精神論〔1758年〕
エルヴェシウス著、仲島陽一訳
第三部 第22章 栄光と徳への若干の民族の愛について
この章は前章のきわめて必要な補足であるので、私はこの主題では検討すべてを省くわけにはいかない。というのも私が感じているのは、人々に徳を余儀なくさせるのにふさわしい手段の提示が、公衆にどれだけ快くあり得るかであり、またこうした題材に関しては、徳を最もよく持っている人々にとってさえ、細部がどれだけ教訓的であるかであるからである。それゆえ本題に入ろう。有徳な人々に最も富む共和国に私は目を向ける。ギリシャに、ローマに目をとめる。そしてそこに大量の英雄が生まれるのをみる。彼等の偉大な行為は、注意深く歴史に保存され、最も腐敗し最も遅れた時代に徳の芳香を広げるためにそこに集められたように思われる。これらの行為は、神々の祭壇に置かれ、その広大な神殿に十分に香りを広げる、あの匂い壺のようなものである。
これらの民族の歴史が提供する一連の有徳な行為を観察し、その原因を発見しようと思うならば、これらの国民の立法者たちが個別的利害を公共の利害に巧みに結びつけたことに、私はそれを認める(a)。
私はレグルスの行為をこの真理の証拠としてとりあげよう。私はこの将軍のなかにどんな英雄主義の感情も、ローマの教育が吹き込んだはずの感情さえ想定しない。この統領〔レグルス〕の時代には、立法はいくつかの点でとても完成していたので、自分の個人的利害にしか諮らなくても、レグルスは彼が行った寛大な行為をしないことはできなかった、と私は言おう。実際、ローマ人の規律訓練に教えられて、逃走かあるいは戦闘中の盾の喪失さえ、罪人が息絶えるのがふつうであるような笞刑に罰されることを思い出すとき、負かされ、虜にされ、〔敵の〕カルタゴ人によって捕虜交換のために〔自国ローマに〕派遣される統領が、ローマ人の目に軽蔑されずに身を差し出すことができなかったのは明瞭ではないか。こうした蔑視は、共和国の人の側からは常にとても屈辱的であり、高尚な魂にとってはとても耐えがたいものだから。こうしてレグルスがとらなければならなかった唯一の決心は、なんらかの英雄的な行為によって、自らの敗北の恥を消すことであったのは明瞭ではないか。それゆえ彼は、元老院が調印する準備をしていた〔捕虜〕交換条約に反対しなければならなかった。〔自分自身が捕虜であった〕彼は疑いなくこの勧告で命を危険にさらした。しかしこの危険は切迫したものではなかった。彼の勇気に驚いた元老院が、彼をかくも有徳な公民にするはずの条約を締結することにより促されそうなことは、十分に本当らしかった。そのうえ、元老院が彼の意見に服する〔つまり交換条約を締結しない〕ことを想定すれば、報復の恐れによって、または彼の徳への賛嘆によって、カルタゴ人が彼を脅していた体刑に彼を委ねないであろうこともまた、とても本当らしかった。それゆえレグルスが身をさらした危険とは、英雄とは言わないが、思慮と分別のある人が、軽蔑を免れ、ローマ人の称賛に自らを提供するために提示しなければならなかった危険に過ぎない。
それゆえ人々に英雄的な行為を余儀なくさせる技術がある。私はレグルスがこの必要に従っただけだとほのめかしたいのではなく、彼の栄光に傷をつけたいのでもない。レグルスの行為は疑いなく、彼を徳に導いた激しい熱狂の結果である。しかしそのような熱狂はローマにおいてしか火をつけられることはできなかった。
一民族の美徳悪徳は常に立法の必然的結果である。中国のあの立派な法をもたらしたのは、疑いなく、この真理の認識である。そこに徳の芽を増やすために望まれるのは、政府において行われる有徳あるいは不名誉な行為(b)の栄光または恥辱に官僚が与ることである。したがってまたそうした官僚がより高い地位に上げられたりより低い等級に下げられたりすることである。
徳がすべての民族において、行政の知恵の大きさの結果であることをどうして疑えるか。ギリシャ人とローマ人が、バルザック1)が言うように「魂が普通の義務を超えて行う歩み」である、あの雄々しくて勇敢な徳に、これほど長い間動かされていたのは、この種の徳がほとんど常に、各々の公民が主権に参与する民族の持ち分であるからである。
