'エルヴェシウス「精神論」'に該当される記事32件

  1. 2020/02/12 精神論〔1758年〕 第三部 第13章 自尊心について
  2. 2019/10/14 精神論〔1758年〕 第三部 第12章 権勢の追求において
  3. 2019/10/14 精神論〔1758年〕 第三部 第11章 野心について
  4. 2019/03/21 精神論〔1758年〕 第三部 第10章 貪欲について
  5. 2019/02/23 精神論〔1758年〕 第三部 第9章 情念の起原について
  6. 2018/09/03 精神論〔1758年〕 第三部 第7章 分別くさい人々に対する情熱的な人々の精神的 優位について
  7. 2018/03/04 精神論〔1758年〕 第三部 第6章 情念の力について
  8. 2017/12/16 精神論〔1758年〕 第三部 第5章 私達の魂に働きかける諸力について
  9. 2017/09/11 精神論〔1758年〕 第三部 第4章 注意力の不等性について
  10. 2017/06/19 精神論〔1758年〕 第三部 第3章 記憶の広さについて
  11. 2017/03/02 精神論〔1758年〕 第三部 第2章 感官の繊細さについて
  12. 2016/12/29 精神論〔1758年〕 第三部 第1章 精神が考察されるべきは自然の恵みとしてか、教育の結果としてか
  13. 2016/09/10 精神論〔1758年〕 第二部 第26章 全世界との関係における精神について
  14. 2016/03/25 精神論〔1758年〕 第二部 第24章 道徳学を改善する手段について
  15. 2015/09/20 精神論〔1758年〕 第二部 第23章 道徳学の進歩を今まで遅らせた諸原因について
  16. 2015/06/11 精神論〔1758年〕 第二部 第22章 諸国民はその統治形態だけのおかげである長所をなぜ自然の恩恵とみなすのか
  17. 2015/05/30 精神論〔1758年〕 第二部 第11章 公衆との関係における徳義について
  18. 2015/05/29 精神論〔1758年〕 第二部 第10章 公衆から称賛される人が、 社交界の人々からは必ずしも評価されないのはなぜか
  19. 2015/05/28 精神論〔1758年〕 第二部 第9章 上品さ、および美習について
  20. 2015/05/22 精神論〔1758年〕 第二部 第8章 公衆の判断と個別的社会の判断との違いについて

精神論〔1758年〕

 

第三部 第13章 自尊心について

 

 自尊心は私達のなかの、自らの卓越についての真または偽の感情にほかならない。この感情は、他人と比べて自分を有利とすることにあるので、したがって人々の実在を、また諸社会の設立さえも前提する。

それゆえ自尊心の感情は、快苦の感情と違って、生得的ではない。それゆえ自尊心は美と卓越の知識を前提する人為的な情念にほかならない。ところで卓越または美は、大多数の人々がそのようなものとして常にみ、評価し、敬ったもの以外ではない。それゆえ評価されるものの観念は評価できるものの観念に先立った。この二つの観念がまもなく混同されざるを得なかったのは本当である。こうして、自分自身に満足したいという高貴ですばらしい欲望に動かされ、また自分自身からの評価に満足して、一般の意見はどうでもよいと思う人間は、この点で、自分自身の自尊心に騙され、評価されたいという欲望を、評価できるものになりたいという欲望と解してしまうのである。

自尊心は実際、公的評価への秘かで偽装された欲望でしかあり得ない。アメリカの森で、自分の身体の器用さ、力、敏捷さをうぬぼれる同じ人間は、なぜフランスでは、より本質的な性質がないときにしか、こうした身体的利点で自尊心を持たないのであろうか。身体の力と敏捷さとは、フランス人からは未開人からほど評価されないし、されてはならないからである。

自尊心が評価への偽装された愛にほかならないことの証明として、自分の卓越と優秀さを確信したいという欲望にもっぱら専心している人間を想定しよう。この仮定においては最も個人的で偶然に最もよらない優秀さが、疑いなく最も喜ばしくみえるであろう。文と武とで栄光を選ばなければならないなら、したがって彼が選好するのは前者であろう。彼は敢えてカエサル自身に反駁するであろうか。勝利の栄冠は、啓蒙された公衆によって、将軍、兵士、そして偶然に常に分有されるということを、彼はこの英雄とともに認めないであろうか。反対に学芸の栄冠は、分有されずにそれに鼓吹される人々に属することを。偶然はしばしば無知な者や卑怯な者を〔軍事的〕勝利の座に置き得たが、愚かな作者の頭に栄冠をおくことは一度もなかったと、彼は認めないであろうか。

自尊心、すなわち自分の卓越を確認したいという欲望しか問題にしないならば、それゆえ確かに、第一の種類の栄光がより願わしく彼にはみえるであろう。人が深遠な哲学者よりも偉大な大将を選好しても、この点で、彼の意見を変えないであろう。公衆が哲学者よりも将軍に大きな評価を認めるのは、啓蒙されたいと思う少数の人々にしかすぐには有用とみえない賢者の格率よりも、将軍の才能のほうが公衆の幸福に対してより迅速な影響を与えるからであることを、彼は感じとるであろう。

ところで、しかしながらフランスには、武の栄光を文の栄光よりも好まないような者がいないのは、評価できるものになりたいという欲望が評価されたいという欲望のおかげだけによるからで、自尊心が評価への愛自体にほかならないからだ、と私は結論する。

続いて、自尊心あるいは評価へのこの情念が身体的感性の結果であることを証明するためにいまや検討しなければならないのは、人が評価自体のために評価を願うのかどうかである。そして評価へのこの愛が苦への心配と快への愛の結果でないかどうかである。

実際公的評価が熱心に求められるのは、どんな他の原因に帰され得ようか。各人が自分の価値について内的不信を持っていて、したがってまた、自己評価したくてもひとりでは自分を評価できないので、自分自身について高い意見を持っているのを誇示するために、また自分の卓越の喜ばしい感情を享受するため、公的賛同を必要とする自尊心にであろうか。

しかしもし、私達が評価されたい欲望を持つのはこの動機だけによるならば、最も広い評価、すなわち、最大多数によって与えられるような評価は、異議なく、最も嬉しく最も願わしいものにみえるであろう。それは私達のなかのしつこい不信を黙らせるのに、また私達の価値に関して安心させるのに最もふさわしい評価としてである。ところで、私達に似た存在が住んでいる〔地球以外の〕惑星を想定してみよう。ある霊がいつでもやってきてそこで起きていることを私達に告げ、またある人が自国での評価とこうした天界すべてでの評価の間で選ばなければならないと。この想定では、彼が同国民からの評価よりも選好するに違いないのは、より広い、すなわち諸惑星すべての住民からの評価であろうことは、明らかではないか。しかしながらこの場合、国民的評価に味方する決心をしないような者はいない。それゆえ評価への欲望は、自分の価値について確信したいという欲望ではなく、この評価によって得られる利点のためなのである。

このことを納得するために自問して欲しいのは、公共の評価を最も欲しがると言われる者が、謀略や陰謀で邪魔されて、自国民に有用なことを何もできない時代においてさえ、大きな地位を熱心に求めるのはなぜかである。そういう時代ではしたがって、彼等は公衆のあざけりにさらされるが、公衆はその判断において常に正当で、立派に果たせない職務を受け入れるほど自分の評価に無頓着な者は、みな軽蔑する。さらに自問してほしいのは、君主からの評価のほうが信用のない男からよりもなぜ嬉しいのかである。そうすれば、すべての場合において、評価への私達の愛はそれが約束する利得に釣り合っていることがわかるであろう。

私達が選ばれた少数の人々からの評価よりも、知識のない多数からの評価を選好するのは、多数において、評価が人心に与えるこの種の影響力に服するより多くの人々をみるからである。より多数の称賛者のほうが、彼等によって得られる快いイメージをよりしばしば私達の精神に呼び起こすからである。

この理由で、何の関係もないような民族からの称賛には無関心なので、大チベットの住民が評価してくれるということでおおいに心を動かされるようなフランス人はほとんどいない。全世界の評価を奪い取り、南極地方からの評価さえ欲しがるような人々がいるとしたら、その欲望は評価に対するより大きな愛の結果ではなく、より大きな幸福という観念を、より大きな評価という観念に結びつける習慣を持っているからに過ぎない(a)

この真理の最後で最強の証拠は、最大の報いが価値と区別されない時代では、評価に嫌悪が抱かれること(b)と、偉人が乏しいことである。大きな才能や大きな美徳を得られる人は、自国民と黙約しているように思われる。彼のそばにすべての快楽を集める限り、感謝した同国民が、彼の苦痛を減らすように注目し、彼等に有用な才能と行動によって名を挙げるように促される、という黙約を。

すべての時代と国において、偉人が多いか少ないかは、こうした黙約を果たす公衆が、怠惰であるか精勤であるかによる。

それゆえ私達は評価のために評価を愛するのではなく、もっぱらそれが得させる利得のために評価を愛するのである。クルティウス1)の実例でこの結論に反対して武装しようとしても無駄である。ほとんど唯一の事実は、最も多数の経験に支えられた原理に反して何も証明しない。とりわけまさにこの事実が、他の諸原理に帰され得、また当然他の諸原因によって説明され得るときには。

クルティウスのような人間を形づくるためには、生きるのに疲れた人が、多くのイギリス人に自殺の決心をさせる体調不良にあることで十分である。あるいは、クルティウスのときのようにとても迷信的な時代に、他人以上に狂信的で信じやすく、自分が身を捧げれば神々の間に席を得られると信じる人が生まれることで十分である。どちらの想定においても、自分の悲惨を終わらせるためであれ、天上の快への門を開くためであれ、死へと身を捧げることができる2)

この章の結論は、評価できるものになりたいと願うのは評価されるためにほかならず、人々からの評価を願うのはこの評価につきものの快を享受するためにほかならない、ということである。それゆえ評価への愛は快への偽装された愛である。ところで、快には二種類しかない。一つは感官の快であり、もう一つは、まさにこの快を得る手段である。この手段を快の分類の中に並べたのは、ある快への希望は快の始まりだからである。しかしながらこの快が実在するのはこの希望が実現可能なときだけである。それゆえ身体的感性は自尊心の、また他のすべての情念を生み出す芽である。こうした情念の中に私は友情を含めるが、これは外見上感官の快から独立しており、この実例を通じて、私が諸情念の起源について言ったことすべてを研究するために、検討されるに値する。〔その検討が次章でなされる。〕

 

【原注】

(a)人々は、よい教育の諸原理を通じて、幸福の観念を評価の観念と混同することに慣れている。しかし、評価という名の下で、彼等が本当に願っているのはそれが得させる利得だけである。

(b)評価が不毛な諸国においては、人は評価に値するためにはほとんど何もしない。しかし、評価が大きな利得をもたらすいたるところで、人は、レオニダスのように、三百人のスパルタ人とともに、テルモピュレーの険を守りに駆けつける。

 

【訳注】

1)    クルティウス(Marx Curtius, ?-BC.362)は古代ローマの貴族の青年。神託に従い、フォルムに突然生じた地割れのなかに馬で飛び込み、この犠牲によって裂け目はただちに閉じたという。

「人はみな自分の利害のために一般の利益に協力するものだと言われている。しかし、正しい人が自分の損になっても一般の利益のために死んでいくというのはいったいどういうわけか。〔…〕有徳な行動に当惑させられるような哲学、そういう行動にも卑劣な意図と徳性のない動機とをでっちあげなければ切り抜けられないような哲学、ソクラテスを卑しめたり、レグルスを中傷したりしなければならないような哲学は、あまりにも忌まわしい哲学と言わなければなるまい。たとえそんな学説が私達の間に芽生えてきたとしても、本性は、そして理性も、ただちにそれに反対の声を上げ、その学派のたった一人にでも、本心からその学派の人として弁明する余地をけっして与えないであろう。/私はここで〔…〕哲学を論じようとは思っていない。ただ、自分の心にきいてみることであなたを助けてあげたいのだ。私が間違っていることをすべての哲学者が証明するとしても、私が正しいことをあなたが感じるなら、それでいい」(ルソー『エミール』第四編)。


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『エミール』挿絵






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2020/02/12 19:08 2020/02/12 19:08
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精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

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 第三部 第12章 権勢の追求において求められるものが苦の軽減か身体的快の享受の手段だけであるならば、なぜしばしば野心家は快を得そこなうのか

 

 二種類の野心家が区別できる。不幸な生まれつきで、他人の幸福の敵となり、高位を望むが、それが得させる利得を享受するためでなく、人々を苦しめ彼等の不幸を享受するという、不運な者の快を味わうためだけである者がいる。この種の野心家たちの性格は偽信心家たちとかなり似ている。偽信心家たちというのは一般に邪悪とみなされている。自らが信仰告白する法が愛と慈悲の法でないからではなく、厳格な献身に最もふつうに赴く人々は(a)、明らかにこの現世に不満な人々で、あの世にしか幸福を望み得ず、陰鬱で臆病で不幸で、他人の不幸を眺めることに自分の不幸の気晴らしを求めるからである。この種類の野心家はごく少数である。彼等の魂には偉大なところや高貴なところは何もない。暴君たちとしか数えられない。そしてその野心の本性によって、すべての快を奪われている。

別の種類の野心家もいる。この種類に私はほとんどすべての野心家を含める。高位において、それにつきものの利得の享受だけを求めるものである。こうした野心家のなかには、生まれまたは身分によって、はじめから重要な地位に上っている者もいる。彼等はときおり、快楽を野心の配慮と結びつけることができる。昇らなければならない職歴の、いわば五合目に生まれながらにおかれているからである。クロンウェルのように、最も凡庸な身分から最高位にまで登ろうとする人はこれと異なる。ふつうはじめの歩みが最も難しい野心の道を切り開くために、彼は無数の策謀を行い、無数の腹心を操らなければならない。大計画を形づくる配慮と、その実行の細部とに同時に気を使う。ところで、すべての快楽の追求に熱心で、この動機だけに動かされているこうした人々が、どうしてしばしば快を得られないのか。それを解明するために、こうした快に飢え、お偉方の欲望が熱心に忖度されることに心を打たれて、この種の人が最高位に登ろうとすると想定しよう。この人が生まれるのは、人民が恩恵の配給者で、公共の好意は祖国に果たされる奉仕によってしかかち得ず、したがって真価が必要な国かもしれない。あるいはまさにこの人が生まれるのは、ムガールのような、名誉は陰謀の報いである、絶対的に専制的な統治においてかもしれない。ところで、どの場所で生まれるにせよ、要路に達するには、彼は自分の快楽にはほとんどどんな時間も割き得ない、と私は言おう。これを証明するために、私は例として恋愛の快をとりあげるが、単にすべての快のなかで最も強いものとしてだけでなく、文明社会のほとんど唯一のばねとしてである。なぜなら、ついでに観察するのがよいのは、各国民において、それがこの国民の普遍的な魂として考察されなければならない身体的欲求だからである。南半球の未開人においては、恐ろしい飢饉にしばしばさらされて、常に狩りと釣りとに忙殺されるので、すべての観念を生み出すのは飢えであって恋愛ではない。この欲求は彼等においてすべての思想の芽であるだから、彼等の精神のほとんどすべての組み合わせは、狩りと釣りの巧知と、空腹からの欲求に備える手段の上だけを動いている。反対に、女性たちへの恋愛は、文明国民においては、彼等を動かすほとんど唯一のばねである(c)。こうした諸国では、恋愛はすべてをつくりだしすべてを生み出す。贅沢の諸技芸の壮麗さと創造とは、女性たちへの恋愛と彼女等に気に入られたいという望みとの必然的な帰結である。富によってであれ顕職によってであれ男性たちを敬服させたいという欲望でさえ、女性たちを誘惑する新たな手段に過ぎない。だから想定しよう。財産なしだが恋愛の欲望に餓えた男が次のことをみてとったと。女性たちが愛人の欲望にたやすく降参するのは、この愛人がより高い地位にのぼり、彼女たちに対してそれだけ多く重要だと反省させることに比例することを。女性たちへの情熱によって、〔彼女等を得る手段として〕野心の情念に刺激されて、問題のこの男は将軍か首相の地位を願うであろう、と。こうした地位に昇るために、彼は、才能を獲得し陰謀を行う気配りにまるごと没頭せざるを得ない。ところで、巧みな陰謀でも功績ある人でも、それを形づくるのに達する種類の生活は、女性たちを誘惑するのに適する種類の生活とはまったく対立している。女性にふつう気に入られるのは、野心家の生活とは両立できないまめであることによってだけである。それゆえ確実に、青年時代、また彼が要路にまで達して女性たちが自分達の信用と引き換えに好意を寄せざるを得なくなるときまで、この男は自分の好みすべてを断念し、ほとんど常に、現在の快を、来るべき快の希望のために犠牲にせざるを得ない。私がほとんど常にというのは、野心の道はふつう達するのがとても長いからである。満たされるや否や増大する野心が待ち、一つの欲望を満たしてもまた常に新たな欲望がとってかわる人々について言わずもがなである。大臣になれば王になりたいと望む。王になれば、アレクサンドロスのように、全世界の君主になり、万人の敬意によって、世界全体が彼の幸福に専心することが保証されるような王座に上りたいと願うであろう。私が言いたいのは、こうした特別な人々のことは言わないが、穏当な野心を想定するにしても、女性たちへの情念によって野心家になるような男が、顕職に達するのはふつう、欲望すべてが隠遁してしまうような年になってからだけなのは明らかだ、ということである。

しかしもし彼の欲望が冷める一方であるならば、この男はこの終局に達するや否や自分が切り立って滑りやすい岩の上にいると思う。自分が四方八方から羨む人々の標的になっているのをみてとる。彼等は彼を射貫こうとして、そのまわりに常にぴんと張った弓を構えている。そこで彼は恐ろしい深淵が開いているのを見て恐れる。そこに落ちれば、権勢には悲しいつきものだが、彼はみじめになり同情もされないだろうと感じとる。彼の自尊心によって侮辱された人々の侮辱の的となり、競争相手たちの軽蔑の的となるが、これは侮辱以上に残酷な軽蔑となる。目下の者たちに嘲笑されるが、彼にはときおりはうるさく思われたかもしれないような敬意の貢物を、彼等はいまや免れる。しかし習慣によって彼には必要になってしまったいま、その喪失は彼には耐え難いのである。それゆえ彼は、自分が味わった唯一の快楽を奪われ、また衰え果ててしまい、自分の権勢を眺めて、欲張りが自分の富を眺めるように、それが彼に得させるすべての享受の可能性をもはや享受しないであろう。

