床屋道話70 スパイ大作戦

二言居士

 

添付画像
 今年はじめて、映画「ミッション・インポシブル」を見た。映画ファンでなく特に洋画はあまり見ないのだが、シリーズ化された人気ものということで気にはなっていた。その第一作をテレビで放映したのは、シリーズ最新作が封切られ、主演俳優のトム・クルーズも来日した機を見てだろう。それによって小生も初視聴したわけだが、それでいろいろなことがわかりまた思った。

 その多くは、えっ、いまさら、と思われそうなものだ。第一にこれが、「スパイ・アクションもの」の映画であること。第二に、テレビドラマ「スパイ大作戦」からの映画化でそれを継いでいること。このテレビドラマは日本でも人気で、小生は見なかったのだが、それでもあああれはこれからだったのか、といまさら腑に落ちた。まずは主題曲。別のいろいろなところでも使われ、耳におおなじみだ。そしてあの名ぜりふ「なおこのテープは自動的に消滅する」。小学校でも言う奴がいたなあ。

驚いたのは、主人公がスパイであったことだ。スパイは悪役と思っていたので。「不可能な使命(ミッション・インポシブル)」を成功させるヒーローの仕事がスパイとは意外だった。夏目漱石は密偵が大嫌いだった。私生活でも「探られる」のを気に病んだが、作品でも、たとえば『彼岸過迄』では、狂言回しの人物がそんなふうな仕事をしてみたいというので、密偵を依頼される。報告した際、彼は「小刀細工をしてあとなんかつけるより、じかに会って聞きたいことだけ遠慮なく聞いたほうが」いいのではないかは付け加える。依頼者はこれに、それが「もっとも正当な方法」で「そこに気がついていれば立派なものです」と言い、人物を見損なっていたと謝罪する。これは漱石自身の思想である。

そしてまっとうな思想である。知りたいことは当人に聞けばよい。さもなければ当人が公表した、または当人の同意のうえで公表された資料にあたるがよい。当人が隠しておくことや知られたくないことは、知らずにいるのがよい。しかし犯罪捜査など、当人の意に反しても公益のため知る必要がある場合もある、と言われようか。小生は「探偵小説」は必ずしも嫌いではない。その際「探偵」と(日本語としての)「スパイ」の語感や用法が異なるのは興味深い。「探偵」ものでも小生がよしとするのは、丹念な、しかし合法的な情報収集や、しかしさらに思考力によって犯人その他隠された事実をつきとめるものである。「スパイ(する)」という日本語は、のぞき見や盗み聞きなどの「礼」に反する行為に始まり、ときには明らかな不法行為も含む語である。語のこうした慣用にしたがって、小生は、必要な探偵行為の存在は認めるがスパイはよくない、恥ずべきわざだ、という言明を改めない。

いま政府や一部「野党」は、「スパイ防止法」の制定に動いている。スパイ嫌いの小生は大賛成か? ――いや、大反対である。なぜか。

まずスパイ活動の一部としての不法行為は既に刑法その他による処罰規定がある。「産業スパイ」を防

添付画像
ぐための法的措置や、公務員、特に警察官や「自衛」官による情報漏洩を処罰する法律もある。あるべきでない「特定機密保護法」も近年制定された。これは「何が秘密かも秘密だ」と言われたような、権力者が自分に都合の悪いことを隠すための法、国民の知る権利を行使する者を犯罪者とする悪法である。そのうえでの「スパイ防止法」だ。真の目的を「探偵」しなければならない。

それはさほど「隠されて」もいない。前からその制定を強く推していたのは、あの統一教会である。いまそれを強く推しているのは、あの参政党である。「あの」の内容を知る者には、難しい推理ではない。

またそれを推す言説の、言葉の次元でも社会的次元でも「文脈」からもわかる。「外人たたき」に続いて「非国民狩り」という構図である。

次に歴史的経験からの推理である。反政府や反体制の者、いや少しでも従順でない者は、「外国のスパイ」と決めつけられたり疑われたりした。


添付画像




◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1

2026/04/20 14:19 2026/04/20 14:19
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

   床屋道話69 遠回りか近道か

二言居士

 

 朝飯前に町内の決められた道を走ってくるのが、こども時代の星飛雄馬の日課だった。ある朝工事の関係でいつもの道が通行止めになっていた。迂路として、一方は帰宅に近道となり、他方は遠回りとなる。飛雄馬は近道を選んだ。その終わりに父の一徹が待ち構えており、飛雄馬を殴り倒し、説教した。「なぜ遠回りを選ばん!」と。これからの人生においても、迷ったときには遠回りを選べと。おとなになりプロになった飛雄馬は、オズマの挑戦によって危機に陥ったとき、この教えを思い出す。当座はしのげる監督の対策を敢えて蹴って、いろいろな意味でより苦しい回り道をすることで、彼はオズマに完全勝利を遂げる。

添付画像
高校のとき、英語の増田先生が言った。わからないとき、忘れたとき、すぐに辞書をみてはいけない(50年前の話なので、紙の辞書しかありません)。結局はみることになっても、まずは自分で考えたり思い出そうとしたりすることが大事だ、と。その後勉強を続け、また自分も教える立場になってからも、これは確かに大事なこととして実行し、おりがあれば学生にも伝える。英語だけ、語学だけの問題ではない。手っ取り早く「正解」を得てもあまり身につかず、手っ取り早く忘れるだけである。それは勉強というより「馬鹿になる訓練」だ。

ところが今の学生は、語学の授業でも(いくら言っても)辞書を持って来さえしないのが多い。なんでもかんでもスマホで済ませようとする。それの何が問題なのか。便利すぎることである。「翻訳ソフト」の場合は説明不要だろうが、辞書機能の場合もそうである。(電子辞書は、学習用としては紙の辞書に劣るがスマホよりは以下の点でまだまし。)たとえば動詞の場合、本来の辞書では見出しは原則として原型(不定詞)であり、「過去分詞の女性形」だとか「条件法現在三人称単数形」などでは出ない。そこで学習者はまずこれは動詞だろう、とあたりをつけ、なら原型は何だろう、と考えて辞書で探し、それがこの形になっているのはなぜかを確認する、という作業が必要になる。辞書によっては、また語や形によっては「何々を見よ」のような矢印で原型の「あたりをつける」手間だけは省ける場合があるが。いずれにせよこうした作業をすることによって、品詞を理解し、たとえば動詞ならその変化の仕組みと変化形の意味を理解し、それを文脈に戻すことではじめて正しい「訳」ができる。しかし今のスマホでは変化形でもいきなり「日本語訳」が出て来もする。文脈抜きなのでその場の「訳」としては当たらないこともある。が問題は当たっているとしても、その際学習者が「理解」していないことである。品詞を聞いても答えられなかったり、動詞と答えるので原型は何と聞くと答えられなかったりする。いわんや文全体の訳となると、「できて」いても「わかって」いないことが多い。いや「できて」いればいいのではと言う実用主義者がいようか。それでいい場面もある。観光なり商売なりで外国人と言語伝達をするのに翻訳ソフトを使い、それでことが足りるような場合である。その際なぜこの語を使うのか、こういう表現が適切なのか、人間が理解しているかどうかは二の次である。いや学習においてさえ、そうしたツールを使うのは絶対悪ではない。たとえば自分で考えたうえで、わからなかったところや疑問なところを調べるために翻訳ソフトを使い、(思いがけず違ったところがあればそれも含めて)違いの理由をさらに自分で考えるならば、学習を助ける道具である。前にも後にも自分は考えず、課題をこなすために使うならば、学習を妨げる道具である。

