床屋道話42 人生はリセットできない

二言居士

 

 話のはじめはあるスペイン人である。インターネット上で、十数年前の保険料滞納(後に滞納額は支払った)に関する記事が現れることについて、検索サイト「グーグル」の検索結果からの削除を求めて訴え、欧州連合(EU)司法裁判所が20145月、グーグルに削除を求め得る場合があるとの判断を示し、そのなかで「忘れられる権利」にも言及した

日本では、2011年に女子高校生に対する猥褻行為で逮捕され罰金刑を受けた男性が、グーグルに検索結果の削除を求めて訴え、埼玉地裁はこれを命じる仮処分を出した。この命令を不服としたグーグルの異議に対する決定理由の中で、地裁は1512月、「忘れられる権利」に言及した。しかしこれに対し東京高裁は、保全抗告審で、地裁の命令を取り消す決定を出した。「忘れられる権利」については、「法で定められたものでなく、独立して判断する必要はない」として認めなかった。最高裁は、これがプライバシーに属するが、児童買春が社会的に強い非難の対象とされ罰則をもって禁止されていることに照らすと公共の利害に関する事実であるから、この情報を提供する行為が違法になるとは判断されないとして訴えを退けた。

また約十年前に資格のない者に一部の診療行為をさせたとして逮捕され罰金刑を受けた歯科医が、その記事が表示される検索結果の削除をグーグルに求め、東京地裁は15年削除を命ずる仮処分を出したが、横浜地裁は請求を棄却する判決を出した。

「忘れられる権利」は、現在の法律では定めがないが、認めていくべきなのであろうか。しかしそれは何を意味するだろうか。上の事例からわかるように、本人がこのことはもう情報提供しないでほしいというならば、提供者がそれをやめる義務を課すということである。

まず問題にしたいのは、それがよくプライバシーとからめて論じられることであるが、両者は切り離すべきなのではないだろうか。そもそも情報が意図的な誹謗中傷の場合は「プライバシー」とは別問題である。また事実であるが不特定多数に知らせるべきでないことなら、はじめの報道が問題であって、もう時間がたったから伝えてはいけない、ということとは理屈が別である。「プライバシー」は今日自分の情報を自分で監督する権利とされているので、間違った情報を正させる権利(正す義務)はあるが、これも「古い事実だから忘れてくれよ」というのとは別だ。

犯罪事実などの場合、(刑期を終えたり罰金を払ったりして)「償った」人が、いつまでも忘れてもらえないのはよくない、という意見もあるようだ。反省した者や更生した者への差別や偏見は確かに好ましくない(そしてそれが違法な差別であればそのことの撤回や賠償を求めることは正当である)。しかしもとの事実を人々に忘れさせるような措置を情報産業や報道機関に義務付けるというのは行き過ぎであろう。当人が反省、更生した新たな事実を積み重ねることによって、そんな過去があったことなど自然に忘れられてしまうか、またはその過ちを糧にしてむしろ立派な人になったと評価されることを、めざして努めるべきであろう。

法的には、長谷部恭男氏(早稲田大学教授)は「忘れられる権利」を「わざわざ日本法の概念、観念とする必要はない」と述べているが妥当であろう。

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一般に倫理的にはどうか。自分や他人の過去について、もう問題にしないという意味でなかった「ことにする」ことはできる。しかしその事柄そのものがなかった「ことになる」ことはない。一度起こったことは、天地が滅びるまで、一点一画もなくなることはなく、黒歴史を「チャラ」にすることはできない。赦すことは忘れることと同じではない。「忘れられる権利」が持ち出されるようになった背景には、反伝統主義の、「その場その場で勝てばよいことにしたい」という動きがあるのではなかろうか。

「忘れられる権利」が公認されることで喜ぶのは、「〇〇はなかった」「××はなかった」と言いつのっている歴史修正主義者、都合よく記憶にあったりなかったりする政治家、公文書を簡単に捨てたり改竄したりする役人、のたぐいであろう。「リセット」して「ゼロから」始めるのは単細胞時代のゲームだけでよい。

小生もだんだん記憶力が衰えてきつつあるが、忘却の力に抗いつつ、「水に流す」ほうがよいものと、失敗に学んで改善や改革に取り組むべきものとを、しっかり分別するよう努めたい。

2018/09/08 18:50 2018/09/08 18:50
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床屋道話41 「心」の問題

 

 某県の知事が「女性問題」で辞職した。「出会い系サイト」で知った女子大生と関係を持ち、会うたびに三万円ほど渡していたという。本人によれば、金を与えたのは「好きになって欲しかった」からだが、他人からは「売春と言われても」仕方ないという意味で非を認めたものである。成人同士のまったく自発的な売春は悪ではない、という議論は昔からある。その問題を正面から検討することはしないでおく。ここでとりあげたいのは、からめ手からの横槍として、「結婚だって無期限の売春だ」という議論である。

長い間小生は、この言葉は売春容認のまじめな論拠として言われるのでなく、ブラック・ユーモアに近いネタの一つと思ってきた。しかしどうも、品が悪すぎるので口にはしない、あるいはその表現は好まないにしても、事柄の本質はそのようなものだと本気で考えている者は想定していた以上におり、「ごく少数」とは言えないのではないかと思うようになった。要するにお互いの損得勘定だということである。小生は結婚について、必要悪視するパウロのような宗教的禁欲思想に同意できないのはもとより、これを「人倫的結合」とするヘーゲルの観念論的位置づけにも、ちょっと立派過ぎはしないかと違和感も覚える。しかし損得勘定で利用し合っているに「過ぎない」と割り切るほどの、個人主義や功利主義にはなじめない。つまり「損得」の面が少なからずあると事実問題として認め、またそのこと自体を悪いとはしない。しかしそれ「だけではない」のが多くの場合であろうと思うし、それ「だけ」ならばつまらないと思う。「つまらない」の意味をさらに説明すれば、よんどころない事情でそれ「だけ」のために結婚し、あるいは夫婦生活を続ける場合は「やむを得ない」つまり悪とは認めないが、その場合は生きている意味のかなりの部分がなくなってしまうと感じる、ということである。ここで問題なのは、そう「感じない」人にはこの議論が説得力を持たないことで、結婚即無期限売春説を「本心で」是認するものはそれにあてはまるであろう。ではそれ「だけでない」ものは何かと言えば「心」の問題であり、性欲を満たすことはこれにはいらない。かの知事が「好きになってほしかった」というのはその意味では同情できる。金によって実現できると思ったならそこが間違いであり、彼は邪悪というより未熟な人間だったのだろう。

和辻哲郎は、風土に基づく日本人の国民性を、「しめやかな激情」「戦闘的な恬淡」とする。これは小生には実によくわかり、うまく言ったものだと感心する。これが「わかる」のは推論によってでなく直感によってである。パスカルの用語にすれば、「幾何学の精神」でなく「繊細の精神」によってである。よってこの命題を「証明」することはできない。「しめやか」でなく「ドライ」な日本人もいる。「恬淡」とせずにしつこい日本人もいる。それは少数派だと言えようが、では何パーセントかと言われると統計があるわけではない。他の国民と比べて「しめやか」な人が何ポイント多いか、数理的な調査があるわけではない。またこうした「幾何学の精神」では概念を定義することが求められるが、この場合の「しめやかさ」とは何か。最高湿度何パーセント以上の日が年に何回あるか、なら明晰判明な答えが出るが、「しめやかな激情」をどう数値化できるのか。けれども多くの人はその意味を「了解」する。春夏秋冬の雪月花に照らし、あるいは広重の五十三次なり中島みゆきのニューミュージックなりのしみじみした情感に照らして、または和食が中華やフレンチやエスニックのようなしつこさがないことに照らしても、「しめやかな激情」や「戦闘的な恬淡」が日本の心であることを了解する。それだけが「日本の心」ではないと補足するにしても、自分はその意味ではあまり「日本的」ではないと考えるとしてもそれが日本的であることは了解する。あるいは和辻のこの意見には賛成しないとしてさえも、彼が言っていることの意味や、そういう人がいてもおかしくはないであろうことは、多くの人は了解できる。しかしなかには、ちょっとなに言っているかわからない、と「サンドイッチマン」状態になる人もいるのである。そしてそのような人は小生が以前想定したよりも多いのかもしれないというのが疑問であり、近頃増えているのではないかというのが恐れである。

どんな問題にも、「エビデンス」や「数値化」を持ち出すのがよいこと、すぐれたことのような風潮になってきてはいないであろうか。


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2018/06/08 13:08 2018/06/08 13:08
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床屋道話40 「世間」とは誰か

二言居士

 

 太宰治の『人間失格』で、だめな主人公が知り合いから忠告され、「これ以上は、世間が、許さないから」と言われ、「世間というのは、君じゃないか」と考えるところがある(新潮文庫版82)。小生が不思議なのは、主人公がこれで相手を論破したように考えている点である。この「思想めいたものを持つように」なって彼が今までより「いくぶん図々しく」(86-87頁)なったということは了解できる。しかしそれは「世間とは個人じゃないか」という思想が正しいとか良いとかいうことを意味するものではない。

「世間というものの実体」はないという思想は、サッチャー元首相は賛成するであろうが、正しくない。世間が実在するのは、個人が実在するように目で見たり手で触ったりしてわかるものでなく、また厳密に「証明」できるようなものではない。しかしあらゆる常識がそうであるように、「ふつう」の人はそれをわかっている。本稿でもそれを「証明」することはしない。少し常識性の側に寄った反問として、「しかしお前が『世間』の代表なのか」があるかもしれない。これに対してこの知り合いは、「そうだ」と答えてよい。少なくとも比較的「世間知らず」の者に対してそうでない者が、「それは世間が許さない」と教えてやることはこれもふつうのことである。その教えが間違っていることもときにはあろう。しかし間違いがあり得るからといって、先輩や教員が後輩や生徒に教えるということ自体が間違いにはならない。

知り合いに忠告された主人公は、単に自分の生き方が世間に許されないということだけでなく、自分が世間知らずであること、世間を知る努力をすべきことに気付くべきであった。しかし彼は、「世間とは個人だ」という間違った「思想」を身につけてしまって、(「世間」が許す生き方でなく)その時々の個人的相手に対して、身をかわしたり身を守ったり利を得たりすればよいという生き方を固めてしまった。バアのマダムに対して「一本勝負」で転がり込んだ(87頁)のは実例である。中毒患者が、治療するのでなく、薬物を入手できればその場はしのげるが、破滅に向かうのと同じである。

作者と主人公とは別だとも言われよう。「悪いお手本」として書いているのではないとしても、小説の作者が主人公を肯定したり美化したりする必要はないと。一般論としてはそうだが、この場合にもあてはまるだろうか。作者の実人生を知らないとしても、「自分には、人間の生活というものが、見当つかない」(8頁)という特殊性を自虐とも見せておいて、いわば「俗悪な世間」への抗議、小説最後の一句にもみられるように、自己神格化にも似た挑戦的な開き直りなのではなかろうか。

「ふつう」がわからない、という人がいる。気の毒なことである。いばるようなことではない。

近頃、「空気を読むな」という声が聞こえるようになった。そういう人の意図はよくわかる。「同調圧力」と闘いたいというのは正当である。「KY」ということでいじめられるのもよくはない。しかしそうした目的のために、「空気を読むな」という言葉は適切でないと考える。空気を読んだうえで敢てそれに反対するということは、そもそも空気が読めないとか読まないとかいうことと同じではないからである。大事なのは前者である。多数意見に同調しないことも当然の権利とされることである。またそのような風習をつくっていくことである。個別の「感覚」でも、かといって「理屈」でもとらえられない「ふつう」や「世間」をよく「察する」ことができるのは、取り柄である。その場の「空気」を読めることは求められて悪くないことであり、「忖度」できることそれ自体は社会人としてむしろ望まれることである。

