精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

 

第三部 18章 専制主義の主要な結果

 

 私はまず専制主義の二面を区別しよう。その一つは軍の力で一挙に確立されるもので、有徳な国民はそれを蒙るのは耐え難い。そうした国民は力づくでたわめられた柏の木に比べられ、自らを曲げた太綱を自らの弾性によってまもなく砕く。ギリシャが無数の実例を提供している。

 もう一つは、時間、贅沢、そして怠惰によって基礎をおかれる。これが確立される国民は同じ柏の木にしても、少しずつたわめられ、戻るのに必要なばねを知らずしらずに失ってしまうものに比べられる。この章で扱われるのは、この後の種類の専制主義である。

 この統治形態に服する諸民族においては、要路にある人々は正義についてのどんなはっきりした観念も持てない。彼等はこの点で、最も深い無知のなかに沈み込んでいる。実際、正義のどんな観念を〔トルコの〕大臣が形づくれるであろうか。彼は公共の福利があることを知らない。しかしながらその知識なしでは、導き手なしにあちこちさまよってしまう。ごく若いときに受け取られた正と不正の観念は、知らず知らずに曇っていき、ついにはすっかり消えてしまう。

 しかし何がこの知識を大臣たちから奪い得るのか、と言われよう。私は答えよう。彼等はこうした専制諸国においてその知識をどのようにして得るのであろうかと。そこでは公民たちはどこでも公事の管理に関与しない。祖国の不幸に目を向ける者をみれば悲嘆となる。スルタンの間違って解された利害が臣民たちの利害と対立している、そして君主に仕えることがその国民を裏切ることになる〔そのような国では〕。正しく有徳であるためには君主と臣民の義務が何であるかを知り、社会の全成員を結びつける相互の約束を学ばなければならない。正義とはこうした約束についての深い知識にほかならない。この認識に高まるためには、考えなければならない。ところで、どんな人が恣意的権力に服した民族の下で敢えて考えるであろうか。怠惰、無用さ、不慣れ、また考えることの危険さえもが、まもなく人を考えられないようにしてしまう。自分の思想を語らない国では人はほとんどものを考えない。それでもやっぱり考えていると信じさせるために、そこでは慎重さで黙っているのだと言っても無駄である。それでより多く考えることはないのは確かであり、高貴で勇敢な観念は、専制主義に服した人々の頭から生まれるこことはけっしてない。

 こうした政府では、人が活気づくのは、帝国の破壊を告げるような、あの利己主義とめまいの精神によってだけである。各人は自分の個別的利害に目を据えたままで、一般的利害はけっしてみようとしない。それゆえこれらの国の民衆は、公共の福利や公民の義務やについてどんな観念も持たない。 大臣たちはまさにこの国民の集団から引き離されて要路についても、行政や正義についてどんな原理も持たない。それゆえ彼等が要路を求めるのは、ご機嫌取りのためであり、主権者〔君主〕の権力を分有するためであって、善を行うためではない。

 しかし、彼等が善への欲望に動かされていると想定しても、善を行うためには、啓蒙されなければならない。しかして大臣たちは必然的に宮殿の陰謀に押し流され、省察をする暇などはない。

 しかも、啓蒙されるためには、研究や省察の労苦に身をさらさなければならない。しかしてどんな動機が、彼等にそれを強いることができようか。非難の恐れによってそれへと刺激されることさえないのである(a)。

 小事を大事に比べられるなら、文芸共和国の状態を思い描いてほしい。もしもそこから批評家たちを追放するならばと。いま自らの才能に配慮して改良するように強いる非難の有益な配から解放されて、まさにこの著者は、もはやなおざりで不完全な作品しか公衆に提出しまい、と感じないであろうか。これがまさに大臣たちが身を置いている立場である。この理由のために彼等は公事の管理にどんな注意も払わず、一般に啓蒙された人々にけっして相談しないのである(b)。

