然に「自由」や「崇高」をみるゲルマン的精神がみられる(文献③147頁参照)ことも興味深い。

【8 パティニール】 パティニールJoachim Painir,c.1480-1524)はフランドルの画家で、アントウェルペンで活躍した。

純粋な風景画ではないが、物語の内容より自然の風景を強調して描き、デューラーから「よい風景画家」と呼ばれた。他の画家の風景部分も担当している。「聖ヒエロニムスの懺悔」(1515以降)などがある。

【9 ブリューゲル】 ブリューゲルPieter Bruegel,1525/30-1569)はフランドルの画家である。ブリューゲル村(現オランダ)の生まれか?1551年、アントウェルペンの画家組合に登録している。イタリアに旅行し、ローマ、ナポリ、シチリア島に赴き、55年までに帰国。旅中にものしたアルプスの素描を25枚の銅版画として刊行した。63年、結婚を機にブリュッヘに移住。69年、同地で没。

はじめは主にボス風の幻想的風刺画が多いようである。「大魚が小魚を呑む」(1557)、「七つの大罪」(1558)などがある。ボスと比べると、よりユーモラスで「楽しめる」要素がより多い。「謝肉祭と四旬節の戦い」(1559)などは宗教性はただのネタ元でマンガ的な作品に思えてしまう。「ネーデルラントのことわざ」(1559)は絵としてのおもしろさのほかに、謎解きのおもしろさが加わる。「こどもの遊び」なども同様で、こども好きだったのではないかと思わせる。「怠け者の天国」(1567)は見る者をにやりとさせないではいない。「農民の踊り」なども風俗画として楽しいが、風刺や謎解きといった知的な態度よりも、写実によってひきつける。そして彼の写実は、超絶的な技術による客観的再現というだけでなく、対象への感情移入の力にもよると思われる。ランブールの月暦の農民はそれとして興味深いが、画家は農民も自然の一部である「光景」として突き放して描いているように感じられる。ブリューゲルは踊り、あるいは飲み食いする農民に共感しており、私達はそれを「眺めている」というよりそこに「居合わせている」感じを抱く。イタリア・ルネッサンスの「理想化」ともボス風の「戯画化」とも違う、リアリズムの本道があるように思われる。「雪中の狩人」(1565、ウィーン、美術史美術館) も庶民の生活を描いているが、風景画としての「美しさ」や風俗画としての「面白さ」を超えた深みを感じさせる。獲物が乏しかった狩人たちの、また共にした猟犬たちもの、疲れが重い足取りとともに伝わってくる。それでも帰っていかなければならない。生きることの重さも感じさせられる。遠くではこどもたちが無邪気に氷遊びに興じている。彼の宗教性についてはどう考えるべきなのか。「バベルの塔」(1563)はまずその精緻な描写で見る者を圧倒するが、技術力のすごさだけでない何かによって私達を考えさせる。塔(建築)や各種の船(商業や戦争)等に示される人間の生活欲や果てのない創造力に改めて感嘆するとともに、しかしそれがとんでもない愚かしさや虚しさと結びついているのではないかという疑念もわかせる。「イカロスの墜落」(1555、ベルギー王立美術館)はギリシャ神話に基づく絵である。しかし一見して神話上の形象は見られず、風景画のようである。大船も行き交う海の果てには日が沈もうとしており、遠くに高い山が連なる。手前の岸では農夫が馬で耕し、羊飼いもいて風俗画の要素もある。天に迫ろうと塔を建てたバベルの人々のように、太陽と競ったイカロスは熱で翼を溶かされて海に落ちるのであるが、――よくよく見ると右下の隅に、足だけ水面上に出した「犬神家」状態になっているのがイカロスなのである。主題が中心に描かれず、探さないとわからないような端っこにある。もしかしたらそれが本当の悲劇なのかもしれない。重大な出来事に人々は気づかず、いわば眠っている。農夫は足元を見つめ、羊飼いは空を見上げているようだが、ばたついているイカロスには背を向けている。近くの岸の赤帽の男も、目の前のイカロスでなくて手元に気をとられている。「十字架を担うキリスト」(1564)でも、群衆の中にキリストは埋没しており、探すのに苦労する。これに立ち会った人々の大部分にとってこれは救済史的な、人類と自分に決定的な出来事ではなく、「ユダヤの王」としてかつがれた反体制派の首領の処刑として、ありがちな、いっときは煽情的だが間もなく忘れられるような「事件」の一つだったのかもしれない。「幼児虐殺」「ベツレヘムの戸籍調査」(1566)も新約聖書の挿話を描いている。雪が積もった村の光景はパレスチナというよりフランドルである。ヘロデ王の虐殺の史実自体疑わしいが、画家は事柄の普遍性を見抜いているようである。独裁者は自らの権力を脅かす存在に脅え、それを絞め殺そうとする。そしてその巻き添えで多くの無垢な者たちが殺されてきた。まさにこの時期、スペインのアルバ公は、フランドルの新教徒の大弾圧を始めるのである。「二匹の猿」(1562)は鎖につながれ、窓の外の、海を行く船や空を飛ぶ鳥に目を向けず、背を丸めている。

