難しい哲学書を読む(その一):哲学の現在11

仲島陽一

◇フィヒテ「全知識学の基礎」(1794

 

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「難解極まるとの定評ある」(木村素衛「訳者序」『全知識学の基礎』岩波文庫、上、19496頁)哲学書と言われる。今回読み直してみたら思っていたほどではなかった。それでも読み続けるのは苦痛である。難解のわりにばかばかしいと思われるからである。フィヒテ哲学を全否定するものではない。文章も他のものはそう難解ではない。実践哲学では「フランス革命論」、入門編では「知識学への第一序論」などは、むしろ勧めたいものである(後者は、前掲訳書所収のものでなく、『世界の名著』版の訳がよい)。問題はあくまでもこの著作にあるようだ。

まず問題にしたいのは、題名にもあるWissenschaftlehreは「知識学」でなく「学問論」と訳すべきではないかということである。(以下、原著はJ.G.Fichte,Ueber den Wissenschaftlehre,Grundlage der Gesammten Wissenschaftlehre,Friedrich Frommann,1969.による。)内容理解においても、そのことと、デカルトの「考える我」、カントの「先験的統覚」を受けていることを頭におくと、出だしはいちおううけとめられる。「AはAである。」とか「我は我である。」とかが、「学問」の単位である「判断」「命題」とされている。「知識」(Wissen)はそのまま「学問」(Wissenschaft)ではない。そして「学問論」においても、どのようにして非学問的知識が学知になるかの探求が重要と思える(ヘーゲルの「精神の現象学」はそれをやろうとしている)のだが、この著作ではそういうことは一切やらず、学問がある(べき)ものとしてその可能の条件としてこの「第一命題」を提示するのである。

「第二命題」で「非我」が第一命題の「自我」と同様に「証明も導出もされ得ず」「経験的事実から出発する」(op.cit.,S.214:訳書120頁)のはわかるが、それなのにそれが「定立」[setzen]される(S.265122頁)というのが納得できない。ここには問題の意識経験を「自我の行動」[Handlungen des Ich](ebenda)ととらえることからくるのであろう。後には非我をも「自我の根源的行動の所産[Product]」(S.269130頁)とも言うが、これは恐れ入る。精神の能動性の把握はドイツ観念論の長所の一つであるが、これでは能動性という一面への悪しき固執であろう。

「批判哲学の本質は、絶対的自我が端的に無制約にしてより高い何かによっても限定されないものとして立てられる点にある」とフィヒテは述べる(S.279148)。これは間違いである。「批判哲学」の本家カントはそんなことは認めない。これは「批判哲学」でなく純粋「観念論」の定是である。カントの長所の一つは純粋「観念論」になりきらないところにある。後に一部の「新カント派」も、精神の能動性を一面的に強調することでカントを「純化」し、その長所を失わせた。

フィヒテは彼の意味での「批判的体系」に「独断的体系」を対峙させ、スピノザを代表とする(ebenda)。しかし私は読んで両者に共通性を感じた。論理的体系としてすべてを提示しようとする姿勢である。これは哲学病の一つである。多くのものは(少なくともまずは)事実として受動的に受け入れるしかない。確かにその「経験的現実」や「感覚与件」に固執して本質や実体を(客観的に認めるのは「形而上学」として排し、少なくとも便宜的にしか)認めないのは実証主義の非であり、前者の可能の(したがってまた不可能の)条件を力動的に把握するのが「批判哲学」や批判理論の本領である。しかし非我も自我の所産とするのは逆の行き過ぎである。

第一命題における「主観と客観との合一」(S.261:114)を離れて、第三命題では、「自我は自我のなかに可分的自我に対して可分的非我を反立する」(S.272135頁)。私が月を観察するとき、月は私でないという意味ではこれは当然である。そして観察は私の自我の活動ではあるが、月自体はその所産ではなく、その表象でさえも、そう言うのは一面的であろう。