それゆえこの野心家は、退屈と苦痛への恐れから、快への愛が彼に入り込ませた経路にとどまる。それゆえ保ちたいと思う欲望が、彼の心中で、得たいという欲望に続く。ところで、顕職にとどまるために、またはそこに達するために必要な配慮の範囲はほとんど同じなので、この男が、常に自らに拒んだ快楽を得る手段としてもっぱら欲望される、こうした顕職の追求あるいは保持に、青年時代と壮年時代をあてなければならないことは明らかである。このようにして、新しい分野の生活をうけいれられない年に達して、自分の古くからの関心事にまるごと身を委ねることになり、また実際そうせざるを得ない。なぜなら激しい心配と希望とで常に揺すぶられ、強い情念に絶えず動かされた魂は、穏やかな生活の味気ない凪よりも野心の嵐のほうをいつまでも好むであろうからである。北風がもはや動かないとき波がまだ南仏海岸に向ける舟に似て、人々は青年期に情念が与えた方向を老年にもたどっていく。

女性たちへの情念によって権勢へと向かった野心家が、どのようにして荒れた道に入り込むかを、私は示した。たまたまそこで若干の快楽にでくわすとしても、そこには常に苦さが混じっている。それを味わって喜べるのは、それがそこでは稀でそこここに撒き散らされているからだけである。リビアの砂漠でときたまでくわす樹木とほぼ同然である。その枯れた葉が快い影を提供するのは、そこで休む焦げたアフリカ人に対してだけである。

 それゆえ、野心家のふるまいと彼を動かす動機との間には明らかな矛盾が認められる。それゆえ野心は私達の中で快への愛と苦への恐れとによって点火される。しかし、もし貪欲と野心が身体的感性の結果であるならば、少なくとも自尊心はそこら源を持たない、と言われよう。〔その検討が次章でなされる。〕

 

【原注】

(a)経験が証明するところでは、一般に、若干の快楽を自制し、ある種の献身についての厳格な格率と実践を採用するのに適した性格〔の持ち主〕は、ふつう、不幸な性格〔の持ち主〕である。多くの宗派の信者が、宗教の原理の神聖さとやさしさに、多くの邪悪さと不寛容とをどうやって結び付け得たのかの、これが唯一の説明の仕方である。不寛容〔の実在〕は、多くの虐殺によって証明されている。自分の情念に敵対しない青年時代が、ふつう老年期よりも人間的で寛大なのは、不幸と弱さとが彼をまだ頑なにしていないからである。幸せな性格の人は陽気でお人よしである。

  ここにいるみんなが私の喜びで幸せになるように

というのはこうした人だけである。

 しかし不幸な人は邪悪である。カエサルはカッシウスについて言った。「俺はやつれてやせこけた奴は信じない。自分の快楽にもっぱら専心しているアントニウスのような連中は違う。彼等の手は花を摘んでも剣を研がない」。カエサルのこの観察1)は実に見事で、思う以上に一般的である。

(b)野心とは、敢て言えば、彼等にあっては、障害によって刺激されすべてにうちかつ強い情念であるよりも、身分の適合である。

(c)他の動機によって私達の野心に火が付くことがない、というわけではない。貧しい国では、前に言ったように、自分の必要物を備えたいという欲望で、十分に野心家ができる。専制的な国では、暴君の気まぐれで私達が受けるかもしれない体刑への恐れから、やはり野心家が形つくられ得る。しかし文明民族においては、最もふつうに権勢への愛を吹き込むのは幸福への曖昧な欲望であるが、それは私が既に証明したように、常に官能の快楽に還元される欲望である。ところで、こうした快楽のなかで、私は疑いなく女性たちへの快楽を、すべてのなかで最も激しく最も有力なものとして選ぶ権利がある。実際に私達を動かすのがこの種の快楽であることの証明は、最高位に昇るのにときおり必要な、大きな才能の獲得が可能で絶望的な決心を受け入れられるのは、青年期、すなわち身体的欲求が最も強く感じられる年頃においてだけだ、ということである。しかしどれだけ多くの老人が、要路に上るのを楽しむことか、と言われよう。然り、彼等はそれを受け入れ、望みさえする。しかしその欲望は情念の名に値しない。なぜなら彼等はそのときもはや、情念を性格づける、あの大胆な企てやあの驚くべき精神的努力ができないからである。老人は、若いときに切り開いた道を習慣によって歩むことはできるが、新たな道を切り開くことはできない。

【訳注】

1)    プルタルコス『対比列伝』カエサル篇第62節参照。







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2019/10/14 23:43 2019/10/14 23:43
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精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

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第三部 第11章 野心について

 

 高位につきものの信用は、富と同じく、私達の苦を除き快を得させることができ、したがってまた、〔それらのための〕交換物とみなされ得る。それゆえ私が〔前章で〕貪欲について言ったことは野心にも適用できる。

(かしら)または王たちの特権が彼等のために自国の戦士が行う狩りの肉を食い皮を着ることでしかないようなあの未開諸民族においては、自分の必要品を確保したいという欲望が、野心家たちをつくりだす

生まれたばかりのローマで、偉大な行為への報いとしては、一人のローマ人が一日に開拓し耕作できる広さの土地しか与えられなかったとき、この動機は英雄たちをつくるのに十分であった。

ローマについて言うことを、私はすべての貧しい民族についても言う。彼等の下で野心家を形づくるのは、苦痛と労働から免れたいという欲望である。反対に、富裕な国民においては、高位を切望する者はみな、必要品だけでなくさらに便宜品をも得るのに必要な富は具えており、野心が生まれるのはほとんど常に快楽への愛の中にである。

しかし、緋色の布〔富と権威の象徴〕、〔教皇の〕三重冠、また一般に名誉のしるしすべては、快のどんな身体的印象もつくりださない、と言われよう。それゆえ野心はこの快への愛にではなく、評価と尊敬への欲望に基づいているのだ、それゆえ身体的感性の結果ではない、と。

私は答えよう。もし権勢への欲望が評価と栄光への欲望によってだけ点火されるのであるならば、野心家が起こるのはローマやスパルタのような共和国においてだけであろうと。そこでは高位はふつう、それが報いとなる偉大な徳や偉大な才能を示していたのだから。これらの民族においては、高位の獲得は自尊心を喜ばせ得た。ある人に同国民からの評価を保証したからである。この人は、常に偉大な企てを実行しなければならないので、要路を、自分の名をあげ他人に対する自らの優越を証明する手段とみなし得たからである。ところで野心家は、こうした権勢がそれにのぼる人々の選択によって最も卑しめられた時代、したがってまた、権勢の獲得が最も喜ばしくない時代においてさえ、やはりそれを追求するのである。それゆえ野心は評価への欲望に基づいていない。この点で野心家が自分自身を欺いている、と言っても無駄であろう。彼に惜しまず与えられる尊重のしるしで彼が絶えず知らされるのは、敬われているのは彼の地位であって彼ではないということである。自分が享受している尊重は人格的なものでないことを感じるのである。それは主人の死か失寵によって消え失せる。君主の老いでさえそれを破壊するのに十分である。そのとき、第一位の職務に上った人々は、主権者〔君主〕のまわりにいて、ちょうど日の出のときに現れ、星が地平線の下に沈むにつれて輝きが曇り消えるあの金の雲のようなものであることを、感じ取るのである。真価が名誉に導かない、ということを彼は千度も聞き、彼自身千度も繰り返した。顕職への昇進は公衆の目には、現実の真価の証明ではないと。反対に、陰謀、低劣さ、しつこい催促の報いと、ほとんどいつもみなされていることを。疑うならば歴史を、とりわけビザンツ帝国の歴史を開くがよい。ある人が、帝国のすべての名誉を担うと同時に国民すべての軽蔑を被っていることがあるのがわかるであろう。しかし私は、野心家が雑然と評価を渇望して、高位におけるこの評価しか求めないことは認める。これが彼を決心させる真の動機でないことを示すのはたやすい。またこの点で、彼が自分自身に幻想を与えているのを示すことは。なぜなら、私が自尊心の章で証明するであろうように、人が評価を求めるのは、評価自体のためではなく、それが得させる利点のためだからである。それゆえ権勢への欲望は評価への欲望の結果ではない

いったい顕職が熱心に求められるのは何のためか。みだらでぴかぴかのなりでしか公衆の前に出たがらない、あの金持ちの若者たちに倣って、野心家がなんらかの名誉のしるしで飾られてだけそこに現れたがるのはなぜか。彼がこうした名誉を、人々への一つの告知と考えるからである。つまりそれは、彼の独立や、彼が好むがままに若干の人々の幸不幸を決められる権力や、また彼等が彼にもたらしうるような快楽に常に釣り合った寵遇に値することに彼等すべてが持つ関心を示すと考えるからである。

しかし、野心家が欲しがるのはむしろ人々からの尊敬と崇拝ではなかろうか、と言われよう。事実において、彼が欲するのは人々の敬意ではある。しかしなぜそれを欲するのか。お偉方に払われる賞賛において、彼等の気に入るのは称賛の身振りではない。もしその身振りがそれ自体で快いならば、金持ちはみな、自宅から出ることも顕職を追い求めることもなく、そうした幸福を手に入れられよう。一ダースの無頼漢を雇い、彼等に壮麗な衣服をまとわせ、欧州のあらゆる勲章を下げさせ、毎朝控えの間に侍らせておいて、自分の虚栄として世辞と敬意の貢物を捧げに毎日来させれば満足するであろう。

この種の快に対する金持ちの人々の無関心が証明しているのは、人は尊敬を尊敬として愛するのではなく、他の人々の側の劣位の表明としてであり、彼等が、私達に対して好都合な意向を持ち、私達が苦を避け快を得るのに熱意を持つことの保証としてなのだ、ということである。

それゆえ権勢への欲望は苦への恐れまたは快への愛だけに基づいている。もしこの欲望がそこに源を持たないならば、野心家の迷いを覚まさせる以上に簡単な方法が何かあろうか。野心家はこう言われよう。ああ、君は豪華で華々しい高官たちを眺めて羨みにやつれているが、思い切ってもっと高貴な自愛心に高まり給え。そうすれば彼等の輝きも君を威圧しなくなるだろう。君が他の人々にまさっているのは、虫けらが彼等に劣っているのと同じだ、とちょっと想像したまえ。そうすれば宮廷人たちのなかに、女王のまわりをぶんぶん飛ぶ蜂たちしか見ないだろう。王杖でさえ、君にはもはや虚栄以上のものには見えないだろう、と。

なぜ人々はこうした話に耳をかさないのか。非力な者をはほとんど重んじず、偉大な才能よりも大きな地位を常に好むのか。権勢が一つの福利であり、また富と同様に、無数の快楽と交換できるものとみなされ得るからである。だから権勢が人々に対するより広い権力を与え得るほど、またしたがって私達により多くの利得を得させ得るほど、それだけ熱心に追求される。この真理の一つの証明は、〔ペルシャの〕イスファハンかロンドンかの王位を選べるなら、イギリスの王杖よりもペルシャの過酷な王権を優先させないような者がほとんどいないことである。しかしながら誠実な人の目には、イギリスの王権のほうが望ましくみえることを誰が疑うであろうか。またこの二つの王権を選ばなければならないなら、有徳な人は、主権〔君権〕が制限されていて、幸いにも臣民を害することができないもののほうを好む決心をするであろうことを。しかしながらイギリスの自由な人民よりもペルシャの奴隷的な人民に命令することを好まないような野心家はほとんどいないのは、人々に対するより絶対的な権力が、私達を喜ばせることに彼等をより注意深くさせるからである。隠れた、しかし確かな本能によって教えられて、愛以上に恐れが常により多くの賛辞をもたらすのを知っているからである。僭主たちは、少なくともその生前は、善良な王たちよりも常に名誉を得るからである。感謝によって、豊穣の角を持つ善行の神々に豪華な神殿が建てられたが(a)、常にそれよりも多く、暴風や嵐の上に乗り、稲光の衣をまとい、雷を手にした姿で描かれる、残酷で巨大な神々に対して、恐れが神殿を捧げさせるほうが多いからである。要するに、自由な人間の感謝からよりも奴隷の服従から、より多くを期待しなければならないと感じるからである。

この章の結論は、権勢への欲望は、常に、苦への恐れか、官能の快への愛への結果であるということであり、それに他のすべての欲望は還元される。権力と尊重とが与える快は、本来の快ではない。それらが快の名を得るのは、快を得る希望と手段とが既に快であるからに過ぎない。身体的快の実在のおかげでだけ実在する快である(b)

計画、企て、予定、美徳および野心の輝かしい華々しさにおいて、身体的感性の産物を認めるのが難しいことは私も知っている。腕を殺戮に染め、合戦上のただなか、死骸の山の上に座し、勝利のしるしとして血の厭うべき腕を打つあの誇り高い野心家において、私は言いたいがこのように描かれた野心家において、どのようにして快楽の娘を認められるのか、と。戦争の危険、疲労、および労苦を通じて、追求されているのが悦楽であるとどうして想像できるのか、と。私は答えよう。放縦の名の下に、ほとんどすべての国民の軍隊を集めるのは快楽だけであると。人々は快を、したがってまたそれを得る手段を愛する。それゆえ人々は富と顕職とを欲しがる。そのうえできれば一日に財をなしたいと思い、怠惰が彼等にこの欲望を吹き込む。それゆえ人々は、遠い将来にしか富を約束しない農業の労苦よりも、戦争の疲労(c)により好んで耐えるに違いない。だからゲルマン人、ケルト人、タタール人、アフリカの沿岸住民とアラブ人は、土地の耕作によりも盗みと海賊において常により富裕であった。

小さな賭けよりも、破滅する危険さえある大博打が好まれるのも戦争と同様である。大博打は巨富の希望で私達を喜ばせ、それをただちに約束するからである。

私がいま確立した諸原理から、逆説らしくみえるところをすっかり取り除くために、私がまだ答えなければならない唯一の反論を、次章の題において示すことにしよう。

 

【原注】

(a)バンタン1)の町では、住民は悪霊に初穂を供えるが、偉大な神には何も供えない。偉大な神は、彼等によれば善良であるので、そうしたものを提供される必要がないのである。ヴァンサン・ルブランを参照。

(b)私達に野心を持たせるのが身体的快でないことを証明するためには、私達に幸福への道を開くのがふつう幸福への漠とした欲望であるとたぶん言うことになろう。これに私はこう答える。しかし幸福への漠とした欲望とは何かと。特定のどんな対象ももたらさない欲望である。どの特定の女も愛さずに一般にすべての女を愛する男は、身体的快の欲望に動かされていないのではないかと。幸福への愛という漠とした感情を苦労して分解しようとするたびに、坩堝の底に身体的快を常にみいだすであろう。もし金銭が快の交換物でも身体的苦を免れさせる手段でもないならば、金にがめつくことのない欲張りと、野心家は同様である。金銭が流通していないようなラケダイモン〔スパルタ〕の町では、彼も金を欲しがるまい。

(c)タキトゥスは言う。「休息はゲルマン人にとっては苦しい状態である。彼等は絶えず戦争を望む。そこで短期間名を挙げ、耕作よりも戦闘を好む」。

【訳注】

1)    バンタンはジャワ島西北にあり、当時は経済の要地であった町、現在は小村。




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2019/10/14 23:34 2019/10/14 23:34
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精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

 

第三部 第10章 貪欲について

 

 金銀は見て快い物質とみなされ得る。しかし、それを保有することで、こうした金属の輝きと美によって生まれる快しか望まないならば、欲張りは、国家に積まれた富を自由に眺めることで満足するであろう。ところで、このように眺めただけでは彼の情念は満足しないであろうから、どんな種類のものでも欲張りは、あらゆる快に交換できるものとしてか、赤貧につきもののあらゆる苦を免れさせるものとしてか、富を欲するに違いない。

この原理を立てることで私が言うのは、人間はその本性によって感官の快にしか感じないから、したがってこれらの快が彼の欲望の唯一の対象だということである。ぜいたく、立派な身なり、お祭り騒ぎと家の飾りへの情念は、それゆえ恋のまたは食の身体的欲求によって必然的に生み出される、はなばなしい情念である。実際、どんな現実的快が、このぜいたくとこの立派さとを快楽的な欲張りに得させるであろうか。もし彼が女たちを愛するならば彼女たちに気に入られる手段として、またその好意を手に入れる手段として、それらを考慮するのでなければ。または男たちに偉く思われ、報いがあると漠然と思わせることで、すべての苦を自分から遠ざけすべての快を自分の近くに集めるように彼等に強いる手段として考慮するのでなければ。

本来は貪欲の名に適さないこうした悦楽的な欲張りにおいては、それゆえ貪欲は苦の恐れと身体的快への愛との直接的結果である。しかし、まさにこの快への愛、またはまさにこの苦への恐れは、真の欲張りにおいても貪欲をひきおこせるのか、自分たちの金をけっして快に交換しないあの不幸な欲張り〔けち〕においても、と言われよう。彼等が必要品の欠乏のなかで生活を送り、自分や他人において、金の保有につきものの快を過大評価するのは、誰も望まないが誰も心配しない不幸を考えないようにするためである。

彼等の行いと動機との間にどんなに驚くべき矛盾がみいだされようとも、彼等に絶えず快を望ませつつ、常にそれを禁欲せざるを得ない原因を、私は発見するように努めよう。

私がはじめに観察するのは、こうした種類の貪欲の源は、赤貧の可能性と、それにつきものの禍への、過度で滑稽な心配にある、ということである。欲張りは、いたるところに危険をみ、近づく者すべてが自分に損を与えるのではないかと恐れ、たえずびくびくしながら生きている心気症患者にかなり似ている。

こうした種類の欲張りに最もふつうに出会うのは、赤貧の中で生まれた人々の間である。彼等は貧しさが不幸からお供に何を引き連れるかを、身を持って体験したのである。だから彼等の狂気は、この点では、富裕のなかで生まれた人々の貪欲よりも許されるべきであり、後者においては、ほとんどただけばけばしく悦楽的な貪欲しかみられない。