 

文献案内

 

    『世界美術大全集、第十四巻、北方ルネサンス』(責任編集 勝国興)小学館、1995

    ベネシュ『北方ルネサンスの美術』岩崎美術社、1971

    越宏一『風景画の出現』岩波書店、2004

    掛下栄一郎『神の狂気の美を求めて――ヒエロニムス・ボッスの旅――』成文堂、1992

    デューラー『自伝と書簡』前川誠郎訳、岩波文庫、2009

    中野孝次『ブリューゲルへの旅』[1976]文春文庫、2004

    『土方定一著作集2ドイツ・ルネサンスの画家たち』平凡社、1976

    土方定一『ブリューゲル』美術出版社、1963

    クラーク『風景画論』[1949]佐々木英也訳、岩崎美術社、1967

    『世界美術辞典』新潮社、1985


添付画像

Die Schlacht zwischen Alexander dem Großen und dem Perserkönig Darius III. bei Issus im Jahre 333 v. Chr. beendete das Vordrängen der Perser. Alexander siegt und Darius wendet sich zur Flucht.



2020/01/11 22:31 2020/01/11 22:31
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美学と芸術の歴史 第三章 イタリア・ルネッサンス

 

【1 語義と外延】 「ルネッサンス」とは、その語義からすれば、古典古代の学芸の復興である。「古典古代」とは、古代ギリシャと、その継承者としての古代ローマを意味する。これを復興するとは、中世の学芸の否定または革新を意味する。ただし当事者がこの言葉(伊rinascita、たとえばヴァザーリ:1550)でこの事態を呼ぶことはあまりない。私達がこの言葉を負うのはむしろのちの歴史家にであり、用語としてミシュレ(仏La Renaissancec.1840)に、意味またはイメージにおいてはブルクハルト(文献④)が大きい。

「ルネッサンス」はフランス語の普通名詞としては「再生」「復興」一般であるが、歴史用語としては(また「○○ルネッサンス」のようなものを全部含むものとしてでなく、それらの派生用語の本家としては)、特定の時・所・分野で限定される。時代としては、おおまかには「近世」に属する。始まりは早い場所・分野では14世紀の初め、終わりは遅い場所・分野では17世紀初めまでの300年となる。場所はイタリアを中心とし、おおまかな意味での「西欧」である。「北方ルネッサンス」は次回でとりあげる。分野では造形芸術・文芸・思想に渡る。このうち文芸と思想は別稿で扱うこととし、本稿では造形芸術を主題とする。

【2 本質】 「ルネッサンス」は語義からは「復興」であるが、その本質は復興よりも革新にある。このずれは歴史上よくみられるものである。革新的な運動も、当事者には現状の否定が「古きよき昔」への復古として意識されたり、またそれを旗印にするほうがわかりやすかったりするためである。すなわちルネッサンスとは、西欧近世における、造形芸術・文芸・思想における革新運動である