むろん語学だけではない。同じ課題のレポートを、ある者たちには生成AIでつくらせ、他の者たちにはウェブの検索ソフトだけを使ってつくらせ、第三の者たちにはどちらも使わせないでつくらせたという。そこで(その出来を問題にするのでなく)提出者が「自分の」レポートをどれだけ理解しているか調べたという。第一のクループが最も劣り、第三のグループが最もよい結果であった。

むろん学習だけではない。ひろゆきあたりが現代の処世術(「ライフ・ハック」)としてさかんに勧めるのは近道(「ショート・カット」)である。たしかに、無駄な、あるいは有害とわかった努力を精神論で美化するのはばかげている。しかしたとえば当面の宿題をこなすという目標には近道でも、それだけでは、外国語を習得するという目的からすると、時間とお金の膨大な無駄にもなってしまう。

「近道」人生ははたして「お得な」人生か。


添付画像



◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1






2026/04/06 13:58 2026/04/06 13:58
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

     床屋道話68

「半分もある」か「半分しかない」か――相対主義の詭弁の一つ――

二言居士

 

添付画像
  一リットル入りの器に水が0.5リットル入っている。これは水が「半分もある」とも「半分しかない」とも言える。――詭弁のほとんどがそうであるように、これもそれ自体としてはただちに間違いとは言えない。ただ使われ方として、詭弁であることが多い。よって問題がどこで生じ、どのように有害なのかをほぐしていきたい。

 この言葉で意味されるのは、同じ事態でもその評価は人によって異なり、場合によっては反対でさえある、ということだ。そしてそのことも「それ自体としては」間違いではない。ここでまず問題になるのは、ここから「客観的事実などというものはない」と飛躍されてしまうときで、この言葉を持ち出す者の多くはそうもっていきたいのだ。こうなると詭弁である。「一リットル入りの器に水が0.5リットル入っている」ということは客観的事実だ。事実認識と価値評価を区別しなければならない。哲学では、そもそも客観的事実などいうものはないとか、両者の区別はできない、とかいう主張もあるが、ここでは常識に基づき論ずる。(実は「哲学」の半分以上は非常識な詭弁なのだ。)

 もっと厄介な問題に進もう。この言葉を言う者の意図が、むしろ(上の問題はそれとして)「物事をどうみるかはみる人による」ということであるときだ。これもごく曖昧な意味では間違いとは言えないが、それによって事柄の本質などというものはない、あるいはそれを知ろうとするのは無駄だ、とするならば有害な詭弁になる。本質を知ることは重要だ。まず(ただの「知識」でない)理論にとってはまさにそれが重要だ。実証主義はまさにそれを否定する有害な哲学である。(相対主義の批判が相対性の否定でないように、実証主義という哲学への批判は実証科学の否定ではない。)しかしここでも哲学論は棚上げにしよう。日常的生活世界においても、本質の探究は重要である。たとえばある「事案」が「トラブル」なのか「性暴力」なのか。「性暴力」も「トラブル」の一種ではあるから、その事案をどう見るかはみる人次第であるとも言える。しかしその事案の「本質」をどうみるかということになると、「トラブル」一般とするか「性暴力」とするかが問われる。そうすると詭弁家が言いそうなのは、なら「本質」は多数決で決まるのか、だ。この場合はある意味ではそうだ。(自然現象の「本質」に関してはそうでないのだが、それを論ずるには科学論の、つまり哲学の領域に入ってしまう。それを避けて、むしろ詭弁家に有利な領域を敢えてとりあげる。)この反問で詭弁家が準備している論法は三つの場合がある。1)この案件は多数決で本質を決めるのにふさわしくない。2)そもそも多数決で物事の本質が決まることはない。3)多数決を含め、人の意見が事柄の「本質」を決めるということはできない。 それぞれの機会でどの場合なのかをみきわめなければならない。1)については論じなくてよいだろう。この場合は少ない。またもしその場合で、こちら側が正当化しようとすると、問題の事案の本質が多数決で決めるのがふさわしいかどうかを決めるのはやはり多数決だ、となりやすく、そうすると2)か3)の場合に移るからでもある。3)を選ぶ詭弁家は「倫理的自然主義」に立っていることになる。これも(他の多くの「哲学」同様)常識的ではないが、「論駁」するのは難しい。人間も自然の一部だ、という認識は正しいが、自然に過ぎない、というこの哲学は非常識であるとともに誤りである。確かに常識が正しいとは限らないが、幸いにもこの哲学が真理であると証明されているわけでもない。人も自然の一部だ、というのは正しいが、自然物でしかない、とするのは常識に反するので、「誤りと証明されない限りは常識に従う」を原則とする会話では、自分はその立場には賛成しない、と言っておけばさしあたりは足りる。そこで残ったのが2)だ。これと3)は反対方向に向かうが、共通する前提は、「本質」という概念が客観性を含意していることだ。たとえば「重要」というのは、「私にとってはこれが重要だ」のように主観的、ひとそれぞれであり得るが、「私にとってこれが本質だ」というのは不適切な言葉使いとなるだろう。ここから3)は、「本質」を言うなら人の意見でなく、人間の問題でも人もモノとしてみる必要があるとするのに対して、2)は人間の問題で「本質」を持ち出すことに反対し、すべては主観だとするのである。自然現象の「本質」についてはふれないことにしたが、その社会的文脈で語るときはその現象ないし事実がおかれている位置から語ることになる。たとえば「1ℓの水がある」というとき、「平均的成年男子の1日の摂取量として」なのか、「ある料理一人前に必要な量として」なのかで、客観的に多いか少ないかが決まる。その際に健康に悪くてももっと多くあるいは少なく望む、という者はあろう。それでも「ぱさぱさ」のごはんであるとか「つゆだく」の牛丼であるとかいうのは、多数決で決まる。人間関係の「本質」も同様で、ある事案の本質を「トラブル」とするか「性暴力」とするかは多数決で決まる。その場合の「多数」は一定じゃないでしょと言われればその通りである。ある場合に「性暴力」とされる事態に、別の時代や別の国では単なる「トラブル」とする者が大多数かもしれない。多数決である以上は少数意見もあり得る。社会事象の「本質」が何であるかはさしあたり多数がどうみているかを示せばよく、その「正しさ」なり「妥当性」なりを「証明する責任」はない。少数派がそれに不満ならそちらの側に挙証責任があり、それによって多数派に転じることもある。それをしないで、単に「ものの見方は人それぞれだ」、「物事の『本質』などはなく各人が自分に重要な面を取り出しているだけだ」など言うのは、話をぶち壊すだけの詭弁になる。