前者において、必要物を欠くのではないかという恐れからそれを禁欲することへと、どうしていつも強いられるかを示すために、赤貧の重荷におしひしがれて、彼等の一人がそれを軽くしようという企てを思いつくと想定しよう。その企てを思い描くと、希望がやってきて、貧困によってうちひしがれた彼の魂がただちに活気づいてくる。希望によって彼は活発になり、保護者達を探しに行き、後ろ盾の控えの間にへばりつき、大臣たちの奸策に巻き込まれ、ついには最も悲しい種類の生活に身を捧げ、ついに貧困から自分たちを守ってくれるなんらかの地位を得る。その状態に行き着いたら、彼は快だけを追求することになろうか。私の想定では、臆病で警戒的な性格の人にあっては、体験した禍の強い思い出があるので、はじめは禍を減らそうと望むにちがいなく、またこの理由で、貧しさを通じて、禁欲する習慣によって得たいまある必要物まで拒もうと決意するに違いない。一度この必要を越えれば、もしこのときこの人が三十五か四十歳ならば、各瞬間がその激しさを和らげられる快への愛が彼の心に以前ほど強く感じられないならば、そのとき彼は何をするであろうか。快においてより気難しく、もし彼が女たちを愛するならば、もっと美しく、その好意がもっと価値ある女たちを必要とするであろう。それゆえ自分の新たな好みを満足させるために新たな富を得ようと思うであろう。ところで、この獲得に彼がおくであろう期間において、年とともに増し私達の弱さの感情の結果とみなされ得る警戒と臆病とによって、富においては十分はけっして十分でないことが示されるならば、またもし彼の貪欲が快に対する彼の愛と釣り合っているならば、そのとき彼は異なる二つの引力に服することになろう。両方に従うためには、この人は快をあきらめず、自分が少なくともより大きな富の所有者になって、将来を心配せずに現在の快にまるごと専心できるようになるときに、享受を先送りしなければならないと、自分に証明するであろう。こうした新たな宝を蓄えることに費やすであろう新たな期間に、もし年のために快にすっかり感じなくなるならば、彼は生き方を変えるであろうか。新たな習慣を身につけることができないので貴重なものになった〔従来の〕習慣を捨てるであろうか。疑いなく否である。そして、自らの宝を眺め、富がその交換物である快の可能性に満足して、この人は、倦怠の身体的苦痛を避けるために、日常の仕事にすっかり身を委ねるであろう。老いてそういう欲張りになりさえするであろう。かき集める習慣が享受する欲望ともはや釣り合わないで、反対に、常に不足することを機械的に心配することで老いが支えられるであろうから、いっそうそうなのである。この章の結論は、赤貧につきものの禍についての過度で滑稽な心配が、若干の欲張りのふるまいと彼等を動かす動機との間に認められる外見上の矛盾の原因だということである。こうして常に快を願いながら、貪欲さによって彼等は常に快を禁欲することができるのである


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精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

 

第三部 第9章 情念の起原について

 

 この知識に高まるためには、二種類の情念を区別しなければならない。

自然によって直接に与えられる情念がある。ただ社会の設立のおかげで私達が持つ情念がある。異なるこの二種類の情念のどちらが他方を生み出したかを知るために、精神的に、世界の最初の日々に身を移してみよう。そこでは渇き、飢え、寒さ、暑さによって、自然が人間に彼等の欲求を知らせ、それらの欲求の満足や喪失に無数の快苦を結びつけることがみられよう。人間が快苦の印象を受け入れられることがみられよう。またいわば快への愛と苦への憎しみが生まれるのを。これが自然の手を出るときの人間である。

ところでこの状態では、羨み、自尊心、貪欲、野心は存在しなかった。身体的快苦だけをもっぱら感じ取って、私がいま名をあげた情念が私達にもたらすあの人為的なすべての快苦は知らなかった。それゆえこうした情念は自然によって直接に与えられるものではない。しかしそれらの実在は、社会の実在を前提し、まさにこれらの情念の隠れた芽が私達の中にあることを想定させる。だから、生まれたばかりの私達に自然は欲求しか与えないとしても、あの人為的な諸情念の起原を探求しなければならないのは、私達の欲求と最初の諸欲望のなかにであって、人為的情念は感じる能力の一つの発展でしかあり得ないのである。精神的世界においても自然的世界と同様に、神は存在するものすべてにおいてただ一つの原理しかおかなかったように思われる。いまあるもの、そして将来あるであろうものは、必然的発展にほかならない。

神は物質に、「我は汝に力を与える」と言った。ただちに、諸元素は、運動の諸法則に従って、しかし宇宙の荒れ野の中でさまよい混じり合い、千の奇怪な集合を形づくり、千のいろいろな混沌を生み出し、ついに最後に、いまや配列された宇宙がそこで想定される均衡と自然的秩序のなかに位置したのである。

同様に神は人間に、「我は汝に感性を与える」と言ったように思われる。「我が意志の盲目的な道具にして、我が意を知ることのできぬ汝が、知らずに我が意図すべてを果たすべきなのは、感性によってである。我は汝を、快と苦の管理のもとにおく。どちらも汝の思考、汝の行為を監視するであろう。汝の情念を生み出すであろう。汝の反感、好感、親切、激怒をひきおこすであろう。汝の欲望、心配、希望に火をつけるであろう。真理を示すであろう。誤りに突き落とすであろう。そして、道徳と立法についてのいろいろに不条理な無数の体系を生み出させたあげく、いつか単純な原理を発見させ、その展開に精神的世界の秩序と幸福とが結びつくことになろう」と。

実際、天が突如若干の人々に魂を入れると想定しよう。彼等の最初の仕事は自らの欲求を満たすことであろう。その後まもなく、自らが受け取る快苦の印象を叫びによって表現することを試みるであろう。こうした最初の叫びが彼等の最初の言語を形づくるであろうが、それは、若干の未開人の貧しい言語によって判断すれば、はじめはとても短いもので、こうした最初のいくつかの音に還元されるべきであった。人々が増えて地上に広がり始めたとき、また大洋が遠い岸辺にうちよせてはただちに中心に戻る波のように、数世代が地上に現れては諸々の生物が飲み込まれる淵に戻っていくとき、諸々の家族が互いにより近くなったとき、ある樹木の果実とかある女性の好意のような、同じものを所有することについての共通の欲望が、彼等のなかに、争いと闘いをひきおこすであろう。そこから怒りと復讐が生まれるであろう。血に厭き、永遠の心配のなかで生きるのが嫌になり、自然状態で持つが自分たちに有害なこの自由を少し失うことに同意したとき、そのとき彼等は互いに信約をつくるであろう。こうした信約が彼等の最初の法律になるであろう。法律がつくられると、若干の人々にその執行を課さねばなるまい。こうして最初の役人が生まれる。未開諸民族のこうした粗野な役人たちは、はじめ森に住むでいるであろう。森の動物を一部滅ぼしてしまい、食糧不足によって彼等は、家畜を育てることを学ぶであろう。これらの家畜が彼等の欲求を満たし、狩猟民族は牧畜民族へと変わるであろう。数世紀の後、牧畜民族が極度に増え、地上は同じ地域でより多数の住民の食糧を与えられず、人間の労働によって豊穣にされもしなかったとき、牧畜民族は消滅するであろうし、耕作民族に席を譲るであろう。飢えからの欲求が彼等に農業の技術を教え、すぐ後には土地を測って分割する技術を教えるであろう。この分割がなされると、各人にその所有権を保証しなければならない。そしてそこから一群の学問と法律とが生じる。土地は、その本性と耕作との違いによって、異なる果実をもたらすので、人々は互いに交換するであろうし、すべての商品を代表する一般的等価物を決めれば好都合と感ずるであろう。彼等はこのためになんらかの貝殻か金属かを選ぶであろう。社会がこの点までの完成度に至ると、そのとき人々の間の平等全体が破れるであろう。優者と劣者とが区別されるであろう。その時、私達が外的対象から受け取る身体的快苦の感覚を表現するためにつくられた「善」「悪」の語が、この感覚のどちらかをもたらし、富裕や赤貧のような、それを増やしたり減らしたりし得るすべてのものに一般的に広げられるであろう。そのとき富と名誉とは、それに付与される利点によって、人々の欲望の一般的対象になるであろう。そこからいろいろな統治形態にしたがって、犯罪的あるいは有徳な情念が生じるであろう。羨み、貪欲、自尊心、野心、祖国愛、栄光への情熱、大度、そして愛さえもそうであり、愛は一つの欲求としてだけ自然によって与えられるのだが、虚栄心と結びついて人為的な情念となるのであり、他の情念同様、身体的感性の一展開にほかなるまい。

この結論がどんなに確実であっても、それが出てくるもとの諸観念をはっきり把握する人々はごく少ない。しかも、私達の情念が本源的には身体的感性に源を持つと認めながらも、文明諸国民の現在の状態にあっては、こうした情念はそれを生み出した原因から独立して存在する、となおも信じられるかもしれない。それゆえ私は、身体的快苦の人為的快苦への変態をたどって、貪欲、野心、自尊心、友情のような、その対象が感官の快には最も属さないようにみえる情念において、しかしながら、私達が避け、あるいは求めているのは常に身体的快苦であることを、次に示そう


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2019/02/23 22:04 2019/02/23 22:04
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精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

 

第三部 第7章 分別くさい人々に対する情熱的な人々の精神的優位について

 

 成功するまでは大天才があらゆる分野で、分別くさい人々にほとんどいつも馬鹿扱いされるのは、分別くさい人々というのは偉大なことは何もできず、偉人が偉業をなすのに用いる方法があるのではと疑うことさえできないからである。

こうした理由であの偉人たちは、賛嘆をひきおこす前はいつも笑いをひきおこさざるを得ないのである。〔ペルシャ王〕ダレイオスが行った講和の提案に関して意見を述べるようアレクサンドロスに促されたパルメニオン1)はこう言った。「もし私がアレクサンドロスならば受け入れるでしょう」。勝利がこの君主のあきらかな大胆さを正当化する前には、パルメニオンの意見が、「そしてもし余がパルメニオンならばそうしよう」というアレクサンドロスの答えよりもマケドニア人に賢明と思えたということを、誰が疑おう。それゆえ明白に、もし偉大な行為によって、フィリッポスの息子〔アレクサンドロス〕が既にマケドニア人の尊敬を受けていたのでなければ、また彼等を異常な企てに慣れさせていたのでなければ、彼の答えは彼等には絶対に滑稽にみえたであろう。この英雄は自分の勇気と知識の優越について、この両性質のどちらもがペルシャ人のような軟弱な民族に対して与える利点について、内的感情を持っていたに違いない。そして最後に、彼はマケドニア人の性格と彼等の精神に対する自分の影響力について、したがってまた彼がその身振りや弁舌や目つきで、彼が自分自身を活気づける勇敢さを彼等にたやすく伝えられることを、知っていた。こうした内的感情のなかにも知識のなかにも、彼等の誰もその動機を探究しなかった。しかしこれらいろいろな動機が、栄光への強い渇望とあいまって、もっともなことながらパルメニオンにそうみえたよりも彼にはずっと確実なものと勝利を考えさせ、したがってまたより高尚な返答を吹き込んだに違いない。

チムールがオスマン帝国の軍勢が壊滅したばかりのスミルヌ2)の城壁の下に旗を立てたとき、彼は企ての難しさを感じていた。キリスト教ヨーロッパが絶えず補給できた場所を攻撃していることが、よくわかっていた。しかし、この企てに彼を駆り立てて、栄光への情念がそれを実行する手段を彼に提供した。彼は河川の淵を埋め、海とヨーロッパ勢に対して堤を築き、スミルナの突破口の上に勝利の旗を掲げ、驚く世界に対し、偉人には何も不可能ではないことを示す(a)。

リュクルゴスがラケダイモン〔スパルタ〕を英雄の強国にしようと思ったとき、知恵と呼ばれるものののろい、そして不確実な歩みにしたがって、そこに目に見えない変化によってそれが起こることを人はみなかった。この偉人が、徳の情念に燃えて感じていたのは、演説あるいは想定された神話によって、彼自身が熱を入れていた感情を同国民に吹き込めるということであった。熱の最初の瞬間を利用して、統治の体制を変え、この民族の習俗に独自の革命を起こさせるということであり、それは思慮の通常の方法では、長年続けることでしか実行できないような革命である。彼が感じ取ったのは、情念は、突然の噴火が河床を一度に変えるような火山に似ていることである。技術は新たな河床を穿ち、したがって巨大な時間と労働の後でしか川の向きを変えられないのだが。こうして彼はかつて抱かれたたぶん最も大胆な、また分別くさい人ならみな実行をやめるような企てにおいて成功するが、分別というこの資格は、強い情念に動かされることができず、それを吹き込む技術をいつも知らないことによるに過ぎない。

これらの情念は、熱狂に火をつける手段の正しい評価者なのだが、しばしばその使用人を持っており、それは分別くさい人々が、この点で人の心を知らないので、成功の前には、いつでもこどもっぽく滑稽だとみなしたものである。ペリクレスは、敵へと進み、自らの兵士たちをみな英雄に変えようと思い、暗い森の中に隠し四頭の馬車につながれた車の上に、極度に背の高い男を載せたが、彼は高価な外套で身を覆い、輝く長靴で足を飾り、まばゆい髪を頭にのせ、突如軍隊に現れ、その前をだっと通りながらこの将軍に叫ぶ、「ペリクレスよ、汝に勝利を約束する」。このときペリクレスが用いた方法がこのようなものである。

エバミノンダスは、ある神殿に足止めされていた軍を野戦に起たせ、テーベの守護神たちが、敵と戦うために翌日来るべく武装している、と兵士たちに確信させた。このときエバミノンダスがテーベ人たちの勇気を振るいたたせるのに用いた方法がこのようなものである。

最後にジシュカ3)は、死の床でもなお、彼を迫害したカトリックに対する最も激しい憎しみに動かされて、彼の死後ただちに自分の皮をはぎ、それで太鼓をつくるように命じ、それをならしてカトリックに対して歩むたびに勝利するであろうと約束し、成功によっていつも正当化されたが、この命令がそうしたものである。

それゆえわかるが、最も決定的で、偉大な結果を生み出すのに最も適した方法は、分別くさいと呼ばれる人々にはいつも未知で、情熱的な人々によってだけ気づかれ得るのであり、彼等は、あの英雄たちと同じ環境におかれたならば、同じ感情に動かされたであろう。

大コンデの名声に帰すべき敬意がなければ、何らかの記憶すべき言行によって卓越することになるであろう兵士たちの名を各々の連隊において登録させるという、この公がかたちづくった計画は、兵士たちにとっての競争心の芽とみなされるであろうか。この計画が実行されなかったことは、その有用性がほとんど知られなかったことを証明しないであろうか。著名なフォラール騎士4)のように、兵士に対する演説の力を、人は感じないであろうか。士官たちが結集させようとしても無駄であった若干の軍隊の遁走を目にして、将軍ヴァンドーム氏5)は逃走兵たちのただ中に乗り出し、士官たちに叫んだ。「兵士たちに任せよ。この軍隊が行って再結集すべきなのはここではない、あそこ(百歩離れた樹木を指し)だ」と。この言葉のまったくの見事さもまた、誰もが認める。彼はこの弁舌で、兵士たちにその勇気へのどんな疑いも垣間見せなかった。彼はこの方法によって、羞恥心と名誉の情念を彼等に目覚めさせたのであり、彼等はそれを彼の目になおも保てるものと信じたのである。それがこの敗走兵たちの足を止め、再結集して戦闘と勝利に導く、唯一の方法であった。

ところで誰が疑おうか。こうした弁舌が性格の表れであることを。また一般に、熱狂の火で魂を熱くするのに偉人たちが用いたすべての方法が、情念によって吹き込まれたものであることを。マケドニア人に対してより多くの自信と敬意を刻むために、アレクサンドロスが〔神〕ユピテル・ハモンの息子であると自称するのを正当化したであろうような、分別くさい人がいるか。ヌマがニンフのエジェリと秘かに交渉しているふりをすることを正当化したであろうような。ザモルクシス、ザレウコス、ムネヴェ6)が、ウェスタ、ミネルウァ、メルクリウスの霊感を受けたと自称することを。マリウスがよい冒険について口先女を自分の供に連れて行くのを。そして最後にデュノワ伯7)がイギリス勢に勝利するために、一人の少女を武装させたことを。

自分の思想を普通の思想の上に高める者はごく少ない。自分が考えていることを敢て実行し言う者はさらに少ない(b)。もし分別くさい人々がこうした方法を用いようと思っても、ある種の機転と情念についてのある種の認識がないので、それを巧みに適用することはけっしてできないであろう。彼等は踏み固められた道を行くようにできている。そこから離れると道に迷ってしまう。良識ある人は、怠惰が性格を支配する人である。第一線にあって、世界を動かすばねを偉人に作らせたり、現在のなかに将来の出来事の種を撒かせたりするような、あの活発な魂に恵まれた人ではない。だから将来という本は、情熱的で栄光に飢えた人にだけ開かれる。

マラトン〔の戦い〕の日に、ギリシャ人でテミストクレスだけがサラミスの戦いを予見し、アテネ人を航海に訓練させて、勝利を準備するすべを知っていた。

啓蒙された人というより分別くさい人である監察官カトーが、元老院全体とともに、カルタゴの破壊に固執したとき、なぜスキピオは一人この町の破壊に反対したのか。彼一人がカルタゴを、ローマにふさわしい好敵手として、またイタリアに満ち溢れようとしていた悪徳と腐敗の急流に抗い得る防波堤としてみなしたからである。歴史の政治的研究に専心し、名誉をつまり栄光への情念によってだけ可能なあの疲れる注意を習慣づけ、彼はこの方法によって、一種の予見者に至ったのである。だから彼は、この世界の(あるじ)がすべての王国のがれきの上に自らの王座を高めたまさにそのとき、落ち込もうとしているすべての不幸を予言したのであるだから彼は、マリウスやスラのような〔国家を内から滅ぼす〕者が四方から生まれるのをみていたのであるだから彼は、ローマ人がいたるところで、勝利の桂冠しか認めず勝鬨しか聞かなかったときに、〔マリウスやスラによって乱発された政敵〕追放の忌まわしい一覧表が公表されるのを既に耳にしたのである水夫は、穏やかな海を見て、西風が優しくを膨らませ海面にさざ波を立てるのを身、能天気な喜びに身を委ねても、注意深い水先案内人は、水平線の端に、間もなく海をさかまかせるはずの突風が上がるのを見るときがあるが、この民族はこの〔カルタゴに勝った〕とき、こうした水夫達に比べられるものであった。