いずれにせよ彼等はその現状、すなわち中世をなぜ革新したのか。ここで日本人にありがちな「ルネッサンス・イメージ」を反省したい。すなわちこのイメージでは、ルネッサンスとは、反中世=反キリスト教=反宗教=「人間中心主義」=「世俗的」「現世的」、というものである。しかしまず言わなければならないのは、ルネッサンスは反宗教でも反キリスト教でもなく、ほとんど反カトリックでもない、ということである。それは宗教-キリスト教-カトリックが、ルネッサンス芸術の大きな内容でありまた支え手でもあったことは、実際の作品を少し多く見れば、すぐにわかることである。バークによれば、絵画において世俗的主題のものの割合は、1420年に5%に過ぎず、1520においてさえ20%にとどまる。つまり宗教画のほうがずっと多いのであり、ダヴィンチの「最後の晩餐」やミケランジェロの「最後の審判」などもそうである。「中世」と「近世」の対照はもっと正確に考えられなければならない。そこで中世(a)とルネッサンス(b)との対照を次のように図式化したい。(1a)「神は尊く人は卑しい」。(1b)「神は尊く人も尊い」。(2a)「来世重視・現世軽視」。(2b)「来世を否定しないが現世も重視」。(3a)「救いのために禁欲」。(3b)「快楽追求を必ずしも罪としない」。(4a)「教会の一元的支配」。(4b)「教会を否定しないが、個人の経験や思想も重視」。(5a)「伝統と統一性」。(5b)「創造と個性(名誉心と競争心)」。(6a)「汎ヨーロッパ的(ラテン語)」。(6b)「民族的(近代語)」。

【3 芸術上の特質】 ルネッサンスの人々にとって芸術とは何か。その答えは前回のアリストテレスと同じ答えになる。すなわち「芸術とは価値ある対象の模倣(μιμησιςミーメーシス)である」と。では「価値ある対象」とは何か、と言ったときにキリスト教があがるのは古代とは違うところであり、他方、異教神話や世俗的な重要人物もかなり該当することは、中世と異なるところである。

以上は内容面であるが、技術面で言えば、中世よりも写実的になっているのがまず目につく。

形式的性格としては、初期は晴朗で健康的である。ギリシャ的な均衡論の蘇りがみられる。中期は調和的であるとともに優美である。遠近法の発達が確立し、「人間の視点」が次第にはっきりしてくる。後期は力動的で巨大趣味も現れる。世俗性も強くなる。

 【4 社会的性格】 前節でルネッサンスの中世との違いを確認した。だがそれは近代とも異なる。中世との違いを過大に見積もると、近代との違いが見えなくなるが、これはいわばルネッサンスのロマン主義的解釈である。ロマン主義では芸術は芸術家の個性の自由な表現とされる。しかしルネッサンスでそれは稀でしかない。作品は注文主の指定によってつくられる。制作者は「芸術家」というよりいまだ職人であり、ギルド(薬剤師や印刷業など)に所属する。注文主は内容だけでなく費用にいたるまで細かく指示することも多く、それは個人の美意識によるよりも社会的・文化的な規範に大きく制約される。注文主をパトロン、注文行為をパトロネージと言い、「芸術家」が自分の美意識なり「霊感」なりで自由に制作して作品を市場に出し、それを気に入った者が商品として購入する、といったことはほとんど行われていない。ルネッサンスは中世との単純な断絶ではなく、中世の実りの秋という面も持っている。ブルクハルトはキリスト教に対抗的なバイアスが強い歴史観である。日本の中・高の歴史教育にはその影響が強く、ルネッサンスから新時代、というイメージを与える教科書が多い。