 「<もある>とも<しかない>とも言える」がどういうときに、またどういう意味で詭弁であるかを述べた。これはなぜ生じるのか、そしてどう対したらよいのか。まずそれは頭が悪いからではない。極度に愚かな者は詭弁を弄することもできない。そこには意図がある。相対主義一般の意図はいろいろあり、全部を並べて論ずる余地はない。自分の見方の表明を避けたいという意図についてだけとりあげたい。その理由もいくつか考えられるが、そうするのか本人にとってつらすぎたり、大きな被害や損失を招きかねない場合もある。だから言わない、とすっと言ってくれたほうが会話は楽に続くのだが、よくも悪くもそのこと自体も言いたくない場合もあり、そういう事情が察せられるときには、詭弁とわかっても「そうですね」と流すのもありだろう。そうでない場合は?

 一般論への移し替えには乗らず、あなたは「もう」と思うのか「まだ」と思うのか、としれっと聞くのがいいだろう。それに答えたくない詭弁家が対抗してもちだすかもしれないのは、主観を話し合うのは無駄だ、というさらなる一般論だ。科学そのものでない哲学やまして一般的会話で、客観的妥当性のない意見を無駄として排除するのは、科学主義の詭弁である。(相対主義批判が相対性の否定でなく実証主義批判が実証科学の否定でないように、科学主義批判は科学そのものの否定ではない。)では逆にエビデンスに基づかない「神学論争」にどんな意味があるのか。1)多くの人にとっては他人がどのような信仰(比喩的な最も広い意味で)を持っているかということにこそ大きな関心を持っている。なおa.その際それについて(知るだけでなく知って)共感し合いたいとか議論したいという欲求を持つ者も少なくない。b.そんなことにはまったくまたはほとんど関心を持たない者も少数だがおり、彼等がそれを当然とかあるべきとか思い込んでいることでこのような詭弁につながることもある。2)他人の意見を知ることで自分の見方が深まったり、ときには変わることもある。たとえばいまエンタメ界で話題になっている事柄が、むかし殿様や若様が腰元や村娘を「手籠めにする」ことと「本質的には変わらない」という意見もあろう。確かに両者に共通性もあり、そこをみることは無意義ではない。しかし現在の日本では、それは少数意見だろう。ではなぜ、時代や国によって多数意見は違うのか。それを考えることによって、たとえば「封建社会」や「近代社会」とは何なのか、考えることになる。これは「人間社会なんていつどこもそんなものよ」にとどまる(と言うのはそういう面もなくはないからだ)認識よりも深いし有用である。

 自分の意見を言わないことをもっともに思わせるのにもちだされることがあるもう一つの論理は、それは「敵か味方か」になる、というものだ。それはその通りだ。私達が会話する最大の目的は、客観的真理の探究ではない。相手が自分の敵か味方か知りたいということなのだ。それがなぜよくないのか。マウント取りたいんですか、と言われようか。そういう人もいるが、それは悪用だと言えよう。善用とは何かといえば、先に出たように、異論と闘うことによってこそ、自分の意見が深まったり修正されたりすることが最大の善用だろう。「論敵」との「闘い」は道徳的には悪でなく善である。事実認識の深まりは、「どうすべきか」の認識も進める。令和日本の性暴力も、いつでもどこでもあり得る出来事、としてしかみないならば、自分や身内が巻き込まれないように注意する、という程度の対策しか出てこないだろう。誰かを「敵視」するのはよくないといった偽善的論法の影に、「敵」に叩かれた体験から、それを避けたいという気持ちがあることもあるだろう。気の毒とは思うが、小ずるい戦略だとも言うべきだろう。打たれ強くなるように鍛えなければならない。物理的攻撃はもちろんなされるべきではない。しかし言論による批判は自由でなければならない。批判の内容や仕方で不適切で、不当に相手を傷つけるものは確かにある。しかしだからと言ってあらかじめ「論争」そのものをおきないようにしようとするのは卑怯な弱虫と言われてしまうだろう。利害の対立は会話だけで解決できるものでないが、「論敵」はよきライバルでありたいものだ。異論や批判も対話のスパイスにしてしまうような、おとなの貫録を持てるようにしたいものだと思う

 最後にこのような道徳的あるいは教育的な「効用」だけではない。たとえば巨人ファンが相手もG党だとわかると喜ぶのは当然だが、虎キチを相手に「口撃」を交わし合うのも、それはそれで楽しいものだ。


添付画像




◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1

2026/04/06 13:35 2026/04/06 13:35
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話67 アメリカの変化

二言居士

 

 トランプ氏が再び大統領に選ばれた。初当選のときに驚き、あきれたが、今回もこれに劣らない。対抗したハリス氏がとてもよいと思っているわけではない。ただトランプ再選はひどすぎると思う。政策面でもいろいろ議論はあろうが、ここでは道学居士の観点から二つのことをとりあげたい。

一つは、「平気で噓をつきまくる人」が選ばれたことである。選挙中の例では、テレビ討論の際に、ある町でハイチからの移民がペットの犬や猫を食べている、という発言があった。放送中に司会者からそのような事実の裏付けはない、と言われたが撤回しなった(その後も撤回していない)。そもそも前回の選挙において不正な開票であったとして自分が勝ったのだと主張し続けていた。とちらも(他の嘘同様)何の証拠も出していない。彼の問題であるとともに、そのような人間を最高権力者に選んだアメリカ国民の問題でもある。驚くべき主張に対しては、いったい本当なのか疑問に思うのがまともな人間ではなかろうか。疑問に思ったら、その真偽を知りたいと思うのが当然ではなかろうか。その第一歩もまったく難しくはない。ペットを食うなり票を盗むなりしたのは、いつどこの誰がどのようにしてなのか、それを誰が見たのかを問うことである。それを問わずに言われたことをただ信じて(あるいはそんなことは問題でないとして)、米国民の過半数が賛成投票したことになる。トランプ氏のほうでも証明するどころかこうした具体的事実を提示することさえしないのである。小生が西洋思想を学んで感じたことの一つは、「嘘」に対する厳しさである。「偽証」への批判はあらゆる領域で頻出する。宗教やカント倫理学から始まって、庶民の日常生活でも「嘘つき」は強く叩かれる。東洋では「嘘も方便」と言われるように(法華経をみよ)、悪意がなれば言葉の上での嘘は必ずしも罪ではない。「ことば」の重みづけも含めて、東西の対照性を強く感じていた。しかるに当今のアメリカでは「平気で嘘をつく」者が大統領に選ばれるようになった、ということに、小生は驚くのである。