権利を主張できることは大切である。しかし他人の気持ちを思わずに自利のために権利を言い立て、義務でさえなければ、目の前の相手、その場の空気、そして世間をはばからないことは、強者の支配にしか導かないであろう。


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床屋道話39 経済の「理論」と現実

二言居士

 

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 菅原晃『高校生からわかるマクロ・ミクロ経済学』(河出書房新社、2013)という本を古本屋で買った。帯の「最高・最新の教科書!」の文句にもつられて、お勉強するつもりで求めたのだが、中身は自由貿易やアベノミクスの礼讃など、「教科書」というには党派色が強すぎるものであった。がっかりしたが、ためになったこともある。

新自由主義ないし新古典派をへたに糊塗せずに原理主義的に打ち出していることで、問題点も浮き彫りになる。比較優位説による自由貿易論がその一つである。著者はこれを、「経済学史上最大の発見で、誰一人反証できない、古典理論」(104頁)と言う。ではなぜ反対する人がいるのか。彼が引く(136頁)日経新聞の記事はわかりやすい。TPPで「得する人」が1億人、得する額が計10兆円とする。他方損する人が200万人で損する額が計8兆円とする(総額で得が上回らなければ比較優位説は成り立たない)。この際一人あたりだと得は10万円だが、損は400万円になる。前者がコストをかけてTPP賛成の運動をするとは考えにくいが、後者がTPPにかなりのコストをかけても反対する誘因がある、と。菅原氏がこの「得する人」を「消費者」一般に当てているのは、論点隠しを含む雑な当てはめだが、それは言わないことにしよう。「損する人」を「農業従事者」にあて、「経済学的」にはそれを切り捨ててよいとするところに、この「経済学」の弊害が表れている。新古典派経済学は、倫理学的には功利主義と共犯関係にある。そこでは、「消費者」が10万円の「快」を得ることと「農家」が400万円の「苦」を受ける(つまりつぶれる)ことの違いが、量の問題としてしかとらえられない。そして総量として「快」が増えるならば、決定的な意味で「苦」を受ける(ここでは家業を失うということだが、他に人権を侵害されるとか、人間としての尊厳を奪われるとかの場合も考えられる)少数者がいてもかまわないという強者の論理である。いわゆる「外部経済」の話を持ち出さなくても、農家をつぶして「消費者」が少しずつ「得」することが「正解」と言えるのか。劣位産業にしがみつかないで比較優位の産業に転じれば国民全体が得するのだ、と言い返されよう(実際言っている人々もいる)。しかし土地を手放し長年携わってきた職業から他に転じるのは(ここでも外部経済のことは言わないにしても本人にとっても)容易ではない。比較優位なものにどんどん転じていけばよいというのは、雇ったりやめさせたりする側の者、株を買ったり売ったりする側の者にとって有利で、勤労者や生活者の側にとっては不利な論理である。新古典派経済学と功利主義倫理学の損得計算は、このような立場の違いを覆い隠し、総量が増えればよいという論理で不平等を拡大する思想である。

こうした理論の抽象性は、現実の人々の立場だけでなく、この理論自体の歴史性を捨象するところにも表れている。これについては朝日新聞1990814日付コラム「経済気象台」(筆名「六一弥」)の紹介で済ますことにしよう。“貿易自由化論はリカードが唱えたがその英国の工業が比較生産費で優位を占めたのは25年間に過ぎない。その間耕地は放棄・転用され、95%自給していた小麦は88%の輸入依存になった。世界の食糧事情のタイト化と二度の世界戦争で、英国は惨憺たる辛酸をなめたが、これはリカードの反対者マルサスが懸念していた通りであった。それから英国は必死になって耕地の復活、品種の改良、遺伝子の研究に取り組み、ようやく百年たって食糧自給の道を回復した。”

小生は一言だけ付け加えよう。これらの経済学・倫理学は分業を一面的に礼讃する。しかしアダム・スミスさえその弊害にも目を向けていた。確かに画一化する必要はない。得意分野を伸ばして、個性ある他者と協力するのは互いの益となる。しかし自らを「特化」して自立できなくなってしまうこと、歯車の一つになってしまうことは、個人においても国においても「協力」でなく、強者に従属してしまうことである。バランスを無視した「特化」は、けっして自らを強くすることでも得することでもない。


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床屋道話38 組織人のけじめ

二言居士

 

 都知事選で小池百合子氏が圧勝した。小生としては意外な結果であった。

それを予想しなかったのは、まず彼女の出馬の仕方に納得できなかったからである。自民党員なのに、党が正式に機関決定したのに異を唱えた。そういうことはあるとしよう。所属政党の正式決定でもすべてに賛成できるとは限らない。それでも基本方針は認め党員であり続けるなら、決定には従うべきであり、いわんや反対を外に向けて言うべきではない。政治信念や政治信条からどうしてもそうできないというのなら、離党しなければならない。ところが彼女は党員のまま自ら立候補して、自党の公認候補と争ったのである。こうなると党の決定に反対したのも、選んだのが増田氏だからでなく自分でなかったからに過ぎないのではないかと思いたくなる。このけじめのなさをメディアに問われると「進退伺」は出したと答え続けたが、ふざけた話である。「離党届」を出して党のほうでなかなか処分しない、というならまだしも通じるが。結局何か月も後の都議選で、「都民ファースト」という新党の代表になって、はじめて離党を届けた。そもそももとからの自民党員でなく、いろいろな政党を「渡り歩いた」人物だが、組織の上に自分をおく政治家に巨大官庁の最高権力を与えてよいのだろうか。

提起したいのは、単なる小池批判というより、このような仁義なき手法をむしろかっこよく感じる風潮に対してである。政界ではこれは小泉純一郎首相(2001-06)によるところが大きいと思われる。党内にありながら、「自民党をぶっつぶす」発言で大衆の支持を集めた。この党のために骨身を惜しまず尽くしてきた多くの党員の気持ちを思いっきり踏みにじる言い方である。自民党に反対する者もこうした非道さには立腹すべきだったのに、彼を持ち上げてしまった。郵政私有化法に参院が反対すると、衆院の解散に向かった。彼の派閥の長で前首相の森喜朗が、他の長老同様解散に反対で話しに行っても耳を傾けなかった。出てきた森氏が、干からびたチーズを見せこれしか出ないとこぼしたのが印象的だったが、無論それに象徴される小泉氏の対応ぶりを嘆いたのである。議員定年制を決めて排除された中曽根康弘氏が、唇をひくつかせて「政治テロだ」と憤ったのも忘れ難い場面である。念のため言えば、小生は森氏や中曽根氏を支持するものではない。内容的には小泉氏より彼等のほうが悪いと言えるかもしれない。小泉流の手法を問題にしているのだが、これは単なる形式でなく思想でもある。従来の自民党なら、解散する、あるいは年齢制限するにあたって、丁寧な根回しをしただろう。長老が反対と聞けば、何度も足を運んで辞を低くして理解を求めただろう。こうした態度にまわりが長老に対して、「最後はトップに選んだ者に任せよう」とか「そろそろ若い者に譲ろう」とか働きかけて、丸く収めようとしただろう。こうした辞譲の心が日本が世界に誇る「和」をつくっていたのだが、小泉氏が「ぶっこわした」のはこうした古き良き日本であった。

小池氏は、2000年の衆院憲法調査会で、現憲法の「改正」でなく、現憲法を「停止、廃止」のうえで新憲法をつくるという考え(これ自体国会議員では違憲行為)に賛同した。通常の「改憲」派を上回る右翼思想である。また「都民ファースト」代表をすぐやめて、彼女の特別秘書の野田数氏に替えた。野田氏は12年の都議会で、現憲法は「国民主権という傲慢な思想」でただちに放棄すべきであり、「大日本帝国憲法が現存する」という請願に賛成した。小池氏に投票した有権者はこれらを知っているのだろうか。代表交代の後、中学生が新聞に投書した。「新代表は、党の中で選挙をして決めるのが当然と思っていた」のに、「小池さんと周辺だけで」決めてしまったのに「とても驚いた」という内容である。組織人としての筋というより、中学生にもわかる組織原理がわからない、あるいはそのような「国民主権的」原理が嫌いらしい人を長とする党派が東京を(そして今後国政を?)率いていく。

おりしも小池氏は、毎年都知事が「九月一日関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」に出していた追悼の辞を取りやめた。いま世界で移民や外国人居住者への差別やヘイト行為が問題にされているが、小池氏はヘイトを助長する側に立つのだろうか。


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仲島先生の本を紹介します。

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2017/08/29 00:49 2017/08/29 00:49
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床屋道話37 『徒然草』における共感について

二言居士

 

 近頃必要があって『徒然草』を読み返した。感じたことの一つに、動物愛護の心がある。

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第百十一段でこう言う。養い飼うものは牛馬である。「繋ぎ苦しむるこそいたましけれど、なくてかなわぬものなれば、いかがはせん」。必要悪としながらも、「繋ぎ苦しめる」ことを「痛まし」く感じている。虐待してならないのは言わずもがなであろう。「その外の鳥・獣、すべて用なきものなり。走る獣は、檻にこめ、鎖をさされ、飛ぶ鳥は、翅を切り、籠に入れられて、雲を恋ひ、野山を思ふ愁ひ、止む時なし。その思ひ、我が身にあたりて忍び難くは、心あらん人、これを楽しまんや。生を苦しめて目を喜ばしむるは、〔サディストの独裁者〕桀・紂が心なり」(強調と補足は引用者)。こうした思想は仏教からくると一応は言えよう。しかし、飢えた獣のために我が身をさしだす「高僧伝」を描く経典などは、「利他」の論理倒れでかえってばかばかしさを感じさせるのに対し、兼好の論理は、自分の気持ちに基づけることで着実であるとともに、それぞれの生き物の生存環境に思いを寄せることでのびやかでもある。

第百二十八段は、動物愛護の人の実例を挙げた後で、こう言う。「大方、生ける物を殺し、痛め、闘はしめて、遊び楽しまん人は、畜生残骸の類なり。万の鳥獣、小さき虫までも、心をとめて有様を見るに、子を思い、親をなつかしくし、夫婦を伴い、妬み、怒り、欲多く、身を愛し、命を惜しめること、偏へに愚痴なる故に、人よりもまさりて甚だし。彼に苦しみを与へ、命を奪わん事、いかでかいたましからざらん。/すべて、一切の有情を見て、慈悲の心なからんは、人倫にあらず」。国家の暴君だけではない。同胞のなかでは強くもないうさ晴らしか、人間様としての力と知恵を悪用して、他の動物を苦しめて楽しむような者もいる。こういう心理が、しかし弱い人間へのいじめや、国家的な「劣等者」抹殺にもつながっていくのだ。

実際、兼好において、弱い者への同情は鳥獣だけでなく一般庶民へもつながっていく。第百四十二段で言う。「世を捨てたる人の、万にするすみなるが、なべて、ほだし多かる人の、万に諂い、望み深きを見て、無下に思いくたすは、僻事なり。その人の心になりて思へば、まことに、かなしからん親のため、妻子のためには、恥をも忘れ、盗みもしつべき事なり。されば、盗人を縛め、僻事をのみ罪せんよりは、世の人の飢えず、寒からぬやうに、世をば行はましきなり。人、常のなき時は、常の心なし。人、窮まりて盗みす。世治まらずして、凍たいの苦しみあらば、科の者絶ゆべからず。人を苦しめ、法を犯さしめて、それを罪なはんこと、不便のわざなり」(強調は引用者)。著者は世捨て人である。また仏者として、煩悩を去るべきことを説く。しかし彼は悟りの高みから、欲に動く俗人を嘲笑したり愚弄したりはしない。むしろ彼等の立場を思いやっており、また(親子夫婦のもののような)自然的人情を否定しない。そして(仏教でなく儒家の)孟子の「恒産恒心論」を引く。従来の『徒然草』解釈では、仏教が過大評価され儒家思想がほとんど無視されていたのではなかろうか。

