床屋道話67 アメリカの変化
二言居士
トランプ氏が再び大統領に選ばれた。初当選のときに驚き、あきれたが、今回もこれに劣らない。対抗したハリス氏がとてもよいと思っているわけではない。ただトランプ再選はひどすぎると思う。政策面でもいろいろ議論はあろうが、ここでは道学居士の観点から二つのことをとりあげたい。
一つは、「平気で噓をつきまくる人」が選ばれたことである。選挙中の例では、テレビ討論の際に、ある町でハイチからの移民がペットの犬や猫を食べている、という発言があった。放送中に司会者からそのような事実の裏付けはない、と言われたが撤回しなった(その後も撤回していない)。そもそも前回の選挙において不正な開票であったとして自分が勝ったのだと主張し続けていた。とちらも(他の嘘同様)何の証拠も出していない。彼の問題であるとともに、そのような人間を最高権力者に選んだアメリカ国民の問題でもある。驚くべき主張に対しては、いったい本当なのか疑問に思うのがまともな人間ではなかろうか。疑問に思ったら、その真偽を知りたいと思うのが当然ではなかろうか。その第一歩もまったく難しくはない。ペットを食うなり票を盗むなりしたのは、いつどこの誰がどのようにしてなのか、それを誰が見たのかを問うことである。それを問わずに言われたことをただ信じて(あるいはそんなことは問題でないとして)、米国民の過半数が賛成投票したことになる。トランプ氏のほうでも証明するどころかこうした具体的事実を提示することさえしないのである。小生が西洋思想を学んで感じたことの一つは、「嘘」に対する厳しさである。「偽証」への批判はあらゆる領域で頻出する。宗教やカント倫理学から始まって、庶民の日常生活でも「嘘つき」は強く叩かれる。東洋では「嘘も方便」と言われるように(法華経をみよ)、悪意がなれば言葉の上での嘘は必ずしも罪ではない。「ことば」の重みづけも含めて、東西の対照性を強く感じていた。しかるに当今のアメリカでは「平気で嘘をつく」者が大統領に選ばれるようになった、ということに、小生は驚くのである。

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もう一つは、トランプ氏が司法を軽視することである。三権分立を旨とする「近代国家」のなかでも、アメリカは特に裁判所の権威が高いというのが小生が抱いていた印象であった。もちろん、多くの大統領が、判事の任命権を通じて、司法を自派寄りにしようと画策してきたことは知っている。すべての国家のすべての国家機関と同様に、アメリカの裁判所も厳密に中立などではない。それでも罷免されることはない判事がときの行政府や立法府に対立する判決も出し、それが重んじられることが「アメリカの民主主義」の大きな面子になっていた。トランプ氏は多くの訴訟で被告になっており、いくつかは既に有罪判決が出ている。控訴や上告することは彼の権利でありそれ自体は問題はない。しかしその際具体的な反論を理由として挙げるのでなく、訴訟自体が「魔女狩り」であると根拠も示さずに乱暴に攻撃する。しかも大統領に就任すればその権力によって自分自身を「免責」する処置をするであろうと伝えられる。大統領といえども法の下にあるという「法の支配」は民主主義の根幹をなすものだが、彼は(かつてわが国の航空幕僚長であった田母神俊雄氏が、空自の活動を違法とした裁判所の判決に投げつけた言葉を使えば)「でもそんなの関係ねえ」という態度である。これは名実ともに独裁に向かう道ではなかろうか。
「コメンテイター」のなかには、トランプ現象にあきれるのは、アメリカの実態を知らない「リベラル」や「インテリ」の空念仏と評する者もいる。しかしそうなのであろうか。トランプ支持者にもいろいろな言い分があろう。そもそも利害の対立があり、自分が得をしたいことはふつうのことでもある。対立者を攻撃して自分を有利にすることを否定するならば、政治そのものを否定することになろう。しかし嘘をつかないこと、話の真偽を確かめようとすることは人間社会の基礎であり、司法の独立や法の支配は民主主義の第一条件である。こうしたことがあっさり捨てられてしまうのはまっとうな世の中の底が抜けたように感じられる。この素朴な違和感と疑問を言いくるめようとするような「わけしり」のコメントにも、不安を感じる。
アメリカだけの話であろうか。