第三節の終わりの方で、しかしフィヒテはまともなことを言う。「独断論者」(実在論者)に自我を超出させたのは実践的与件であった、それによってさらに非我の自我への従属を彼に強いるが、これは「理念の対象として現存すべきものとして」である(S.281151頁、強調は原文)と。これはまさにフィヒテの真骨頂であり、はじめからこの路線で行けばよかったのに、と思わされる。



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2021/11/03 19:04 2021/11/03 19:04
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精神論〔1758年〕

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エルヴェシウス著、仲島陽一訳

 

第三部 第16章 若干の民族の徳への無関心はどんな原因に帰すべきか

 

 若干の民族が徳に無関心なのは、本性によってか、統治の個別的形態によってかを知るためには、まず人間を知らなければならない。人の心の奥底まで洞察しなければならない。生まれながら快苦を感じるので、人間の情念はその身体的感性によることを思い出さなければならない。そしてこの情念のおかげで、すべての悪徳と美徳があることを。

この原理がおかれれば、上に提示された問題を解決するために続いて検討しなければならないのは、同じ情念が、異なる統治形態にしたがって変容することで、私達のなかに、反対の美徳悪徳を生み出しはしないか、ということである。

ある人が栄光を十分に愛していて、そのために他の情念すべてを犠牲にするとしよう。統治形態によって、栄光が常に有徳な行為の報いであるならば、この人が常に徳を余儀なくされるであろうことは明らかである。レオニダスやホラティウス・コクレス1)のような人間をつくるためには、徳をこうした国、こうした状況におくことだけが必要であることも。

しかし、この程度の情念に高まる人間はほとんどいない、と言われよう。私は答えよう。だから徳の聖域まで突き進むのは強い情熱を持った人間だけである。強い情念をうけつけず、「誠実」と呼ばれるあの人々はそうではない。しかしながらこの聖域から遠く、これらの人々が徳の道において怠惰のひもで常に引き止められるのは、彼等がそこから離れる力さえ持たないからである。

第一の徳は、啓蒙され活動的な徳だけである。しかしそれは、好戦的な共和国においてしか、ある程度の高さに少なくとも達しない。なぜなら公共の評価が私達を他の人々の上に最もひきあげ、彼等の側からの尊敬を私達に引き寄せ、最も喜ばしく最も願わしく、また最後に大きな結果を生み出しやすいのは、もっぱらこの統治形態においてだからである。

第二の徳は、怠惰に接ぎ木されたもので、敢て言えば強い情念の不在によって生まれるもので、受動的徳に過ぎない。ほとんど啓蒙されず、したがって最高の諸要職にあってはとても危険であるが、他のところでなら十分に無難である。善を行うことよりも悪を行わないことによって評価される、「紳士」と呼ばれる者すべてに共通の徳である。

私が最初に引いた情熱的な人々に関しては、明らかに、共和政ローマの最初の時代には、クルチウスやデキウス2)を生み出した栄光への愛が、混乱と革命の時期には、マリウスやオクタウィアヌスのような者を生んだに違いない。こうした激動期では、栄光は、共和政末期と同様、専制と権力とにもっぱら結びついていた。栄光への情念について言うことは敬意への愛についても言え、後者は、栄光への愛が弱まったものに過ぎず、名声に至り得ない人々の欲望の対象なのである。

敬意へのこの欲望は同様に、異なる時代で、対照的な悪徳と美徳とを生むに違いない。信用が真価に対する歩みであるとき、この欲望は陰謀家と追従者をつくる。金が徳よりも名誉になるときには欲張りを生み出すが、彼は、富の所有が恥であった初期のローマ人が富を避けたのと同じ熱心さで富を追い求める。そこから私が結論するのは、異なる習俗や統治において、同じ欲望が、キンキナトゥス3)、パピリウス、クラッスス、セイヤヌス4)のような人々をつくるに違いない、ということである。