  私は大臣たちについて言うことをスルタンたちについても言う。君主はその国民の一般的無知から免れない。彼等の目はこの点で、彼等の臣民たちよりも厚い闇で覆われている。彼等をもちあげるあるいはとりまく者のほとんどすべては、彼等の名の下に統治することを渇望しており(c)、彼等を愚かにすることに利害関心を持っている。だから統治が予定され、父の死まで王宮に閉じ込められていた君主たちは、後宮から王座に移っても、統治の学問についてどんなはっきりした観念も持っていないし、ただ一度も閣議に出たことがない。

 マケドニアの〔王〕フィリッポスは、勇気と知識でまさっていても盲目的な自信を吹き込まれはしなかった。そして侍従たちに金を払って毎日次の言葉を彼に繰り返し言わせた。「フィリッポスよ、自分が〔神ならぬ〕人間であることを忘れるな」。どうして大臣たちはこの例にならって、自分たちが人間であることを時折告げることを、批評家たちに許さないのであろうか(d)。人はなぜ彼等の決定の正義を罪にならずに疑い、グロティウスにならって次のように彼等に繰り返し言えないのか。「検討と批評かせ禁じられているすべての命令とすべての法は、不正な法でしかあり得ないのではないか」。

 それは大臣たちが人間だからである。著者たちの間でもしも彼等が批評家たちを罰する権力を持っているならば、大目にみてやる寛大さを持つ者は多いであろうか。それは少なくとも、すぐれた精神と高尚な性格の人々だけであろう。そうした者なら、自分の恨みを公衆の利得のために犠牲にして、文芸共和国に批評家たちを追い払わないであろうが、この国は技芸と学問の進歩にとても必要である。ところで大臣の側にはどのようにして多くの寛大さを要求したらよいか。

バルザックは言った。「復讐が与える、しかしながら首を切る斧の打撃と同じくらい早く通り過ぎる快よりも、残された子孫と同じくらい長い間続く寛大さの称賛を好むほど、十分に太っ腹の大臣はきわめて少ない」。『セトス』のなかで大臣ネクテに与えられた讃辞に値する大臣はきわめて少ない。祭司たちは彼女をほめる演説の中で、「彼女は罰する権力を十分に持ちながら神々のように赦した」と言うのであるが。

 強者はいつまでも不正で執念深いであろう。ド=ヴァンドーム氏はこの件について楽しげに言っていたことであるが、行軍において、彼はしばしばらばとらばひきとのけんかを検討した。そして人類には恥ずかしいが、道理はほとんど常にらばの側にあった。

博物学においてとても物知りのデュ=ヴェルネ氏は、動物の歯を見ただけで、それが肉食か草食かわかったが、しばしばこう言っていた。「未知の動物の歯を私に見せたまえ、その歯でその品行について判断しよう」。彼に倣って、道徳哲学者ならこう言えるであろう。「ある人がまとっている権力の程度を私に示してくれたまえ、彼の正義について判断しよう」。大臣たちの残酷さをなくそうと、タキトゥスにしたがって繰り返しこう言われようが無駄である。批評家たちへの体刑は、その死刑執行人たちの恥と悪徳とを後世に告げるらっぱである、と。専制的国家においては、人は自らを気にかけ栄光や後世を気にせず、またほとんどそうするはずもないが、なぜなら私が前に証明したように、人は評価のために評価を愛するのではなく、それが得させる利得のために評価を愛するのだからである。また真価を認め権力を敢て拒む者はいないからである。