ローマの元老院がスキピオの勧告を重視しなかったのは、過去と現在の知識によって将来の知識を得る人々がほとんどいないからである(c)。柏の木が成長しても枯れても、その陰に這う短命の虫には感じ取れないように、帝国は大部分の人には一種の不動状態で現れ、彼等は予見的な配慮を免れさせると思い込ませる自らの怠惰には好都合であるだけにいっそう、この不動性という外観に好んでしがみつく。

精神においても自然においてと同様である。民衆は海はいつでも海底に結びついていると思うとき、賢者は海が順々に広大な諸国を覆い浸し、車が最近通っていた平原を舟が行きかうのを〔あり得る将来として〕みてとる。民衆が山を雲の上に等しい高さの頂を保つとみるとき、賢者はその誇らしげな頂が、幾世記ものあいだに絶えず形を変え、谷に崩れてそれをその土で埋めるのをみてとる。しかし、精神的世界を自然的世界と同様に、継続的で永続的な環境を再生のなかにみて、諸国家の転覆の諸々の遠因を認められるのは、省察に慣れた人々だけである。一寸先の闇の迷路を見通すのは、情念の鷲の目である。天が晴れ気が澄んでいるとき、都会人は嵐を予見しない。注意深い耕作者の利害関心ある目が見て恐れるのは、かすかな蒸気が地上から昇り、上空で凝縮し、黒雲で覆い、重なり合ったその横腹が間もなく雷光と雹を吐き出し、作物を荒らすであろうことである。

各々の情念を個別に検討されたい。みてとれるであろうことは、すべてが常に、その探求の対象に関してはとても啓蒙されていることである。情念だけが時折、無知のために偶然に帰せられる因果関係を認められるということである。したがって情念だけが、各々の発見が必然的にその国境を縮めるこの偶然の帝国を狭くし、またたぶんいつかは完全に滅ぼすことができる、ということである。

 貪欲や恋といった情念が把握させ遂行させる観念や行動が一般にはほとんど評価されないのは、それらの観念や行動がしばしば精神の多くの組み合わせを要求しないからではない。どちらも公衆にはどうでもよいか有害でさえあるかであって、公衆は、第二部で私が証明したように、自分に有用な行動や観念にしか、有徳とか精神的とかの称号を与えない。ところで、栄光への愛は、すべての情念の中で、この種の行動と観念とを常に吹き込める唯一のものである。東洋のある王が次のように叫んだとき、この情念だけが彼を燃え立たせていた。「奴隷のような民衆に命令する君主に禍あれ。ああ! 神々と英雄たちがかくも渇望する甘美なる正しい賞賛は、彼等のためにつくられてはいない」。彼はさらに言う。「ああ、とても卑しくて、自らの(あるじ)公然非難する権利った民衆よ、汝らはその主を賞賛する権利も失ったのだ奴隷の称賛は疑わしい奴隷を統治する者は、自分が評価に値するか軽蔑に値するか常に知らない! しかしてこの不確実の刑に委ねられて生きることは、高貴な魂にとっては何という責め苦か」

こうした感情は、栄光に対する情念を常に前提する。この情念は、あらゆる分野の天分と才能ある人々の魂である。彼等が時折人間精神にふさわしい唯一の仕事として自らの技芸に対して熱狂するのは、この欲望のためである。この意見によって彼等は分別くさい人々によって馬鹿扱いされるが、啓蒙された人によってはけっしてそう考えられないのであり、啓蒙された人は、彼等の狂態の原因のなかに、彼等の才能と成功の原因を認めるのである。

本章の結論は、あの分別くさい人々、凡庸な人々のあの偶像は、情熱的な人々に常にとても劣っているということである。私達を怠惰からひきぬき、精神の優秀さが結びついているあの連続的な注意力を唯一私達に与えられるのは、強い情念であるということである。この真理を確認するために残っているのは、著名な人々の列に入れられるのがもっともな人々でさえ、もはや情念の火に支えられていないときは、最も凡庸な人々の部類に舞い戻ることを次章で示すことである。

 

 

【原注】

(a)グスタフ〔・アドルフ〕についても同じことを言おう。軍と砲の先頭にいて、冬が海面を凍らせる時を利用し、この英雄は凍った海を渡ってゼーラントに下る。彼の士官同様、彼が下りていくのにたやすく対抗できることはわかっていた。しかし彼等以上にわかっていたのは、賢明な大胆さはほとんどいつも、通常の人々の予見の裏をかくということであった。そして至上の大胆さが至上の思慮である場合がある、ということであった。

(b)しかしながらそういう人々だけが人間精神を進ませる。少しでも失敗したら民衆の幸不幸に影響し得るような統治の問題でなく、学問だけの問題であるなら、天分ある人々の誤りでさえ公衆の賛辞と感謝に値する。なぜなら学門においては、無数の人々が間違うことが、他の人がもはや間違わないためには必要だからである。次のマルティアリス8)の詩は彼等に適用できる。

間違エナカッタラ、モットデキナカッタ。

(c)しばしば現在の小さな善で、その中に将来の大きな悪を発見する高尚な天才を、盲目的に国家の敵扱いする国民を酔わすのに十分である。その天才に「不満分子」という汚名を浴びせて悪徳を罰する美徳だと想像するのである。しかしてそれは実に多く、才気を嘲笑する愚劣さに過ぎない。

 

 

【訳注】

1)    パルメニオン(Parmenion,c.BC.400-330)はマケドニアの貴族でフィリッポス二世の将軍。アレクサンドロス大王の東征に副指揮官として従軍し戦功。彼の子フィロタスの陰謀事件から大王と不和になり、殺された。

2)    スミルヌは現イズミル(Izmir)でエーゲ海に面するトルコの町。1330年からトルコ領、1344年からロドスのフランス騎士団が領有したが、1402年にチムールはこの地を奪った。(1424年にオスマン帝国が奪還した。)

3)    ジシュカ(Johann Ziska,c.1370-1424)はベーメンのフス派の指導者。フスの火刑(1415)後、皇帝軍に数度勝利した。

4)    フォラール(Jean-Charles Folard,1669-1752)はフランスの将校。

5)    ヴァンドーム(Vendôme)はフランスの貴族だが、Louis Joseph,1654-1712か、その弟Phillippe,1655-1727か。

6)    ザレウコス(Zaleukos)は古代(前七世紀半ば)ギリシャ(南イタリア)の立法者。

7)    デュノワ(Dunois,c.1403-68)はフランスの軍人。英仏百年戦争ではオルレアンを固守し、ジャンヌ・ダルクを助けて各地でイギリス軍を破り、フランスの勝利に導いた。

マルティアリス(Marcus Valerius Martialis,c.40-c.104)はローマの風刺詩人。


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2018/09/03 18:31 2018/09/03 18:31
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精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

 

第三部 第6章 情念の力について

 

添付画像
 精神における情念は、自然における運動にあたる。すべてを創り、無にし、保ち、活気づけ、それなしではすべてが死んでいる。精神的世界を生き生きさせるのもまた情念である。無人の太陽に船を導くのは貪欲であり、谷を埋め、山を均し、岩山に道を開き、メンフィスのピラミッドを建て、モイリス湖を穿ち1)、ロドスの巨塔を立てる2)のは、自尊心である。恋が最初の画家に絵筆をとらせたという3)。啓示がいきわたらなかった国では、若い夫の死を嘆く未亡人の苦しみをなだめるために、魂の不死の体系を発見させたのは、やはり愛であった。人類の恩人たちを神々の列においたのは感謝の熱狂であり、人類は偽りの宗教と迷信をも発明し、それらがみな、愛や感謝と同様に高貴な情念の中から、その源を得たのではない。

それゆえ、技芸の発明と驚異とは強い情念のおかげである。それゆえ強い情念は、精神の生産的な芽として、また人々を偉大な行動に促すばねとしてみなされなければならない。しかし先に進む前に、私はこの「強い情念」という語に付与する観念を定めなければならない。大部分の人々が話してもわかり合わないのは、用いなければならない語の曖昧さのためである。バベルの塔4)で働いた奇跡の延長はこの原因に帰され得る(a)。

「強い情念」というこの語で私が解するのは、その対象が私達の幸福にとても必要なので、それが得られなければ生きるのが耐え難いような対象への情念である。ウマルが次のように言うとき、情念について抱いていた観念はそのようなものである。「汝が誰であれ、自由を愛し、財産なく富み、臣下なく権勢を保ち、(あるじ)なしの臣下であることを欲する汝は、敢て死を軽視せよそうすれば王たちも汝の前では震え、汝だけが誰も恐れぬであろう」。

実際、この程度まで強くなった情念だけが、最も偉大な行動を実行し、危険も苦痛も死も天さえもものともしないことができるのである。

フィリッポスの将軍ディカイアルコスは、彼の軍の前に二つの祭壇を立てるが、一つは不敬への、もう一つは不正への祭壇であり、そこに犠牲を捧げてキュクラデスに向かって進む。

カエサル暗殺の数日前、高貴な自尊心の情念と結びついた夫婦愛で、ポルキアは自分の足を刺してその傷を夫に見せて言う。「ブルートゥス、あなたは嘘をついて私に大きな目論見を隠しています。私は今まではどんな慎みのない質問もしませんでした。けれども私達女性はそれ自体としては弱くても、賢く有徳な男性との交渉で強くなること、自分がカトーの娘でブルートゥスの妻であることを、私は知っています。しかし臆病な私の愛が自分の弱さを用心させていました。あなたは私の勇気の試みを目にしています。いまや私は苦しみの試練を行ったのだから、あなたの秘密に値するかどうか判断してください」。5)

責め苦のただ中で、ピュタゴラス派の女性ティミシャ6)が、自派の秘密を暴露することに身をさらさないために、自分の舌をかみ切ることができたのは、名誉の情念と哲学的狂信だけであった。

まだ若いカトーが家庭教師に連れられてスラの邸宅にのぼり、処刑者たちの血染めの頭を見て、これほど多くのローマ人を暗殺した怪物の名を問う。「スラだ」と答えを得る。「なんだって。スラが彼等を殺戮し、そしてスラはまだ生きているのか」。スラの名前だけで、我が市民たちの腕から武器が落ちてしまいます、とまた答えがある。「ああローマよ!」とそこでカトーは叫ぶ。「なんとお前の運命は嘆かわしいことか、もしこの広い城壁の中に、一人の有徳なおとなもおらず、またもし専制に武器を向けられるのが弱いこども一人しかいないなら!」この言葉で家庭教師に向かって言う。「お前の剣をくれ。僕の服で隠そう。スラに近づいて殺してしまおう。カトーは生き、ローマはまた自由になる」(b)。

どんな風土で、祖国へのこの有徳な愛は英雄的行動を実行しなかったであろうか。中国である皇帝は、一市民の勝利の武器に追われて、この国で、息子が母の命令に対して持つ迷信的敬意を利用して、この市民の武装解除を強いようとする。この母に向かって皇帝の士官が遣わされて来て、剣を手に、彼女は死ぬか従うかの選択しかない、と言う。彼女は苦笑して答える。「人民が服従し、王が人民を幸せにすることを約束し合う、人民と君主とを結びつける、暗黙の、しかし神聖な信約を私が無視して、お前の(あるじ)が喜ぶと思うのか。彼が最初にこの信約を侵害した。暴君の命令の卑しい執行者よ、こうした場合に自分の祖国に何を負っているかを一人の女から学べ」。この言葉で士官の手から剣を奪って我が身を刺して言う。「奴隷よ、もしもまだ幾分かの徳が残っているなら、この血染めの剣を我が息子に届けよ。自分の国民の仇を討ち暴君を罰するように彼に言え。彼には私のために恐れることはもう何もなく、策することももう何もない。彼は今は自由に有徳になれる」(c)。

もし高貴な自尊心、祖国愛と栄光への情念〔情熱〕によって、公民が、これほど勇敢な行為を決意するならば、技芸において名を挙げたい者、キケロが「平和的な英雄」と呼んだ者に、どれだけの粘り強さとどれだけの力を吹き込むことであろうか。栄光への欲望がコルドリエ〔山脈?〕の凍った頂の上で、雪と霧のただ中で、天文学者の望遠鏡を傾かせる。植物を採取するために、植物学者をがけっぷちに導く。それがかつては、学問を愛好する若者を、エジプトへ、エチオピアへ、そしてインドまで導き、そこで最も有名な哲学者たちに会い、彼等との会話からその学説の原理を汲もうとさせた。

まさにこの情念は、デモステネスにどれだけの影響力を持ったであろうか。自分の弁舌を完全にするために、彼は海辺に立ち、口を砂だらけにしながらも、荒れ狂う波に毎日演説したのである! まさにこの栄光への欲望のため、ピュタゴラス派の若者たちは、瞑想と省察の習慣をつけ、三年間の沈黙を課せられたのである。このためデモクリトス(d)は世間の娯楽から身を引いて墓地にこもり、発見が常に困難で人々から常にほとんど評価されないあの正確な真理を求めようとしたのである。このため最後に、哲学にすっかり身を捧げるため、ヘラクレイトスは、長子権によって与えられるはずのエフェソスの王座(e)を弟に譲る決心をしたのである。自分の力をすべて保つために体育家は恋の快楽を自ら奪う。このためまた古代の若干の聖職者たちは、より褒められるものになるという望みで、まさにこの快楽の断念を強いられたが、その際しばしばボワンダン7)がおもしろく言ったように、それによって得る絶え間ない誘惑以外に、彼等の禁欲の報いはないことのほうが多い。

私が示したのは、地上で私達が賞賛するほとんどすべての対象が情念のおかげであるということである。このために私達は危険、苦痛、死を冒し、最も大胆な決心もするということである。

いまや私が証明したいのは、微妙な場合に、情念だけが偉人の助けに飛んできて、最善の言行を彼等に吹き込むことがある、ということである。

この件では、ティチノ8)の戦いの日の、兵士たちへのハンニバルの有名な短い演説を思い出されたい。ローマ人への憎しみと栄光への情念だけが、それを吹き込むことができたと感じられよう。彼は言った。「戦友たちよ、天が私に勝利を告げている。身震いするのは諸君でなくローマ人のほうだ。この戦場に目を向けよ。ここには卑怯者の逃げ場はない。全滅させるか、さもなければ負けるかだ。勝利のこれ以上確実な保証があるか。神々の庇護のこれ以上明らかなしるしがあるか。神々は我々を、勝利と死のはざまにおいたのだ」。

まさにこの情念がスラを動かしたことを、誰が疑えよう。マルス人9)の国での新たな軍の招集をしに行くために護衛をカッシウスに求められたとき、彼は答えた。「もし君が敵を恐れているなら、護衛として私の父、兄弟、親類、友達を受け取れ。彼等は暴君たちによって殺戮され、復讐を叫び、それを君に待っている」。

戦いの疲れにうんざりしたラケダイモン〔スパルタ〕人たちが、自分たちを軍務から解くようにアレクサンドロスに頼むとき、この英雄に次の誇り高いこたえを告げさせるのは自尊心と栄光への愛である。「行け、恩知らずども。去れ、腰抜けども。余はお前たちなしで世界を征服する。男たちがいるところではどこでも、アレクサンドロスは家臣と兵士とをみつけるだろう」。

こうした弁舌は情熱的な人々によっていつも発せられる。才気そのものもこうした場合、感情を補うことはできない。体験しない情念の言葉はいつも知られない。

そのうえ、情念が精神の産出的な芽とみなされなければならないのは、雄弁のような一技術においてではなく、すべての分野においてである。情念は、私達の観念の中で絶えず醗酵しつつあり、弱い魂の中では不毛で、石の上に落ちた種に似たような、まさにそのような観念を私達の中に産む。

情念が、私達の注意を私達の欲望の対象へと強く定め、他人には知られない観点からそれを考察させる。したがって情念が、あの大胆な企てを英雄に思いつかせ実行させるのであり、それは、成功して英雄の知恵が証明される前は、愚かにみえるし、また実際大衆にはそうみえざるを得ない。

リシュリュー枢機卿は言う。だから弱い魂は最も単純な企ても不可能と思うが、最も強い魂には最大の企てもたやすくみえる。後者にあっては山々も低くなるが、前者の目には丘も山脈に姿を変える、と。

実際、分別ある人がほとんどいつもごっちゃにする、とてつもないものと不可能なものとを区別することを教えるのは、良識よりも啓蒙されている強い情念だけである。なぜなら、強い情念に動かされなければ、あの分別ある人々は凡庸な人々でしかないからである。情熱的な人に他の人々に対して優越を感じさせ、実際に偉人を生めるのは大きな情念〔情熱〕しかないことを示すために、私が〔次章で〕証明する命題がこれである。

 

【原注】

(a)たとえば「赤」という語で、真紅から肌色まで理解するなら、一人は真紅しか、もう一人は肌色しか見たことがない二人を想定しよう。一方は当然にも赤は鮮やかな色であると言おうし、他方は逆に、それは中間色だと言おう。同じ理由で、理解し合わずに「…しよう」という語を二人が発せられるが、なぜなら、最も弱い程度の意志から、すべての障害にうちかつあの実効的な意志まで表現するのに、私達にはこの語しかないからである。「情念」という語も精神という語と同様である。発する人にしたがって意味を変える。ほとんど才気のない人々で構成されている社会で凡庸とみなされる人は確実に馬鹿である。最上級の人々の間で凡庸な人として通る者についてそうではない。彼の社会の選択は、通常の人々に対する彼の優越を証明している。他のすべての階級で一番であるのは凡庸な修辞家である。

(b)まさにこのカトーは、ウティカに退いた時、ユピテル、ハムモーン10)の神託に諮るように促した人々にこう答えた。「神託は女たちや卑怯者や無知な者たちに委ねよう。勇気ある人間は、神々とは独立に、自分自身で生き死ぬすべを知っている。自分の運命を知っていようといまいと、等しくその前に歩み出る」。

海賊に拉致されたカエサルもその大胆さを保ち、上陸したら死刑にすると彼等を脅す。

(c)義務の観念は同様にアブダラ11)の母を動かしたが、その息子は友達に捨てられ、ある城に攻囲され、シリア人たちが提示する名誉ある斬首を受け入れるように促され、取るべき方策を図るために母のところに行き、次の答えを受け取った。「息子よ、ウマイヤ家に敵対して武器をとったとき、正義と徳の方策をとっていると思ったのか」。「はい」と彼は答えた。彼女は答えて言った。「それなら、何を考えることがある。恐れに降参するのは腰抜けだと知らないのか。ウマイヤ家の人々に軽蔑され、命か義務かを選ばなければならなくしてお前が選んだのは命のほうだと言われたいのか」。

