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  1. 2026/01/11 アメリカの変化
  2. 2026/01/11 十年後

床屋道話67 アメリカの変化

二言居士

 

 トランプ氏が再び大統領に選ばれた。初当選のときに驚き、あきれたが、今回もこれに劣らない。対抗したハリス氏がとてもよいと思っているわけではない。ただトランプ再選はひどすぎると思う。政策面でもいろいろ議論はあろうが、ここでは道学居士の観点から二つのことをとりあげたい。

一つは、「平気で噓をつきまくる人」が選ばれたことである。選挙中の例では、テレビ討論の際に、ある町でハイチからの移民がペットの犬や猫を食べている、という発言があった。放送中に司会者からそのような事実の裏付けはない、と言われたが撤回しなった(その後も撤回していない)。そもそも前回の選挙において不正な開票であったとして自分が勝ったのだと主張し続けていた。とちらも(他の嘘同様)何の証拠も出していない。彼の問題であるとともに、そのような人間を最高権力者に選んだアメリカ国民の問題でもある。驚くべき主張に対しては、いったい本当なのか疑問に思うのがまともな人間ではなかろうか。疑問に思ったら、その真偽を知りたいと思うのが当然ではなかろうか。その第一歩もまったく難しくはない。ペットを食うなり票を盗むなりしたのは、いつどこの誰がどのようにしてなのか、それを誰が見たのかを問うことである。それを問わずに言われたことをただ信じて(あるいはそんなことは問題でないとして)、米国民の過半数が賛成投票したことになる。トランプ氏のほうでも証明するどころかこうした具体的事実を提示することさえしないのである。小生が西洋思想を学んで感じたことの一つは、「嘘」に対する厳しさである。「偽証」への批判はあらゆる領域で頻出する。宗教やカント倫理学から始まって、庶民の日常生活でも「嘘つき」は強く叩かれる。東洋では「嘘も方便」と言われるように(法華経をみよ)、悪意がなれば言葉の上での嘘は必ずしも罪ではない。「ことば」の重みづけも含めて、東西の対照性を強く感じていた。しかるに当今のアメリカでは「平気で嘘をつく」者が大統領に選ばれるようになった、ということに、小生は驚くのである。


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哲学史

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仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

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フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

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仲島 陽一 | 2015/10/1






もう一つは、トランプ氏が司法を軽視することである。三権分立を旨とする「近代国家」のなかでも、アメリカは特に裁判所の権威が高いというのが小生が抱いていた印象であった。もちろん、多くの大統領が、判事の任命権を通じて、司法を自派寄りにしようと画策してきたことは知っている。すべての国家のすべての国家機関と同様に、アメリカの裁判所も厳密に中立などではない。それでも罷免されることはない判事がときの行政府や立法府に対立する判決も出し、それが重んじられることが「アメリカの民主主義」の大きな面子になっていた。トランプ氏は多くの訴訟で被告になっており、いくつかは既に有罪判決が出ている。控訴や上告することは彼の権利でありそれ自体は問題はない。しかしその際具体的な反論を理由として挙げるのでなく、訴訟自体が「魔女狩り」であると根拠も示さずに乱暴に攻撃する。しかも大統領に就任すればその権力によって自分自身を「免責」する処置をするであろうと伝えられる。大統領といえども法の下にあるという「法の支配」は民主主義の根幹をなすものだが、彼は(かつてわが国の航空幕僚長であった田母神俊雄氏が、空自の活動を違法とした裁判所の判決に投げつけた言葉を使えば)「でもそんなの関係ねえ」という態度である。これは名実ともに独裁に向かう道ではなかろうか。

「コメンテイター」のなかには、トランプ現象にあきれるのは、アメリカの実態を知らない「リベラル」や「インテリ」の空念仏と評する者もいる。しかしそうなのであろうか。トランプ支持者にもいろいろな言い分があろう。そもそも利害の対立があり、自分が得をしたいことはふつうのことでもある。対立者を攻撃して自分を有利にすることを否定するならば、政治そのものを否定することになろう。しかし嘘をつかないこと、話の真偽を確かめようとすることは人間社会の基礎であり、司法の独立や法の支配は民主主義の第一条件である。こうしたことがあっさり捨てられてしまうのはまっとうな世の中の底が抜けたように感じられる。この素朴な違和感と疑問を言いくるめようとするような「わけしり」のコメントにも、不安を感じる。

アメリカだけの話であろうか。

2026/01/11 04:20 2026/01/11 04:20
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床屋道話66 十年後

二言居士

 

 小生は近年の「加速主義」に反対して、「減速しよう」を標語の一つとしている。本欄でもその方向性でいくつかの雑文を書いた。即決、即レスでなく「立ち止まって考える」ことがますます重要な昨今である。しかし何事にも例外や程度というものがある。