 それでもルネッサンスが革新でもあったことは事実だが、それは何によるのか。最大の要因は、文化の新しい担い手として、市民階級が成長してきたからである。それゆえルネッサンスは、まさに14世紀に、まさにイタリアに、そしてまさに都市において起こったのである。富裕な市民(個人としてのほかに、職業団体としてや、都市共和国としてのものもある)は、教会と並んで、芸術のパトロンになっていった。しかしこのバトロネージについても、いろいろな動機を含むことが注意される。つまりそれは①いわば純芸術的なものもあるが、他に➁名声欲、③公共心、④宗教心、によってもなされたのである。またパトロネージの形態も多様である。工房へのふつうの注文を別にすれば、①市場での売買もなくはないが、近代以降と違って稀であり、➁期限の定めのない庇護関係や、③(注文作品ができるまでの)限定的な食客関係も多く、さらに④半ば公的な「アカデミー」の会員とされたり、⑤都市共和国などから補助金を受けたりすることもある。

文化の担い手のうち制作者は、中世においてもまだ職人という一つの(そしてどちらかと言えば「卑しい」とされる)身分である性格のほうが強かった。より力動的に言えば、職人と芸術家の二つの側面が次第に強い内的対立になっていく過程が、ルネッサンス期の芸術制作者にみられる。自画像の誕生は、彼等がもはや自らを卑しい身分とみるどころか、自尊を抱いたことを示している。また職人は専門家であるが、ルネッサンスが理想像とするようになったのは何でもできる「万能人」であった。これは狭くは身分制、広くは分業がもたらす疎外に対抗する、人間性回復の要求を、近代的・大衆的な基盤においてではなく、少数の「天才」においてみようとしたものであった。

【5 ルネッサンス批判】 ルネッサンスに対して、賛美・謳歌だけがあるのではない。

宗教改革の立場からは、ルネッサンスの快楽主義が批判される。そこには道徳性が欠如しており、無秩序であり、虚飾である。ロレンツォ・メディチの有名な歌は刹那主義である。このような精神性は混乱と暴力を、すなわち力の支配を生み出すものである。実際ルネッサンスは戦国時代であり、テロも横行していた。離れた安全地帯で天才の作品だけ見る私達は黄金時代とも思いかねないが、ふつうの生活者にとっては暗黒時代であった。またそれはカトリック教会・大資本家・王侯など特権的強者に寄生したものであり、国民的文化ではなかった。

科学革命の立場からは、ルネッサンスの「学問」は科学の方法論の理解に至らず、スコラ学からプラトン的古代哲学に権威を変えただけである。

以上は外からの(ただし隣接し一面では重なりもする)地平からの批判であるが、内在的な、「限定性」への批判もある。まず分野においては、音楽が問題となる。パレストリーナやジョスカン・デブレなどすぐれた音楽家はいたが、前との断絶性といえば、次の時代のバロックのほうが強い(「バロックが音楽におけるルネッサンスだ」)ともされる。

また地域的には地中海世界の特殊性ということが問題になろうが、これついては次章の「北方ルネッサンス」でとりあげたい。

【6 ジオット】 ルネッサンス美術はジオットGiotto diBondono,c.1267-1337)から始まる。半ば伝説的な記録によると、彼は羊飼いの子であり、羊の番をしながら地面に杖で描いていた絵の見事さにガチマブエの目にとまり、その弟子にされたという。1290年頃独立し、1305年にフィレンツェで工房を組織したことは確認される。ローマにも滞在し、1329年から33年はナポリ王の宮廷画家であった。34年にはフィレンツェ大聖堂の造営主任に任じられ、いまも残る鐘楼を起工した。35-36年にはミラノのヴィスコンティ公のために働いている。在世時より高い評価を受け、同時代のフィレンツェ人ダンテも名を挙げている(『神曲』煉獄編11:94-96)。人となりも、単なる職人を超えた「芸術家」気質の片鱗があり、やはり同時代の文芸家サケッティが、自尊心あるその性格を示すエピソードを伝えている。

作品として最も有名なのは、「聖フランチェスコの生涯」(1297-1305)であろう。題材の聖人の地アッシジの教会に描かれたフレスコ画であり、小鳥たちに説教する場面などを含む。別人説もあるが、このような問題があること(工房として少なくとも部分的には関与した蓋然性は高い)自体、まだ「作者」の概念が確立していないしるしでもある。