兼好は美について「距離をおいてみる」ことを本質とした。「隠者」であっても、彼は現実逃避したのでなく、距離をおくことで卑俗な名利競争から逃れつつ、しかし生活者の切実な情には心を寄せた。暇人のオタクな文章と思ってはいけない。ふつうの現代人にはどーでもいい有職故実などへのこだわりも確かにあるが、『徒然草』の本領は、こうした共感と同情にみられるのではなかろうか。


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2017/06/19 12:57 2017/06/19 12:57
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床屋道話36 四人のピコのはなし

 

 ピコ・デラ・ミランドラはイタリアの思想家である。著作『人間の尊厳について』(1496)はルネサンスの精神を表している。「尊厳」とは他と比べて二倍とか5パーセントとかでない、絶対的な価値のことである。中世においては、人間は卑しいもの、罪深いもの、無力なものと思われ、値打ちあるもののように言うのはむしろ赦しがたい傲慢さとされていた。人間にそういう「面」があることは否定できないが、もっぱらそれしかなく、ただ神の恵みと力を望むことだけがよいとは、ピコは考えない。ではどこに人間の尊さがあるかといえば、彼によれば自由意志にである。知識や力においては、神ならぬ人間はたいしたことはないが、善を少なくとも意志することは自由であり、この点に他の被造物とまったく異なる人間の尊厳があるとしたのである。確かにこれはすべての出発点である。

クロード・ピコはフランスの哲学者である。近代哲学の祖の一人であるデカルトの支持者で友で、デカルトの『哲学の原理』(1647)がラテン語で出ると、その仏語訳を行った。これに対しデカルトは「序文」を付けたが、本文は読まなくてもこちらは読むべきものである。たとえば、こういった難しめの本の読み方について、とても役立つ指南がある。また諸々の学問がどのように結びつくかについての、興味深い考えが示されている。デカルトも自由意志を説いたが、知識と能力についても、ルネサンスより踏み込んだ、前向きの評価をした。これについては、(神に対してではないにしても自然に対して)人間を傲慢にさせてしまったという批判もある。もっともな面もあるが、そうならないための歯止めに関しても、この「序文」のなかにみいだすことができる。すなわち不完全な認識しか持たない人は(ということは実質的にはすべての人はと言っているに等しい)「何をおいても」道徳を立てることを試みるべきだ、「それは後からでは間に合わず、また私達は何をおいても、正しく生きるように努めるべきだから」と、デカルトは言っている。知識・学問に対して道徳・倫理が先立たねばならないとの指摘である。近代社会がそうならなかったのはデカルトのためでなくデカルトに反してである。

フランソワ・ジョルジュ・ピコはフランスの外交官である。イギリス代表マーク・サイクスとの間でサイクス=ピコ協定を結んだ(1916)ことで歴史に名をとどめた。これは後にリザノフによってロシアも加わった。第一次大戦中のことで、この三国の共通の敵であるオスマン=トルコ対策であり、戦勝後、トルコが支配している中東を三国で切り取る境界を取り決めた。秘密協定であったが、翌年革命を起こしたソヴィエト=ロシアが暴露した。近代以降増大した「知と力」を悪用した「列強」による、帝国主義政策の典型である。特にイギリスはいわゆる「三枚舌外交」の一環として不道徳のかぎりである。また、戦後独立した中東諸国の国境がこれに影響され、現地の事情や住民の意見をよそに、こうした「強国」の都合でできたので、その後の紛争の種になった。いまのISの大義名分の一つも、サイクス=ピコ協定の打破なのである。むろんそこに三分の理があるとしても、彼等のやり方はとうてい認められるものではない。しかし、それを単に力づくで押しつぶそうとするだけでは、帝国主義は終わらない。ある宗教やある国に属するというだけで一括してテロ容疑者扱いにし、攻撃したり排除したりすることは、敵意とテロをむしろ拡散するだけである。いま世界中で、そういう権力者が増えたり、それを支持したり望んだりする人々や運動が勢力を増していることは、絶望的な気持ちにさせられる。

しかし絶望してはなるまい。自分には自分なりにできることをしていこう。そしてピコ太郎とともに次のように言って、自分を励ましていこう。I have a pen !


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2017/03/02 02:00 2017/03/02 02:00
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床屋道話35 天皇退位問題に関連し
                                        二言居士

 今上陛下が退位のご希望を述べられた。御高齢にあることから、国民の多くはこれをもごもっともなこととうけとめた。国事行為の委任や摂政の任命という制度もあり、敢て退位しない対策もあるが、陛下がそちらはお望みにならない理由もおいおいわかってきた。そして小生としてはそれも了解できるが、絶対的な根拠とまでは言えないという意見も理解できる。しかしここでとりあげたいのはそのことではない。小生がわからなかったのは、そして多くの国民も不審に思ったのは、右翼の論客の多くが退位に反対であるということであった。右翼こそ、陛下の御意向を重んじ、陛下をいたわることに熱心と思われるからである。また天皇の生前退位は歴史上いくらでもあり、伝統に反するわけでもないからである。そこで彼等の言い分を調べてみた。

 八木秀次氏は天皇の存在の「尊さ」が「男系男子による皇位継承という『血統原理』に立脚する」と言い、「能力原理」を持ち込んではならないと言う。ここで問題になっていることからすると、「能力原理」とは「年で仕事ができないから身を引く」といういわば常識的な考え方である。日本国憲法は、天皇の地位についてもこの常識的な考え方に即している。つまりそれは「日本国と日本国民統合の象徴」であるが、生身の人間である天皇が国や国民の「象徴」であるということの具体的・法的な意味は何かと言えば、天皇がこの憲法の定める国事行為を行うことだからである。八木氏はこれに反対する。天皇の意味は、そのような仕事をすることではない、ただ天皇家の男子として生まれたということだ、とするからである。彼の意見は日本国憲法に反するだけでなく、大日本帝国憲法の起草者たちが想定していたと考えられる、また昭和天皇もそれでよいと漏らされたという、「天皇機関説」にも反するものである。驚くべく古代的な発想である。

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 桜井よしこ氏は、「国家と国民の安寧のために祈ってくださる」「祭祀」が皇室の「本来のお役割」とし、それを私的行為としている現在のあり方を批判している。これも驚くべき、また実に恐ろしい思想である。これは政教分離の否定である。天皇の祭祀を「ご公務」とすれば、国教を定めることになり、国民の信教の自由は否定される。信教の自由こそは近代民主国家の最初の入り口であり、数多くの人々が命がけで、あるいは命と引き換えにかちとってきたものである。また戦前の日本が多くの罪悪を犯し、国民と他国民とに大きな被害を与えた多くの要因の一つが、国家神道の強制によって自由が侵害されたことであった。政教分離は、私達が必死で守らなければならない、最後のよりどころの一つである。なお国家神道は日本の伝統でなく、明治政府の創作である。生前の天皇も神とみなす観念は奈良朝以前よりできていたが、それに従わないということで処罰されたような者は明治以前には一人もいない。天皇が国家なり国民なりのために祈りたいというなら私的祭祀として行うことは自由であり、一般国民がそれをありがたく思うことは無論自由だが、そう思えと強制まではしない、というのがいまの憲法体制であるとともに、そちらのほうが伝統的でもある。いみじくも陛下は、学校で「国歌」を歌わせていると誇った東京都教育委員に、そういうことは(彼等がやっているような処罰を通じての)強制というやり方でないのが望ましい、と正しくもご指摘された。宗教行為こそを天皇の「公務」と規定し、すなわち宗教を国家の公的事項とし、それに従うことを国民の義務として法的に根拠づけることは、とてつもない人権侵害であるとともに、即位に際して「日本国憲法を守る」と述べられた陛下のお心にも悖る。

 多くの国民が陛下のご意向を肯ったのは、難しい理屈からでなく、仕事がつらい高齢になってその地位にとどまるのはお辛いであろう、という人間的な思いやりからであろう。反対する論客にはそれがないのかと言えば、ある意味でないのだろう。仕事ができなくてもよい、ある血筋に生まれたということに意味があるとか、「祈る」ことが「本来のお役割」だとする者は、天皇を人間としてでなく、宗教的存在とみているのである。しかし昭和天皇おんみずからがそれを否定して、「人間宣言」をしたではないか。(安倍首相によってNHK経営委員に任命された長谷川三千代氏はこの宣言を公然と否定した)。昭和天皇がGHQに「押し付けられた」というのだろうか。実際、退位反対派は天皇の「人権」を重んじる結果になることを恐れている。なりたい地位に誰でもなれるわけでないのは当然である。いやな地位に無理やりつけられるのも、実際問題としては仕方ない場合もあるかもしれない。しかしできない仕事をやめさせてもらうことくらいは「人権」としては最低限と思われるが、それを天皇には認めないのだ。

 天皇を人として敬わない彼等は、そもそも国民の人権も重んじない。彼等の多くがかかわったり実現に努めたりしている自民党の新憲法草案では、基本的人権も「公の秩序」によって制約されると明記されており、信教の自由も無条件の保障ではない。彼等は「天賦人権論」を日本の国体(あるいはいまの彼等の用語では「国柄」)に合わないものとして攻撃してきた。同胞国民を敬わず、天皇に対しても最低の敬意も実際には持たず、ただ自分たちの狂信を国民に強いる道具として「神」扱いする。これが右翼または自称「保守派」の正体である


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明治時代初期の頃の理髪店の様子を描いた絵






仲島先生の本を紹介します。

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2016/12/29 15:56 2016/12/29 15:56
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床屋道話(その34:五輪音頭を聞きながら)

二言居士

 

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 リオ五輪関連の企画で、過去の五輪の名場面、名せりふ、というのを目にした。各人それぞれあろうが、小生としては、バルセロナ五輪での水泳の岩崎恭子の母のものを挙げたい。選手である子のほうでは、十四歳で金をとり、「今まで生きてきていちばんしあわせ」が周知の言葉である。彼女は他の競技にも出たが、メダルには届かなかった。残念でしたね、と聞いた記者に母は次の意味の答えをした。いいえ、勝ちたいと思って頑張っているほかの子にもとらせてあげたい、と。

 開幕の日、小生はある会合に出た。二次会で組織の運営についての話が出、「声の大きい奴が勝つ」という説になった。そこでは小生は新参外様に近い位置で、主催者的な人がこの説を述べたので、(事実問題として)いちおうは肯定でうけて、「でもそれって悲しいですね」とつけた。でもそれはよくないことですよね、と道徳論を仕掛けたり、そういう状況をなくしていきましょう、と決起を迫ったりすることは遠慮して、個人の感情というかたちでの問いかけにとどめたのだ。この小生のコメントに、しかし中心人物もまわりの人々もノーリアクションだったのが残念だった。なぜならこれこそ小生の実存全体がかけられていることだからである。(小生が言外に含ませた)論議や思想を場の空気で敢て露わにしないまでも、「そうですね」とにやりすることくらいはできなかったのか。それともそんな感想そのものがまったく同感できないもので、なにをひよわで感傷的なことを言っているのか、ということだったのか。

 何度も言うが、「声の大きい奴が勝つ」という状況をなくそう、というのが小生の根本の志であり、毎日毎日の仕事である。これはある種の矛盾を含んでいる。つまり場に応じて、その「なくそう」の言い方は多様で、きわめて間接的な、なかなか聞き取りにくい「小さな声」で言うこともある。しかしできる限り沈黙はしないように努め、そして「何度も何度も」いつも同じことばかり言っていることでもあり、つまりうるさい声でもあろう。それでもまた、お前の声は小さい、もっと大きく、もっと多くの人に聞こえるように叫べ、と責めるようにご注進する方々もいる。