政治の場合でも、「何をするか」に劣らず「いつするのか」が重要な場合もある。

近代日本の性格を大きく決めたのが「明治十四年の政変」であった。徳川幕府から権力を奪った新政府は、「五箇条の御誓文」では「万機公論に決すべし」とうたったが、そうはしなかった。天皇を最高権力者に戴いて、公家や薩長の士族などによる専制政府であった。これに対し、憲法制定や議会の開設を求めたのが自由民権運動である。大久保利通暗殺後最大の実力者になっていた伊藤博文も、その必要性は認め、準備も始めていた。しかし大隈重信がその案を出すと彼は激怒して政府内の大きな対立が生じた。その大きな理由が、大隈案が早期にこれを行うということによるものであった。そこで彼は不条理な口実で大隈を参議から降ろし、他方「十年後」(1990年)の国会開設を公約した。

自由民権運動をどう評価するか。それがあったからこそ憲法や議会がつくられたという意味では、けっして無駄、あるいは失敗ではなかった。しかし二択で言えばやはり敗北であり、その大きな画期はこの明治14年にある。この「10年」が大きかった。「上」から大隈を追放した後、伊藤や岩倉具視は「下」の運動を徹底的に弾圧した。その間に貴族制度や枢密院をつくり、天皇主権の憲法をつくって「臣民」に「下賜」した。一時は民衆が学習会を組織して憲法案をつくる試みもあったほどだが、十年後の憲法発布の際は、お雇い外国人のベルツが、民衆は中身を知らないで祝いに浮かれている、とあきれる状況であった。こうして近代日本の民主主義革命は挫折した。

現代日本の性格を大きく決めたのが「60年安保」であった。「講和」条約と同時に調印された旧日米安保条約の「改定」をめざす岸信介首相(安倍晋三の祖父)に対し、反政府側は安保破棄、日本の中立化を求め、大きな政治闘争になった。岸は新安保条約に調印、衆院を強行採決で批准させた。これをどう評価するか。

旧安保は無期限であったのに対し、新安保は期限十年と定めている。十年後には両国でどうするか協議するが、さもなければ「自動延長」になり、どちらか一方が破棄を通告すれば(相手の意向によらず)その一年後に無効になる。これ自体は条約としてまっとうな規定である。政府側は、この規定を含め新条約が双務的にしたことで安保「改定」の意義として評価する。旧安保が米軍に日本を使わせる一方、日本のメリットは何も明記されていない不平等なものなのは自明であった。なぜと言われれば戦争に負けたからしょうがなかったとでも言うしかない「条約」だが、「講和」した以上は独立国なのだからいつまでも放置できないのは当然である。それで「改定」となったのだが、これは反政府側の敗北であった。

なぜなら少しばかりの「改定」をしても、本質的な不平等性は残ったからである。本稿では詳論しないが(沖縄の状況をみればわかるように)、日米安保は、他の諸国と米国との軍事同盟と比べても従属的で、日本をアメリカの属国化するものである。純粋な中立でなくアメリカと友好関係を保つとしても独立国としての誇りや国益も追求できるという道を、安保改定は閉ざしてしまった。それでも十年後に破棄できるようになったと言われようか。しかしこの十年がやはり大きかった。米国と、その代理人となることによって支配を保障された日本人とは、その期間を利用してあらゆる面での米国依存体制を固めた。また国民の意識を政治そのものから冷まして、「経済成長と五輪・万博」(パンとサーカス)に酔わせた。かくして「十年後」は「70年安保」でなく「Expo’70」の年となった。

「明治十四年」にしても、「1960年」にしても、「前と比べればよくなった」と言うべきでなく、あり得た他の選択肢を葬ることで悪い未来をつくった、のである。その際だしに使われたのが「十年後」であった。

ことし2024年は政治資金集めパーティからの「裏金」が政治問題になった。問題を起こした政治家たちは実質的な責任をほとんどとらず、報告書に記載しないように指示したのが誰かも示されないままだ。所属する自民党は政治資金規正法の改定を「再発防止策」とした。この「パーティ」およびこの法律自体の問題については、仲島陽一氏の『入門政治学』(東信堂、2010)第一部第四章「政治資金論」に譲る。問題の改定の一つは、購入者が公表されるのを20万円以上から5万円以上に下げたことである。実に効果的な対策だ。年一回のパーティを年四回にするか、誰か三人から名前を借りればよい。小学校の算数ができれば誰でも思いつける。もう一つは、得た「政治資金」の使い道を「十年後」に公表することである。こういうことをよく思いつくものだ。当人たちが言うように「適切な使い方をしている」なら、なぜいま公開できないのか。ひょっとすると小生が述べた、「明治十四年」と「1960年」の効果を理解している切れ者の策か。いまの権力者や実力者が十年後にどうなっているか、「一寸先は闇」の政界で気が長い話である。またそのときに「十年前」の不正が発覚して、どれだけの意味を持てるであろうか。少なくとも法的な意味はない。なぜならこの事案の犯罪での「時効」が五年だからという、念のいった話である。つまるところ、この「再発防止策」で「少なくとも前よりよくなった」などと考えるのは、「十年後」に騙される三度目になることである。

ではどうするか。もう一度言おう。政治の場合、「何をするか」に劣らず「いつするのか」が重要な場合がある。ブレイク「十年後」も活躍を続けている林先生、しめに使わせてください。「じゃいつやるの? いまでしょ」。


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仲島 陽一 | 2018/4/1
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2026/01/11 04:10 2026/01/11 04:10
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