難しい哲学書を読む(その三):哲学の現在14

仲島陽一

◇西田幾多郎「善の研究」(1911)(岩波文庫19792、による)(その1)

 

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「経験するというのは事実其儘に知るの意である」。これが冒頭の句である。「AとはBの意である」というのはふつう、「Aという言葉の意味はBである」という意味で使われる。しかし「経験する」という語は必ずしも言われるような意味では使われず、また「事実其儘に知る」ということも考えてみればどういうことかよくわからず、「経験する」という語の意味の説明に適しているとは思われない。好意的に解釈すれば、これは「『経験する』という語を、私はこういう意味で使う」ということをへたに言ったものかと思われる。三文目は、「純粋というのは、[…]いうのである」と同じ形式の文である。まず、「純粋というのは」とされてもいや言ってないじゃんと突っ込みたくなる。よくみると「第一編」と「第一章」の題が「純粋経験」なのでこれを受けているということで了解しよう。それにしてもこの文は「真に経験其の儘の状態をいうのである」という書き方からすれば、これは前の二文と同じ「経験」の説明と考えるべきであろう。すると一文の書き方はおかしい。「純粋に経験するというのは」と限定しなければならない。書き誤りである。著者はこれを「直接経験と同一」とも言う(五文目)。どちらにせよそうした言い方が無意味でないための条件は、「不純」あるいは「間接」の経験もあることである。実際著者の言葉では「自己の細工」や「何らかの思想を交えている」ものをまずそれとしているが、第一段落を最後まで読むと、「判断」は彼の言う「純粋経験」ではないようである。ここでまず疑問になるのは、判断はすべて「事実其の儘に知る」ことに反するのかということである。わんとなき庭駆け回るあの動物を「犬である」と判断し、にゃんとなきこたつで丸くなるこの動物を「猫である」と判断するとき、それは「事実其儘に知る」のでないと言うのか。著者はそう言うようである。

第二段落ではどんな精神現象がこの「純粋経験」かと提起し、感覚や知覚がそうであるとすることは一応著者に同意しておこう。しかし幾何学的概念もそうだとするのには不同意である。著者は感性的表象と質的に区別されるものとしての「概念」の事象性を認めない。たとえば「千角形」は概念としては明晰判明だが感覚知覚はできないので、この説は支持しがたい。著者はジェームズを引証して、感性的に想像できる一個の三角形に三角形一般の代表機能を認めることで自説を支えようとしているが、「千角形」ではこれは無理であろう。この説はジェームズ以前にバークリが唱えており、著者も後にバークリへの賛同を記している。概念の実在性を認めない、あるいは、概念と直観との質的区別を認めずすべてを直観の諸形態とすること、これが『善の研究』においてまず認められる思想であり、私は反対する考えである。第二章で「思惟」(思考)と知覚の質的区別を否定するのも同様である。ふつうは前者が能動的、後者が受動的とされるのを著者も知ったうえでそれを批判する。思考は「己自身にて発展する」のであり、「我々がまったく自己を捨てて〔…〕没した時、始めて思惟の活動を見る」とさえ言う。「禅の研究」ならそれもよいかもしれないが、「善の研究」でそれでよいのか。よいのだ、そこに質的区別はない、というのが著者の立場のようである。総じて著者の立場は「分別」を否定する「無分別」にあるようである。

「分別」とは判断である。直観は真偽を問い得ない、真偽が問題になるのは判断だというのがふつうの立場である。著者はこれを否定し、「純粋経験の事実の外に実在なし」(1-2)とする。「我々はいつでも意識体系の中で最も有力なる者〔…〕を客観的実在と信じ、これに合った場合を真理〔…〕と考える」(同)。これも言葉遣いが下手、いやもうはっきり言ってしまおう、ごまかしである。こう考えるのは一般的な「我々」ではなく彼、せいぜい彼等の意味での「我々」である。そして「と信じ」といったんは主観的信念(せいぜい定義言明)であることを暗に認めながら、言い換えのように「と考える」とまるで真偽を問える命題関数のように、そして真である判断のように言明する。いやいや、まさに主観的信念と客観的真理が質的に区別されるものとして「分別」されないのが著者の思想であった。