もう一つは、トランプ氏が司法を軽視することである。三権分立を旨とする「近代国家」のなかでも、アメリカは特に裁判所の権威が高いというのが小生が抱いていた印象であった。もちろん、多くの大統領が、判事の任命権を通じて、司法を自派寄りにしようと画策してきたことは知っている。すべての国家のすべての国家機関と同様に、アメリカの裁判所も厳密に中立などではない。それでも罷免されることはない判事がときの行政府や立法府に対立する判決も出し、それが重んじられることが「アメリカの民主主義」の大きな面子になっていた。トランプ氏は多くの訴訟で被告になっており、いくつかは既に有罪判決が出ている。控訴や上告することは彼の権利でありそれ自体は問題はない。しかしその際具体的な反論を理由として挙げるのでなく、訴訟自体が「魔女狩り」であると根拠も示さずに乱暴に攻撃する。しかも大統領に就任すればその権力によって自分自身を「免責」する処置をするであろうと伝えられる。大統領といえども法の下にあるという「法の支配」は民主主義の根幹をなすものだが、彼は(かつてわが国の航空幕僚長であった田母神俊雄氏が、空自の活動を違法とした裁判所の判決に投げつけた言葉を使えば)「でもそんなの関係ねえ」という態度である。これは名実ともに独裁に向かう道ではなかろうか。

「コメンテイター」のなかには、トランプ現象にあきれるのは、アメリカの実態を知らない「リベラル」や「インテリ」の空念仏と評する者もいる。しかしそうなのであろうか。トランプ支持者にもいろいろな言い分があろう。そもそも利害の対立があり、自分が得をしたいことはふつうのことでもある。対立者を攻撃して自分を有利にすることを否定するならば、政治そのものを否定することになろう。しかし嘘をつかないこと、話の真偽を確かめようとすることは人間社会の基礎であり、司法の独立や法の支配は民主主義の第一条件である。こうしたことがあっさり捨てられてしまうのはまっとうな世の中の底が抜けたように感じられる。この素朴な違和感と疑問を言いくるめようとするような「わけしり」のコメントにも、不安を感じる。

アメリカだけの話であろうか。

添付画像



◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1







2026/01/11 04:20 2026/01/11 04:20
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話66 十年後

二言居士

 

 小生は近年の「加速主義」に反対して、「減速しよう」を標語の一つとしている。本欄でもその方向性でいくつかの雑文を書いた。即決、即レスでなく「立ち止まって考える」ことがますます重要な昨今である。しかし何事にも例外や程度というものがある。

政治の場合でも、「何をするか」に劣らず「いつするのか」が重要な場合もある。

近代日本の性格を大きく決めたのが「明治十四年の政変」であった。徳川幕府から権力を奪った新政府は、「五箇条の御誓文」では「万機公論に決すべし」とうたったが、そうはしなかった。天皇を最高権力者に戴いて、公家や薩長の士族などによる専制政府であった。これに対し、憲法制定や議会の開設を求めたのが自由民権運動である。大久保利通暗殺後最大の実力者になっていた伊藤博文も、その必要性は認め、準備も始めていた。しかし大隈重信がその案を出すと彼は激怒して政府内の大きな対立が生じた。その大きな理由が、大隈案が早期にこれを行うということによるものであった。そこで彼は不条理な口実で大隈を参議から降ろし、他方「十年後」(1990年)の国会開設を公約した。

自由民権運動をどう評価するか。それがあったからこそ憲法や議会がつくられたという意味では、けっして無駄、あるいは失敗ではなかった。しかし二択で言えばやはり敗北であり、その大きな画期はこの明治14年にある。この「10年」が大きかった。「上」から大隈を追放した後、伊藤や岩倉具視は「下」の運動を徹底的に弾圧した。その間に貴族制度や枢密院をつくり、天皇主権の憲法をつくって「臣民」に「下賜」した。一時は民衆が学習会を組織して憲法案をつくる試みもあったほどだが、十年後の憲法発布の際は、お雇い外国人のベルツが、民衆は中身を知らないで祝いに浮かれている、とあきれる状況であった。こうして近代日本の民主主義革命は挫折した。

現代日本の性格を大きく決めたのが「60年安保」であった。「講和」条約と同時に調印された旧日米安保条約の「改定」をめざす岸信介首相(安倍晋三の祖父)に対し、反政府側は安保破棄、日本の中立化を求め、大きな政治闘争になった。岸は新安保条約に調印、衆院を強行採決で批准させた。これをどう評価するか。

旧安保は無期限であったのに対し、新安保は期限十年と定めている。十年後には両国でどうするか協議するが、さもなければ「自動延長」になり、どちらか一方が破棄を通告すれば(相手の意向によらず)その一年後に無効になる。これ自体は条約としてまっとうな規定である。政府側は、この規定を含め新条約が双務的にしたことで安保「改定」の意義として評価する。旧安保が米軍に日本を使わせる一方、日本のメリットは何も明記されていない不平等なものなのは自明であった。なぜと言われれば戦争に負けたからしょうがなかったとでも言うしかない「条約」だが、「講和」した以上は独立国なのだからいつまでも放置できないのは当然である。それで「改定」となったのだが、これは反政府側の敗北であった。

なぜなら少しばかりの「改定」をしても、本質的な不平等性は残ったからである。本稿では詳論しないが(沖縄の状況をみればわかるように)、日米安保は、他の諸国と米国との軍事同盟と比べても従属的で、日本をアメリカの属国化するものである。純粋な中立でなくアメリカと友好関係を保つとしても独立国としての誇りや国益も追求できるという道を、安保改定は閉ざしてしまった。それでも十年後に破棄できるようになったと言われようか。しかしこの十年がやはり大きかった。米国と、その代理人となることによって支配を保障された日本人とは、その期間を利用してあらゆる面での米国依存体制を固めた。また国民の意識を政治そのものから冷まして、「経済成長と五輪・万博」(パンとサーカス)に酔わせた。かくして「十年後」は「70年安保」でなく「Expo’70」の年となった。

「明治十四年」にしても、「1960年」にしても、「前と比べればよくなった」と言うべきでなく、あり得た他の選択肢を葬ることで悪い未来をつくった、のである。その際だしに使われたのが「十年後」であった。