この件で私がついでに注目させたいのは、栄光の野心家と地位または徳の野心家との間にどんな違いをおくべきかである。前者は大犯罪者にしかなり得ない。なぜなら大きな犯罪は、それを遂行するのに必要な才能の優秀さと成功につきものの大きな報いによって、人々の称賛をもぎとるのに十分、彼等の想像力を威圧できる唯一のものだからである。この称賛は、彼等にあっては、こうした著名な罪人に似たいという、内的で秘かな欲望に基づいている。それゆえ栄光を愛する人はみな、すべての小さな犯罪はできない。この情念がクロンウェルのような〔英雄的な〕者をつくるとしても、〔有名な盗賊〕カルトゥーシュのような者はけっしてつくらない。ここから私が結論するのは、スラやカエサルのような人々がおかれる、稀で例外的な位置を除けば、他のあらゆる位置において、まさにこれらの人々は、その情念の本性そのものによって、徳に忠実にとどまったということである。その低劣で蒙昧な犯罪によって新たな犯罪を行う機会に日々おかれる、あの陰謀家や欲張りたちとはこの点でまったく違っている。

徳への愛と徳の実践とを余儀なくさせる同じ情念が、異なる時代や統治とにおいては、対照的な悪徳をどのように生み出し得るかを、以上で示した。いまや人間の心をより深く覗き見ることを試みよう。そして、どのような統治においてであれ、自分の行動に常に確信のない人間がなぜその情念によって、あるときはよい、あるときは悪い行為へと心を決めるのか、またなぜその心が、悪徳と美徳との闘いに常に開かれた闘技場であるのかを発見しよう。

この普遍的問題を解決するのに探求すべきなのは、良心が順々に乱れたり安らったりする、魂の雑然として多様なあの運動の原因である。要するに悲劇詩人が表すあの内的葛藤の原因であるが、彼が劇場で大成功するのは、観客がみな類似の葛藤を体験したことによってだけである。パスカル(a)と若干のインドの哲学者が自分の中に認めたあの二つの「自我」とは何であるかを自問しなければならないのである。

こうした結果すべての普遍的原因を発見するには、次のことを観察すれば十分である。人々はただ一種類の感情で動くのではないこと。魂の能力全体を満たすこうした孤立した情念に正確に活気づけられる者はいないこと。ある者は一般的利害にかない他の者はそれに反するいろいろな情念に順々に引きずられ、各人は異なる二つの引力に服するが、その一方は悪徳に、他方は美徳に彼を向けることである。私が各人というのは、カトーやブルートゥス以上に普遍的に認められている徳義はなく、どんな人もこの二人のローマ人以上に有徳であると自負できないからである。しかしながら、カトーは、貪欲の気持ちにとらわれて、彼の統治において若干の苛斂誅求を行った。またブルートゥスは、娘の頼みに動かされて、婿のビブルスのために元老院から、友のキケロには拒んでいた恩恵を得たが、これは共和国の利害に反していた。以上が、万人の胸中に認められる悪徳と美徳のこの混合の原因である。また地上では、純粋な悪徳や美徳がないことの理由である。

いまある人に何が有徳または悪徳の名を与えるのかを知るために観察しなければならないのは、各人を動かす情念のなかで、彼のふるまいを主導し、その魂において他のすべてをしのぐものが必然的に二つある、ということである。

ところで、この主導的情念がどの程度激しいかにしたがって、またその本性または環境により、国家に有用か有害かにしたがって、人間は善か悪のどちらかに多く決めるのであり、有徳か悪徳かの名を受けるのである。

 ただ付け加えたいのは、彼の悪徳または美徳の力は、常に彼の情念の激しさに釣り合っているであろうことで、情念の力は、彼がその満足にどの程度の快をみいだすかで測られる。以上の理由で、快により感じやすくより強い情念をうけいれるごく若い時期に、一般に、より大きな行動ができるのである。

最も高い徳は、最も恥ずべき悪徳と同様に、私達が身を委ねることにおいてみいだす、多かれ少なかれ強い快の結果である。

だから、正義や栄光への愛のような情念によって自分が耐えられる苦痛の多さや程度を、細心に検討して発見した後でだけ、自分の徳を正確に測れる。ソクラテスのように、評価がすべてであり生命は無であるような者は、情なく生を求めるよりもむしろ死に耐えるであろう。共和国の魂となり、自尊心と栄光によって公共の福利に情熱的になる者は、カトーのように、自分と祖国とが専制権力に服従するのを見る屈辱よりも死を選ぶ。しかしこうした行動は栄光への最大の愛の結果である。これは最強の情念が達する終着点であり、自然は人間の徳の限界をこの終点に置いたのである。