それゆえ大臣たちは学ぶことに、したがってまた非難に耐えることにどんな利害関心も持たない。それゆえ一般にほんど啓蒙されないに違いない(e)。ボーリングブルック卿はこの件で次のように言っていた。「まだ若くして、はじめに諸国民を統べる人々を、すぐれた知性の持ち主として示されていた」。彼は付け加えた。「しかし経験によってまもなく私は迷いからさめた。私は英国で国政を司る者を検討した。そして私が認めたのは、お偉方があのフェニキアの神々によく似ているということであった。この神々の肩の上には最高権力のしるしとして牛の頭がくっつけられており、一般に人々はそれらのなかの最も愚かなものによって統べられているのだ」。この真理を、ボーリングブロックはたぶん不機嫌から英国に適用したのであり、疑いなく東洋のほとんどすべての帝国において異論の余地ないものであろう。

 

【原注】

(a)イギリス国民が、その諸特徴のなかでも、出版の自由を最も貴重なものの一つとみなしているのはこのためである。

(b)英国議会において、モンテスキュー裁判長の権威がひかれたのは、英国が自由な国だからである。法と行政に関して〔ロシア〕皇帝ピョートルが有名なライプニッツから勧告を受けたのは、偉人が他の偉人に相談しても恥ではないからである。またロシア人が、欧州の他の諸国と交渉することで、東洋人よりも啓蒙され得るからである。

(c)東洋の政治体制とはまったく異なる統治形態によって、私達〔フランス人〕の下でルイ13世が書簡の一つで、ダングル元帥にこう嘆いている。彼は言う。「彼は余がパリを散歩することを妨げる。狩りの楽しみ、チュイルリーの散歩しか許さず、我が家の士官たちに、余の臣下たちすべてと同様に、まじめな事柄ついて余と話すこと、また個人的に余と話すことが禁じられている」。各国で君主たちを、生まれによって召命される王座にほとんどふさわしくないものにしようと人は努める。

(d)東洋ではブルゴーニュ公のようなものはみいだされない。この大公は自分とルイ14世に反対する謀反文書すべてを読んでいた。彼は啓蒙されたく思っており、憎しみと不機嫌とだけがときおり王たちに真理を敢て示すということを感じ取っていた。

(e)すべての公民が公益にはまったく無知であるので、ほとんどすべての計画作成者が、こうした諸国では、自らの個人的有用性しかみていない詐欺師であるか、国家の全部分を結びつける長い鎖を一目でとらえない凡庸な精神の持ち主であるかである。彼等はしたがって一民族の法制の他の部分とは常にそぐわない計画を提出する。だから彼等が著作において、公衆の目に敢えてそれをさらすことは稀である。

 啓蒙された人は、そうした政府においては、すべての変化が新たな不幸であることを感じとる。どんな計画も続くことができないからである。専制的行政がすべてを腐敗させるからである。こうした政府においては、なすべき有用なことは一つしかない。政体を知らずしらずに変えることである。それを見落としているので、有名な皇帝ピョートルはたぶん彼の国民の幸福に対して何もしなかった。しかしながら彼は偉人が他の偉人に続くのはめったにないと予見せざるを得なかった。大国の体制において何も買えなかったので、ロシア人はその統治形態によって、彼がそこからひきあげ始めた野蛮のなかにまもなく舞い戻るかもしれない、と予見せざるを得なかったのである。

 

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【訳注】

1)    バルザック(Jean Louis Guez de Balzac,1597-1654Thtasea)はフランスの書簡作家。『書簡集』(1624)で名声を得た。

2)    セティ(Sth-yテキストではSethos)はギリシャ神話の神でテーベの夫。ここではテラソン(Terrasson)の歴史小説『セトス』の主人公。

3)    ヴァンドーム(Vendome)公はフランスの貴族。ここでは、1594-65の初代か、1612-69のその子か、1654-1712のその子か、不詳。

4)    デュヴェルネはテキストでは(Du Vernay)だが、たぶんレオミュールとならんで当時著名な博物学者のDu Vernai



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難しい哲学書を読む(その二):哲学の現在12*

仲島陽一

◇シェリング「人間的自由の本質」(1809

(渡辺二郎訳『世界の名著43フィヒテ/シェリング』1980、による)

