「ひろゆき」の倫理(倫理私想 第10回)
仲島陽一
本誌の読者は「ひろゆき」をご存じだろうか。いまの若者はほぼみんな知っている。ウェブ空間の人気者だからである。私はSNSは使わない人間であるが、それでも(仕事のため、私信をメールで送るため)パソコンをネットに接続すると自動的に彼の名が出る。わざわざ検索するわけではない。ネットにつなぐと最初に出るサイトで、いまのニュースの見出しだけ30くらい出るなかに、ほぼ必ず一つは彼の言動があるのだ。それだけ見る人が多いということだろう。単におもしろさでみるだけでなく、「論破王」などとしてリスペクトしている若者も少なくないようだ。つまり大きな「インフルエンサー」の一人なのである。とても困ったことだ。
私が「ひろゆき」すなわち西村博之氏(45歳)に目をとめたのは十五年くらい以前である。1999年開始のインターネット掲示板「2チャンネル」の管理人としてだ。ここでは名誉棄損やプライバシー侵害の書き込みが多発した。これは現在のSNS一般でも続いている問題だが、そのこと自体についてはいまは取り上げない(ただしヤフーの掲示板などと比べても「2チャンネル」の問題の多さは突出していた)。被害者は削除を要請しても実行されないことが多かった。そこでやむなく西村氏に対し、削除や損害賠償を求める訴訟が多数なされた。07年までに東京地裁だけで50件以上ある。これに西村氏はほとんど出ず代理人も出さず、多くが原告勝訴になった。07年5月時点で、賠償金総額は数千万円以上、間接強制での制裁金は四億円を超えた。しかしこれを払わず、払う意志がないことをブログで宣言した。払えないわけではない。2チャンネルは数億円の広告収入をあげている。だが、2チャンネルは米国内のサーバーで運営されており、西村氏は不動産をもたず、役員を務める会社からの収入も不透明で、差し押さえによる回収は難しい。07年3月19日、西村氏は久しぶりに東京地裁に出廷し、閉廷後、賠償金などを払わない理由についてこう語った。「踏み倒せば払わなくていいという不完全なルールの中でみんな暮らしている。払わなくて死刑になるなら払っていると思いますよ」。ここはまず明らかな嘘が一つある。「払わなくていい」というルールはない。払わない者からの取り立て方に不完全さかあるだけである。次に注目すべきことは、払わない理由として、彼は判決が不当だとは言っていないことである。つまり自分が犯罪行為をしていることは否定していない。彼の行動基準は自分の損得だけである。死刑になるなら払う、というのだから。
「ひろゆき」の倫理は道徳のない行動基準である。それの何がいけないのか――と開き直られると多くの者は困惑する。道徳的であるべきことは自明で、つまり理屈でなく道徳的感情があるからである。これを理屈でも考えようとする者もいるが、そもそもこの感情を持たない者もいる。サイコパスと呼ばれる者はこれとかなり重なる。「ひろゆき」と「サイコパス」を二重検索すると多くの投稿が上がっており、彼の言動がそう疑われることを示している。専門家による学問的診断はないが、おもしろいのは自分がサイコパスであることを証明すると題した当人による動画もあることだ。これを見てのコメントのなかには自分でそう言っている者はサイコパスではない、との発言もみられるが、これは妥当ではない。ある種の精神病と違い自覚症状とは両立可能で、はい自分はサイコパスです、それが何?という開き直りは、むしろまさにサイコパス的(他人の嫌悪や非難を屁とも思わない)である。
「サイコパス」がはじめて注目されたのは、凶悪な犯罪者などにみられやすいということであった。しかし研究の進展で別の様相も表れてきた。凶悪犯におけるサイコパスの割合は一般より高いものの、サイコパスが凶悪犯罪を起こす割合は必ずしも一般より高くはない。サイコパスだからと言って知能が低いわけではないので、犯罪などで処罰されるだろうと考えれば「感情に任せて」犯行に及んだりはしないからである。近年言われるのは、むしろ現代社会で「成功」している人にはサイコパスが多いということである。「クール」でリスクにおびえないだけに、外科医・法律家・政治家・経営者には向いているという。特にベンチャー系の実業家などにはうってつけで、従来なら「人の気持ちがわからない」「協調性がない」と落ちこぼされてきたが、新自由主義状況で水を得た魚になったのだそうだ。彼等は他人の気持ち自体に関心はなく実感的に共感はしないが、たとえばこうすれば顰蹙を買うという因果的事実は認識でき、自分の「成功」のためにそれを利用することもできる。なんて嫌な奴だ、と私は思う。しかしそれを「合理的」と称してリスペクトする若者も少なくない。
困ったものだ。
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