自分自身を偽ろうとしても無駄である。人々の不運によってしか幸福になれないとき必然的に人々の敵になる(b)。人々に対して、その愛着が報いとなるあのやさしい感情が与えられるのは、自分の利害と公共の利害との間にある幸運な一致、ふつう評価への欲望によって生み出される一致によってである。価値ある徳はけっして安全な徳ではない(c)。実践において、いわば、毎日自分の情念と闘って、その多数で負けないということは不可能である。

常に最も強力な利害に譲らざるを得ず、評価に対してどんな愛を持っていようと、それで得られる快よりも大きな快をその犠牲にすることはけっしてない。若干の場合において聖人たちが時折公衆の軽蔑に身をさらしたのは、自分の救いを自分の栄光の犠牲にしたくなかったからである。若干の女性が君主が言いよっても抵抗するのは、彼を征服しても自分の評判の喪失が償われないと思うからである。だから王の愛に感じない者はほとんどいない。若くて魅力的な王の愛に負けない者はほとんどおらず、シルフやジェニー〔のような妖精〕に描写される、あの恵み深く愛らしく力強い者に抵抗できる者は誰もいない。そうしたものは、無数の魔力で、死すべき人間のすべての官能を同時に夢見心地にさせられるということであるが。

この真理は、自己愛の感情に基づき、立法者たちによって認められているだけでなく告白さえされている。

生への愛が一般に最も強い人々の情念であると確信して、立法者たちはしたがって、身を守るために犯した殺人であれ、デキウスのように祖国を救うために命を捧げることへの拒否であれ、犯罪とはけっしてみなさなかった。

それゆえ有徳な人とは、自分の快楽、習慣および自分の最も強い諸情念を公共の利害の犠牲にするものではないが、なぜならそうした人間はあり得ないからである(d)。そうでなく、その最強の情念が一般的利害と合致していて、ほとんど常に徳を余儀なくされる者である。このためより完成に近づき、より有徳の名に値するのは、不誠実または犯罪的な行為を決意するには、快のより大きな動機、より強力で自分の欲望に火をつけやすい利害が必要なときであって、こうした動機や利害がしたがって自分のなかで誠実のより多くの情念を前提するのに応じてである。

カエサルは疑いなく、最も有徳なローマ人の一人ではなかった。しかしながら、もし彼が世界の主と言う称号を得ることによってしかよい公民という称号を諦め得ることができないならば、たぶん人は誠実な人々の部類から彼を追放する権利を持たないであろう。実際、有徳で、また実際にこの称号に値する人々のなかで、同じ環境におかれればどれだけの人が、特にカエサルのように、大きな企ての成功を保障するあのすぐれた才能を備えていると感じているならば、世界の支配権を拒むであろうか。才能がより少なければたぶんよりよい公民になれたであろう。成功に対するより大きな不安に支えられた凡庸な徳は、こんなに大胆な企てをすることで彼等を嫌わせるに十分であろう。私達を悪徳から予防するのはときおり才能の欠如である。自分の徳の補いを得るのは、しばしばまさにこの欠如のおかげである。

逆に犯罪に至るにはもっと弱い快の動機が必要であればあるほど、不誠実になる。たとえば自分の器用さをみせびらかすためにだけ、鞍に飛び乗り、剣の一振りで従者の首を刎ねる、モロッコの若干の皇帝のものがそれである。

以上が、有徳の人を悪徳の人から区別する、最もはっきりした、最も正確な、最も経験にかなったやり方である。この図面に基づいて、公衆は正確な測定を行うであろう。そこでは各公民の悪徳と美徳とのいろいろな程度が記されるであろう。人々の胸中を洞察して、公衆はそこに各人がその徳に対してどのように報われるかを発見できればであるが。こうした認識に〔実際には〕達することができないので、人々についてはその行動によってだけ判断することを強いられてきた。これは何らかの特殊な事例においては極度に誤ったものとなるが、全体的には一般的利害に十分かない、またより正当である場合とほとんど同じくらい有用な判断である。