パドヴァにある「スクロヴェーニ礼拝堂壁画」(1303-05)は、聖母とキリストの生涯を題材にした、見事なフレスコ画である。①宗教画であるが、力点は神の威厳よりも人間の精神や道徳の重さにある。②正面向きの紋切り型ポーズでなく、その場にふさわしい姿が与えられている。③約束事による象徴的構図でなく、写実的な劇的構成がとられている。④したがって見る者は図解的に意味を読み取るというより、登場人物の意志と感情を直接に伝えられる。⑤平面的でなく、短縮法による遠近法が用いられている。以上は中世との違いであるが、ルネッサンス内部で言えば⑥様式性を重んずるシエナ派と異なり、世界のリアルな描出というフィレンツェ派の特質が現れている。――私がここに入ってすぐ感じたことが二つある。一つは、「青」の美しさである。ラビズリーによるその色は、輝かしいが深みもあり、内容の精神性とよくシナジーしている。もう一つは、「聖なる」諸場面の前後左右につらなりに、曼荼羅を連想したことである。上に述べたように、よく見れば近代性が重要なのだが、近代のはじめだけに、最初の印象としてはむしろ中世精神の雰囲気を強く感じさせもするのである。――パドヴァを訪れる折がある人は、ガリレオが講義した大学とともに、この礼拝堂をぜひ見られたい。

ちなみに礼拝堂であるから当然宗教画であるが、パトロンは教会でなく大商人である。父が悪名高い高利貸しで、その贖罪のための私設礼拝堂なのである。そしてこの動機が「父親の贖罪以上に〔子の〕エンリコ[・スクロヴェーニ]自身の権勢の誇示にあったことは疑いを得ない」(文献 96頁)。実際、見事な礼拝堂を建てられて隣接する修道院が抗議したという。贖罪もポーズでなく本心、権勢誇示も本心、この並立がルネッサンスである。

【7 マザッチオ】 マザッチオMasaccio本名Tommaso di Diovanni Mone,1401-28/29)はフィレンツェの人で、父は公証人であった。兄ジョバンニ、その二人の息子、その孫、ひ孫も画家である。

フィレンツェの「ブランカッチ礼拝堂壁画」はフレスコ画である。モニュメンタルで厳格だが、説得力ある人物像が描かれている。緩やかなリズム、古典的に秩序付けられた構図も印象的である。ここも多くの場面からなるが、「貢の銭」では作者自身の像も登場人物の一人として描かれている。自画像の出現をルネッサンスの特質の一つに挙げたが、従来の価値観からはよくないことであるために、はじめはこのような「裏口から」のものであった。ブランカッチは富裕な絹織物商人である。スクロヴェーニ礼拝堂と同じく、名ある大聖堂などと違って、大規模でなく外はふつうに古びていて、意識的に探さないとみつからない。しかしのちのフィレンツェの巨匠たちがこれを学習素材としたというように、美術上重要である。私が見に行ったときはすいていた。やはりそうだったパドヴァは場所的にやむを得ないが、フィレンツェに来たら、いつも長蛇の列のウフィツィ美術館だけでなくこういうところも見たいものである。

フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の「聖三位一体」(1427-28)は遠近法の教科書的代表である(私の美術史の教科書にもあった)。建築家のブルネレスキ(彼によるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂はこの町の象徴である。丸天井の上からみた街並が美しい。)から一点透視図法を学び適用したものという。この聖堂は町の中心近くにあるが、入ってこの絵は意識的に探さなければならなかった。説明版も柵もなかったからである。そういうところにもすごさを感じてしまった。

若死にしたこの画家は、合理主義的で自然主義的なフィレンツェ・ルネッサンス精神を絵画で代表している。

【8 ボッティチェリ】 ボッティチェリBotticelli本名Alessandro di Mariano Filipepi,1444/45-1510)はフィレンツェの人であり、フィリッポ・リッピに学んだ。