 小生はこの矛盾を生きるしかないと思っている、と言えばかっこつけていると言われるかもしれないが、それが実際のところなのだ。

 ちなみに岩崎恭子の母の発言は、今回確認しようと思ったが、ネット上ではみつけられなかった。もしかすると他人のものと誤解しているのかもしれないが、誰かはどうでもよい。ただ、みんなの記憶に残らなかったか、競争への意欲をそぐ残すべきでない発言とされたかなら、残念だが。



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2016/08/24 22:26 2016/08/24 22:26
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床屋道話 (その32 幸村と家康)

二言居士

 

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ことしの大河『真田丸』、出足は好評のようである。二ヶ月みたところ、三谷幸喜らしく、おもしろくできている。ただし小生は本来幸村は好きでなく、ほとんど同じことになるが家康びいきである。従来幸村好きの人というのは、主に幸村が、強力な「家康を最も苦しめ」、弱小ながら知略を使って「もう少しで勝つところまでいった」、活躍によってである。しかし及ばなかったという単純な判官びいきもあろうが、多くは相手の家康が「悪役」と認知されることで増幅する好感度である。

では家康は悪だったのだろうか。その理由として言われるのは、豊臣家を1)悪辣なやり方で2)滅ぼしたこととされる。1)とは? a孫の千姫を嫁がせたのが「安心させる」術策というのは家康をマキャベリストと決め込んだ一種の陰謀史観であり、支持する歴史学者はほとんどおるまい。とするとこれはむしろ「少なくともはじめから」大坂を攻める意図はなかったことを示す。b「外堀だけを埋める約束で内堀も埋めた」というのは、約束内容や家康自身の意図かどうかを含めてはっきりした史実は不明である。また大坂の役が一度で終わらず(豊臣の滅亡に至った)二度目の攻撃が起きたことにとって本質的要因でないと(詳しくは略すが)考える。2)とは? a秀吉から秀頼の後事を託されたのに裏切ったのはひどいと言われる。託された内容が「天下人」とすることまで含まれるかは疑問の余地があるが、そうだと想定しよう。しかしα幼い秀頼にその器量があるかどうかは未知数であり、戦国が終息していない時代にそんな約束は虚しい、とらわれるべきでない気休めとみるのが常識ではないか。β秀吉が主君の信長の遺児たちをどう処遇したかを考えれば、家康にどうこう言える立場ではあるまい(しかも家康は秀吉の協力者であり「義理の弟」であっても家臣ではない)。γだとしても嘘はよくないと言われるかもしれないが、では「約束しない」と明言したらどうなったか。瀕死の者の切望を正直に断るのが道徳的かどうかという私人としての倫理的難問は棚上げしておこう。もしそうすれば二年早く関が原になったであろう。二年後も家康が望んで起こしたのでなく、三成の悪あがきがなければ避けられたと小生は考えている。いわんや秀吉が死んだ時点では、日本は朝鮮(及び援軍の明国)とまだ戦争中であり、内乱はもとより内部対立も絶対に起こしてはならず、公人として嘘でもそう約束することが政治的に正当化されよう。δ成人した秀頼には「天下」を渡すべきだったというのは、現実離れした形式論であろう。徳川家臣らが納得すまいし、秀頼の政権担当能力は未知数である。家康が率先すれば家臣らは従い政治を補佐すればいいと言われるかもしれない。補佐役に従わなければどうか。従わざるを得ないのなら傀儡であって最高権力者ではない。それに家康は既に徳川家でも家督を譲っており、老い先短い「補佐役」の実効性は少ない。bそれにしても滅ぼさなくてもよかったのでは? 滅ぼす意志はなかった。徳川家の最高権力を認めることを求めただけだった。「二つの権力」は平和共存の可能性もあるが、二重権力状態はけっして保たれない。それを認めれば、豊臣家は大名として、(そして権力的には徳川の下になっても)元の関白家として朝廷と結ばれた別格の大名として存続させたであろう。その最も明白な表明は移封の受け入れである(家康が関東移封を受け入れて、秀吉の単なる協力者でなく彼を最高権力者として認める意志を明らかにしたように)。そのことは当時の人々にもわかっており、したがって大坂城に籠った主戦派(ありがちだが、真に城主のためというより自分たちがあばれる名分として主君をかつぐ者たち)は、講和派の道をふさぐべく、移封先とみなされていた大和郡山城をまず焼いたのである。大坂落城後も、家康個人は(もう大名家としては無理だが)助命はするつもりだったのではないか。淀君と秀頼はみずから死んで家を滅ぼしたのである。

家康に悪役がふられるようになったのは明治以降で、二つの大きな力による。一つは少年講談本の『立川文庫』の「真田十勇士」ものである。実在でない「猿飛佐助」なども含めて幸村らの活躍を描いた。単純に活劇としてのおもしろさ、強大な幕府に抗する反体制的(関西人には反東京の)庶民感情、最後に敗れる滅びの美学の三要素で、一般受けした。もう一つは、明治政権が徳川政権を倒して成立したので、その正統性を訴えるために徳川を悪にしたという上からの教育による注入である。一見反体制的な庶民文化の立川文庫も、実はこの体制的枠組みに都合よく働いて家康=腹黒い狸オヤジというキャラ設定が機能したのである。

上に述べたように家康が実際はそう悪でない(大坂方に義はない)ならば、幸村の加担はどうみたらよいのか。従来言われてきたことは、どちらにも加担する(兄は徳川についた)ことで家存続の保険をかけるということで、他の(特に中小の)武士団にも時々みられた。それにしても関が原ならともかく、大坂の役では勝敗ははっきりしていたのではないか。これに対する一つの答えとして、勝つ確率は低いがそれだけ買ったときの利得(オッズ)は大きいので「期待値」としてはばかにできず、大勝負する賭け方もある、というものである。幸村がその場合かどうかはわからないが、一般論としてこう答える。大きな禍に備えるために、損を覚悟で保険をかけることはよいが、あわよくばの利得を狙って、自分の破滅だけでなく、他の人々の損失や不幸をもたらすことはとんでもない、と。なお山岡宗八の『徳川家康』では、別の理由を出している。泰平の世をめざす家康に対して、世の中からいくさはなくならないというのが幸村の信念であると。これは家康礼賛の立場からの対抗的設定に過ぎまいが、もしもそのとおりなら幸村こそ最低最悪の人間である。

家康によって築かれた徳川体制は悪だったのか。そう主張した明治政権を、今の安倍政権(長州)も継いでいる。小生の知り合いで薩摩出身の年配の男性(こちらは朝ドラで注目の五代友厚の孫だかひ孫だかと同級だったという)も大日本帝国の正統性をいまだに信奉しているので、よく論争になる。徳川時代は二百五十年の平和であった。それをあなた方がつぶしてつくった「御維新」体制は十年に一度大きな戦争を行った。いったいどちらがよい統治だったのだろうかと。勿論この一点だけで論ずるのは不十分であろうが、それでもきわめて大きな一点ではある。

三谷幸喜はどのようなつくりで幸村を大坂城に向かわせるのか、みていくことにしよう。


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ことばへの情熱                                               

『αρχη(あるけえ)』第60号(199111月3日)

 

 若い人々の間で、ことばへの不信感が強いという。確かに、言葉は「事柄」や「心情」をまったく完全に表現できるものではない。また人間的真実は、常にことばを超えた向こう側にある。それらのことを全面的に認めたうえで、なおも私は言いたい。にもかかわらず、どこまで言葉で真実をとらえ、表せるか、これは実に試し甲斐のある挑戦ではないか、と。そしてもしもよい日本語を使っていこうという意識がなく、言葉への優しさや思いやりを欠くならば、それは人間関係を貧しくするばかりでなく、精神的な喜びのおよそ半分を捨て去ることになろう、と。

 中学時代に私は、夜のラジオで、タイプライターを宣伝する次の文句を耳にとめた。

  ときには、ただ一通の手紙が、君の運命を変える

  ときには、ただ一つの言葉に、ひとは命をかける

  ときには、ただ一台のタイプライターが、自由への武器となる

              ××タイプライター……

大袈裟な文句ではある。しかし真理だ。言葉というものがときに持ち得るとてつもない力を、否定することはできない。

 また中学時代に、芭蕉のたとえば「山路来てなにやらゆかしすみれ草」という句を知った。そしてそれに対する池田亀鑑氏の、「山道に人知れず咲くすみれ草に、季節と人生の意味を感じ取っています」という解説を読んだ。これにはまったく参ってしまった。この句をつくった芭蕉もすばらしいし、解説を書いた池田氏もすばらしい。それこそ僕はここで、人生と文芸の意味を感じ取ったのかもしれない。

 以来十有余年。私はなんらかの意味で(そしていくつかの意味で)、「言葉」にかかわって自らの道を進んでいきたいと思っている。また人々にも言葉の妙味、重さ、深さと魅力を感じさせたいと思っている。



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床屋道話 (その31 テロとことば)

二言居士

 

テロに屈してはならない。テロとたたかわなければならない。なるほどそれは正しいであろう。しかしテロとたたかうとはどういうことか。空爆などの軍事力で相手の殲滅を図ることか。それは米国同時多発テロ(2001年)でアメリカなどが行ったことであったが、それはうまくいったのか。テロを撒き散らしただけではなかったか。軍事力も必要だとしても、それが最も重要な対抗手段なのか。譲って重要だとしても、それだけが対抗手段なのか。ではどうするのか。ISとの話し合いができないかとテレビで口にした者に対して、右翼メディアは攻撃している。現に武力が行使されているところで、話し合いだけで穏やかに収まることは確かに稀である。しかし、××は相手にしないとか、△△とは取り引きしないとか、……とはこちらの条件をのまなければ話の席にもつかないとか、はじめから宣言してしまうのは、勇ましいが数々の失敗を生んだ愚策であった。

ISの問題に限定しよう。アルカイダとの特徴的な違いとして、欧米に住むイスラム系の若者で、ネットなどを通じてISに共鳴して、資金を援助したり自ら戦闘員になったりする者の存在が大きいという。彼等はどうしてそうなるのかを考え、そうならないように対策を行う必要があるのではないか。思えば彼等の不満は、パリ郊外での暴動などで既に現れていた。差別・偏見に加えて、グローバル化の中での格差拡大が背景にある。私達は彼等に耳を傾けようと努めてきたであろうか。暴力は一つの力である。ことばも一つの力になり得るとして、そこには「聴く力」も含まれる。言わせてもらえない者、聞いてもらえない者は、別の力に赴く。

われは知る、テロリストの/かなしき心を――/言葉とおこなひとを分かちがたき/ただひとつの心を、/奪われたる言葉のかはりに/おこなひをもて語らんとする心を、/われとわがからだを敵に擲()げつくる心を――/しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に持つかなしみなり。(石川啄木「ココアのひと匙」より)

啄木もテロを肯定しているわけではない。しかし自爆テロを思いつめるかなしい心に、武力でしかこたえないのはかなしすぎる。

明治末期の日本の青年、いまの欧米のムスリムの青年だけが問題ではない。いまの日本の青年はどうなのか。リーマン・ショックの後にある若手が、「希望は戦争」、入隊して、軍の中では一個の兵に過ぎない東大の教師「丸山真男をひっぱたきたい」とか、2チャンネルの書き込みなどではなく、中央の論壇誌に発表して話題になった。言論より暴力に活路を見出そうとするような若者が増えてはいないのか。あるいは思い切って声をあげた若者に対して、「極度に利己的」だとおしつぶそうとしていないか。

尾木ママは、乱暴なこどもには力で制圧する前に「どうしたの?」とおとなの「聴く力」を求めた。

暴力を乗り越える言葉の力に、私はなおも訴えたい。


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床屋道話 (その30 代理母に反対)

二言居士

 

話を限定するために、ここでは夫婦によってできた受精卵を第三者の子宮に入れて出産させることだけを問題にする。また現在の法律形式だけの問題は、法改正で解消するものとしてなるべくとりあげず、倫理的な実質にかかわることに限定する。また以下の「問題」について現行の法律でも、これは合法これは違法、これはこの人にこういう処分、など法的「答え」があっても、それが倫理的によい「答え」であるかは別であり、ここで扱っているのはそのことである。