情念の働きを検討し、悪徳と美徳の混じり合いがすべての人に認められる原因を説明した。人間の徳の限界を画し、最後に「有徳」という語に付与すべき観念を固定した。徳に対するある種の民族の無関心が自然のせいか若干の国家の個別的立法のせいか、いまや判断できる。

もしも快が人々が求める唯一の対象であるならば、徳への愛を吹き込むことは自然をまねるだけでよい。快はそれへの意欲を、苦はそれへの防衛を告げている。人間は素直にそれに従う。同じ能力で武装されれば、立法者はなぜ同じ効果を生み出さないのであろうか。人々に情念がなければ、どんな手段でも善良にさせられない。啓蒙されているというより尊敬すべき徳義を持つ人々は快への愛に逆らって高まった。しかしこの快への愛は、個人の情念を一般的福利に常に導ける一つの抑制である。それゆえ徳に対する大部分の人々の嫌悪は、彼等の本性の腐敗の結果ではなく6)、立法の不完全の結果なのである(e)。そこにあまりにしばしば快を混ぜ込むことで私達を悪徳に駆り立てるのは、敢て言えば、立法である。立法者の偉大な技術は、両者を分離し、悪徳が犯罪から引き出す利得と彼が身をさらす刑罰との間にどんなつり合いも残さない技術である。しばしば赤貧の人々ほど有徳でない、豊かな人々の間に泥棒や人殺しがほとんどみられないのは、盗みの利益が、金持ちにとっては、体刑の危険にけっして釣り合わないからである5)。赤貧の者にはそうではない。この不釣り合いは彼に関してははるかに小さくなっているので、いわば、悪徳と美徳の間に均衡が残っている。人々を鉄の棒で導くべきだとここでほのめかしたいのではない。優れた立法においては、人から一切の慰め手を奪い、彼を祖国のただなかで孤立させる軽蔑が、有徳な魂〔の持ち主〕を形づくる十分な動機である。他のあらゆる種類の罰は人間を臆病で卑怯で愚昧にする。体刑の恐れが生み出すような種類の徳は、その源から感じ取られる。その徳は臆病で蒙昧である。あるいはむしろ恐れは悪徳を押し潰すだけで美徳を生み出しはしない。真の徳は評価と栄光への欲望に基づき、また死そのものよりも恐ろしい軽蔑の恐怖に基づいている。私がその例にとるのは、イギリスの『スペクテーター』7)が、ある決闘好きの兵士によってファラモンに言わせている返答であるが、この兵士をこの公は自分の命令に背いたことで非難した。兵士はこう答えた。「どうして俺がそれに服するだろうか。それを侵犯するものをお前は死で罰するだけだし、それに従うものを不名誉で罰する。俺が死よりも軽蔑を恐れることを知るがいい」。

今まで言ったことから結論されるであろうことは、徳に対する若干の民族の愛または無関心は、自然〔本性〕にではなく、国家のいろいろな体制による、ということである。しかし、この結論がどんなに正当であろうと、もしも、この題目にもっと光を当てるために、自由な統治を専制的な統治のなかに、徳へのまさにこの愛または無関心の原因をより個別的に探究しなければ、しかしながら十分に探究されたと言えまい。私はまず専制主義に足を止めよう。そしてその本性をよりよく知るために、東洋で行使されているような専制権力へのなみはずれたこの欲望に、人間のなかで火をつけるのがどんな動機なのかを検討しよう。