ことし2024年は政治資金集めパーティからの「裏金」が政治問題になった。問題を起こした政治家たちは実質的な責任をほとんどとらず、報告書に記載しないように指示したのが誰かも示されないままだ。所属する自民党は政治資金規正法の改定を「再発防止策」とした。この「パーティ」およびこの法律自体の問題については、仲島陽一氏の『入門政治学』(東信堂、2010)第一部第四章「政治資金論」に譲る。問題の改定の一つは、購入者が公表されるのを20万円以上から5万円以上に下げたことである。実に効果的な対策だ。年一回のパーティを年四回にするか、誰か三人から名前を借りればよい。小学校の算数ができれば誰でも思いつける。もう一つは、得た「政治資金」の使い道を「十年後」に公表することである。こういうことをよく思いつくものだ。当人たちが言うように「適切な使い方をしている」なら、なぜいま公開できないのか。ひょっとすると小生が述べた、「明治十四年」と「1960年」の効果を理解している切れ者の策か。いまの権力者や実力者が十年後にどうなっているか、「一寸先は闇」の政界で気が長い話である。またそのときに「十年前」の不正が発覚して、どれだけの意味を持てるであろうか。少なくとも法的な意味はない。なぜならこの事案の犯罪での「時効」が五年だからという、念のいった話である。つまるところ、この「再発防止策」で「少なくとも前よりよくなった」などと考えるのは、「十年後」に騙される三度目になることである。

ではどうするか。もう一度言おう。政治の場合、「何をするか」に劣らず「いつするのか」が重要な場合がある。ブレイク「十年後」も活躍を続けている林先生、しめに使わせてください。「じゃいつやるの? いまでしょ」。


添付画像


◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1





2026/01/11 04:10 2026/01/11 04:10
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話65 ゴッホかラッセンか?

二言居士


 以前あるお笑い芸人が、「♪ゴッホより、ふつう―に、ラッセンがス・キ!」というネタで受けた。小生はお笑いには、なぜそれが笑えるのかを検討する習いがある。自分としてはあまり、あるいはまったく笑えないがウケたものの場合、特にそうする。このネタはそれに当てはまる。笑わせる要因としては、言葉の意味内容以外に、間、強弱、抑揚などの言い方、表情やしぐさ、服装、芸人の顔かたちや私生活との関係などいろいろな要素がある。しかしここではせりふの意味内容だけを問題とする。他の要因は言葉だけで論ずるのが難しいこともあるが、ウケた要因として意味内容は小さくはないと考えられることもある。

まず言えるのは、ゴッホは教科書に載るいわば権威ある芸術家であるのに対し、ラッセンの作品は通俗的とされるであろうことである。ということはゴッホよりラッセンが好きというのは芸術を解しない俗人ということになり、その告白は「自虐ネタ」として笑える、ということであろう(またその芸人はいかにもそれっぽい雰囲気をかもしだしている)。しかしこうも考えられる。では彼を笑う「我々」は本当にラッセンよりもゴッホが「好き」なのか。「我々」はゴッホが大芸術家であることを知っており(そのうちのどれくらいかはわからないが、むしろ「そう言われていることを」知っており)それよりラッセンが「ふつうに好き」など言うのは恥ずかしい、と感じているのかもしれない。世間が、特に「権威者」がどう「評価しているか」でなく、「自分」がどっちが「好き」かと言われればラッセンのほうかもしれない、と思う者も少なくないのではなかろうか。ちなみに小生はゴッホは「評価」するだけでなく全体としては「好き」な画家に入るが、たとえば経済的価値や他人の思惑などを一切考えずに自室に飾るとして、ゴッホの「ジャガイモを食べる人々」とラッセンのイルカの絵とでは、後者を選びたくなるであろう。つまりこのネタは、少なくない者が内心感じていたが口に出せなかったことを言われちゃったなと笑うしかない、と思わせたのかもしれない。いわば隠れアルアルネタという解釈である。

ところでゴッホの絵に芸術性があるとはどういうことなのであろうか。実用的でないという意味で精神的な快さを与えるというのは、芸術の条件であろう。しかし文芸・音楽・演劇などの大衆的・通俗的と言われる娯楽にもある楽しさやおもしろさとは異なる芸術的快とは何か。「深さ」がそれであろうか。娯楽は享受しているあいだの快さである。芸術は心に残るものである。あとからチクチクきたり、ときには享受者の精神や生き方をじわじわと、あるいはがらりと変えてしまうこともある。ある意味でのわかりにくさを伴うのも、このことに関係していよう。接してただちにああきれいだ、ああおもしろいと感じられるのは、心の表面での反応である。はじめから感動する名作もあるが、それが「名作」であるならば繰り返し接して飽きる、あるいは飽きないが同じ感動を味わうのでなく、新たな発見や味わいがあるということであり、それが作品の「深さ」であろう。岡本太郎は「とてつもないもの」や「なんだこれは」と言わせるようなものをよしとした。すぐ「わかる」「感動できる」「笑える」「泣ける」ようなベタな作品は「浅い」ということであろう。

しかしわかりにくければ芸術的というわけではあるまい。「鬼面人を驚かす」という表現があるが、「現代芸術(モダンアート)」「前衛芸術(アヴァンギャルド)」と称されるものにはありがちなように思われる。モナリザにひげを足したり、便器を「泉」と題しパイプの絵に「これはパイプではない」と題して展示するのはたいしたことなのか、実は小生は納得できない。権威への反抗と言っても、そういう仕方で既成権威の存在に寄りかかっており、新しいものを出さなければこどものいたずらの域を出ないのではあるまいか。「古典」をその知識だけで済ませてしまうのはありがちだが、「現代的」「最新」といった文句で「わかった」つもりになっただけの者も少なくないのではないか。それともこの疑問は、小生のほうが「古典的」美意識にとらわれていて、新しいものを吸収するしなやかさに欠けているということなのか。しばしば考え込んでしまう。

いずれにせよ、ある芸術作品がなぜうけるのかは、あるお笑いがなぜうけるのかと同様に、小生の関心を引く問題である。


添付画像



◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1

◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1



◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1

◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1
2025/04/18 05:44 2025/04/18 05:44
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話64 「どっちもどっち」論はだめだ

二言居士

 

添付画像
 いじめに関して、「いじめられる側にも問題がある」と言う者がいる。これは言説としてよくない。本当に問題があるかどうかは本質的なことではない。よくない最大の理由はそれがいじめる側を免責するからである。「問題がある」のが事実だとしても、「だからいじめていい」ことにはならない。まずいじめをやめさせいじめた側を反省させること(そして必要に応じて処罰すること)であり、それが十分に行われた(一般論として話し合われているなら以上の点ではっきり合意が得られた)後、はじめて「いじめられた側」にも問題があったかどうか、あったなら今後どうすべきかをとりあげることが許される。