まさにこの栄光への情念によるものとして、装備が悪く寒さに震えるローマ軍は、潰走せんとしたとき、セプティムス・セウェルス12)の救援に、哲学者アンティステネス13)を伴ったが、彼は軍の前で身一つになり、雪の中に身を投げ、そしてこの行動によって、ばらばらの軍団をその義務に立ち戻られた。

ある日トラセアス14)は〔ローマ皇帝〕ネロに少しは服従するように勧められた。彼は言った。「なに! 生存を何日か伸ばすために、そこまで身を落とすだろうか。いや。死は借財返済だ。自由は自由人として完済したいので、奴隷として払いたくはない」。

興奮したウェスパシアヌス15)がへルヴィディウス16)を殺すと脅したとき、次の返答を受けた。「自分は不死だとでも言いましたか。あなたは私を殺して暴君の務めを果たすがよい。私は公民として震えずにそれを受ける」。

(d)デモクリトスは金持ちの生まれであったが、才気を軽蔑してよい、名誉ある愚かさの中で生きてよい、とは思わなかった。

(e)ケーンの僭主の息子ミュソン17)は、同様に、父の王権を放棄した。そして一切の責務を離れ、人跡稀な地にひきこもり、誰とも話さずに深い反省で身を養った。

 

 

【訳注】

1)    モイリス湖は古代エジプトの湖。その開鑿については、ヘロドトス『歴史』第二巻第101および149-150節参照。

2)    ロドスはエーゲ海の島。前三世紀にそこに立てられた太陽神をかたどる青銅の巨像は古代「世界七不思議」の一つに数えられた。約半世紀後に地震で崩れ、672年に最終的に破壊された。

3)    プリニウス『博物誌』第35編第43章第節。

4)    「創世記」(111-9)。

5)    プルタルコス『対比列伝』ブルートゥス編第13節。

6)    ティミシャ(Timicha)は不詳。

7)    ボワンダン(Nicola Boindin,1676-1751)はフランスの文芸家。

8)    ティチノ(原文ではTesinだが仏語では普通Tessin伊語でTicino)はスイスに発し、ロンバルディア平原を通ってポー川に注ぐ川。第二次ポエニ戦争のときその岸でカルタゴのハンニバルがローマのスキピオを破った。

9)    1世紀にローマ人に敗れたゲルマン民族。

10)  ハムモーン(またはアムモーン)はエジプト人の神。神託で名高い。ギリシャ人はゼウス(ローマ人のユピテル)と同一視した。

11)  ウマイヤ家の王族の殺戮に加わって甥によるアッバース朝創設を助け、その死後はカリフになったが、755年に殺された。

12)  セウェルス(Lucius Septimius Severus,146-211)はローマ皇帝(193-211)。しばしば東方パルティアを征し、ブリタニアに赴いてカレドニア進出を企てたが成功しなかった。

13)  アンティオコスは犬儒派の哲学者(-216)。カラカラ帝の命により死。

14)  トラセアス(Lucius Thraseas, ?-66)は古代ローマの元老院議員。ネロの専制化にただ一人反対した。

15)  ウェスパシアヌス(Vespasianus,9-79)はローマ皇帝(65-79)。ネロ死後に軍隊に推されて即位。

16)  ヘルウィディウス(Prisus Helvidius)は古代ローマの元老院議員。

ミュソンは「ギリシャ七賢人」の一人。ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシャ哲学者列伝』第一巻第九章に伝記あり。


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精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

 

第三部 第5章 私達の魂に働きかける諸力について

 

 これらの力が何であるかを解明できるのは、経験によってだけである。経験の教えるところでは、怠惰は人間に本性的である。注意は人間を疲れさせ、苦しめる(a)。諸物体が〔引力で物体間の〕中心に引かれるように、人間は絶えず休息へと引かれる。絶えずこの中心へと引き寄せられ、もしも各瞬間に次の二種類の力によって跳ね返されなければ、そこにかたくくっついたままであろう。その二種類の力が、怠惰と惰性の力に対して均衡するのであり、その一つは強い情念によって、もう一つは退屈への嫌悪によって人間に伝えられる。

退屈は、世界中で、想像以上に一般的で強力なばねである。すべての苦しみの中で、退屈は異議なく最小のものである。しかし結局一つの苦しみではある。幸福への欲望によって、私達は常に、快楽の欠如を一つの悪とみなすであろう。身体的欲求の満足に常に付着する強い諸々の快楽間のなくせない隙間を、苦しいものでないときには常に快いあの感覚のいくつかによって埋めたいと、私達は願うであろう。したがって私達は、常に新たな印象によって、自分の実在を各瞬間に告げられることを望みたいであろう。こうした告知の各々が私達に一つの快楽だからである。だから未開人は自分の欲求を満たしてしまうと川辺に駆け付けるが、そこでは互いに押し合う波がすばやく継起して、各瞬間に彼に新たな印象を与えるのである。だから私達は、止まっている対象よりも動いている対象を好んで見るのである。だからことわざに「火は仲間をつくる」、すなわち私達を退屈からひきだすというのである。

部分的に、人間精神の可変性と改善能力との原理を含むのは、〔心を〕動かされたいというこの欲求であり、また印象の不在が魂に生み出す一種の不安である。そしてこれが、人間をあらゆる意味で無理やり興奮させ、無数の時代の革命の後、学芸をつくらせ改善させ、最後には趣味の堕落をもたらすことになるのである(b)。

実際、もし印象が強いほど快いのならば、またもし同じ印象の持続がその生気を弱めるならば、それゆえ私達は、驚きの快を魂に生み出すあの新しい印象を渇望せざるを得ない。それゆえ、私達を喜ばせ私達にこの種の印象をかきたてようと熱心な芸術家たちは、部分的に美の組み合わせを汲みつくした後で、私達が美よりも好む独特なものをそれにかえるが、なぜならそれのほうがより新しい、したがってまたより強い印象を私達に与えるからである。ここに、文明諸国民における、趣味の堕落の原因がある。

退屈への嫌悪が私達になし得ることのすべてを、また何が時折この原理の活動であるかをさらによりよく知るために(c)、人々を観察者の目で見よう。感じ取れるであろうことは、彼等の大部分を動かし考えさせるのが、退屈への恐れであることである。強すぎる、したがってまた不快な印象を受ける危険を冒しても、人々が自分を強く動かせるものすべてを熱心に求めるのは、退屈を免れるためであることである。民衆をグレーヴ広場1)に、社交界の人々を劇場に走らせるのは、この欲望だということである。陰気な献身において、また痛悔の厳格な実践においてまで、しばしば老婦人の退屈の薬を求めさせるのは、まさにこの動機であることである。なぜなら、あらゆる種類の手段によって、罪人を自らのところに連れ戻そうと努める神は、ふつう、老婦人に対して、退屈という薬を用いるからである。

しかし、退屈が最大の役割を演ずるのは、特に習俗によってであれ、統治形態によってであれ、偉大な情念が鉄鎖につながれている時代においてである。そのとき退屈は普遍的な動因となる。

宮廷のなか、玉座のまわりでは、暇な宮廷人、卑小な野心家をつくり、彼等に卑小な欲望を把握させ、彼等の卑小な情念にお似合いの卑小な地位を得るために、卑小な策謀、卑小な陰謀、卑小な犯罪を起こさせるのは、最小程度の野心に加わった退屈への恐れである。それはセイアヌス2)の徒はつくるがオクタウィアヌスのような人々はつくらない。しかしその他の点では、実際尊大になる特権を享受できるあの地位に上るにはそれで十分だが、そこで退屈から免れようと思っても無駄である。

私達の魂に働きかける、活発な力と惰性の力とは、敢て言えば、そうしたものである。一般に自分が骨を折って動かずに動かされたいと望むのは、この二つの力に従うためである。この理由によって私達は、骨を折って学ぶことなしにすべてを知りたく思うのである。このため、あらゆる場合に検討の疲れを課すような理性よりも世論に従順になり、人々は示される真偽すべての観念を鵜呑みにして世間にはいっていくのである(d)。このため最後に、ある敵は知恵にある時は偏見の波で運ばれ、偶然によって利巧にも馬鹿にもなり、世論の奴隷は、真理を主張しようと誤謬を言い張ろうと、賢人からみればどちらも分別を欠いている。示される色をでたらめに名指す盲人のようなものである。

それゆえ、魂にその運動を伝え、魂が本性的に持っている休息への傾向を奪い、魂が常に屈しようとするあの惰性の力を克服させるものは、情念と退屈への嫌悪であることがわかる。

自然学においてと同様道徳学においてもこの命題がどんなに確実にみえようとも、その意見を確立しなければならないのは事実に基づいてであり、私は次の諸章において、実例を通じて、あの勇敢な行動を実践させ、あらゆる時代の驚きと賛嘆であるあの偉大な観念を把握させるのは、もっぱら強い情念であることを証明しよう。

 

【原注】

(a)ホッテントットは推論することも思考することも欲さない。「考えることは人生の禍である」と彼等は言う。なんと多くのホッテントットが私達のなかにもいることか?

この人々は怠惰にすっかり身を委ねている。あらゆる種類の配慮と仕事とを取り除くために、彼等は絶対になしで済ませられるすべてのものを断つ。カリブ人も考えることと働くことに対して同じ恐れを抱く。彼等はカッサバを作る、あるいは生計を立てていくくらいならば、むしろ飢え死にするままになるであろう。彼等の妻がすべてを行う。彼等は一日おきにだけ二時間土地で働く。残りの時間はハンモックで夢うつつで過ごす。彼等のベットを買おうとしたらどうか。朝安値で売る。晩それが必要になろうと考える苦労をしないのである。

(b)世界の古さについて判断できるのは、たぶん、人間精神ののろい歩みを、学芸がいまある完全性の状態と比べることによってである。この計画に基づいて、現在まで与えられたのと少なくとも同じくらい巧みな年代学の新体系がつくられよう。しかしこの計画が実行されるには、企てる者の側に精神のかなりな繊細さと賢明さとが求められよう。

(c)退屈は確かにふつうとても創造的ではない。退屈というばねは確かに、私達が偉大な企てを実行するのにまた特に私達が偉大な才能を獲得するのに十分力強くはない。退屈はリュクルゴス、ペロピダス3)、ホメロス、アルキメデス、ミルトン〔のような偉人〕を生み出さない。偉人に不足するのは退屈が欠けているからでないと確言できる。しかしながらこの〔退屈という〕ばねはしばしば大きな結果をもたらす。ときおり君主たちを武装させ、戦闘のなかに連れ出すには、それで十分である。それが征服者たちをつくることがある。戦争が、習慣によって必要とされる仕事になるかもしれない。カール12世は、愛欲と食欲の快に常に無感覚であった唯一の英雄であるが、たぶん部分的にこの動機に動かされていた。しかし、退屈がこの種の英雄を作り得るとしても、それはカエサルやクロンウェル〔のような種類の英雄〕にはならないであろう。王座から彼等を隔てる空間を突破するのに必要な、精神と才能の努力をなさせるには、大きな情熱が必要であった。

(d)人々の軽信は部分的に、怠惰の結果である。人には不条理な事柄を信じる習慣がある。その偽りを疑いが、そうとすっかり得心するには、検討の疲労に身をさらさねばなるまい。それは省きたいのであり、検討するよりも信じることを好むのである。ところで、魂がそのような状況にあれば、ある意見が偽りであると説得する証拠は、いつでも不十分にみえる。そのときには、信をおかれないような推論も滑稽話もない。私はただ、ローマ人マリーニ4)による、トンキンからの報告の一例だけをひこう。この著者は言う。「トンキン人に宗教を与えようとされた。トンキンでは、ティクサと呼ばれるラマ哲学の宗教が選ばれた。この宗教に与えられ彼等が信じる滑稽話の源は以下の通りである」。

「ある日神ティクサの母は、白い象が彼女の口から不可思議な仕方で生まれ、彼女の左脇から出て来るのを夢に見た。夢が現実となり、彼女はティクサを懐妊する。生まれるや否や彼は自分の母を死なせる。七歳のとき、一つの指で天を、別の指で地をさす。天上天下唯我独尊であることを光栄とする。17歳で三人の女と結婚する。19歳で妻たちと息子を捨て、山にひきこもり、アララとカララと呼ばれる二人の悪魔が彼を主として仕える。続いて民衆の前に現れ、博士としてでなく、塔または偶像という資格で受け入れられる。二万人の弟子を持つが、そのうち五百人を選び、さらに百人に、続いて十人に縮めて十大弟子と呼ぶ。これがトンキン人に語られることであり、彼等が信じていることである。耳をかさない伝統によって、この十大弟子は彼の友であり、うちあけ相手であり、彼が欺かなかったのは彼等だけであると告げられはしたが、自らの教理を49年間説いた後、終わりが近いと感じて、弟子すべてを集めてこう言った。『私はきょうまで汝等を欺いてきた。寓話しか語ってこなかった。汝等に教えられる唯一の真理は、一切は無から出て無に帰らねばならないということだ。しかしながら私は汝等が秘密を守り、外面的には私の宗教に従うことを勧告する。それだけが諸々の民を汝等に依存させておく方法だ』。死の床でのティクサのこの信仰告白はトンキンでかなり一般的に知られるが、しかしながらこの詐欺師の祭祀は存続する。習慣のままに信じていることを人々は好んで信じるからである。怠惰が常に証明力を与える若干のスコラ的些末事は、ティクサの弟子たちに、この告白に関する雲を晴らすのに、またトンキン人たちを彼等の信仰に保つのに十分であった。まさにこれらの弟子たちは、このティクサの生涯と教理に関して五千巻を書いた」。


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【訳注】

1)    グレーヴ広場はパリ中央、セーヌ川沿いにある(現コンコルド広場)。当時はここで公開処刑が行われていた。

2)    セイアヌス(Seianus,BC.208-16-AD.31)は古代ローマの政治家。ティベリウス帝に寵愛され出世したが、種々の陰謀をめぐらせて発覚、処刑された。

3)    ペロピダス(Pelopidas,BC.410c-364)は古代ギリシャ、テーバイの将軍。エバミノンダスとともにスパルタを破った。

マリーニ(Giovanni Fillipo de Marini,1608-82)はイタリアのイエズス会宣教師。インド、マカオに渡り、トンキン、安南の布教状態について著述し、その地で没した。



仲島先生の本を紹介します。
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2017/12/16 18:56 2017/12/16 18:56
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精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

 

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第三部 第4章 注意力の不等性について

 

 人々の精神に大きな不等性があるのは、感覚器官や記憶器官の完全性の大小によるのでないことを、私は〔前章で〕示した。それゆえその原因は、人々の注意力が等しくないことのなかにしか求められない。

諸対象を記憶により深くまたはより浅く刻み、それらの関係をよりよくまたはより悪く認めさせ、真または偽の私達の判断の大部分を形づくるのは、注意力である。また私達のほとんどすべての観念は、結局この注意力のおかげである。だから人々の精神の力が等しくないのは、注意力が等しくないことによるのは明らかであると言われよう。

実際、不調という名しか与えられないような最も軽度の病気でも大部分の人から一貫した注意力を奪うのに十分であるならば、疑いなく、互いの大部分に認める注意力の完全な欠如と彼等の精神の案配が等しくないこととは、いわば感じられない病気と、したがってまた自然によっていろいろな人々に与えられる力が等しくないことに主に帰せられるべきである、とさらに言われよう。ここから、精神は純粋に自然の恵みであると結論されよう。

この推論はどんなにもっともらしくても、しかしながら経験によって確証されない。

慢性病に苦しみ、苦痛によって、全注意力を自分の状態に固定させざるを得ず、自分の精神の改善にふさわしい対象にそれを向けられず、したがって私が五体満足と呼ぶ人々の数に入れない人々は例外としよう。他のすべての人々は、弱くて虚弱で、前の推論に従えば五体満足の人々よりも少ない精神を持たざるを得ない人々さえ、しばしばこの点で、自然の中で最も恵まれているとみえるのがわかるであろう。

学芸に専心している健康で頑健な人々においては、体質の力が快楽の切迫した欲求を与えるので、体質の弱さで軽い頻繁な不調によって研究と省察から引き離される虚弱な人々以上に、そこから引き離されることが多いように思われる。次のことだけがはっきりと言える。研究に対する愛にほとんど等しく動かされている人々の間で、精神の力がはかられるもととなる成功をもっぱら拡大するようにみえるのは、興味、財産、身分の違いによってひきおこされる気晴らしの大小、扱う主題の選び方のよしあし、作成するために用いる方法の完全性、省察する習慣の大小、読む本、会う人々のみる目、そして最後に、偶然が日々私達の目の前に提供する諸対象である。才人を形づくるのに必要な諸々の偶然が合わさることにおいては、体質の力の大小が生み出せることもあろう注意力の差異は、まったく重要ではない。だから人々の身体構成の違いによってひきおこされる精神の不等性は感じられない〔ほど少ない〕。だから、どんな正確な観察によっても、天才を形づくるのに最適の種類の体質は今まで決定できなかった。また背が高いか低いか、太っているか痩せているか、胆汁質か多血質か、どんな人々が精神に最大の適性を持つか、いまだに知ることができない。

しかも、この要約的な答えはもっともらしさにしか基づいていない推論を反駁するのに十分であり得る。しかしながらこの問題はとても重要なので、正確に解決するためには、注意力の欠如は人々において、専心する身体的無能力の結果なのか、学ぶ欲望があまりに弱い結果なのかを、検討しなければならない。

私が五体満足と呼ぶすべての人は注意力を持つが、なぜならみんな読むことを学び、国語を学び、エウクレイデス〔ユークリッド幾何学〕の最初の諸命題を把握できるからである。ところで、こうした最初の諸命題を把握できる人はみな、すべての命題を理解する身体的能力を持っている。実際、他のすべての学問においてと同様幾何学においても、ある真理を把握する際どれだけたやすいかは、それを把握するために記憶に現前していなければならない先立つ命題の数の多さに依存する。ところで、五体満足の人がみな、前章で証明されたように、幾何学のどんな命題であれその証明に必要な数よりかなり多くの観念を記憶におけるとしよう。そして秩序の助けと同じ観念の頻繁な表象によって、経験的に証明されるように、苦も無く思い出すのに十分なほど、それらに慣れ親しめるとしよう。ここから帰結するのは、幾何学的な真理全体の証明についていく身体的能力を各人が持っているということである。また命題から命題へ、類比の観念から類比の観念へと、たとえば九十九の命題の認識にまで登った後では、人はみな百番目の命題を二番目と同じほどたやすく把握できるということであって、百番目が九十九番目から隔たっているのは二番目が一番目から隔たっているのと変わらないのである。