この代理母は、卵子提供者の親族などが無償でなる場合と、金銭を代償としてまったくの他人がなる場合とがある。A共通する反対理由として挙げられるのは次のようなものである。①出産は危険を伴う。医学が発達した今日においても、出産によってなくなる女性は毎年ある程度いる。そこまでではなくても、出産によって健康を損ねる女性は少なくない。当人は覚悟のうえ、あるいは金銭的保証があっても、生命や健康は簡単にうめあわせられない。夫婦の願望を実現させるため、他人にリスクを負わせるのはよくないのではないか。②出産は一朝一夕のことではない。頼んだときはひきとるつもりだった夫婦が、いざ生まれたこどものひきとりを拒否したらどうなるのか。破約の理由は、夫婦そのものの側の事情や考えの変化による場合と、生まれたこどもの側の問題(たとえば障害がある)がからむ場合とが考えられる。またもし依頼者がはじめからひきとる条件をつけるようなとき(条件を満たさなかった場合は代理母の子とするというような)、双方の合意があればよいとするのか。③出産は一朝一夕のことではない。代理母が胎児に次第に愛情をいだくのは自然である。またなんらかの理由で依頼者がこどもの「親」としてふさわしくないと思うようになるかもしれない。そのような依頼者のほうが違約にはなるが出産した子の引き渡しを拒んだらどうなるのか。B近親者などが代理母になるときは次の問題がある。④夫婦と代理母の間にトラブルが起こると、親族関係そのものをこわす危険がある(金銭賠償ですむ可能性がある他人とは異なる)。⑤続柄が複雑になる。これは現行法で法律上の母を出産者と定めていることによる。では法改正して、申し出により、卵子提供者が遺伝子上の母と確認されたら法律上も母と変更できるようにしたら解決するか。やはりトラブったとき、子は「卵子を提供した」母と「腹を痛めた」代理母との間の板ばさみにならないか。C最後に他人が金銭などとひきかえに代理母になる場合の問題である。マイケル・サンデル教授流に言えば、「それをお金で買っていいんですか」ということになる。⑥売買が問題ということの一つは、人権とのからみである。臓器のレンタルは臓器のパートタイムの売買である。死体の臓器売買もまったくのノープロブレムとはいえず、「脳死の人」からのでは激しい論議となり、生きている人の臓器売買は基本的には(当人が同意しても)アウトだろう。⑦商売となれば、買うのは金持ちで、売るのは貧しく、また雇われにくいような弱い女性だろう。「臓器市場」で既に起こっているような、富裕な国が貧しい国の人々の臓器(の一時利用権)を買うような事態が生じないか。ブローカーが横行したり、ある地域でそれが大きな収入源になったりすることを、経済活性化と評価していいのか。

賛成派は、上の問題に「かまわない、少なくともメリットのほうが多い」とするか、解決可能、と答えるであろう。そこは扱わないで端的な賛成理由をみれば、不妊の夫婦に役立つことになる。しかしこれは、⑧病気の治療を超えた医療技術の転用であり、そうした「エンハンスメント」については、私は「需要がある」だけで許可されてよいものとは考えない。⑨どうしてもこどもがほしい夫婦は、養子をとればよい。血縁信仰はよくない。それに「他人」だって溯れば遺伝上何ほどかはつながっている。100%自分たちの遺伝子でなければなどという親は、わが子ならどんな悪でも許すような、延長された利己主義になるのではないか。いやそもそも、自分大好きな親が、自分の複製を作りたくて借り腹まで利用するのかもしれない。そんな親に「複製として作られた」こどもこそいい迷惑である。


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床屋道話 (その29 インセンティヴの倫理 その二)

二言居士

 

官僚の「天下り」には、多くの人が不満を持っている。これに対し次のような自己弁護がある。官僚の給与は実は高くない。給与だけなら大企業に勤めたほうがずっと得になる(以上は真と認めてよい)。公務員一般では「無駄」な仕事や人もいるが、高級官僚はハードワークをしている(ほぼ認めてもよかろう)。その仕事の中身が「よくない」という意見もあるかもしれないが、それは職務上「政治」の悪さからくるもので、政治的価値観をできるだけはずせば今の日本では政治家よりも官僚のほうが優秀であり、官僚なしで日本社会は成り立たない(これもなまじ否定しにくい)。よって必要かつ重要な仕事をする官僚にすぐれた人を集めるのが国益であり、そのためのうまみとして、天下りは必要である。都銀の幹部になった東大法科の同期生と比べると情けない給与に甘んじ、愚かな政治家の下働きでの徹夜に耐えるのも、退職後の利得があればこそ、というわけである。この論理の根本的な問題は、利得めあての人がそもそも役人として「優秀」なのかである。むしろそんなことは度外視して(政治家ではないから犠牲になっても、とまでは言わないが)、国民のために尽くしたいという志が、よい官僚であるための「一丁目一番地」ではないか。

公務員はそれが少なくとも「スジ」だとしても、では私企業はどうか。大蔵次官は天下りで生涯約十億を得るというが(テリー伊藤『お笑い大蔵省極秘情報』飛鳥新社)、私企業は年にそれ以上の役員報酬を出すところがある。2013年度では、カシオの樫尾和雄会長が12億9200万円、キャノンの御手洗会長兼社長が11億500万円などである。会社が赤字でも高額報酬を出すのはどんな論理でもおかしいので議論から省くが、実際には赤字のソニーの平井一夫社長が3億5900万円を受け取っている(同年度)ような事実が一つ二つではないことは記しておこう。

東京電力は原発事故前の2010年、会長と正副社長の計7人の平均報酬が約4700万円、他の取締役10人の平均が約3000万円だった。また「顧問」8人に平均約1000万円を払っていた。この中には原発事故のたびに国会で擁護「質問」をした自民党の加納時男参院議員などがいる。事故後は顧問制度を廃止し、「平取」の報酬を平均約1500万円に「減らした」が、それでも多くないだろうか。賠償金などで赤字であり、国の援助(つまり税金)のほかに料金値上げで国民に二重に付け払いさせている。役員報酬など新入社員並み、いや生活保護すれすれでもいいのではないか。それならなり手がないというなら国有化すればよい。しかし小生が思うには、それでもなりたい(「利得のためでない」と心にもないことを言って)という者がいるだろう。

「普通の」私企業はどうか。年棒約10億円の日産のカルロス・ゴーン社長は、高額批判に反駁して、グローバルスタンダードからはむしろ日本はまだ少ないのであり、すぐれた人材を得るのは高額報酬が必要だと述べている。私利の追求を原理とする私企業としては一分あるようにも響く。

しかしここで小生は、同じ自動車会社の豊田社長が、リコールを出されて米公聴会に呼ばれたときの発言を思い出す。そこで彼は、私の名前をつけて世界中で走っている車が、不具合を出したことは実に悲しい、と述べた。会社全体にもこの問題でも、特にトヨタの肩を持つつもりはないが、この言葉は真率なものと感じた。逆に言えば、自分たちがつくりあげたものが広く受け入れられることはそれ自体が大きな喜びであって、そのうえ儲からなくても十分じゃないか、ということでもある。

ゴーン氏の場合、報酬が90%になって年収9億円なら意欲を失ってやめるだろうという論理は納得しにくい。それどころか小生は、日産の社長の報酬がいまの1%でもおかしいとは思わない。年棒1000万円なら日産の社長をやりたいと思う(少なくともすぐれた)者はいないというのだろうか。車が好きな者が自動車業界で働き、経営にすぐれた者が社長になるというのが本当で、儲かるかどうかで業界や地位を決めるというのは実は筋違いなのではなかろうか。

だが私企業の場合は次の反論があろう。ゴーン氏は、報酬を何割か減らされても日産をやめないにしても、トヨタかホンダかが何割か増しの報酬を出せばそちらに移る可能性はある。つまりそういうかたちで人材の奪い合いに勝つために高額報酬は合理的である、と。これは一つは競争の論理、もう一つは労働観という根本問題にかかわるので、この小文では扱えない。ただ、同じ条件でも豊田氏が日産やホンダに移ることは考えられない、とは言える。それは勿論、代々受け継いできた社長と助っ人外人社長との違いではある。大塚家具の社長が、IKEAかニトリに移ることがあるとしたら、そちらのほうが儲かるからでなく、お家騒動に負けて恨みをつのられるようなときであろう。してみると世襲資本家の場合、社への愛着や先祖や子孫への責任感などが、ただ自分が儲かればよいという強欲さへの抵抗要素になる面も認められよう。無論世襲企業には悪い面もあり、(馬鹿息子が多額の社の金をカジノにつぎこんだ某企業など典型だが、)そもそも財産の相続ということ自体に、小生はあまり肯定的ではない。いまの観点で政策提言するとしたら、小生はむしろ雇用者のほうに、(年功賃金でなくても)少なくても終身雇用制は維持し、また賃金とは別に、その子もまた親と同じ会社で働きたいと思わせるような魅力ある会社にすることだと考える。

ここでは大上段の断言にとどめざるを得ないが、経済的利得というインセンティヴとは別のところに、職種や地位の選択基準があるのが、まっとうで健全な社会であると考える。


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床屋道話 (その28 実践理性の優位)

二言居士

 

「マイナスターズ」という歌集団があった。中身はコミックソングで、ボケた歌にサマーズの三村が「つっこみ」を入れて成り立たせている。「心配性」「ネガティヴ・ハート」などが代表作で、小生がカラオケで一つ歌うとすれば「デジタル時代」だが、ここでとりあげたいのは「じゃあ行かねえよ」だ。基本はデュエット。(ちなみにこのユニットで女声担当の「キムコ」は、歌唱力あり物真似もうまいので、もっと出でほしい。女版「ギャップスターズ」の一員などどうかと思うのだが。)男が、「おまえドライブだいじょぶかい? いい山道知ってるぜ」と言う。女が「山道ってどこのこと?」と聞くと、「じぁああ行かねえよ~」と男は即答。そこで三村がつっこむ。「なんでだよ。聞いてるだけじゃねえかよ、山道のことを。」すると男が言い返す(このパターンは小生の知る限り唯一である)。「お前なんだよ。全然ノッてないじゃねえか。『どこの?』と聞いた時点でもう行きかたがってねえんだよ。『えー、行きたい!』だろ、まず。『行きたい行きたい、どこどこ?』て聞くんだろう。まず行きたい意志が先なんだ」と。ぱっと聞いたときには三村のつっこみのほうがもっともに聞こえる。また実際歌全体としては、この「男」のマイナス志向や深層の「おそれ」を笑う視点もある。しかし全体から切り離して考え直すと、この「男」のほうがより深い真実に触れているのではなかろうか。初対面やそれに近い関係なら話は別だが、この男女をそう想定するのは不自然だろう。ドライブに誘うのに「いい山道」ってなんだよ、ってまずそのボケにつっこみたくなるが、いずれにせよどんな山道かはどうでもいいのだ。もっと言えば「ドライブ」自体そう問題ではないのだ。要は彼女と過ごしたいのであり、女にもその気があるかどうかを問うているのだ。だから女もその気なら「え~、行きたい!」が先行するはずなのだ。でもあまりにへんな「山道」なら、と思うかもしれないって? それは論理的には正しいとしても心理的には正しくない。「行きたい意志が先」に表明され、その後「どの」坂道か聞いて気に食わなかったら、でも別の坂道は、と変更させていけばよい。これももっと言えば、「行きたい!」と言った後で、でも、車に弱いから電車で○○に行きたいとか、いい映画(芝居でも開店セールでもいいが)やってるから今はそっちに行きたいとかで、「ドライブ」自体をなしにさせることもできる。まず「どんな」山道かを聞いてから、行くかどうか答えるというのは、論理的かもしれないが、男(誘う側)からはかわいげがない。てなことを言うと、女をばかにしているという声もあろう。そうした頭でっかちなフェミニズム(小生は男女平等という意味でのフェミニズムには反対でない)には、次のように答えておこうか。言葉にとらわれるのでなく、言った人の意図をとらえてそれに答え、またその中で巧みに自分の思いとも折り合わせていくすべてを知るのが、ほんとに賢いことであろう、と。