 

読み直してみて、30年以上前に読んだときと違い、難解感はかなり減り、また内容的にけっこう賛成できた。少しは理解が進んで、形而上学的・神学的外皮のなかの合理的核心がよりみえたということだろうか。逆に言えば、内容的にはせっかくいいことを言っていても、「形而上学的・神学的外皮」にくるんでよくてちんぷんかん、悪くすると観念の遊び道具になってしまいがちなところに、いつもながらの「哲学」の罪深さを感じる。

自由は古来哲学の重要論点の一つであるが、 ➀意志の自由➁権利としての自由➂状態としての自由の三つに問題領域が分けられる。悪との関連が追究されている本書では①がかかわる。人が最も考えるべきなのはどのようにした悪をなくすかであるとしている私としては、読まざるを得ない。

悪の原因と克服とを明らかにしたのはルソーである(拙著『ルソーの理論――悪の原因と克服――』北樹出版、2011、参照)。これは人類の歴史で最も有益な発見の一つというべきではなかろうか。

ルソーによれば、諸悪の直接の原因は、自己愛amour de soiの利己愛amour-propreへの変容であり、その社会的土台は利害の対立である。シェリングでは、被造物の(つまり神でなく人間の)「我意」がそれ自体としては(つまり「自己愛」としては)悪ではないが、それが高まったり(437頁)独立化したり(482頁)するとき(つまり「利己愛」に変容するとき)に悪になるとされる。人類の歴史において悪のない無垢の時代があったとシェリングは言う(452-3頁)。つまり自然状態であり、したがって性悪説も否定される。ただしシェリングにおいては悪を「神のうちの自然」と関係づけ(428頁)、「自然(=本性)」の概念はルソーほど明瞭ではない。それでも自由にこそ「善と悪の能力」を正しく帰しており(420頁)、したがって悪はあくまでも(しゃれじゃないが)人間による(456頁)とする。

したがって悪の克服は直接には「中心への回復」による(438頁)。ルソーなら、「中心への関係において自らを位置付ける」ことが正しさであり(『エミール』第四編)、個別意志を一般意志に合致させることが徳である。ただこの「直接には」は第一歩としての心構えに過ぎず、反省や決意だけで悪がなくなるわけではない。そしてシェリングはそこが弱い。利害の対立をなくす社会理論は無に近く、ルソーはもとよりカントやフィヒテにも及ばない。新プラトン的流出説(拙著『哲学史』行人社、201881-83頁参照)に半ばとらわれている(424.433頁)ため、アウグスティヌスの自由論の「無」や自然哲学の「非有」観念への批判や解釈など、興味深い指摘もありながら、彼自身の理論における「実存とその根拠Grundとの」区別という要の点(446頁→488頁)に明瞭さを欠く。

彼が、一般論だけでなく「個々人における善悪の決定」(456頁)を考えようとしているのは正しい。道徳問題は、社会問題抜きでは底抜け(シェリングの言う無底Ungrundでなくごく普通の意味で)であるが、社会問題に還元はできない。ルソーもこの点では(文芸作品でなく「理論的」著作では)一般論をあまり出ていない。なぜある人々が残酷になったりサディストになったりするのか(一般にどういう社会がそのような性格を生み出しやすいか、についてはたとえばフロムの研究がある)もまた、重要な問題であり、主に心理学的考察が必要である。この点で私がとても有益と思っているのが、Baron-Cohen,Zero Degree of EmpathyA New Theory of  Human Cruelty and Kindness,2011である。「人文研究友の会」の「英語講読講座」で輪読していた(そこまでは拙訳を『理念』に掲載)のだが、コロナ禍での教室閉鎖などで中断状態なのが残念である。Zoomによって再開したいと思っているので、参加希望の方がおられたら連絡してください。

*前回の「哲学の現在」で12を飛ばして13としたのは単純なミスです。よって今回を12とします。





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