いまや、幾何学的真理の証明を把握するのに必要な程度の注意力では、ある人を著名人の列に入れるような真理の発見には不十分なのかどうかを検討しなければならない。このもくろみにおいて私がともに観察するように読者に願うのは、真理の発見であれ、単にその証明についていくことであれ、人間精神が行う歩みである。その認識が大部分の人には疎遠な幾何学からの実例はひかない。道徳学から例をとって次の問題を提示しよう。「盗みは個人の不名誉になるのに、なぜ不正な征服は国民の不名誉にならないのか」。

この道徳的問題を解決すべく、私の精神に最初に現れる観念は、私に最も親密な正義の観念である。それゆえ私は正義を個人間で考察するであろう。そして、社会秩序を乱し覆す盗みは、恥辱とみなされて正当であると感じるであろう。

しかし、公民間の正義について私が持つ観念を諸国民に当てはめることがどんなに有利であっても、しかしながら、万国で賞賛される諸民族によってあらゆる時代に企てられた、あれほど多くの不正な戦争をみると、一個人との関係で考察された正義の観念は諸国民に適用できない、とすぐに私は疑うであろう。この疑いは私の精神がもくろむ発見に至る第一歩となろう。この疑いを解明するために、私はまず、自分に最も親しみある正義の観念を遠ざけよう。自分の記憶を呼び起こし、そこから次々と無数の観念を追い払い、ついにはこの問題を解決するためには、正義についてのはっきりしたまた一般的な観念を形づくらなければならないことを、認めるに至るであろう。そしてこのためには、社会の設立にまで遡らなければならないが、その大昔において、その起源がよりよく認められるのであり、そのうえ、公民との関係で考察された正義の原理が、国民には当てはまらない理由をたやすく発見できるのである。

それは、敢て言えば、私の精神の第二歩になろう。したがって、法律と学芸の知識が完全になく世界のほとんど最初の日にそうあるはずであるような人々を思い描いてみよう。すると彼等が他の貪欲な動物同様森の中に散らばっているのをみる。獰猛な獣に抵抗する武器の発明前はあまりに弱いこの原初の人々は、危険、欲求、または心配に教えられて、集まって社会をつくり、共通の敵である動物に対する同盟をつくるのが各々の利害関心に属することを感じ取った、と私はみる。このように集まり、同じものを占有しようとする欲望によってまもなく敵になったこれらの人々が、互いに奪い合うために武装しなければならなかった、と続けて私は認める。最も強い者がまず最も精神的な者からそれを奪い取り、後者は武器を発明して同じ財を彼から取り戻すべく彼を罠にかけたと。力と器用さとがしたがって所有権の最初の資格であったと。大地は最初は最も強い者に、続いて最も鋭い者の所有になったと。すべての占有ははじめはこうした資格においてだけであったと。しかし最後に、共通の不幸によって明らかにされて、もし最初の信約に新たな信約を加えて、それによって、各人は力と器用さによる権利を放棄し、万人が一般に、自らの生命と財産の保全を互いに保障し、こうした信約の侵害者に対して武装するのを約束するというのでなければ、自分たちの結合は有利でなく社会は存続できないであろうと、人々が感じ取った、と認める。このようにして諸個人のすべての利害から、共通の利害が形づくられ、それがいろいろな行為に、正当な、許される、不当な、といった語を社会に有用か、どうでもよいか、有害であるかにしたがって与えたに違いない、と認めるのである。

いったんこの真理に達すると、人間の諸徳の起原を私はたやすく発見する。私がみてとるのは、身体的快苦の感性なしでは、人々は、欲望も情念もなく、万事に等しく無頓着で、個人的利害を知らなかったであろう、ということである。個人的利害なしでは、集まって社会をつくりはせず、互いに信約をつくらず、一般的利害はなく、したがって正当な行為も不当な行為もなかったであろう、ということである。またこうして身体的感性と個人的利害が、正義全体の作者であったということである1)(a)。

この真理は、「利害は人々の行為の尺度である」という法学の公理によって支えられ、そのうえ無数の事実によって確証されており、私に証明しているのは、個人的な情念または好みが一般的利害にかなっているか反しているかによって有徳であったり悪徳であったりするが、私達は必然的に自分の個人的福利をめざすので、神のごとき立法者自身も、人々に徳を実行させるためには、彼等は時折身を捧げないではいられない一時的快楽と引き換えに、ある永遠の幸福を約束しなければならないと信じた、ということである。

この原理が確立されると、私の精神はその帰結を引き出す。そして認めるのは、もし立法者が特に大きな報酬を常に提案しなかったなら、個人的利害が一般的利害と対立している信約はみな常に侵害されるであろう、ということである。すべての人を簒奪に向ける自然的傾向において、彼等は絶えず不名誉と体刑という防波堤にぶつからなかったであろう、ということである。それゆえ私は、刑罰と報酬だけが、人々がその個人的利害を一般的利害に結びつけておける紐帯であるとみる。そして万人の幸福のためにつくられた法律も、もし役人がその実行を保障するのに必要な力によって武装されていないなら、誰からも順守されないであろう、と結論する。この力なしでは、法律は、大多数によって侵害され、各個人によって破られる。法律の基礎には公的有用性しかないのであるから、一般的違反によって、無用になれば、それはもはや無であって法律であることをやめる。各人は原初の権利に戻る。自分の個人的利害の勧告だけを聞くが、それは彼に当然にも、一人だけ守っている者には有害になるような法律に従うことを禁ずる。大道の安全のため、武装して歩くのが禁止されるならばそのためである。憲兵隊がいないと街道に盗人が多くなるのはこのためである。この法律がしたがってその目的を果たさなかったであろうのはそのためである。人は武装して歩き、この信約またはこの法律を侵害しても不正でないだけでなく、それを守るのは狂っているとも私は言おう。

私の精神がこのように少しずつ、正義のはっきりした一般的な観念をかたちづくるのに至った後、正義が、共通の利害すなわちすべての特殊利害の総和がつくりあげた信約の正確な順守に存することを認めた後、残っているのは、この正義の観念を諸国民に適用することだけである。上に確立された原理に解明されて、私がまず認めるのは、すべての国民は自らが占領する諸地方と占有する財産の占有を互いに保障する信約をつくっていない、ということである。その原因を発見しようと思うならば、私の記憶では、世界の概要を描いてみせることで示されるが、諸民族が互いにこの種の信約を行わなかったことがある。諸民族は互いの信約なしでも存続できるし、諸社会は法律なしでも保たれ得るからである。そこから私は、正義の観念は、諸国民において考えられるのと個人間で考えられるのとでは極度に違わざるを得ない、と結論する。

教会と王とが黒人〔奴隷〕の売買を認めている。家族内に騒動と不和をもたらすものを神の名において呪うキリスト教徒が、黄金海岸やセネガルを駆け回って、アフリカ人が欲しがる商品と引き換えに黒人を買い込んでいる。貿易によって、ヨーロッパ人がこれらの民族間に果てしない戦争を続かせて後悔もしない。これらは、個別的諸条約と、万民法という名が与えられる一般に認められた習慣がなければ、諸民族は互いに他に対して、社会を形づくる前の原始人の場合にまさに当てはまり、力と器用さ以外の権利を知らず、互いにどんな信約、どんな法律、どんな所有権もなく、したがって、どんな盗みもどんな不正もあり得ない、と教会と王が考えるからなのである。諸国民が互いに結ぶ個別的諸条約に関してさえ、かなり多くの国民によって保障されたことがなく、ほとんど力によってしか保たれ得なかったと思うし、したがって、力なしの法律のように、しばしば実行されないままであらざるを得なかったことがわかる。

正義の一般的観念を諸国民に適用して、なぜ他の民族と結んだ条約を侵犯する民族が、社会とつくった信約を破る個人ほど有罪でないのか、またなぜ公衆の意見にしたがえば、不正な征服が一国民の不名誉になる以上に盗みが個人を卑しめるのかを続いて発見すべく、私の精神は問題をこの点に還元するであろう。あらゆる時代にまたすべての民族によって、破られたすべての条約の一覧を記憶に呼び戻すことで十分である。そのときわかるのは、条約を顧みず、国民が自利をみるために諸国を攻撃するため、あるいは少なくとも隣国に自国を害させなくするため、騒ぎと禍の時を利用するような大きな蓋然性が常にある、ということである。ところで各々の国民は、歴史に教えられて、この蓋然性はかなり大きいと考え、だから有利である条約の侵犯は、本来休戦でしかないすべての条約の暗黙の条項であると確信できるかもしれない。したがって、隣国をやっつけるのに好都合な機会をとらえると、彼等を邪魔するしかないと。なぜなら、すべての民族は、不正の非難に、さまなければ隷属のくびきに身をさらさざるを得ないので、奴隷になるか支配者になるかの二択に追い込まれるからである。

そのうえ、国民みなにおいて、現状維持はほとんど保てないものとしよう。帝国の拡大の終わりは、ローマ人の歴史が証明しているように、その堕落のほとんど確実な予言とみなされなければならないとしよう。そのとき、次のことは明らかである。たとえば第三の国民に対する二国民の保障において、個人が他の個人に対する彼の国民の保障においてみいだすのと同じだけの〔安全〕保障をみいださないので、条約はその実行が不確実であるだけにいっそう神聖でなくならざるを得ない、それと同じほど各国民は、不正と呼ばれる征服において権威づけられていると思いさえできる。

 私が自らに提起した道徳学の問題の解決を発見するのは、私の精神がこの最後の観念にまで到達したときである。そこで私は感じるが、条約の侵犯と、国民間のこの種の山賊行為は、未来の保障である過去が証明しているように、すべての民族、あるいは少なくとも大多数の民族が一時的信約を結ぶまで存続せざるを得まい。諸国民が、アンリ四世の、あるいはサン=ピエール氏2)の計画にしたがって、互いにその領有物を保障し、他の民族を服属させようとする民族に対抗して武装することを約束し合うまで、また最後に、偶然各個別国家の力と他のすべての連合した国の力とがつりあって、この信約が力によって保持され得、公民間に賢明な立法者が建てるのと同じ統治を諸国民が公民間に相互に確立できるようになるまでは。この時、善行には報酬が与えられ悪行には刑罰が科されて、この立法者は公民の徳義に支えとして個人的利害を与えることで彼等に徳を余儀なくさせるのである。

 それゆえ確かに、公衆の意見にしたがえば、不正な征服は、個人間の盗みほど公正の法に反するものでなく、したがって犯罪的でなく、盗みが公民の不名誉になるほどには国民の不名誉になるものでない。

 この道徳問題が解決されれば、私の精神がそれを解決するのにとった歩みを観察すれば、私に最も親しみある観念を最初に思い出したことがわかるであろう。それら相互を比べ、私の検討対象との関係でその適合と不適合とを観察したことが。続いてこれらの観念を退け、他の観念を呼び戻したことが。そしてまさにこの手続きを繰り返して、ついには私の記憶が、探している記憶が帰結すべき比較対象に及んだことが。

 ところで、精神の歩みは常に同じなので、ある真理を発見する仕方について言うことは、すべての真理に一般的に適用されなければならない。この件に関して、ある発見をするためには、その発見がこの真理を含む対象を記憶のなかに必ず持たなければならない、ということだけを注意しておこう。

 今与えた実例で私が前に言ったことを思い出し、したがって五体満足なすべての人が、最も高度な観念に高まるのに十分な注意力を実際に備えているのかどうか知りたいのであれば、精神が発見を行うとき、あるいは単にある真理の証明を単に追っているときに、精神の諸機能を比べ、またそれらのどれが最大の注意力を前提するかを検討しなければならない。

 幾何学のある命題の証明についていくために、多くの対象を精神に呼び起こすことは不要である。提起されている問題を解決するのに適した対象を生徒の目に示すのが先生の役割である。しかし、ある真理を発見することであれ、その証明についていくことであれ、どちらの場合も、自分の記憶が先生によって示される諸対象が互いに持つ関係も等しく観察しなければならない。ところで、特別な偶然がなければ、ある真理の発見に必要な観念をもっぱら表象したり、それらを互いに比べなければならない局面だけを正確に考察することはできない。だから明らかに、ある発見を行うためには、探究対象には疎遠な大量の観念を精神に呼び起こし、無数の無駄な比較を行わなければならない。その大量さによって嫌気を催しかねない比較をである。それゆえある真理を発見するためには、その証明についていくよりもはるかに多くの時間を消費せざるを得ない。しかしこの真理の発見は、どの瞬間にも、一連の証明が前提する以上の注意の努力を要求しない。

 これを確信するために、幾何学の学生で観察してみよう。先生によって目の前に出された幾何の図形を考察するのに多くの注意を払わなければならないのは、その対象が彼の記憶が示すような対象ほど親しいものでないので、彼の精神が二重の配慮に専心して、それらの図形を考察もするし、それらが互いに持つ関係を発見もすることになるだけにいっそうそうなることがわかるであろう。幾何学のある命題の証明についていくのに必要な注意力は、ある真理を発見するのに十分であることが、ここから帰結する。確かに真理発見の場合、注意力はより連続的でなければならない。しかしこの連続性は本来、注意の同じ行為の反復にほかならない。しかも、すべての人が、前に言ったように、母国語を読み学ぶ能力を持つならば、彼等はみな、生き生きした注意力を持つだけでなく、真理の発見が要求する連続的注意力をも持っている。

 どんな連続的な注意が必要であろうか。その文字を知り、それを集め、その音節を形づくり、その語を構成するためには。または、表現されている観念、イメージ、感情とのどんな現実的関係も持たない、「柏」「大きさ」「愛」といった語のように、互いに恣意的関係しか持たない、異なった本性を持つ諸対象を記憶のなかで結び付けるためには。それゆえ確実なことであるが、もし注意の連続性、すなわち注意という同じ行為の頻繁な反復によって、すべての人が一言語のすべての語を記憶の中に次々と刻むようになるならば、彼等はみな、その発見によって著名な人々の列にはいれる、あの偉大な観念に高まるのに必要な注意の力と連続性とを備えているのである。

 しかしこう言われよう。もしすべての人がある分野で卓越するのに必要な注意力を備えているとしても、不慣れだからそうできなくさせたのでないとき、この注意力がかけさせる労苦が人によって違うことはやはり確かであると。あるいはこの注意がどれだけ簡単にできるのかの差は、身体組織の完全性以外にどんな原因によるのかと。

 この反論に直接答える前に観察したいことがある。注意力は人間の本性に疎遠でないことである。一般に、注意を保ちにくいと思うとき、それは退屈で辛抱できないことからくる疲れを、専心することの疲れととりちがえるからだということである。実際、欲望のない人がいないならば注意力のない人はいない。その習慣がつくられると、注意は一つの欲求にさえなる。注意を疲れさせるのは、そこに私達を向ける動機である。それは欲求か、貧苦か、それとも心配か。注意はそのときは苦痛である。快楽の希望か。そのときはそれ自体が快楽になる。解読しにくい二つの著作を同一人物に示すがよい。一つが調書で一つが恋文である。注意するのに第一の場合は辛く、第二の場合は快いことを誰が疑おうか。この観察にしたがえば、注意力に費やされる労苦になぜ差があるのかを簡単に説明できる。この場合、身体組織の差を想定することは、この件では必要ない。この分野では、注意力の苦痛の大小は、その報いと各人がみなす快楽に常に比例していることを、認めることで十分である。ところで、同じ対象が人によって同じ価値にみえないならば、明らかに、いろいろな人に報いの同じ対象を提示しても、実際には同じ報いになっていない。また注意の同じ努力をしなければならないとしても、その努力はしたがって人によって辛さの違いがある。それゆえ注意力の容易さの違いという問題は、それを生み出す器官における完全性が等しくないといった神秘〔的な説〕に頼らずに説明できる。しかし、この件で、人々の身体組織にある違いを認めるとしても、すべての人が持ち得る学びたいという強い欲望をそこに想定することで、ある技芸において卓越するために必要な注意力という能力を備えていないような人は一人もいない、と私は言おう。

 実際、幸福への欲望が万人に共通ならば、それが彼等において最も強い感情ならば、明らかに、この幸福を得るために、各人は常に自分の能力でできることすべてをするであろう。ところで、人はみな、私がいま証明したように、最も高い観念に上るのに十分な程度の注意力を備えている。それゆえ彼は、自国の立法、個人的趣味、あるいは自分の教育によって、幸福がこの注意力の報いとなるときには、この能力を用いるであろう。特にもし、私が証明できるように、ある分野ですぐれた者になるには、備えている注意力全体をそこに注ぐことさえ必要でないならば、この結論に抵抗するのは難しいであろう、と私は思う。

 この真理にどんな疑いも残さないように、経験に諮ってみよう、文士たちに尋ねてみよう。彼等の文芸の詩の美しい行、彼等の小説の最も独特な状況、彼等の哲学的作品の最も光に満ちた原理は、注意の最も辛い努力のおかげではない、とみな体験した。こうした驚くべき状況や偉大な哲学的観念は、偶然が彼等の目の前におくか、彼等の記憶に示すかする若干の対象と、彼等の見事な詩句が由来するそれらの比較との、幸運な出会いのおかげだと、彼等は認めるであろう。それらの観念を精神は、常にそれらが真実であり一般的であるほどいっそうすばやくまた容易に、把握するのである。ところでもし、すべての作品において、こうした見事な観念が、どんな分野であれいわば天分の特質であるならば、もしそれを用いる技術が時間と忍耐の産物に過ぎず根気仕事と呼ばれるものであるならば、天分は注意力の報いであるよりも偶然の恩恵であり、それはこうした巧みな観念をすべての人に示すが、そのうちで栄光に敏感でこうした観念を把握するのに注意深い人が利用する、ということはそれゆえ確実である。もし偶然が、ほとんどあらゆる技術において、大部分の発見の作者に一般に認められているならば、またもし、思弁的学問において、偶然の力はそれほどはっきり認められないとしても、その力はたぶんそれでも同様に現実的である。偶然はその最も見事な観念の発見を支配している。だからこれらの観念は、私が言ったように、注意の最も辛い努力の報いではない。また断言できるのは、観念の秩序が要求する注意力、観念の表現の仕方、そしてある主題から他の主題へ移る技術(b)のほうが、ずっと疲れさせるものである。また最後にすべての注意のなかで最も辛いものは私達に親しみのない対象の比較を前提するものである。だから哲学者は、六、七時間、最も高度な省察をできても、注意力の極度の疲労なしでは、ある手続きの検討であれ、ある草稿を忠実かつ正確に写すことであれ、その時間を過ごすことはできない。だからどの学問でははじめは常に骨が折れる。だから若干の対象を考察する際、それらをたやすく比べるだけでなく、それら相互について正確で迅速な比較ができるのは、習慣のおかげにほかならない。だから画家はある絵を最初の一目で、素人には見えないデッサンないし色彩の欠点に気付く。だから自分の羊を考え慣れている羊飼いは、それらの間の類似と差異を発見してそれらを区別できる。まただから、本来思いのままにできるのは長い間省察した題材だけなのである。まさにこの主題に関して持つ観念が表面的か奥深いかは、それを省察する際、どれだけ変わらずに省察したかによるのである。長い間省察され長時間で構成された作品は、それだけ力強いように思われる。また才気ある作品は、機械においてと同様、時間において失うものを力において得るように思われる。