小生は悪の廃絶を志している。神仏でもスーパーマンでもないので、無論一人でできることでなく、人類全体での、過去現在未来に渡る営みのほんの一部ではあるが、自分なりにできる限りで貢献したいということに過ぎない。しかしそれを表明すると、そんなことができるんですか、と言う者が必ずいる。どうすればできるのかという純粋な疑問ではない。できるわけがないという反語である。それでもこれを疑問としてうけとめると、論理的な答えは「やってみなければわからない」である。つまり心理的には、「やってみましょう」である。だが問うものの心理は「できるはずがない」であるから、この答えに、「やりましょう」とは応じない。そもそもこのような者は、悪の廃絶が不可能というのは自明のように思い込んでおり、性悪説が一つのイデオロギーであることを、譲歩して言えば形而上学であることを、もっと譲歩すれば少なくとも素人には把握尽くせない多くの論議の支えを必要とすることを、自覚していない。どうして不可能と思うのか、と聞かれると、反問自体を意外とうけとめる。無論それを証明することはできない。悪がなくせないと言えるのは、きわめて限定された個別例についてである。たとえばある悪は、再発防止はともあれ、ある結果はもはや防げないとか、私個人(あるいは若干の集団)ではなくせないとか、現在の法律制度や技術水準では防げないとか、誰かが(あるいは一般に)提案されている対策では無効と私は考えるとか、このような個々の問題に関しては、現実的な議論がありうる。しかし一般論としておよそ悪をなくすことはできないなどというのは、無意味で有害な論法である。では逆に、「悪をなくす」というのも空虚な抽象論にならないのか。なら「あなたはどんな悪をどのようになくそうとしているのですか?」と問えばよい。①これは論理的には妥当な問いであるから、私は答えるにやぶさかではない②が、心理的には正直に言えばあまり嬉しくない。人が志を述べるということは、それを認識してくれと求めているのでなく、聞かされた者の志がまず問われているのである。賛否や自分の反応(すばらしいとか驚いたとか)をまず出さずに、「あなたはどんな悪をどのように」という知的質問が先行するのは、少し変ではないかと思うのである。③だがまず理解しなくては賛否も反応もない、と答える者もいよう。しかしそれも後付けの理屈に思える。自分のまわりにもいくらでは悪はあるはずだ。何が悪か、にくい違いがあるかもしれないが、そんなことは具体論の後で調整していくべきことであって、悪の定義から始めようというのは、議論のための議論で、倫理学の授業中ででもなければ、感心しない。そこで小生が最もいいと思うような反応はこうなる。「まさにそうあるべきですね。私はこれこれの悪に対してこのように闘っています。ところであなたは…」。こういう立派な答えはそうないと思っているので、得られなくてもがっかりはしない。しかしせめて、「確かにそうあるべきなんでしょうが実際にはなかなかできないですね」のような反応で、当人なりに努めているような答えなら同感はできる。しかし頭から否定する者が思ったよりいるのが残念である。M氏もその一人であった。その後、小生はある文芸家の作品について話す機会があったが、そこに彼も来ていた。罪の意識を持ち、またそれをゆるしてくれるものがいないことに悩む主人公に関して、いくばくかの意見を述べた。質問の時間に彼が手を上げて、他の動物に対して人間は罪を犯していると考えるがどうか、と聞いてきた。この主人公の罪とは、たとえば約束した女を裏切って死に追いやったというようなことであり、他の動物のことはまったく問題になっていない。他の参加者は質問の意味がわからなかったであろう。彼は、悪をなくそうという小生に対し、それが不可能とする根拠として、他の動物に対する関係を持ち出したのである。この問題に関しても小生なりに考えており、いくつかの箇所で、話したり書いたりはしている。彼はそれを知らないので、とりあげることは悪くないが、そこまでしてというのにはがっかりしてしまった。勉強熱心な人というのは小生のまわりには必ずしも少なくない。しかし小生はそのこと自体はほとんど評価しない。肝心なのは志である。単なる知識欲にとどまるどころか、自分が悪をなくそうとしていないことの言い訳をみつけるためのように、学ぶ者さえいる。人間は、あるいは社会はこういうものだ、と「理解」して、だからこのような悪も生まれるのだと「説明」して終わりである。(M氏をフォローするならば、場違いもかえりみず挑んでくることは、問題として強く刺さったしるしとも言えるかもしれない。心に刺さりも触れもしない者たちよりずっと可能性があるのかもしれない。)

「悪をなくそう」という言葉に対して、さかしげな冷笑がよくないのは明らかだが、「どんな悪を?」「どのように?」とかの知的質問がまず先に来るのは実は転倒しているのではなかろうか。そうしたい、という気持ちが先なのではないか。「『えー、行きたい!』だろ、まず。『行きたい行きたい、どこどこ?』て聞くんだろう。まず行きたい意志が先なんだ」。



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床屋道話 (その27 インセンティヴの倫理

 その一:中村修二氏について)

                                                        二言居士

 

ことしのノーベル物理学賞に、日本人二人とともに日系米国人の中村修二氏が選ばれた。青色LED(発光ダイオード)の発明による。門外の多くの人と同様、小生が知っていた名前は中村氏だけであった。そしてそれは彼の科学上の業績によるが、それに劣らずその後の「社会問題」にもよる。彼がこの発明の特に実用化に向けた研究を行っていたのは、日亜化学工業という企業であった。この成功で会社は莫大や利益を得たが、中村氏には2万円の報奨金を与えただけで、しかも退職した彼を「企業機密漏えい」で訴えた。彼は2001年に自らが勤める日亜化学を逆に提訴し、一審で要求どおりの200億円の支払い判決を得た。会社は控訴したが、その後8億円で和解したというのが、我々に大きなインパクトを与えた「事件」である。

はじめは、会社がひどすぎることから、中村氏の行動は勇気ある異議申し立てと好感されていたように思う。しかし状況が進み情報も増えるなかで、中村氏への疑問や批判も現れてきた。「正当な権利」の要求を超えて、強欲それ自体を正当化しているのではないかと疑われたり、同じノーベル賞受賞者でも田中耕一氏の態度にみられたような「科学者としての純真さ」への一般人の思い入れを裏切るような「人となり」への幻滅ないし反発である。大手メディアに活字で現れたものとして、中村氏の著作『負けてたまるか!』に対する天外伺朗氏の書評をひこう。天外氏はCDやAIBOなどの「技術開発を、同じように無理解の中で進めてきた体験」など中村氏と「そっくり」としながらの批判である。「いかなる成功にも、大勢の目に見えない貢献が必ずある。それに対する感謝の念を忘れた成功者は、まことに哀しい存在だ。」青色LEDでは「最初に発光に成功した名城大の赤崎勇教授の名が本書に出てこないのは、なんとも寂しい」と。

天外氏は最後に、「米国の教授や学生が『ベンチャー企業の経営者』のようになり、成功を求めて必死になっている様子の礼賛には、正直言って首を傾げざるを得ない」としているが、これは先見性ある批評であった。今回の受賞でのインタヴュー(朝日、20141018日)で、中村氏は米国では「科学者であっても、ベンチャーやって新株予約権でお金を稼いで」、「上場したら、何十億、何百億になる」ことを礼賛している。まあ、動機が金でもいい研究を残せればいいじゃないかという考えはあろう。しかし小生がこのインタヴューで衝撃だったのは、彼が米国籍をとった理由を聞かれて答えた部分である。「米国の大学教授の仕事は研究費を集めること。私のところは年間一億円くらいかかる。その研究費の半分は軍から来る。軍の研究費は機密だから米国人でないともらえない」。なんと、中村氏は米軍から金をもらうために、日本国籍を捨ててアメリカ人になったのだ。もちろん、金を受け取れば「協力」要請は断れまい。金のために戦争に、しかも外国軍に協力する研究では、科学者としても人間としてもまったくだめではないか。中村氏の「インセンティヴ」とふるまいとは、おおいに非難されるべきものと考える。

念のために言えば、青色LEDは人類全体に価値ある科学的業績であることは小生は喜んで認める。また中村氏が「大反対」を表明している、いま政府が準備している、会社員の発明を会社の所有とする法律は、確かにおおいに問題であることもつけ加えておく。


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2014/12/26 18:17 2014/12/26 18:17
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床屋道話 (その26 ありのままの倫理)
                                                                 二言居士

 
 いま真夏に小生はこれを書いているが、添付画像今年一番の当たりになることは間違いないだろう。母親に連れられて見て来た女の子が尋ねた。あの女王様はほんとはありんこだったの? 「ありのまま」という日本語になじみがない小さすぎるこどもだったので、「蟻のまま」と解したらしい。ほんの少し上の姉が答えた。そうじゃなくて蟻のお母さんよ。こちらは「蟻のママ」と解したようだ。ところで巷に鳴り響く「レリゴー」を聞くと「スーパースリー」の主題歌を思い出してしまうのは小生だけだろうか。冒頭の「ラリホー、ラリホー」がメロディも音韻もよく似ている。

 マクラはこれくらいにして本題に入ろう。原曲”Let it go”と日本版「ありのままで」には微妙な違いがある。文化が違う以上もとより「完全に正確な」翻訳は不可能で、特に制約の多い歌詞では当然ではある。しかし逆にそのずれを通じて文化の違いが垣間見え、この歌の場合も少し興味深く感じた。がそれくらい他にも考えている人はいるだろうとネット検索をしてみたら案の定で、小野真弘という人のものがすぐに出た。「イギリス在住の免疫学者・医師」とある(5月27日ツイート)。以下それも参考にして書いてみる。(劇中歌なのでほんとは文脈を考慮する必要があるがここでは捨象する。)題の”Let it go.”と「ありのままで」を含め、第一印象としては原詩のほうが日本語版よりも強い。が内容を検討すると趣旨はおおまかには同じであり、違いは「ニュアンス」の次元の話である。

 原詩でまず気にかかるのは、”Don’t let them in, don’t let them see./Be the good girl you always had to be.”は引用符がつく部分と思われるが、誰が言っているのかである。自分に言い聞かせていた言葉かもしれないが。いずれにせよ原詩では「他者」への強い意識があり、これがこの歌を「強く」感じさせている。この部分の”them”を受けて”Well, now they know !”となって姿勢を転じる。そして”I don’t care what they’er going to say.”という句がまさに”Let it go.”の中身と考えられる。もっと後になるとこの”they”は”you”となって面と向かった他者となり、”You’ll never see me cry.”と挑戦的な宣言となる。こうしてみると日本版が見事に「他者」を消す訳になっていることに気づく。たとえばいま挙げたところは「二度と涙は流さないわ」でtheyもyouもない。言語構造のためだけではない。というより言語的理由の背景に文化的な構造があると見るべきだろう。もう一箇所挙げれば、”The wind is howling like this swirling storm inside.”が単に「風が心にささやくの」である。嵐の風を「ささやく」ものとやさしくし、原詩では直喩のところ(下線部)が日本版ではせいぜい隠喩となる。原詩では他者に対する自己主張としてチャレンジングであるが、日本版では自分探しの結果の決意表明として不動の悟りに至ったかのようである。

 小野氏は次のように述べる。「自分のパートナーに『ありのままの自分を受け入れてほしい』というのは、しばしば今の日本社会で〔…〕みられる幻想だろう。自分のそのままの成長していない〔…〕状態で評価されるとしたら、それほど楽なことはない。努力をして自分を成長させることで、より高い人格になろうという進歩的な考えはそこにはない」。「ありのままに」〔に〕は含まれていないものが、まさに今の日本の社会で欠けている要素の一つのように思えてならない。」――これはいかにも欧米在住のインテリの言あげと思われる。小生はこれに賛成するところとしないところがある。
 