「西田哲学」が日本の最もすぐれた思想であるのか、そもそもよい思想でさえあるのか、さらに検討していきたい。



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精神論[1758年]

エルヴェシウス著・仲島陽一訳

  

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 第三部 第19章 諸民族が軽蔑され卑しめられると大臣たちの無知が保たれる。専制主義の第二の結果

 

 大臣たちは学ぶことにどんな利害も持たないとしても、大臣たちが教えられることは公衆の利害である、と言われよう。国民はみなうまく統治されたく思う。それなのになぜこうした国々では、十分に有徳な公民たちが、大臣たちにその無知と不正とを非難し、軽蔑されるという恐れによって、公民になることを彼等に強いるようなことがみられないのか。専制主義の特性が人心を卑しくし堕落させることだからである。

 法だけが罰し報い、人が法だけに服従する諸国家においては、有徳な人は常に安全で、そこに魂の大胆さと堅固さとをしみとおらせる。それは専制的な国々においては必然的に弱まる。そこでは彼の生命、財産、自由は、ただ一人の人間の気まぐれ(a)と恣意に依存している。これらの国では、有徳であるのは無分別であろう。同様にクレタやラケダイモン〔スパルタ〕で有徳でないのは愚かであろう。だから不正に対して立ち上がり、またそれに賛同するよりむしろ、哲学者フィロクセノス1)のように、「私を走路に戻してほしい」と叫ぶ者はそこにはみられない。

こうした統治にあっては、有徳であるためにはどんな犠牲が払われようか。徳義はどんな危険にみまわれるであろうか。徳に対して情熱的な人を想定しよう。そうした人が大臣なり監察官なりの不正や無能のなかに、公衆の悲惨の原因を認め、しかして彼が黙ることを望むのは、矛盾したことを望むことである。そのうえ声なき徳義はこの場合には無用な徳義であろう。この人が有用であればあるほど、国民の軽蔑が帰すべき人を急いで名指すであろう。そうしなければならないと、さらに私は言おう。ところで、大臣の不正と愚鈍とは、前述のように、有能な人々を最大の刑罰に宣するのに必要な権力を常にまとってみいだされるので、これらの人々は、公共の福利と徳の友であればあるほど、迅速にもの言わぬ侍臣たちに身を委ねられることになろう。

ネロが彼以上に野蛮な観客の喝采を劇場で強いるならば、大臣たちは彼等が苛斂誅求する観客たちからさえ称賛を要求する。彼等はティベリウスに似ている。彼の統治では、抑圧されている不運な人々の溜息まで叛徒の叫びとして扱われたが、なぜならスエトニウスが言うには、自分がいつも罪あると感じている君主の下ではすべてが犯罪だからである。

人々を古代ペルシャ人たちの状態に引き戻したいと思わないような大臣はいない。彼等は、君主の命令で残酷に鞭打たれて、続いて君主の前に出頭することを強いられていた。彼等は彼に言った。「我等は、我等を思い出していただいたことに感謝しに参っております」。

 それゆえ、大臣たちにその無知と不正とを非難するほど有徳な公民の高貴な大胆さは、まもなく体刑に続くであろう(b)。そして誰もそれに身をさらしたくはない。しかし英雄、勇敢な者はどうか、と言われよう。私は答えよう。評価と栄光の希望に支えられているときには、そうするであろう。この希望が失われればどうか。勇気は彼を見放すであろう。奴隷的民族においては、その寛大な公民に謀反人の名が与えられるであろう。体刑を受けても是認する人々がみられよう。ある国家で、習俗が下劣になったときには、賛辞を惜しまれない犯罪はない。ゴードン2は言う。「もしペストが勲章と年金とを与えるに違いないのならばペストの支配は神聖な権利に属する、と主張するほど、卑しい神学者と法学者がいる。そしてペストの悪意ある影響から逃れることは第一の頭に有罪になることだと」。それゆえこうした統治においては、詐欺師の共犯であることはその告発者であることよりも賢明である。徳と才能とはそこでは常に専制主義の標的となる。