ファブリキウス2)のような者がみいだされるのはこうした国においてである。ピュロスによってイピロス3)に彼を追うことを促されて彼は言った。「ピュロスよ、あなたは疑いなく有名な君主、偉大な戦士だ。しかしあなたの民は悲惨のなかで呻いている。私をイピロスに導こうとはどんな大胆さか。間もなく私の法のもとに服し、あなたの民は、〔ローマ〕元老院の〔軍役の代償による〕免税のほうを、あなたの課税よりも、また彼等の不確実な財産よりも安全のほうを好むであろうことを疑うか。今日あなたのお気に入りである私は、明日はあなたの主となろう。」こうした弁舌はローマ人によってしか発せられ得なかった。勇気の高さと忍耐の英雄主義がどこまで至るかを認めて驚くのは、共和国においてである(c)。私はこの分野での実例としてテミストクレスをひこう。サラミスの戦いの数日前、ラケダイモン人の将軍によって評議会全体のなかで侮辱されたこの戦士は、彼の脅威に次の二語で答える。「罵れ、しかし聞け。」この実例に私は、ティモレオン4)のものも加えよう。彼は横領と非難され、民衆はその密告者たちを中傷しようとしている。彼は彼等の怒りを止めて言う。「ああ、シラクサ人たちよ、君達は何をしようというのか。公民みなが私を非難する権利を持っていることを思いたまえ。〔私への〕感謝に屈して、まさにこの自由を害しないよう注意したまえ。私はそれを君達に返したことをとても誇らしく思っているのだ。」
ギリシャ人とローマ人の歴史が、こうした英雄的な特徴でいっぱいであり、専制主義の歴史全体をたどっても似たようなものをみつけるのはとても無理であるのは、これらの政府においては、個人的利害がけっして公共の利害に結びついていないからである。こうした国々では、無数の長所のなかで敬まわれるのは低俗さであり、報われるのが凡庸さであるからである(d)。公的管理がほとんど常にこうした凡庸さに委ねられるのである。才人はそこから遠ざけられる。あまりに落ち着かずそわそわしているので、彼等なら国家の安らいを変質させかねない、と言われよう。その安らいというのは沈黙のときに比べられ、自然においては、間もなく来る嵐に先立つものである。国家の静穏は必ずしも臣民の幸福を証明しない。恣意的政府においては、人人は、鼻鋏で締められ、動けずに最も残酷な〔去勢?〕手術を受ける馬のようなものである。自由な駿馬は最初の一撃に後足で立つ〔反抗する〕。こうした諸国では仮死状態が静穏と解される。こうした国民には知られない栄光への情念だけが、政治体に、甘い発酵を保ち得るのであり、この発酵によって政治体は健康で丈夫になり、あらゆる種類の徳と才能を展開させる。文芸に最も好適な時代は、この理由により、偉大な将軍と偉大な政治家に最も富んでいた。同じ太陽が林檎と杏子を照らす。
しかも、異教徒において神聖視された栄光へのこの情熱は、すべての共国国の人々を受け入れたが、主に敬われたのは、貧しく好戦的な共和国においでだけであった。
【原注】
a)法の真の精神はこの結合にこそ存する。
b)東洋の他の諸帝国はこうではない。統治者はそこでは税をとり謀反に対抗することだけを課される。そのうえ、彼等にはその地方の民衆の幸福に専心することしか課されない。彼等の権力自体、この点できわめて限られている。
c)マザラン枢機卿の手紙からみてとられるが、彼はこの国家体制の利点全体を感じ取っていた。イギリスが〔清教徒革命で〕共和国になることで、近隣諸国にあまりに恐ろしくなったのではないかと、彼は心配した。ル=テリエ5)宛の手紙で彼は言う、「ドン=ルイと私は、チャールズ二世が彼に属する諸王国の外にいることをよく知っています。しかし我々の主である王たちに、チャールズ二世の優位を促し得るすべての理由のなかで最も強いのは、イギリスが強力な共和国を形成して、その後、近隣諸国すべてに噂の種を撒きかねないことです。」
d)これらの国では、才気と才能とは、偉大な君主と偉大な大臣の下でしか敬われない。
【訳注】
1) バルザック(Jean Louis Guez de Balzac,1597-1654)はフランスの書簡作家。古典時代の散文の模範とされた。
2) ファブリキウス(Fabricius,BC.4c-3c)はローマの軍人。捕虜交換のためピュロスのもとに使いし、その誘惑を退けて使命を果たした。廉潔で知られ、ローマ的美徳の模範とされた。以下の挿話は、プルタルコス『対比列伝』ピュロス篇、第20節にある。
3) イピロス(Ipiros)はバルカン半島の地域。ギリシャの北西。前三世紀よりピュロスの統治。
4) ティモレオン(Timoleon)は前四世紀のコリントの将軍。シュラクサイの市民に招かれ同市に渡り、傭兵軍によって僭主ディオニュシオス二世を追放し、またカルタゴ軍を破った。
5) ル=テリエ(Michel Le Tellier,1603-85)はフランスの政治家。マザランの愛顧により陸相、のちルイ十四世により首相。
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