 まず賛成できる点は、ありのまま評価が確かに日本社会に強いという事実認識である。ただし小野氏の言う「今の」日本というより伝統的である。衣食住から芸術まで自然の「素材の良さを生かす」ことをめざす。外なる自然だけでなく内なる自然、人間性(human nature)についても、「素朴」を愛し、正直・素直であれば神が宿るとか、煩悩に満ちたままで仏性を持っているとかする。伝統的「自然(じねん)」は「ありのまま」の意味である。詳しくは専門家に委ねたいが、日本精神史は「♪ありのー、ままでー!」の大合唱である。そしてそこには弱点がある。あまりにも諦めがよく、既成事実に弱く、「現実」のベタの全肯定になりがちである。

 次に賛成しない点。小野氏が「自分のパートナーに『ありのままの自分を受け入れてほしい』というのは」云々と言うとき、この『パートナー』は仕事の相棒とかでなく恋人や配偶者のことととるのが自然だろう。この違いが重要だ。(他人と違う)そういう「パートナー」や親には、「ありのままで」受け入れられることを期待するのがふつうでよしとされる(それを求めないのは「水臭く」受け入れないのは「冷たい」ことでよくない)のが日本文化の伝統である。小野氏はこの違いに留意せず、また(明示していないが論理的には)このような日本的「甘え」を評価しないことになる。(聖母マリアのような超越的存在でなく)生身の誰かに甘えられるという救いがない欧米のような国に、小生は日本を変えたくない。

 最後に原詩と日本版のそれぞれについて、小生が素直にいいと思えないところを一つずつ挙げたい。(A原詩)「いつもよい娘(こ)であらねばならない」(Be the good girl you always had to be)という因習的な縛りを解き放って、自分の力を試してみよう、というのはよい。”The perfect girl is gone.”というところは最もよい。しかし、”No right, no wrong, no rules for me./I’m free !”というのはひどい。「自由」とは善悪やルールがないことじゃないだろう。ディズニー板「ニーチェの言葉」か?! 原詩を二読三読すると、最後の”Let the storm rage on !!”のstormとは、つまり世間の非難や悪評のことと思われる。それをものともしないというのは最悪と思う。ちなみに小野氏がエルサは「let it goという思い切りにより、むしろ悪魔的になった」と評しているのはこの点でうなずける。(なお彼は、だからlet it goはこの物語の=人生における最後=完成でなくそのプロセスにおいてむしろ乗り越えられるべき局面ととらえる。)(B日本版)自分にうっとりネエちぁんというのは昔からいて少しヒクが、抑圧を破って自己肯定感を得られた女性、としては祝福してもよい。素直になれなくなるのは、この肯定が強すぎて、わたしたち一人ひとりのというより、世相のそれと重なって感じられてしまうからである。自虐はもうやめよう、日本のすばらしさを誇ろう、という政治くさい、そしてはなはだ危なっかしい近頃の大宣伝(本でも雑誌でも怒涛のような「自虐」批判・日本賛美の嵐だ)にも、この2014年で日本の「戦後」がはっきり終わり新たな戦前になったことが知られる。「ありのままで」がその最初の軍歌かもしれないというのは言い過ぎではあるが。

 松たか子に、あるいはMay J.になりきって歌いながらも、考えてみたい。







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2014/08/26 19:03 2014/08/26 19:03
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床屋道話 (その25 浮気の経済)
                                                                  二言居士

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 スマートフォンの普及が著しい。電車やバスの中で、いや歩きながらだろうが会食中だろうが、いまや多くの人が画面をみつめている。パズドラとかいう竜に貴重な時間を喰われている者もいる。ラインとかに縛られて、毎日四・五時間も費やす若者も少なくないという。いっきに増え、しかし二台も三台も持つ人はふつうでないので、各社は他社から契約者を奪うことを中心戦略とした。さすがにそれはおさえようということで近頃方針転換が発表された。しかし、こうした商法の不道徳性への反省からかと思うのは世間知らずの道学先生くらいで、不毛な消耗戦にねをあげたのが最大の理由であろう。従来のしくみでは、利用者は最初に契約した会社を何年も続けず、どんどん乗り換えるほど得をする。アナログの世界では新聞でよくあった話で、中身でなく、新規契約だと多くの景品がつくというので、購読紙をとっかえひっかえする読者もいた。しかしこれは、インターネットの接続会社などデジタルの世界で特にめだっている。決まった相手に「忠誠」を尽くすと損し、浮気するほど得する、というシステムである。このようなたとえは小生のいやみではない。企業CM自体が多用しているものである。たとえば、失恋した片桐はいりに小泉今日子が「それはよかった」と言う。なんでやと思わせるが、そこで小泉が、新しい出会いのチャンスだ、と言うオチである。ひどい、とあなたは感じませんでしたか? この二人は「あまちゃん」出演者つながりであり、残念なこともよいほうに発想転換する「ポジティヴ思考」でいいじゃないか、というのが作り手の頭かもしれない。しかしまず、年下に見える(実際に三歳下の)Kyon2が上から目線でアドヴァイスするというのが(彼女のほうがルックス的にふられそうにないだけにいっそう)道学者には気に障る。無論本質的なのは、そのドライで貪欲な精神であるが。二夫にまみえぬのが貞女、などという気は(守旧派の小生と言えども)さらさらない。統計的には、男のほうがひきずり屋で女のほうがすっぱり割り切りやすく、これも「あまちゃん」でリバイバルした薬師丸ひろこの歌のように「愛した男たちを思い出に変えて」、というのは男の身勝手な願望だというのは受け入れることにしよう。それでもこうした場合、「時が解決するよ」というのがぎりぎり許容できる勧告と思う。数年前やはりパソコン関係のテレビCMで、ふられた中居正広が、いったんがっくりするが、すぐに頭を上げて当の相手に「別のコ紹介して」と返す状況に、「切り替えの速さ」をアピールするものがあった。今度のCMではいったんがっくりさせる間も与えない。それに中居君版では、この「現金な」男に若干の風刺も感じ得るが、Kyon2版ではけっこうマジでそう思っているかもしれないと疑われる。そもそも「長~く愛して、ゆっくり愛して」(この人も亡くなりましたなあ)いては「経済成長」にはつながりにくい。そうしたくてもそうさせない商品が増えていく。XPのサポート期限切れもあって、この春小生はパソコンを買い換えた。またVHS・DVDのリモコンが壊れたがもう修理できないということで新しく買ったら、続けてデッキ本体が壊れて今度はそれごと買い換えねばならなかった。それはもう一社しか作っておらず(販売もヤマダ電器などもう扱わないところもあり)、そのうち手に入らなくなるかもしれない。小生が買いにいったコジマ電器の販売員は、自分が持つ約1000本のVHDテープをDVDに少しずつダビングしていると言った。ところでDVDのディスクはVHSのテープよりも寿命が短いのである。老後の楽しみなどと大量にためてもそのときには読み取り不能になっているかもしれないことを、あなたは知っていますか?

 商品に関する「浮気」だけでなく、リアルな男女関係においても、貞節よりもアバンチュール的であるほうが経済効果があるとしたのはゾンバルトであった。彼の「解放説」は資本主義そのものの発生基盤に関しては、ヴェーバーの「禁欲説」に比べると深みに乏しかったかもしれないが、しかし消費資本主義の存立基盤に関するものとしては説得性も強いのではあるまいか(邦訳『恋愛と贅沢と資本主義』論創社)。その「浮気性」はマルクスも強調している。「ブルジョワジーは、生産用具を、したがって生産関係を、したがって全社会関係を、絶えず変革しないでは生きていけない。〔…〕生産の絶え間ない変革、あらゆる社会状態の絶え間ない動揺、永遠の不安定と変動とは、ブルジョワ時代を以前のいっさいの時代から区別する。あらゆる固定した、さび付いた関係は、それにともなう古く敬うべき先入見や通念とともに解体され、新しく形成された関係は、すべて化石化する暇もないうちに古臭くなる。すべて固定的なものは煙と消え、すべて聖なるものは汚され、こうして人はついに、自分の生活のリアルな状態〔…〕を、さめた目で直視することを強いられる」(『共産党宣言』)。共産主義云々は横において考えると、彼の指摘は今でも、あるいは今いっそうあてはまることも少なくない。実はマルクス自身は、こうしたブルジョワの「進歩性」を道学者的な憤慨でなくそれこそリアルにみつめ、それゆえに自らも壊さざるを得ないという論理にもっていきたいようだ。しかし21世紀の私達は、ここにこそ疎外と悪があると言うべきなのではなかろうか。「変わらなくっちゃも変わらなくっちゃ」(イチロー出演の車のテレビCM)とばかり、内発的な進歩でなく、適応せずんば生き残れないと脅されて生きる非人間性からの解放を! 元アメリカの投資銀行のディーラーだった藤巻健史氏は、「改革はスピードが命」と訴え、小泉「改革」を煽った(朝日、05年9月24日。現在は日本維新の会の国会議員)。小泉氏は「適応しないと滅びる」と社会ダーウィニズムも援用したが、「非情」を自称した彼としては、人は獣を見習うべきということか。無論古いものほどよい、古いほどよいとは言わない。日本で最古の天皇家が最も尊く、それを戴く「国柄」(以前は「国体」と言ったが今のウヨクはこう言いたがる)を最も長く保っている日本が世界で最もすばらしいというのは、単に哂うべきである。しかし変化や改革至上主義なく、場合によってはスローライフの取り戻しこそが現在の進歩ではなかろうか。

  渡辺淳一氏が亡くなった。一般的には、不倫を中心とした官能的な小説の書き手として名を知られた。(小生としては、野口英世の実像を描いた『遠い落日』が、本来医師であるこの著者ならではの力作として勧めたいのだが。)初出は日本経済新聞が多かったが、以前ある謹厳なOLが勤め先のおじ様たちについて、有能ビジネスマンぶって日経を講読するが、実は渡辺淳一の小説をいちばん楽しみにしているのがイヤだ、とのたまうのを聞いたことがある。しかしこの新聞が私達を浮気性にしているのは、文芸欄の不倫小説によってよりも、一面の経済記事によってではなかろうか。

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 2013年のNHK大河ドラマは、綾瀬はるか主演による「八重の桜」であった。2011年3月の大震災と原発事故を受けて、「福島県人を主人公に」というのが最大の意図として選ばれた題材であった。福島出身の俳優も使われた。

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 発表を聞いたときの小生の危惧は、主人公新島八重が知られているのはまず銃士としての活躍によっているので、好戦的、あるいはそこまでいかなくても武力行使の正当化に向かうドラマにならないかということであった。「女性の活躍」というのが近年の大きな主題であり、そのこと自体はもっともとは言えるが、これに悪乗りして「女でも銃を取る」ことのあおりになるおそれである。幸いそうはならず、「銃を撃った」ことへの反省が後半に現れた。これは、一つは夫となった襄のキリスト教から、もう一つは戊辰後、薩摩などかつての敵側との交わりからのものとして、しっかり描かれていた。終わりのほうでは、襄の教え子ながら帝国主義者になっていく徳富蘇峰への批判を通じて、むしろはっきり平和主義を志すものになっていた。蘇峰は戦前日本のマスコミ界における最大の戦争責任者になったことを知っている我々としては、彼への批判をいま盛り込んだ意義は多としたい。


 前半の反響としておもしろかったのは、京都守護としての会津の活躍の半面として、長州などの「志士」が「陰険なテロリストのように描かれている」ことへのとまどいや反発であった。実はこれは三谷幸喜氏の「The新鮮組!」のときにもあったことだが、これらのほうが史実であり、会津は悪玉の「朝敵」というのが討幕派による烙印なのである。そしてその汚名を雪ぐことが戊辰後の会津の大きな苦労であった。番組後半でもそのこと自体が大きく扱われていたが、この反響からは、百五十年後の今日でもまだそれが必要であったことがわかる。もう一つおもしろかった反響は、このような内容から、昔も今も福島は中央の犠牲にされてきたのだとわかった、という感想である。もっともである。概して人のいい福島県民自身はもとより、正義や公正を尊ぶ者はこのことにもっと怒ってよい。