」(c.1478)はギリシャ神話による美の三美神である。「ヴィーナスの誕生」もギリシャ神話を題材にしている。ともに形而上学的道徳の象徴である。後者の注文主ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチはメディチ家の統領イル・マニフィコの従弟で、(フィチーノの解釈による)プラトン哲学に強い関心があった。ただし画家は思弁に劣らず優美な女性美それ自体もめざしていることは疑えない。

題材が既にルネッサンス的であるが、中世に皆無だったわけではない。「春」の古代版・中世版と比べてみよう(図1)。まず目につくのは、中世版が厚い衣服を着していることである。なぜか。肉体は価値的に劣るものであり、したがってそれを「模倣(ミーメーシス)」することは美術の意図に反するからである。しかし肉体が価値的に劣るとは考えず、肉体的にも美を追求したのがルネッサンスである。とはいえ古代版が全裸であるのに対し、ボッティチェリの美神は薄物をまとっている。なぜか。ルネッサンスはキリスト教を否定したわけではない。肉体がそれ自体として醜いものではないにしても、それは人間が他の動物と共有するものであり、精神がより高い価値を持つという思想は、ルネッサンスがキリスト教から受け継いでいる。裸体を「恥じる」のはしたがって精神性の表れであり、美神は薄物で、ヴィーナスは自分の手でそれを隠す。それなしでは「獣の美しさ」になってしまう。他方で「隠す」のは精神を「表す」ためであるから、(均衡のとれた美しさを持つ)体の線を示すことは妨げない。また中世版の「三美神」は三者が金太郎飴である。単に作者が下手ということではあるまい。同一性に価値があるという中世的美意識と、個性的な者たちの調和を価値あるとするルネッサンス的美との違いを見るべきであろう。すなわちルネッサンスは中世の一面的な否定、古代の一面的に復活でなく、両者の弁証法的止揚なのである。

ボッティチェリの趣味にはマザッチオの合理的自然主義と違いもある。優美さを重んじときに装飾性も廃さない。ゴシック様式を部分的に復活させているところも、歴史的弁証法であろうか。

 15世紀末、フィレンツェはサヴォナローラの宗教政治が行われ、反宗教的な華美が排斥された。ボッティチェリも改心して、自らの作品を火中に投じたとも言う。このヴァザーリの報告は疑いの余地があるが、後の彼の作品の弱々しさを見ても、繊細でやさしい気質と思われる彼が、この出来事にかなりの影響を受けたことはありそうに思われる。またこの出来事を、国難(仏軍の進駐)において狂信者に煽られた愚集の集団ヒステリーと軽くあしらってはならない。前述のルネッサンス批判の観点からは、まさにその中心地において、ルターを20年先取りするような事態もあったとみなせる。

 ボッティチェリが今日のような高い評価と人気を得るのは、19戦期後半のラファエロ前派とペーターによるところが大きい。

 【9 ダヴィンチ】 ダヴィンチLeonard da Vinci,1452-1519)は公証人の庶子であり、14歳ころ、フィレンツェのヴェロッキオの工房に入った。79年頃独立。82年、ミラノに移住し、イル・モーロに仕える。1500年、フィレンツェに帰還。02年にはチェーザレ・ボルジアの軍事土木技師として従軍した。13年、フランス王フランソワ1世の招きでフランスに行き、その地で没した。「万能人」の典型であり、その多才と自負はミラノ公宛の自薦状に明瞭であり、またその膨大な手稿が裏付けている。彼は絵画の学問的性格を強調した。

 「岩窟の聖母」「聖アンナ」は、近年、実在の商人の妻をモデルとする肖像画であることがほぼ確定した「モナ・リザ」(1503-06)とともにルーブルでみることができる。「最後の晩餐」(1495-95)はミラノの教会の食堂に壁画として描かれたものであり、現在は予約が必要で総入れ替え制で見学させている。デッサンでは、幾何学的調和を追求した「ウィトルウィウス的人体図」や、「自画像」が有名である。

 【10 ラファエロ】 ラファエロRaffaello Sanzio,1483-1520)はウルビノ生まれで、父も画家であった。ペルージャでベルジーノの弟子になり、1504年、フィレンツェに出、08年、教皇ユリウス二世によってローマに呼ばれた。