タマクリ汗3)によるインド征服の際、この君主がムガール帝国において見出だした唯一評価される人はマムスという名であり4)、このマムスは追放された。

 専制主義に服した諸国において、公衆からの愛、評価、喝采は、それを得ている人々をそこの君主が処罰する犯罪である。ブルトン人にうちかった後、アグリコラ5)は、ドミティアヌス6)の怒り同様に民衆の喝采から逃れるために、夜ローマの通りを横切り、皇帝の宮殿に赴く。君主は彼を冷たく抱擁し、アグリコラは引き下がる。そしてブリタリアの勝利者〔である彼〕は、同時に他の奴隷たちの群れのなかに姿を消す。

 ローマで、ブルートゥスとともに、「おお徳よ、汝は虚名に過ぎぬ」と叫び得たのは、こうした不幸な時代である。永遠の不安のなかで暮らし、心配で魂が衰えてばねを失ってしまった民族のなかで、どうして徳を見出せるのか。こうした民族においては、尊大な権力者と、卑劣な奴隷しか出会わない。大臣が、愚かな尊大さと重々しさとで、庇護者たちの群れのまんなかに出るときの聴衆ほど、人類にとって屈辱的な光景があろうか。またこの庇護者たちは、真剣で、黙りこくり、不動で、目は下方を凝視し、目にとめていただくのを、ほとんどこうしたブラフマンの態度のなかで震えながら待っている(c)。ブラフマンのほうは、鼻の先のほうに目を据え、天が明るくするはずの青く神聖な炎を待ち、またその出現は、彼等によれば、彼等をパゴダの尊厳に引き上げるはずなのである。

才能ない大臣の、あるいは卑しい宦官の前でさえこのように卑屈になる有能な人々を見るとき、心ならずも日本で尊師に対してなされる滑稽な尊敬を思い出すが、尊師の名は、「おお、つりさま」すなわちわが殿という語を前につけてでなければけっして発せられないのである。

 

【第19章 原注】

(a) トルコにおいては、スコットランドとは違って、主権者〔君主〕において、臣民に対して犯された不正を法が罰することは見られないであろう。マルカム7)がスコットランドの王座に来たとき、ある領主が彼に自らの諸特権の免許状を示して、それを安堵するように頼んだ。王はそれをとって破る。領主は議会に訴える。そして議会は王座にある王が、宮廷全体を前に、この領主の免許状を糸と針でつくろう義務があると命じる。

(b) ある大臣がその行政において誤りを犯したとしよう。この誤りが公衆を害するならば、民衆は叫び、大臣の自尊心は傷つく。身持ちを改め、よりよいふるまいによってあまりに正当な不平を静めようとするどころか、彼は公民たちに沈黙を課す手段にだけ専念する。こうした力の手段は彼等を刺激する。叫びは倍になる。このとき大臣には二つの手段しか残っていない。国家を革命にさらすか、常に帝国の破滅を告げる専制主義を極端にまで進めるかである。そして大臣たちがふつう足を止めるのはこの後の方策にである。

(c) 大臣自身、スルタンが閣議にいるときは、震えながらだけそこにはいっていく。

 

【第19章 訳注】

*1)フィロクセノス(Phloxenos,c.BC.435-380)はギリシャの詩人。作品「キュクロクス」など。

*2Gordonという名の人物は多く、ここでは誰のことか不詳。

*3)タマクリ汗(Thamasp-Koulin-Kan,1688-1747)はペルシャ王。別名ナディルシャー(Nadir-Shah)。

*4)マムス(Mahmouth)は、ムガール朝皇帝で1735年ペルシャに敗れたムハンマド・シャー(Muhammad-Shah)か。

*5)アグリコラ(Agricola,c.40-93)はローマの政治家。ブリタニア総督として功績を挙げたが、ドミティアヌス帝により呼び返され、不遇のうちに没。女婿の歴史家タキトゥスによる伝記がある。

(*6) ドミティアヌス(Titus Flavius Domitianus,51-96)はローマ皇帝。治世の後半において暴虐を増し、恐怖政治を行った。

(*7) マルカム(Malcolmただし原文ではMalicorne)という名のスコットランド王は四人いるが、ここ度は最も有名な三世(-1093)か。





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屋道話58 


ウクライナ問題、日本人にできること

二言居士

 