痴漢に関して「被害者にも落ち度がある」という者がいるが、この言説についても同様である。純理論的には完全な間違いとは言えない。露出の多い服装の者が狙われやすかろうし、一部の隙もなさそうな女性を襲う痴漢はめったにいなさそうだからである。しかしもちろん、そういう女性相手なら痴漢してよいわけではないので、まず被害者のほうを責めるのは言説としてよくない。

人間同士の対立や争いにおいて、一方の側が100%悪いという事例は少ない。「盗人にも三分の理」と言われるくらいだが、これはだから「どっちもどっちだ」を意味するわけではない。それはなぜよくないのか。まず、「ではどうするか」に役立たないからである。まずはいじめや痴漢をやめさせなければならない。(そして必要に応じて処罰しなければならない。)裏から言えば、「どっちもどっち」論は「ではどうするか」にいま求められている実際的な答えを出さずにすむ、場合によっては「仕方ない」「なるようにしかならない」とする反応である。つまりさらに言えば、自分を局外におく評論家的な構えである。楽であるとともに偉そうにも見え「公平さ」もよそおえて、一つで三つおいしい。

ウクライナ戦争であれイスラエルのガザ攻撃であれ、双方に言い分はある。「三分」の理かもっと大きいか少ないかは意見が分かれようが、どちらかがゼロとは言い難い。それでも「どっちもどっち」論になってはだめだ。故芝田進午先生は、いわば評論家的な態度を「行司の思想」として批判した。純粋な観客としての「評論」ではいけない。この二つの戦争の場合は自分が直接土俵に上がることは好ましくないが、どうすべきか、それに向けて自分は何ができるかをはっきりさせなければならない。たとえば日本は何をすべきかを考え、国民の一人として(あるいは同じ考えの国民とともに)政府にどう働きかけるか、あるいは政府の現在の方針をどう評価するか、を考えなければなるまい。

「自民党はよくないが野党もだらしない(あるいは頼りない)」、これもよく聞く。これも内容そのものはわからなくはないが、言説(それを口に出すこと)はむしろ有害である。まず「野党」と言ってもいろいろで、(旧N国党や保守新党のように)自民党よりよくない「野党」もある。「野党」という大くくりは議論を進める妨げになる。さらに悪いことは、その言説は「だからこんな現実も仕方ない」として行動への妨げになり、結果「よくない自民党の権力」という現実を支えるからである。野党、いや〇〇党(や××党etc)にもっと力をつけてもらいたいがための苦言だ、と言う人もいるかもしれない。それなら〇〇党(や××党etc)の党員や支持者に対して言わなければならない。支持していない人にその政党の悪い点や弱い点を述べても(評論家面すること以外)意味はない。一般的な場面でのどっちもどっち論は、繰り返すが、責められ責任を負わされるべき(つまりより「悪い」)のはどちらかを判断することを逃れようとする知的怠惰であり、だから「仕方がない」という「現実」維持に導く無気力または保身であり、自分を「中立」の立場におくことで「反対派」の攻撃を防ごうと図る卑怯である。

添付画像

◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1

◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1



2025/03/18 04:21 2025/03/18 04:21
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話62 マイナンバーそのものの廃止を

二言居士

添付画像

 

 「安全漫才」というお笑いコンビがある。出てきた当座、おもしろいネタがあった。長いお勤めを終えてムショから出てきた「アニキ」(アラポン)を出迎えた弟分(ミヤゾン)がいまシャバではどうなっているかを教えるという設定である。そのなかで、国民に十二けたの数字がつくようになった、と教える場面もある。これがおもしろいのは、刑務所の囚人は名前でなく番号で呼ばれる、という理解が前提されているからである(現在実際にそうであるかどうかは筆者は知らないが)。つまりこのギャグは、今では日本全体が「塀の中」状態になってしまった、という風刺とうけとられるのだ(ミヤゾンらがそこまで考えてつくったかどうかはわからないが)。

昨今はマイナカードのトラブルが多発する中で、何としてもそれを作らせようとする政府の方針で、保険証の廃止などが論議の的になっている。小生はこれに反対であるが、そもそも国民を政府の囚人化するマイナナンバーそのものを廃止すべきであると考える。

イギリスは、1939年に国民登録法に基づき、身分証明書となるIDカードが導入された。しかし個人の身元を証明する行為は強制されるべきではないという世論により、53年にこの法律とIDカードは廃止された。2006年に再びID法が成立したが、2010年に監視社会への危機感などからこの法律は廃止となった。現代イギリスでは、複数の行政機関で同一の識別番号を用いることはない。

フランスでは、1972年に、行政分野を横断して個人情報を管理する計画を政府が立てた。しかし大きな社会的反対が起こって政府はこの計画を撤回した。現在フランスでは、社会保障番号、税務登録番号など、行政分野ごとに異なる番号が使われている。

ドイツでも、1970年代に行政分野横断の個人識別番号の導入が検討されたが、プラパシー侵害への国民の懸念が大きく成立しなかった。それどころか、そのような制度は憲法違反の可能性があるという判決が1983年に下され、行政事務は税務識別番号、医療被保険者番号など分野ごとに異なる識別番号で行われている。

イタリアでは、納税者番号が記載された国民健康保険証が発行されている。これとは別に本人認証手段として国民電子IDカードが2001年から発行されている。

アメリカでは、1936年にニューディール社会保障計画の一環として社会保障番号が導入された。60年代以降、利用範囲が拡大され、民間でも使われ、個人情報の流出やなりすましなどの犯罪が問題になった。バイデン大統領はプライバシー保護を重点分野とし、21年には連邦プライバシー法案が提出された。社会保障番号は民間でも使われるが、ICカード化はされず紙で発行される。氏名と番号だけが記載され、生年月日や顔写真などは載せられない。カナダでは、社会保険番号が個人番号として利用される。しかし悪用の防止のため、14年にプラス地筑世の社会保険番号カードは廃止され、登録時にその番号が記された書類だけを渡されます。その官庁のホームページには、これを身分証明書として使わないように、またそれを持ち運ばず法的義務がある場合にだけ提供するように、警告が書かれている。

2023年7月5日、加藤勝信厚生労働相は国会で、G7の中で、異なる行政分野に共通する個人番号制度があり、それを確認できるICチップ付きの身分証明書となるカードを健康保険証として利用できるのは、日本以外にない、と発言した。日本のデジタル化が遅れていると叫ぶ者も少なくない。確かに日本は遅れている。しかしデジタル化にではなく、デジタル化の歯止めをかける対策が遅れているのである。