 ヴァチカンの「署名の間」を飾る「アテネの学堂」(1511)は、古代の哲学者たちをそれぞれにふさわしい姿で描き出したもので、これがまさに教会の中心にあるというところにルネッサンスの象徴がみられる。

 ラファエロといえば何と言っても数々の聖母子である。図2をみられたい。聖母子は無論伝統的な宗教画であり、中世のものとラファエロのものを並べてみた。比べよと言われて素人がまず感じるままを口にすればラファエルのほうが上手ということたがが、ではなぜそう感ずるのか。彼のほうに立体感があることが大きい。ところで中世の聖母子が平面的なのは、遠近法が欠如しているということたが、これを単なる技術的未熟さに還元してはならない。中世人はたとえその技術があっても、聖母子にそれを用いる意志を持たなかった。遠近法は見る側の「視点」によるものであり、聖なる対象をそのような「人間的観点」から描くべきではないとしたからである。また素人がラファエロのものだけをみれば、聖母子でなくそこいらの母子の絵とも見るであろう。中世のほうはそれは不可能である。これは聖母子であるぞとの記号が含まれている。最も顕著なのは光輪である。実はラアァエロのものにもあるのだが、画集のかなり正確な図版だけでなく、本物でも意識しないと見逃してしまうほどかすかなのである。意地悪く言えばいいわけ程度であり、ラファエロは聖母子を超越的な神々しさによってでなく、晴朗な表情と内面的な気高さを持った健康的な人間の美しさとして描いている。これがまさにルネッサンスである。

 【11 ミケランジェロ】 ミケランジェロMichelangelo Buonarotti,1475-1564)はフィレンツェ近郊に生まれた都市貴族の出身である。14歳でメディチ家の保護を受けた。1496年、ローマに赴き、1501年フィレンツェに戻ったが、05年ふたたびローマに行った。

 サン・ピエトロ大聖堂にある彫刻「ピエタ」(1499)など、前半期は古典主義の完成がみられる。「ダヴィデ」像はフィレンツェに戻ったときの共和国の注文によるもので、市庁舎前におかれた(現在はアカデミア美術館)。個人的には彼が学んだドナテルロの「ダヴィデ」像のほうが、いろいろな意味でこれ見よがしのミケランジェロのものより好きだが。

 彫刻を本分と考えていた彼には、システィナ礼拝堂天井画(「天地創造」その他)は教皇の命令でいやいやながら成し遂げた傑作である。メディチ家の廟墓や「モーセ」像などもこのころである。「最後の審判」(36-41)が代表する晩年は神秘主義的傾向が現れ、内面的情念を強調する肉体表現はマニエリズムを予告している。好敵手のダヴィンチが調和のとれた静的完全性を示しているのに対し、力動的で複雑な構成に後期ミケランジェロの特徴が表れている。

 

文献案内

 

    『世界美術全集、11、イタリア・ルネサンス』小学館、2003

    ヴァザーリ『ルネサンス画人伝』[1550]平川・小谷・田中訳、白水社、1982

    レッツ『ルネサンスの美術』鈴木杜幾子訳、岩波書店、1989

    『世界の名著56ブルクハルト〔イタリア・ルネサンスの文化〕』中央公論社、1979

    『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』杉浦明平訳、岩波文庫(上下)、195458

    バーク『イタリア・ルネサンスの文化と社会』[1972]森田・柴野訳、岩波書店、1992

    羽仁五郎『ミケルアンジェロ』岩波新書[193919682

    高階秀爾『ルネッサンスの光と闇』[1966-69]中公文庫、1987

    コール『ルネサンスの芸術家工房』[1983]越川・吉沢・諸川訳、ペリカン社、1994

佐藤康邦『絵画空間の哲学』三元社、1992



添付画像
Sandro Botticelli (1445-1510)
The Birth of Venus
2020/01/11 22:14 2020/01/11 22:14
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