 例として東洋を選ぶのは、徳への無関心がたえず感じられるのは、この種の統治においてだけだからである。近隣の、また嫉妬深い若干の国民が、東洋的専制主義の軛の下に屈していると私達を非難しても無駄である。私は言う。私達の宗教がそうした権力を簒奪することを君主に許さない、と。私達の体制は君主制であって専制ではないと8)。したがって諸個人が財産を奪われるのは法によってであって恣意によってではないと。私達は君主の称号を求めるのであって僭主ではないと。彼等は王国における基本法を知っていると。自らを臣民の暴君でなく父であると宣言していると。そのうえ、専制主義はフランスでは、この国がすぐに服従されるのでなければ確立され得まい。この国は、トルコ、ペルシャ、また広大な砂漠で守られ、その広さによって専制主義がひきおこす人口減少を補い、いつでもスルタンに軍隊を供給するような、諸帝国とは違っている。私達の国のように狭く、また啓蒙された強力な諸国民に囲まれた国では、魂が卑しくされれば罰を受けずにおれまい。フランスがこうした専制主義によって人口を減らせば、すぐにこうした近隣諸国のえじきになろう。自らの国民を鉄鎖で縛れば、王侯は彼等を隷従させても自分自身が近隣諸国の王侯の軛を負うことになるだけである。それゆえ彼がこうした企てをかたちつくるこことは不可能である。

 

【原注】

(a)ヴェーダンダ派において、この宗派のバラモンは、二つの原理があると教える。一つは肯定的で、「〔大〕我」である。もう一つは否定的であり、マーヤーという名が、すなわち「〔小〕我」つまり誤謬の名が与えられる。知恵はマーヤーから解放されることに存する。定常的専心によって自分が「唯一、永遠、無限の存在」であることを確信する解放のかぎは、「我は最高存在である」という言葉のなかにある。

(b)聖アウグスティヌスは言う。「ヨリ喜バレルモノニ従ッテ我々ハ事ヲナサネバナラナイ」。

(c)後宮においては、大殿が女たちを守らせるのは真価ある有徳な人にでなく〔性的〕無能な者たちにである。

(d)自らの利害を公共の利害の犠牲にしたように思われる人々がいるのは、とてもよい統治形態においては、徳の観念が幸福の観念ととても結びつき、また悪徳の観念が軽蔑の観念ととても結びついているので、その現在の起源は常には持っていない強い感情に動かされ、この動機によって、自らの利害とはしばしば反対の行動をせざるを得ないからである。

(e)盗人たちが、互いの間でつくった約束に対して、誠実な人々同様に忠実なのは、彼等を結び付けている共通の危険が余儀なくそうさせているからである。賭けの借金をとても細心に返済するのも、自分の債権者をふてぶてしく破滅させるのも、同じ動機による。ところで誠実な人々が徳によって行うことを利害が悪漢にさせるならば、利害の原理をうまく操ることで、啓蒙された立法者が万人に徳を余儀なくさせられることを、誰が疑おうか。

 

【訳注】

1)    ホラティウス・コクレス(Horatius Coclesはローマの伝説的英雄。ポリビュオスによれば、ティベール川の橋でポルセンナを阻止し、その後溺死した。

2)    デキウス(Decius)は古代ローマの執政官(前四世紀)。戦争で自己犠牲により勝利を導いた。

3)    キンキナトゥス(Cincinnatus)は前五世紀の半ば伝説的なローマの政治家、将軍。農業を営んでいたが、アエクイ族との戦いで独裁官に選ばれ短期間でこれを降すと、再び自分の畑に帰ったという。

4)    セイヤヌス(Seianus.BC.c20-AD.31)は古代ローマの政治家。ティベリウス帝を引退させ、アグリッピナとその長男ネロを追放、次男ドルススを投獄したが、逮捕、処刑された。

5)    「なんたる狂気 ! そういうことではない、彼等には、盗んだり殺したりする、より便利な手段が無数にあるからである」(Roussesu,notes sur <De l’esprir>,OC.t.4.p.1130)。

6)    悪徳が人間の自然(本性nature)の腐敗の結果であるとするのはパスカルである。

7)    『スペクテーター』は、18世紀初めのイギリスで、アディソンとタトラーの編集で出された文芸雑誌。アベ=プレヴォによりフランスに紹介されていた。

「専制」と「君主政」の区別は、モンテスキュー『法の精神』の主題の一つである。




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