このような先進諸国の流れにさからって、日本政府が国民総囚人化にやっきになっているのはなぜであろうか。役人たちが、行政事務を簡素化して国民の税負担を軽くしようと思ってか。政治家たちが、国民生活をより便利にしようと思ってか。どちらも本当らしくはない。熱心なのは一般国民ではなく、ITを中心とする企業である。それはこのシステム構築の過程においてと、できた後の利用においての二重に利得するからである。前者では、2013年度からのこの十年で、マイナンバーとマイナカードの運用を担うJ-LISが2810億円以上の発注をしている。これは国と自治体が管理する法人で、原資も国と自治体からであるが、その契約実績はそのような企業で大部分が占められる。一位はNTTCommunicationsで四位も同グループのNTTデータである。二位は近年DXに注力している凸版印刷で、五位に日本電気、七位に日立製作所、七位に富士通である。この一位・二位の企業はマイナカード用の「製造業務」を、競争入札でなく随意契約で受注している。後者では、膨大な個人情報の取得が大きなビジネスチャンスになる大企業があることである。経済同友会は、マイナカードが持つすべての機能をスマホなどに搭載することを要望している。これに対してたとえば医療機関が、保険証を廃止してマイナカード一本にすることを求めたりはしておらず、むしろ逆である。ネットの声でも、推進を主張しているのはたとえばIT起業家のホリエモンのような人々である。

科学技術社会論を専門とする神里達博氏は、先進諸国で、共通番号や国民IDカードが必ずしも普及しているわけではないことを紹介し、日本政府の「前のめり」を危惧している。また、ドイツではナチスの人権蹂躙などを踏まえ、複数の行政機関が情報を突き合わせて国民を「丸裸」にする仕組みは憲法になじまないと理解されていると知らせる。フランスでもイギリスでも、国民監視の強化が懸念されて統一的な共通番号は使われていないことを伝える。これらを踏まえて氏は、マイナカードの事実上の強制だけでなく、「マイナンバー」自体について、再考の必要を述べている。

アメとムチで普及が進められたマイナカードだが、各種の事故やトラブルが多発していることで、返上運動も起きている。もっともなことであり、小生としては、マイナンバー制度そのものの廃止に向けた運動も期待したい。


添付画像



◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1

◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1


2024/04/08 18:26 2024/04/08 18:26
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

   床屋道話63 私のカルチャー・ショック(その2)

二言居士

 

添付画像


 ことし2023年、小林善彦先生がなくなられた。小生は先生にはひとかたならずお世話になったので書くべきことはある。しかしここでは「私のカルチャー・ショック」にかかわる点にだけ触れる。また先生の人となりや教師・研究者としての業績などについてはよりふさわしい人がどこかで書くであろう。

小生の先生との接触は、雑誌『思想』(岩波書店)の1978年6月号掲載の「ルソーの人気 ヴォルテールの不人気」に始まる(そして本稿ではそれに関することだけを書く)。小生が大学に入ったばかりのときである。以前からルソーに関心があったので、ともに没後200年に当たるルソーとヴォルテールを特集したこの雑誌を買って読んだ。多くの執筆者の文章はそれぞれにおもしろかったが、小林先生のものが私に興味深かった点を述べよう。題の意味は、日本ではルソーは人気があるが、啓蒙思想家として彼としばしば並べられるヴォルテールはそれどころか知名度さえ低いことを指す。そのことは周知の事実だが、この現象はフランスにはあてはまらないことを知らされた。つまりフランスでは、ヴォルテールは知られているだけでなく好かれているのに対し、ルソーについてはその文芸作品や社会思想を「評価する」人でも「好きではない」者が少なくないというのだ。そして先生はその原因について、ヴォルテールがまさにフランス的な才人であるのに対して、ルソー(フランス人でなくスイス人)がいかにも日本的であることに求める。その「日本的」とは何か。まず性善説である。そして「腹を割って」話せばわかりあえる。心情を吐露してそれを共有し、一体感が得られることが幸せである。これに対しフランス人はむしろ性悪説寄りであり、人はみな自分が一番、がリアルな認識だとし、それがわからぬ「お人よし」をばかにするのを楽しむ。対人的には「察しあう」どころか気持ちをわかってもらうことでもなく、互いに権利や主張を論理的にぶつけ合うなかで妥協点をみいだす。結果として自分の優越や勝利が得られれば幸せである。

ここから小生が感じ取ったのは次の点である。第一に、小生はルソーをいわば西洋近代思想のチャンピオンとしてとらえてきた。それは間違いではないが、小生がルソーの魅力として感じてきたのは、彼が「日本的」であるいうことにも少なからずよっていることがわかった。第二に、西洋的(さしあたり「フランス」が代表するが)人間への違和感が対自化された。

そこから小生は、これからのあるべき日本を考える際に、西洋由来の理念(たとえば「民主主義」であれ「社会主義」であれ)を学び取り入れるにしても、それを「日本的」なものとして加工する工夫が重要と考えるようになった。そのような「対自化」の土壌は七十年代に既にあった。たとえば「進歩派」のほうでも、もはやソ連や中国は手本ではなく、社会変革や新体制のあり方などは日本独自に考えなければならないというのが大方の意識であった。またディスカバージャパンは「保守派」の仕掛けた、政治色も隠された「キャンペ―ン」だったのだが、それに民衆が好感したのは、反動的な国粋思想からでなく、国民性の健全な再自覚であった。

「日本回帰」というのは昔からよく言われたが、ゆえあることと思う。西洋をよく知ることで、自分がどうしようもなく日本人であることを自覚させられがちであるからである。多くは「洋行帰りのインテリ」であったが、小生は実際に西洋に行ったのはもっと後になるが、これらの知識によってこの自覚は始まった。またそれにもまして、大学以前の小生の環境にはなかった、「バタ臭い」大学人の言行に触れることによってでもある。

排外的な「日本主義」には反対である。実際小生はその後もずっと西洋を学び続けている。自分が「どうしようもなく日本人だ」という自覚は、日本がすぐれていると考えることではない。またルソーが「日本的」であるということも、ヴォルテールと比べるならば、という観点でなされているので、当然ながらルソーには西洋的なところもフランス的なところもある。老荘思想と安直に重ねたり、安藤昌益のヨーロッパ版とだけとらえるならば、ルソー理解としても一面的である。

小生自身にしてもそうであろう。先生の文章に強い印象を受けて二、三の知人に紹介したところ、そうするとあなたはヴォルテール型というわけねと返されて驚いたことがある。考えてみれば、明晰な論理的整理自体がヴォルテール的である。小生もなるべくそのままの紹介に努め、暗示的あるいは感情的に伝えたのでもなく、いわんや言わないでわかってくれやと望んだのでもない。というように「純」日本的であることはほぼ不可能であるし、またそれでもある程度西洋化した日本人に(いわんや西洋人にわからせるのに)有効性も乏しい。