 しかし主題から離れないために、それゆえ私が繰り返したいのは、もし最も辛い注意が、ほとんどなじみのない対象の比較が前提するものであるならば、またもしこの注意が、まさに言語の研究が要求するものであるならば、すべての人は母国語を学べるのだから、したがって誰でも、著名な人々の列に高まるのに十分な注意力の力と連続性を備えている、ということである。

 この真理の最後の証明のためここで思い出すことが残っているのは、誤りは、第一部で述べたように、常に偶有的であって若干の人々の精神の特殊な本性に内在するものではない、ということだけである。すべての人は本性によって等しく正しい精神を備えている、ということがそこから帰結する。ところでこの「正しい精神」という語は、広義にとればすべての種類の精神を含むので、上に言ったことの結果は、私が五体満足と呼ぶすべての人は生まれながら正しい精神を持っているので、最も高い観念に上る身体的能力を自らのなかに持っている、ということである(c)。

 こう反問されるかもしれない。それではなぜ著名な人はこれほどわずかしかみられないのかと。研究が少々苦痛だからである。研究への嫌悪を克服するには、既に示唆したように、ある情念〔情熱〕に動かされなければならないからである。

 幼少期の若者に勉強を強いるには、罰の恐れで十分である。もっと年が進んで同じ取り扱いができなくなると、そのとき専心する疲労に身をさらすには、たとえば栄光への愛のようなある情念に燃えなければならない。私達の注意力はそのとき私達の情念の力につりあう。こどもたちを考察しよう。母国語においてのほうが外国語においてよりも進歩の度合いがより等しいのは、ほぼ同様の欲求によって刺激されるからである。すなわち、食欲によって、遊びへの愛によって、自分たちの愛憎を知らせたいという欲望によって刺激されるのだが。ところで、ほぼ同様の欲求はほぼ同等の結果を生み出すに違いない。反対に、外国語における進歩は、先生が用いる方法、彼等が生徒に呼び起こす心配、両親がこどもに持つ関心に依存する。だから感じ取れるのは、働きかけがこんなに多様に組み合わされるとてもいろいろな原理に依存する進歩は、この理由で、極度に不均等にならざるを得ない、ということである。ここから私は、人々の間に認められる精神の大きな不等性は、たぶん、学ぼうという彼等の欲望が等しくないことによる、と結論する。しかしこの欲望は情念の結果だと言われよう。ところで、もしも私達の情念の力の大きさの違いが自然だけによるならば、精神はしたがって自然の恩恵として考察されなければならないことが帰結する。

 この問題全体は、真に微妙で決定的なこの点に還元される。これを解決するには、情念とその結果とを認識し、またこの主題において、深く詳しい検討に立ち入らなければならない。

 

【原注】

(a)生得観念を認めることなしにこの命題を否認することはできない。

(b)カクモ案配ト接合トハ有効ナリ。〔ホラティウス『詩論』242

(c)常に思い出さなければならないのは、第二部で述べたように、観念はそれ自体は高尚でも偉大でも卑小でもないということである。卑小と呼ばれる観念の発見は、しばしば偉大な観念の発見に劣らぬ才気を前提することである。ある人の滑稽さを巧みに把握するには、ときおり、ある政府の悪弊を認めるのと同じだけの才気を要することである。また後者の〔政治〕分野での発見に優先的に偉大な観念という名を与えるのは、「高尚」「偉大」「卑小」という形容句によって、多かれ少なかれ一般的に利害関心をひく観念を示しているからだということである。

 

【訳注】

1)    「著者のように推論するなら、もし人々が生きなかったら彼等は働きかけなかったであろうし、行動がなければ正義等はなかったであろう、と言える。ここから彼のように、人生が正義全体の作者であると結論できてしまう」(J.-J.Rousseau,notes sut <De l’esprir>,Oevres complètes,t.,Gallimard1969,p.1130)。

サン=ピエール(Abbé de saint-Pierre,1658-1743)はフランスの僧侶。ユトレヒト講和会議に出席(1712)したことを契機に「永久平和論」を構想。これはルソーの抜粋によりはじめて世に出、カントをはじめのちの平和思想に影響を与えた。


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2017/09/11 00:48 2017/09/11 00:48
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精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著、仲島陽一訳

 

第三部 第3章 記憶の広さについて

 

添付画像
 疑いなく前章の結論は、人々の精神が等しくないことの原因は、彼等の記憶力が等しくないことのなかに求められる、ということであろう。記憶は、感覚、事実、観念がたまる貯蔵庫であって、これらのいろいろな組み合わせが、「精神」と呼ばれるものをかたちづくるのである。

それゆえ、感覚、事実、観念は、精神の第一の素材とみなされなければならない。ところで、記憶のこの貯蔵庫が広いほど、この第一の素材を多く含む。また精神に対してより適性があると言われよう。

この推論がどんなに根拠があるようにみえても、たぶん深く考えれば、もっともらしいだけだと思われよう。それにすっかりこたえるべく、まず検討しなければならないのは、五体満足の人々の記憶力において、広さの違いがみかけと同じくらい実際も大きいかどうかである。またこの違いが有意であると想定されれば、次に知らなければならないのは、それが精神が等しくないことの原因とみなされなければならないかどうかである。

検討する第一の対象に関して私が言いたいのは、注意力だけが対象のなかに記憶を刻み得るということであって、それなしでは、対象ははっきりしない印象しかもたらさず、それは著作の頁を構成する各々の文字から読者が順々に認める印象とほぼ似たものである。それゆえ確かに、記憶の欠如が人々において不注意の結果なのか、記憶を生み出す器官の不完全さの結果なのかを判断するためには、経験に頼らなければならない。人々のなかには、聖アウグスティヌスやモンテーニュが自分自身について言っているように、かなり貧弱な記憶しかないとみえるが、それでも知ろうという欲望によって、かなり大量の事実と観念を思い出の中におくことに至り、異常な記憶の持ち主とされる者もたくさんいる。ところでもし学ぼうという欲望で少なくともたくさん知るために十分であるならば、私がそこから結論するのは、記憶力がほとんど人為的であることである。だから記憶の広さは、①毎日の使用により、➁刻み付けたい対象を考察する際の注意力による。それなしでは、いま言ったように、すぐ消える軽い痕跡しか残らないであろう。③観念を配置する秩序による。驚くべき記憶はみなこの秩序のおかげである。そしてこの秩序は、観念すべてを一緒に結びつけ、したがって記憶に課すのが、それらの本性かそれらの考察法によって、互いに思い出させるほど十分な相互関係を保つ対象だけに存する。

同じ対象を記憶にしばしば登場させることは、いわば、鑿で刻む回数が多いほど深く刻まれるようなものである(a)。しかも、同じ対象を思い出させるのにとてもふさわしいこの秩序によって、記憶の現象すべてが説明される。ある人の聡明さ、すなわち真理を受け入れる素早さは、その真理とその人が習慣的に記憶している対象との類比にしばしば依存することを教える。別の人の精神がこの点でのろいのは、逆に、まさにその真理と彼が専心している対象との類比がほとんどない結果であることを教えるのである。彼がこの真理を把握し、その関係すべてを認められるのは、彼の思い出に現れる最初の観念すべてを退け、自分の記憶の貯蔵庫全体をひっくり返すことによってだけであろうし、そうやってこの真理に結びつく諸観念をそこに探すのである。以上の理由で、他の人々を強く触発するようなある種の事実や真理が示されても、それらが自分たちの思考の鎖全体を揺るがし、自分たちの精神の中で多数の思考を目覚めさせるからでなければ、多くの人は気にしない。それは彼等の観念の地平全体にす速く日を当てる閃光なのである。それゆえ聡明な精神はしばしば、また広い記憶は常に、秩序のおかげである。ある点では最も広い記憶に恵まれているような人々から他の点で絶対的に記憶を奪うのは、ある種の研究分野に対する秩序の欠如、無頓着の結果である。以上の理由で、年代学的秩序の助けで歴史上の言葉、日付、事実を記憶に容易に刻みまた保つ言語と歴史の学者が、道徳的真理の証明、幾何学的真理の論証、長い間考察したような風景の描写を、しばしば記憶に保てないのである。実際、この種の対象は、彼がその記憶を満たす他の事実や観念とどんな類比も持たないので、そこにしばしば現れることも、そこに深く刻印されることも、したがってまたそこに長く保たれることもできない。

 これがいろいろな種類すべての記憶を生む原因であリ、ある分野で最もものを知らない者が、まさにこの分野で、ふつう最もものを忘れる人々である理由である。

 それゆえ、最大の記憶はいわば秩序の現象であるようにみえる。また、五体満足と私が呼ぶ人々の間で記憶力があれほど大きく違うのは、それを生み出す器官の完全性が等しくないことよりも、それを陶冶する注意力が等しくないことの結果であるようにみえる。

 しかし、たとえ人々のなかに認められる記憶の広さが等しくないのがまったく自然の産物であると想定し、みかけ以上に実際は大きいと想定しても、そのことは彼等の精神の広さに何も影響できないであろうと私は言う。なぜなら①偉大な精神は、この後示すように、とても大きな記憶力を前提しないからである。また➁人はみな高度の精神に高まるのに十分な記憶力に恵まれているからである。

これらの命題の第一のものを証明する前に観察しなければならないのは、完全な無知が完全な愚鈍をもたらすならば、才人がときに記憶を欠くようにみえるのは、ただこの「記憶」という語にほとんど広さを与えないからであり、ただその意味を、才人が好奇心を持たず、しばしば記憶もしない名前、日付、場所、人物に制限するからだということである。しかし、この語の意味を、観念かイメージか推論かの思い出に解すれば、そのどれも奪われはしない。そこから、記憶なしでは精神はないということが帰結する。

この観察がなされたところで、どんな広さの記憶を偉大な精神は前提するのかを知らなければならない。例として、ロックとミルトンのような、異なる分野の二人の著名人を選ぼう。彼等の精神の偉大さが、その記憶の極度の広さの結果とみなされなければならないか、検討しよう。

まずはロックに目を向けよう。そして、巧みな観念、アリストテレス、ガッサンディ、モンテーニュの読書によって啓発され、この哲学者が、感官の中に私達の観念すべての起源を認めたと想定しよう。そのとき感じ取られるであろうことは、この第一の観念から彼の体系すべてを引き出すためには、記憶の広さよりも省察における一貫性のほうが必要であったということであろう。最も広さのない記憶力でもすべての対象を容れるに十分であり、その比較から彼の諸原理が帰結するはずで、その連鎖を彼は展開し、したがって、偉大な精神〔の持ち主〕という称号に値したしそれを得もしたのである。

ミルトンに関しては、一般的意見から、他の詩人たちより限りなくすぐれているという視点からみることにしよう。もっぱら彼の詩的イメージの力、大きさ、真実味、そして最後に新しさを考察しよう。この分野での彼の精神の優越もやはり、記憶がとても広いことを前定しない、と私はうちあけざるを得ない。実際、彼の描写の構成は偉大であろう。(火の輝きを地の物質の硬さと結びつけて、固体の火で燃える地獄の領域を、液体の火で燃える湖のように描くときの描写がそうである。)彼の構成は偉大であろうが、こうした構成を形づくるのに適した、そして大胆なイメージの数は極度に限られなければならないのは明らかである。したがってこの詩人の想像力の偉大さは、記憶の広さよりも、彼の技術に関する深い省察の結果であるのは明らかである、と私は言おう。この省察によってこそ、彼は想像力の快の源を探りそれを認めることができた。偉大で真実で、よく釣り合った描写をするのに適したイメージを新たに集めることにおいても、いわば詩人の色彩となり、それによってその叙述を想像の目に見えるものにする、あの力強い表現を変わらずに選ぶことにおいても。

見事な想像力が記憶の広さをほとんど求めないことの最後の例として、私はイギリス文芸の一断片の翻訳を注で挙げよう(b)。この翻訳と、前の諸例とで、思うに、著名な人々の作品を分析する者には、偉大な精神が大きな記憶を前提しないことが証明されるであろう。前者の極度の広さは、後者の極度の広さを絶対的に排除する、とさえ私は付け加えよう。

精神とは新しい観念の集まりにほかならない、としよう。そして新しい観念はみな、若干の対象間に認められる新しい関係にほかならないとしよう。そのとき自分の精神によって卓越したい者は、必然的に、対象が相互に持ついろいろな関係の観察に大部分の時間を使わなければならず、事実や観念を記憶することには最小の時間だけ消費しなければならない。反対に記憶の広さで他人をしのぎたい者は、省察した対象を相互に比べることに時を失うことなく、新たな対象を絶えず自分の記憶に蓄えることに四六時中努めなければならない。ところで、時間の使い方がこんなに違うことから、二人のうち前者は後者に対して記憶において劣るが、同じくらい精神においてはまさっていることは明らかである。自分の精神を完成させるために、学習するよりも省察しなければならないといったとき、たぶんデカルトが気付いていた真理である。ここから私が結論するのは、とても偉大な精神はとても大きな記憶を前提しないだけでなく、前者の極度の広さは後者の極度の広さを排除する、ということである。

 この章を終えるにあたり、また精神が等しくないのは記憶の広狭のせいでないことを証明すべく、私がなお示さなければならないのは、ふつうに五体満足の人はみな、最も高い観念に上るのに十分な広さの記憶力を恵まれている、ということである。実際人はみなこの点で、生まれつき十分に恵まれていて、その記憶の貯蔵庫が、観念または事実を絶えず相互に比べられるほどの数を含むことができるならば、常にそこに新たな関係を認め、常に観念の数を増やし、したがってまた、常に精神をより広げることができるであろう。ところでもし、幾何学が証明するように、三、四十の対象はとても多くの仕方で相互に比べられるので、長い人生においても、その関係すべてを考察することやその可能な観念すべてを引き出すことは誰にもできないならば、またもし、私が五体満足と呼ぶ人々の中に、その記憶が一言語のすべての単語というに及ばず、無数の日付、事実、名称、場所、人物を、そして最後に六、七千をはるかに超える数の対象を含むことができないならば、私は大胆にこう結論しよう。五体満足の人はみな、自分の観念を増やすために使用できる能力にまさる記憶の能力に恵まれていると。記憶が広いほど精神が広くなるわけではないと。またこうして、人々の記憶力が等しくないことを、その精神が等しくないことの原因とみなすどころか、この不等性はもっぱら、対象相互の関係を考察する際の注意力の大小か、または思い出に課される対象の善悪かの結果であると。実際、日付、場所や人物の名前やその他のような、記憶の中で場所をとるが、新しい観念も公衆に興味深い観念も生み出さない不毛な対象がある。それゆえ精神の不等性は部分的にはどんな対象を記憶するかによる。コレージュで最も素晴らしく成功した若者が、より年長になって必ずしも同様でないのは、よい生徒をつくるデポテル1)の規則の巧みな比較と応用とが、後に、まさにそうした若者が、公衆に興味深い観念が出てくるような比較の対象に目を向けるということを、まったく証明しないからである。そしてそのために、無数の無用なことを無視する勇気を持たないならば、めったに偉人にならないのである。

 

【原注】

(a)記憶は文字でできた銅板であり、時折そこに鑿を入れ直さないと時とともにその文字は知らずしらずに消えてしまう、とロック氏は言う。

(b)ある若い娘が恋に目覚め、暁前に谷に赴く。そこで恋人を待ち、日の出のとき、神々への犠牲を捧げる務めである。彼女の魂は、間近な幸せの希望によって甘い状況におかれ、それを待ちつつ、自然の美を、そして愛情の対象を彼女の傍らに連れてくるはずの日の出の美しさを眺める喜びを待ち構えている。次のように気持ちを言う。