 東部に手を出してくることはあるかもしれないと思っていた。しかしこのような全面侵攻を行うとは思っていなかった。なぜこの行動か。

ロシア側に立って考えてみると、直接には、前回述べたようにウクライナのNATO加盟へ動いたことである。まただんだんわかってきたところでは、「冷戦終結」後の三十年、ロシアは「西側」がその精神(ないし少なくともロシアの解釈では「約束」)に反してNATOを拡大させてきたことへの憤りや危機感があったようだ。だとしても、全面的な軍事侵攻には飛躍がある。特に、ウクナイナを兄弟国と言っていたことからすれば。

と書いたが、実はそこに答えの一環もあるように思われる。つまりウクライナを言うことを聞く弟分とみていたのであり、敵側と同盟を結ぼうとするような政権は力づくでも倒さなければならない、という論理である。こうしてみるとこれはスターリン以降のソ連が東欧に対した態度、たとえば「人間の顔をした社会主義」を求めたチェコスロバキアに軍事侵攻した(1968年)のと同じである。しかしソ連とチェコは「ワルシャワ条約機構」でつながっていたのに対し、ロシアとウクライナとは同盟関係はない。ただウクライナは旧「ソ連」を構成する国であったから、「ロシア」からすれば自分たちの勢力圏、という意識があるのだろう。しかしそれでは「ソ連崩壊」(1991年)の意味をロシアが理解していないことになる。

心理的にはそうなのだろう。それは多くのロシア人にとっては、旧ソ連における特権官僚の支配や自由の抑圧の終わりとして評価されても、覇権主義への反省にはつながらなかったのだ。むしろまさにその点で多くのロシア人は(ロシア以外の全世界と違って)ゴルバチョフ(執筆中に訃報を聞く)を否定的にみているのだ。東ヨーロッパを失い、さらには「ソ連」に加わっていた多くの国まで手放してしまった悪い奴、と。そしてまさにこの点で、スターリンをいまだに評価もするのだ。バルト三国などを「ソ連」に加え、また戦争に勝利して東欧をわが勢力圏にすることに成功した英雄として。ウクライナ侵攻に対してロシア人の反対論が思ったほど多くないことも、(情報統制や言論統制のせいだけでなく)ロシア人大衆における大国主義意識の強さが一因ではあるまいか。二十年ほど前、ある大学の新学部の立ち上げの会(教員だけ)で、新任講師が担当科目を紹介する場があった。ロシア語担当の女性が、ロシア語は世界で〇億人も使っている、と力説したこととその態度に小生は驚いた。小生はロシア語教育には大賛成だが、その有用性や魅力を伝えるには他のやり方もあると思う。しかしソ連崩壊して十年たっても、またふつうのロシア人でも大国意識が根強いことにショックを受けたのである。

だがこうしてみるとひとごとではない。わが日本も、領土や勢力圏の拡大を栄光とし、兄弟的な民族であるがゆえに日本人が導いてやるのだと高慢になり、あるいはその盟主として彼等を悪い奴らから解放するのが使命だと合理化したりしていた。いまのロシアを非難するのは正当であるが、その際日本自身が同様であったことの反省があるだろうか。

ウクライナ問題を日本にとっての他山の石とする論議では、日本がいまのウクライナのようにならないにはどうすべきか、がほとんどである。それは不要とは言わないし、前号ではそのごく一端について管見を述べもした。しかし日本がいまのロシアのようにならないにはどうすべきか、はほとんど聞かれない。そんな議論は必要ないならばなくてかまわないが、そうは言いきれない。日本人もまた、「大日本帝国」の反省をしっかりしたとは思われないからである。それなのにいまやまた、そこに戻ろうとする動きが強まっているからである。そしてそれを反省しようとする動きに対しては、「自虐的」であるとか、外国に洗脳されているとか言ってたたく力が激しいからである。だがそういうなかで、わが国も核兵器を持とうとか、五年で軍備を倍にしようとかすることは、「日本を守る」ためにも逆効果なのではあるまいか。念のために言えばこれは日本だけではない。ロシアもアメリカも中国も、かつての覇権時代をよしとして「メイク・グレイト・アゲイン」の風潮になっている。大国主義・帝国主義の価値観を変えさせる必要があり、日本こそその先頭に立たなければならないのではないか。

ウクライナ軍に加わりたいと志願したり、ロシアへのサイバー攻撃に参加している日本人もいるという。主観的には正義感でのことかもしれないが、日本人の行動としてはまったく的を外していよう。



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