 こうした効用があった「八重の桜」だが、この路線が続くかは疑わしい。安倍首相になって、NHKの会長と経営委員に選らばれたのはつわものぞろいである。①籾井勝人会長。就任会見での発言。a「政府が右と言うものを左と言うわけにはいかない。」――日本「政府が右と言った」ならそれを伝える必要はある。しかし他国が「左と言った」ならそれを伝える必要もあり、国内の反政府が「左と言った」ならそれも伝える必要がある。公共放送は政治的に中立でなければならない。イギリスの公共放送BBCは、イラク戦争で批判的な内容も報じたことで政府と対立したが、この籾井発言を「衝撃」と伝えた。政府が右と言うゆえに右であるとして伝えるなら、戦時中の大本営発表と、あるいは今の某独裁国の国営テレビと同じである。どちらかと言えば「右寄り」の某週刊誌の最新号が「籾ジョンイル」と書いていた。b同じく就任会見で、従軍慰安婦について、「紛争地域にはどこにもあった。」とし、現在もオランダでは売春が一部公認されていることなどにも言及した。――問題は従軍慰安婦が売春一般と同じでなく、強制性があり、政府や軍の関与があったことにある。強制性とは、拉致されてやだまされての場合があっただけでなく、自由にやめられず、休日に自由に外出することさえままならなかったことなどで、「性奴隷」と言われるゆえんである。フランスやオランダの国名を挙げてこれを弁護したのは、先進諸国の反発を招き、また人権に無理解と思われよう。第二次大戦中に軍や政府の関与でこれに類する制度があったのはナチス・ドイツだけであり、「どこにもあった」というのは無知か欺瞞である。c理事すべてに日付なしの辞表を提出させた。いつでも首を切れるということで、文字通りの独裁的恐怖政治である。批判されても「民間でもあること」と開き直った。しかし経済同友会の長谷川代表幹事は、「経営を監視する取締役の発言の自由を制限することになる」ので「適切でない」と批判、日本商工会議所の三村会頭も、「就任直後に辞表を出せといった例は、自分の知る限り通常の会社ではきいたことがない」と断言した。②本田勝彦経営委員。日本たばこ産業顧問。学生時代、安倍首相の家庭教師であった。③百田尚樹経営委員。大衆小説作家。a自民党総裁選で「安倍首相を求める民間人有志による緊急声明」の発起人の一人。bNHKを「国営放送」とブログで記述。念のために解説すれば、NHKはいわゆる民法とは確かに違い、受信料の徴収が法律で認められ、予算は国会の承認が必要、人事に政府が関与する「特殊法人」であるが、国営ではない。c「もし他国が日本に攻めてきたら九条教の信者を前線に送り出す」と、ブログに書き、テレビでは護憲派を「妄想平和主義者」と罵るなど、現憲法の平和主義に激しい敵意を表明。d都知事選で田母神候補を支援し、街頭演説に立つ。そこで他候補を「人間のくず」と言ったというような言葉咎めで品格を云々するのは、事柄を矮小化してしまうように小生は考える。むしろ発言内容が重大である。南京大虐殺について「そんなことはなかった」と歴史的事実を抹殺。また東京裁判について、東京大空襲や原爆投下を「ごまかすための裁判だった」と真っ向から否定し、米国を批判した。④長谷川三千子経営委員。本居宣長などを研究したというが、改憲派として政治発言もしてきた。a百田氏同様総裁選で安倍支援の発起人の一人。b女性の社会進出が出生率を低下させたとして共同参画基本法などを批判するコラムを産経新聞(1月6日)に執筆。性別役割分担を「きわめて自然」として雇用機会均等法も批判した。安倍明恵夫人もこどもがないのだが…。c記事に抗議して新聞社に乗り込み自決した右翼を賛美する文章を発表。一種の自爆テロの神がかり的礼賛である。

 このように新しく選ばれたNHKの幹部には、戦前の日本を肯定し、中・韓だけでなく米とも争って古い「日本をとりもどす」熱意の高い者が多い。2014年は豊臣秀吉の「軍師」黒田官兵衛(受けた領国筑前は麻生副首相の地元)、2015年は大日本帝国創設者たちの師である「軍学者」吉田松陰(安倍首相の地元長州の人)の妹が主人公である。

 安倍氏が官房副長官だったとき、NHKは従軍慰安婦を含む問題について現場が制作した番組を放映直前に改編することがあった。東京高裁はこれをNHKの上層部が政府の意向を「忖度(そんたく)」したものと判定した。安倍・自民の政権復帰を機に、NHKの「忖度」は更に進んだのだろうか。「錦の御旗」にまつろわぬ者を「朝敵」としてふみつぶし、その旗をいたるところに立てるべく力強く世界進出していく道が見える。



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床屋道話 (その23 「プライド」の倫理その1)

      
 近年「プライド」はおおいに語られている。「誇り」「自尊心」などの言葉も使われるが、単に最も多用されるという理由で以下「プライド」の語を使うことにする。それらはしばしばプライドを「持て」という方向性での話であり、しかして小生はそれに対して多く否定的な発言をしてきた。個人としても国などの集団としてもその強調には危うさがある、ということをちらちらと言ってきた。「ちらちら」でなくもっとつっこんで言う必要があろうが、今回は逆の方向性で書くことにしたい。つまりあらゆる意味でそんなものは「持つな」「捨てろ」という意見ではないので、「もっと持て」と言いたい局面さえあるので、今回はそちらというわけである。

 夏目漱石が博士号を辞退した話は比較的有名であろう。小生はずっとこれを誰もが「痛快な」エピソードとして喜ぶものと疑わなかった。しかしそうとも限らず、批判意見もあり得るようだ。批判者はたとえばこう言い得よう。“お前はもう学者を辞めて小説家になった。いまころ博士号でもあるまい、というのはいちおうもっともだ。もらいたいとこちらから頼んだわけじゃなし、とも言えよう。もっと言えば、物書きとして少しばかり人気の出た自分に名誉を与えるかっこうで、自分たち(政府ないし文部官僚)もまったくの野暮天じゃないよ、在野の才人を褒賞する眼力と太っ腹を持ってるという宣伝にしたいんだろう、と。そういう面もなくはないと認めよう。でもそれだけでもなかろう。出す側にある程度の評価と好意とがあることは認めてやってもいいだろう。直接出す側だけでなく、そのようにもっていったまわりの人々の世話や気持ちも考えるべきじゃないか。そういう人たちの中には、お前の生活が苦しいのを知って、博士にでもなったら少しは楽になるかと思ったかもしれない。勿論これは学位というものについても、「死ぬか生きるか維新の志士の心で」文士になったおまえについてもさっぱりわかっていないと言えよう。しかしだからと怒っていきがるのでなく、そういう人々にもわかってもらえるように辛抱強く努めるべきなのじゃないか。また博士になったからと言って読むような者にしいて自分の小説を読んでもらおうとしたくはないかもしれない。しかしそれは他の人々より自分を上においているのであり、わからぬ者はわからなくてよいというひとりよがりだ、と。”さらに考慮できるのは、漱石が国民的文豪として偉人入りしたのは戦後に過ぎないことである。生前はある種の人気作家であっても「文壇」の中ではすみっこのほうに位置しており、そもそも戦前は「作家」の社会的地位はめっぽう低かった。“勿論そうした状況自体が「不当」だったかもしれないが、現にそうである中ではそうした枠組みも使いつつ他者の善意にこたえていくのが、作家一般の地位を上げるのにも寄与するのではないか。またなるほど第一作の『吾輩は猫である』にすでに「博士」の称号が風刺的に扱われており、漱石の考えは読み取れる。にもかかわらずそれを与えれば頼みもしていない漱石が嬉しがるだろうと思うなら、まさに『猫』さえろくに読んでいないことが丸見えであり、逆にばかにするなと言いたくもなろう。それでもその制度自体は否定していないのだから、俺をわかっていないなと苦笑しつつも自分の側が太っ腹になって受け取るのもありではないか。むしろ漱石は西園寺公望首相が文士たちを招くパーティを開いたときも出ず、断りの葉書におちょくっているとも思われかねない俳句を書くなど、「権威と闘う」ということにこどもじみた陶酔を感じているのではないか。”こうした批判にあなたはどうこたえるか。同時代に身をおいたとき、とりわけ身内や仲間内など、漱石をリアルに支えたいと思っている人からすれば、彼の行為は決して「痛快な」ものではなく、よくて困ったところ、悪くすれば彼のいやなところの表れとみえたのではないか。これを読者に聞きたいのというのが、今回の文章の第一のねらいである。

 小生は稲門の出である。赤門以外は「大学」じゃない、という人もいることは承知するが、全国で知られた、一般的には名門校と言えるだろう。入学時に思ったことの一つは、しかし自分は早稲田の学生である、ということで威張るまい、ということであった。――ここから続きがちなことは、”むしろ自分が大学の名誉を傷つけないようにしよう”という心構えかもしれない。しかしそのような「謙虚な」話ではない。小生が考えたのは、”早稲田の○○”ではなく、”かの○○が出た早稲田”と言われるようにしよう、ということであったから。――以上についての注釈二つ。その一つはここで議論をさきの漱石の件と重ねたがっているのは、まさに「プライド」というより傲慢ではというあり得る批判に対してだ。問題時点の漱石は「国民的偉人」でないと断ったが、それでも大学入学時のお前と比べ物にはなるまい、お前はもう漱石気取りなのか、と言われ得よう。それへの答えは、端的に言えば、いや俺は漱石なのだ、となる。その注釈がつまり、これもまたごたいそうな議論と言われそうなのを承知の上で言えば次のようになる。十五にして学に志し云々という『論語』の言葉は誰しも知る。王陽明は言う。これは単に孔子個人の記述的言明ではなく、一般にこうありたいものだという規範的言明である(ここまではよくある解釈だ)。そしてここでかなめになるのは「志」という語であり、これは「学」だけでなく後すべてにかかると解する。すなわち三十にしては「立つ」ことを「志す」のであり、四十にしては「惑わない」ことを「志し」云々と。このような志こそ、人間において最も重要なものではあるまいか。新入生に過ぎない、新入社員に過ぎない、という意識ではどうしようもないのではないのか。入社した時点において、志においては、自分は日本のビル・ゲイツなんだ、平成の松下幸之助なんだ、と思わずに何ができようか。漱石は分身的なある登場人物に、裟翁ももうだめだぐらい言えなくちゃいけないと言わせている。シェークスピアの偉大さを彼が認めていたことは、『文学論』その他を持ち出すまでもない。しかしおそらく彼は最後まで、裟翁何するものぞの志を失わないように自分に鞭打っていたに違いないと想像する。もう一つの注釈は上からもわかろうが、入学時の小生は「この私」の「プライド」としてそう思ったのではなく、誰もが思うべきこととしてそう志したということである。そして小生は今でもそう考えている。つまりたとえば早稲田にはいる者なら誰もが、伝統ある学校に入れてもらってありがたいと思うのでなく、大隈を超え、逍遥を超えるつもりになるべきだと考えている。みなさんはそうは思わないのだろうか。このような考えは昔風のいきがったものなのだろうか。それとも「おのれ」を世間よりも上におく、独りよがりな悪しきものなのだろうか。もう一度言えば、小生は「プライド(を持つこと)」について全体的には否定的な考えなのだが、今回問題にしたことに限定していえば、人はもっとプライドを持ってしかるべきだ、と思っているのだが…

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2013/09/06 18:19 2013/09/06 18:19
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