「もう太陽があの古い柏の頂を照らしている。そして岩間をほとばしるあの急流の波が、日の光に輝いている。草木の茂るあの山々の頂から、半ば空中に投げ出され隠者にすてきな隠れ家を提供するあの天井〔夜空〕がせりだしているのにもう気づく。夜よ、お前の帳をおろすのを終えよ。確信のない旅人を悩ませる鬼火どもよ、沼や泥の地に引き下がれ。そして大気を息づかせる熱で満たし、この牧場の花々に薔薇色の真珠を撒き、自然の多様な美に色彩を与える太陽よ、諸天の神よ、私の第一の称賛を受けよ。お前の道を急げ。お前か戻れば私の恋人も戻ることがわかる。祭壇の下になお彼をとどめている敬虔な配慮から自由になって、恋はまもなく彼を私のもとに戻す。すべてが私の喜びを感じるように! 私達を照らす天体の出現をすべてが祝うように! 冷たい夜が煮詰める香りを体内に閉じ込めている花々よ、蕾を開け。香ばしい気を空中に放て。魂を満たす快い酔いが、目に入るものすべてを美化しているのかどうか、私にはわからない。しかしこの谷の淵をうねる小川は、そのつぶやきで私を魅了する。風がそよいで私をいつくしむ。竜唌香の香る植物は、私の足に踏まれて、香水の気を私の嗅覚に運ぶ。ああ、幸せが時折は死すべきもの〔人間〕の住まいを訪れてくれるのなら、それが住まうのは疑いもなくこうした場所だ… しかしどんな秘かな混乱が私を動揺させるのか。もう待ちきれない気持ちが、待つことの快さに毒を混ぜている。もうこの谷は美しさを失った。いったい喜びはこんなにつかの間のものなのか。これらの植物の綿毛がそよ風に飛んでいくように、それほど私の喜びはたやすくうせるものなのか。喜ばしい希望にすがってもむなしい。時間ごとに私の混乱は増す… 彼は来ない! 誰が彼を、私から遠くにとどめているのか。恋する女の不安を鎮める以上に神聖な義務があるのか… でも、私は何を言っているのか。逃げ去れ、彼の誠実に不当な、妬み深い疑いよ、そして彼のやさしさを消すような事実よ。嫉妬が恋の傍らで増すなら、それを切り離さないならば恋を窒息させてしまう。嫉妬は、緑の柏に抱き着くが、その支えとして役立っている幹を枯らしてしまうきづたである。私は自分の恋人をよく知っているからその優しさを疑うことはできない。彼は私と同様、豪奢な宮廷から遠く、静かな田舎の隠れ家を愛した。私の心の美しさと単純さが、彼の心に触れた。官能的な私の恋敵たちが、その腕の中で彼を呼び起こそうとしても無駄であろう。若い娘の頬の上に、無垢の雪色と羞恥心の肉色を消し、技術の白粉と厚顔の紅料とで塗るコケット女の言いよりに、彼は誘惑されるだろうか。何を私が知ろう。彼が彼女らを軽蔑するのは、私に対する罠かもしれない。男たちの偏見を、そして私達を誘惑するために彼等が用いる技術を、私が知らないことがあろうか。女性蔑視の中で育った彼等が愛するのは、私達女性ではなく自分たちの快楽である。なんと残酷なことか! 彼等は復讐の野蛮な熱狂も、祖国への狂乱の愛も美徳の列に入れた。しかし美徳の中に忠実を数え入れたことはけっしてない! 無垢を傷つけても後悔しない。私達の苦しみを眺めてもしばしば虚栄心から喜ぶ。でも違う、恐ろしい考えよ、私から遠ざかれ。私の恋人はこうした場所で降参するだろう。私は千回も試みた。彼を認めると、動揺した私の魂は鎮まる。あまりに正当な苦情の種もしばしば忘れる。彼のそばでは、幸せであるだけだ… しかしながら、もし私を裏切るならば。もし、私の愛が彼を赦しているときに、別の女の腕のなかで、不実の罪を犯しているならば。自然全体が私の復讐のために武器をとることだ! 彼は滅びるがいい! 何を私は言うのか。宇宙の諸元素よ、私の叫びに耳を貸すな。大地よ、深淵を開くな。お前の輝かしい表面の上に、定められた時間、あの怪物を歩ませよ。彼はなお新たな犯罪を犯すがよい。あまりに信じやすい恋する女たちの涙をさらに流させるがよい。そして天が彼女らの仇を討ち彼を罰するのは、少なくとも別の不運な女の祈願のためであれかし」等々。

 

【訳注】

1)    デポテル(Jean Van Despauterre,c.1480-1520)は文法家。ブラバンで生まれ、ルーヴァンなどで教える。彼の文法(教科書は1517年パリ出版)は長く使われたが、マルブランシュ、ニコルらの批判を受けた。





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2017/06/19 12:39 2017/06/19 12:39
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精神論〔1758年〕

 

第三部 第2章 感官の繊細さについて

 

 私はここでは感官の繊細さをその結果によってだけ判断するので、身体組織の完全性に必然的に含まれている、感覚器官の完全性の大小〔の違い〕は、人々の精神が等しくないことの原因ではなかろうか。

この件に関して幾分でも正確に推論するためは、感官の繊細さの大小が、精神により広がりを、あるいは真の意味に解されれば精神のすべての性質を含むより大きな正確さをもたらすかどうかを、検討しなければならない。

もし人々が、同じ対象からどんな印象を受けても、しかしながら常にそれら対象間の同じ関係を認めざるを得ないのならば、感官の完全性の大小は、精神の正確さに対しても何も影響しない。ところで、彼等がそれを認めることを証明するために、私達の観念の最大数をそこから得ているものとして、視覚を例に選ぼう。そして異なる目に、もしも同じ対象が大きさの大小や輝かしさの程度が違って見えるならば、もしたとえばある人の目には他の人より、一尺が数寸短く雪がさほど白くなく黒檀がさほど黒くなく見えても、この二人はしかしながら常に同じ関係を認めるであろう、と私は言おう。したがって一尺は常に彼等の目に一寸より大きく、雪はすべての物体よりも白く、黒檀はすべての木材よりも黒く見えるであろうと。

ところで、精神の正確さは、対象が互いに持つ真の関係をはっきりとみてとることに存するのであるから、また視覚について言ったことを他の感官についても繰り返せば、常に同じ結果に至るであろうから、外的であれ内的であれ、有機組織の完全性の大小は、私達の判断の正確さに対して何の影響も与え得ない、と私は結論する。

広がりと精神の正確さから区別するならば、感官の繊細さの程度はこの広がりに何も加えないであろう、とさらに私は言おう。実際、いつものように視覚を例にとれば、精神の広さは、他の感官は別だがとても繊細な視覚に恵まれた人間が、その記憶におくことができる対象の数の大きさに依存するであろうことは、自明ではないか。ところで、小さすぎて知覚し難いような対象のうちごくわずかなものが、まさに同じ注意によって、若くて訓練された目によって考察されても、ある者には認められ他の者には見逃される。しかしそれに関して、五体満足と私が呼ぶ人々の間に、すなわちどんな欠陥も認められない有機組織の中に自然がおく違いは、たとえ実際よりもはるかに重要だとしても、精神の広がりに対してはどんな違いも生み出さないであろうことを、私は示すことができる。

同じ注意力、同じ広さの記憶力に恵まれた人々を想定しよう。つまるところ、感官の繊細さを除き、すべてに等しい二人を想定しよう。この過程においては、より繊細な視覚に恵まれた人は、意義なく、この点でその有機組織がそれほど完全でない人には小さくて見えない、そうした対象のいくつかを相互に比べ、自らの記憶におくことができよう。しかしこの二人は、私の想定では、等しい広がりの記憶を持っており、望むならば二千の対象を含むことができる。なお確かであるのは、後者は、歴史的事実によって、視覚の繊細さが劣るために認めることができないような対象をおきかえられるということである。そして望むならば、前者の記憶に含まれる二千の対象の数をとらえるということである。ところで、この二人のうちで、視覚の繊細さが劣るほうの者がそれでも自分の記憶の貯蔵庫の中に他方と同数の対象を置けるならば、しかもこの二人がすべてに等しいならば、したがって同じだけの組み合わせをつくるに違いないし、また私の想定によって、精神の広がりは観念と組み合わせの数によってはかられる以上、同じ精神を持つに違いないならば、視覚器官の完全性の大小は、したがって、彼等の精神がどんな分野にひいでるかにしか影響できず、一方を画家や植物学者に、他方を歴史家や政治家にすることしかできない。しかし彼等の精神の広がりに対しては何も影響できない。だから、視聴覚の繊細さが大きい者と、眼鏡や補聴器を習慣的に用いてこの手段で、互いにまた他の人々の中に、この点で自然がおく以上の違いをおくような者とにおいて、精神の恒常的な優越は認められない。ここから私が結論するのは、五体満足と私が呼ぶ人々の間では、知性の優秀さが付与されるのは、器官の、外的であれ内的であれ感官の、完全性の大小にではないということである。精神の大きな不等性は、必然的に、別の原因によるということである。

 

【原注】

(a)私はこの章で、一般に五体満足の、どの感官も失われていない人々についてだけ話すつもりである。そのうえ狂気や愚かさの病気にも侵されていない人々についてであり、これらの病気は通常は、一つには記憶のほころびによって、もう一つは、この能力の全体的な欠陥によって生まれる。




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2017/03/02 01:48 2017/03/02 01:48
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精神論〔1758年〕

エルヴェシウス著・仲島陽一訳

 

第三部 精神が考察されるべきは自然の恵みとしてか、教育の結果としてか

 

  第1章

 

 私がこの第三部で検討していくのは、自然と教育とが精神に対して何ができるかである。このために私がまず規定しなければならないのは、「自然」[nature]という語で何を理解するかである。

この語が私達に引き起こしうるのは、私達の感官から与えられる存在または力の雑然とした観念である。ところで感官は私達の観念すべての源である。ある感官がなくなれば、それに関係するすべての観念がなくなる。この理由によって盲目に生まれついた人は、色のどんな観念も持たない。それゆえ、この意味においては、精神は全体的に自然の恵みとして考察されなければならないことは明らかである。

しかし、もしこの語を異なる意味にとり、五官が与えられ、有機組織にどんな欠陥も認められないちゃんと構成された人々の間に、それでも自然がとても大きな違いを、精神にとても不等な素質を与え、有機組織のあり方で愚かになるべきものと精神的になるべきものとがある、と想定するならば、問題はより微妙になる。

はじめに人々の精神の大きな不等性を考察できるのは、精神の間に身体の間と同じ違いを認めることによってであると認めるが、身体的には弱くて虚弱なものも、強くて頑丈な者もいる。この点で自然が働く際の一様な違いの中に違いを誰がひきおこせるか、と言われよう。

この推論は、確かに、類比にしか基づいていない。月に住民がいる、なぜならそれは地球とほとんど同じ物質で構成されているから、と結論する天文学者の推論にかなり似ている。

この推論はそれ自体としてはどれだけ弱くても、それでも論証的とみえるに違いない。なぜなら結局、同じ教育を受けたと思われる人々の間に認められる精神の大きな不等性は、何の原因に帰すべきか、と言われよう。

この反論に答えるには、複数の人が、厳密に同じ教育を受けたことがあるかどうかを、まず検討しなければならない。そしてそのためには、「教育」[éducation]という語に付与される観念を固定しなければならない。

もしも「教育」によって、単に、同じ場所でまた同じ先生によって受ける教育を理解するならば、この意味においては、教育は無数の人々において同じである。

しかしもし、この語により真実でより広い意味を与えて、私達を教えるのに役立つものすべてを一般的に理解するならば、誰も同じ教育を受けないと私は言おう。なぜなら、敢て言えば、各人が教師として持つのは自分がその下で生きる統治形態、友達、愛人たち、まわりの人々、読書、最後に偶然、すなわち私達の無知が原因の連鎖を認めさせない無数の出来事だからである。ところでこの偶然は私達の教育に考えられている以上に関与している。偶然が若干の対象を私達の目に触れさせ、したがって、最もうまい観念を持たせる機縁となり、また時折最も偉大な発見に導くのである。若干の例を挙げれば、庭師がポンプを動かしていた時、フィレンツェの庭にガリレイを導いたのは偶然であった。水をピエ以上に挙げられなかったので、庭師たちがその原因をガリレイに尋ね、この質問によってこの哲学者の精神と虚栄心を刺激したとき、庭師に霊感を与えたのは偶然であった。続いて、この偶然の一撃に動かされて、この自然の作用を自分の省察の対象にさせられ、ついには空気の圧力の原理の発見によって、この問題の解決をみいだすに至らせたのは、彼の虚栄心であった。

 ニュートンの平穏な魂がどんな仕事にも携わらずどんな情念にも揺り動かされなかったときに、彼を林檎の並木道に引き寄せ、枝からその実を落とし、そしてこの哲学者に彼の体系の最初の観念を与えたのは、同様に偶然であった。物体が地上に落ちるのと同じ力で、月が地球に向かって引かれないかどうかを検討するために、まさにこの事実から彼は出発したのである。それゆえ偉大な天才が最も巧みな観念をしばしば得たのは、偶然のおかげである。どれだけ多くの才人が、ある種の魂の平穏が、あるいは庭師との出会いが、あるいは林檎の落下がないために、大量の凡庸な人々の中にうずもれたままでいることだろう。

 こんなに遠くの、またみかけはこんなに小さな原因にこんなに大きな結果を苦も無く帰することははじめにはできない、と私は感じる(a)。しかしながら経験が教えるのは、自然的なものにおいても精神的なものにおいてと同様、最も大きな出来事がしばしはしば感じ取れない原因の結果であるということである。誰が疑おうか。アレクサンドロスのペルシャ征服が、部分的にはマケドニアの長槍密集歩兵の創始者のおかげであったことを。アキレウスの詩人〔ホメロス〕がこの君主を栄光への熱意で動かして、ダレイオスの〔ペルシャ〕帝国の破壊に寄与したのが、ちょうどクイントゥス・コルティウス〔・ルフス〕がカール12世に寄与したのと同様であることを。ウェトゥリアの涙がコリオラーヌス1)の武装を解かせ、ウォルスキ人の下に屈しようとしていたローマの勢力を強くさせ、世界の様相を変えたあの勝利の長い連鎖をひきおこしたことを。こうした事実(b)はどれだけ多くひけることだろう。ウェルト氏殿が言うには、グスタフ〔1世〕2)はスウェーデンの諸州を巡ったが無駄であった。彼はダレカルリアの山中に一年以上さまよっていた。山人達は、彼の態度の良さ、体の大きさとそれに伴う力に好感を持っていたが、しかしながらこの君主がダレカルリアの人々に演説したまさにその日、北風が常に吹いたことに地方の年寄りたちが気付かなかったら、彼についていこうと思わなかったであろう。この風は彼等に、天の加護の確かなしるしと、またこの英雄に味方して武装をとれという命令とみえた。それゆえスウェーデンの王冠をグスタフの頭に置いたのは北風である。

 大部分の出来事は同様な小さな原因を持っている。私達はそれに無知であるが、なぜなら大部分の歴史家自身がそうであったり、それらを認める目を持っていなかったりするからである。確かにこの点で精神は彼等の見落としを償い得る。若干の原理を知ることが、若干の事実の認識にたやすく補いとなる。こうして、偶然がこの世界で考えられている以上に大きな役割を演じているということを証明すべくさらに立ち止まることはせず、言ってきたことから結論したいのは、教育という語の下に一般に私達の教示に役立つものを理解するならば、まさにこの偶然が必然的に、そこで最大の役割を持つに違いない、ということである。そして諸環境の同じ合致の中に厳密におかれる人はいないのだから、正確に同じ教育を受ける者はいない、ということである。

これを事実とすれば、誰が疑うであろうか。教育の違いが諸々の精神間に認められる違いを生み出すことを。人々は同じ種の木々に似ていて、その芽は破壊できず絶対に同じだが、正確に同じ土地に撒かれることはなく、正確に同じ風、同じ日光、同じ雨にさらされることはないので、成長したとき、必然的に無数の異なる形態をとらざるを得ないことを。それゆえ私が結論できるのは、人々の精神の不等性は、自然あるいは教育の結果として区別なくみなされ得る、ということである。しかしどんなに真実であっても、この結論は曖昧なものしか含んでいないであろうし、いわば一つの「たぶん」に還元されようから、私はこの問題を新たな観点の下に考察し、より確実でより正確な原理に帰着させなければならないと思う。このためには問題を単純な点に還元しなければならない。私達の観念の起源、精神の発達に遡らなければならない。そして思い出さなければならないのは、人間が、類似と差異とを、すなわち自らに提供されあるいは自らの記憶が示すいろいろな事物が互いに持つ関係を、感じ、思い出し、観察することしかしない、ということである。またこうして、自然が人々に、感官の繊細さ、記憶の広さ、注意の能力の違いを与えることで、彼等の精神の素質の量的な差を与えるであろう、ということである3)

 

【原注】

(a)文芸年報を読むと、ボワローがこどものとき、庭で遊んで転んだ。そのとき上着がまくれた。七面鳥がくちばしで彼のとても弱いところを何度もつついた。ボワローはそれで生涯不自由した。彼の作品すべてに認められるあの品行の厳しさ、あの感情の乏しさはたぶんそこからきている。女性に対する、リュリに対する、キノーに対する、また艶っぽい文芸すべてに対する彼の風刺は、たぶんそこからである。

たぶん七面鳥に対する彼の反感のために、それをフランスにもたらしたイエズス会士4)に彼はいつも秘かな反感をひきおこされたのである。曖昧さに関する彼の風刺、アルノー氏に対する彼の称賛、そして神の愛のための彼の書簡詩はたぶん、彼に起こったこの事故のおかげである。人生のふるまい全体と私達の諸観念の一続き全体を決めるのが、しばしばこうした気づかれない原因であることは、これほど真実である。

(b)サン=テーブルモンが言うに、ルイ14世は未成年でブルゴーニュにひきこもろうとしていたとき、チュレンヌの忠告によってパリにとどまりフランスを救った。しかしこれほど重要なこの忠告は、この将軍に、54の騎兵の敗北ほどには名誉をもたらさなかった、とこの有名な著者は言う。大きな結果を遠くて小さくみえる原因に帰すのが難しいことはかくも真実である。

 

【訳注】

1)      コリオラーヌス(Corioranus,BC.6c-5c)はローマの半伝説的貴族。ウォルスキ族に勝ったが、平民の反感を買ったことからウォルスキを味方にローマを攻めたが、母と妻の懇願によりやめた。シェークスピアの悲劇、ベートーベンの音楽の題材にもなっている。

2)      グスタフ一世(Gustave ,1495/96-1560)はスウェーデンのヴェ―サ王朝の祖。デンマークと戦い敗れてとらわれたが、逃れてダルカルリアに帰り、その地の農民を率いて反乱をおこし成功して王になった。

3)      「著者がこの後の諸章で諸精神の自然的平等をそこから引き出す、また著作のはじめで確立しようと努めた原理は、人間の判断力が純粋に受動的であるということであった。この原理は『百科全書』の項目「明証性」において、多くの哲学と深さとで確立され議論された。この項目の著者か誰か私は知らない。しかし確かにとても偉大な形而上学者である。コンディヤック師かビュフォン氏ではないかと思う。いずれにせよ私は彼と戦い、この本〔『精神論』〕のはじめに〔関して〕書いた注釈においても、〔『エミール』の〕「サヴォワの助任司祭の信仰告白」の第一部においても、私達の判断の能動性を確立することに努めた。もし私が正しく、エルヴェシウス氏と上述の著者との原理が誤りならば、その帰結に他ならない後の諸章の推論は自壊するのであり、諸精神の不等性が、教育がおおいに影響するとはいえ、教育だけの結果であるということは本当ではない」(notes sur <De l’esprir>,Rousseau Œuvres complètes t.4,Gallimard,1969,p.1129)。「明証性」の著者はケネーである。

七面鳥はアメリカ原産で、コロンブス以降ヨーロッパに持ち込まれた(イエズス会士によるかどうかはつまびらかでない)