こうした折衷的な姿勢でも、先生には不本意な「影響」かもしれない。「ヴォルテール的」要素を小生以上に持ち、「日本的」なものにはより多くの反発を持っていたと思われるからである。それは戦前生まれで国粋的風潮の害悪を直接に被った経験や、生まれが商家で合理主義的であったろうことからと推察される。

それにしても小生が、フランス革命の合理主義や民主主義といった教科書的知識を超える理解を与えられる一つのきっかけを与えられた出来事であった。

添付画像


◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1

◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1



◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1

◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1
2023/11/14 14:20 2023/11/14 14:20
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話61 リベラルかネオリベか

二言居士

 

 前回、現代日本では、保守かリベラルか、という対抗図式があると言ったが、リベラリズム(自由主義)かネオリベラリズム(新自由主義)か、という対抗もある。「保守」に対する「リベラル」だと(国家などに強制されないという)消極的自由を重視する個人主義の面が強いが、ここでは積極的自由の評価として、権利や生活の公的保証をよしとする思想となる。これに対して新自由主義(ネオリベ)は私人と私企業のできる限りの自由をよしとする。具体的には両者はどう違うのか。

 「ブラック企業」の例で考えよう。両者ともそれがいいとは考えない。ただどうすればよいかと問うと答えは異なる。リベラルでは、これを規制する法をつくれとまず言うであろう。悪を禁ずるのは当然のように思われるが、ネオリベはそうは考えない。そんな企業はやめる人が増えはいる人は減るから自然に淘汰されるとまず言う。(ネオリベはダーウィニズムが大好きである。)次に、そのように無駄なのに禁止することは自由の侵害であるからよくないという。(彼等は、自分達こそ真の「自由主義者」であると言うことも少なくない。)第三に彼等は言う。法をつくることは金がかかる。また法がつくられても破る奴は必ずいるから、それを監視するために、または告発を受け付けるために、そして違反者を裁いたり罰したりするためにまた金がかかる。そうした金はつまり税金から出るので、税負担が増す。大きな政府反対! と彼等らは叫ぶ。以上はなるほどと思いそうな理屈である。しかしもう少し考える必要がある。ブラック企業であるからにはすでに犠牲者が出ている。政府が規制しないならそれは続く。そういうとネオリベはこう反論する。ブラックであるかどうかは調べればわかるはずだ。そうした努力をしないで騙されたとか言うのは自己責任(これもネオリベの好きな用語)だと。まず確認したいのは自らわが社はブラックですという企業はないのでふつうに得る情報ではわからないことも多い。それでもよく調べれば絶対わからないということでもないので、自己責任がゼロとは言えない。しかしまたこの言い分の問題が二つある。一つは、情報獲得が上手でない者(情報弱者、略して「情弱」というそうな)が騙されても同情に値しないという、強者の立場の思想であることである。もう一つは、騙す側でなく騙される側を非難していることである。これも「騙される」側にも問題がゼロとは言えないが、騙す側がより悪いとするのがまっとうではあるまいか。ネオリベがそうならないことからみえてくる(あるいは理論武装したネオリベなら自ら言う)ことがある。ここでリベラル派は弱者や騙された者を非難するのは「悪い」と道徳的に否定しているが、そのような道徳的評価こそ、彼等は避けたいということである。その言い分には二つの形がある。1)道徳は無力である。強者が勝つというのが事実である。不満なら説教するのでなく賢くなれ、強くなれ(という社会ダーウィニズム)。2)道徳は価値観の押し付けである。我々は(「真の」)自由主義者として価値を押し付けるなと主張する。これもまた「論破」されそうだがやはり熟慮しよう。1)に対しては、社会ダーウィニズムは科学的真理であるかに装っているが実はそれ自体価値観であり、強者の思想である(そしてそれには反対だ)と言える。2)に対しては、「価値を押し付けるな」というのも事実言明でなくそのような価値の「押しつけ」なのだと言える。およそ(純粋な独り言や絶対ひとに見せない日記でもなく)他者にものをいう限り自分の価値を相手に(彼等の意味つまり最広義で)「押しつけ」ているのであり、問題はどのレベルで押し付けたいかということなのである。それにしても1)2)から浮かび上がってくるのは、彼等が価値づけの能力が乏しいか、価値づけが嫌いなことである。純粋に後者の場合の理由は容易に推測される。すなわち既に強者なのであるから、そのことの「善悪」をあげつらわれたくないので、そんなことを言ってもしょうがないとか負け犬の遠吠えだとか言いたいのである。これは卑劣な物言いであるが、前者の場合先天的なら同情の余地がありそうにみえはする。それでもそういう彼等の所与をスタンダード(あるいは彼の好きな言葉ではデオォルト)にせよという(価値の押し付けをする)なら、それを受け入れなければならないなどということはない。そういう(道徳感情の欠落した)者に対しては、残念ながら、彼等にも通じる(利害勘定の)態度でかかわる(私個人としてはできる限りでかかわらないようにする)しかあるまい。

 「保守かリベラルか」については小生は、どちらかに全面的に賛成はしなかった。しかしネオリベラリズム(現在の日本の政界では「維新の会」が典型)には小生はまったく反対であり、その否定こそ現代の重要課題であると考える。



添付画像



◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1
2023/10/20 18:05 2023/10/20 18:05
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話60 保守かリベラルか

二言居士

 

添付画像
 半世紀前までは、保守か革新か、という図式であったが、現代日本ではこのように設問されるのが多い。お前はどうかと問われれば、ずばりどちらかではない。強いてどちら寄りかと迫られれば、リベラル寄りであろう。

 そもそも保守とは何を保守するのか。一般的に答えられるのは、家族・国家・宗教(心)などである。逆に言えばそれを崩すと考えられるのが個人主義であり、その側に立つのがリベラルとみなされる。そこで小生は考えてしまう。つまり「個人主義」にはあまり賛成できないからだ。イエ制度には反対である。国家主義はもとより、「国」と区別される意味での「国家」にも否定的である。ある意味では「戦闘的無神論」者でもあろう。それでも、家族や国を大切にすることにはまったく違和感がなく、みんなとおんなじで快い「日本教徒」かもしれない。一般に心性的には「守旧派」であり、安全・安心・安定が好きだ。そのような意味では自分は保守派寄りになろう。

 ただ問題は「現代日本のいわゆる保守派」つまり反動派は、そのような価値観を法制度や社会的圧力で他人に強制することである。彼等の新憲法案では、家族を「基本的単位」と規定する。憲法でそう決められてしまえば、介護などで(国や自治体に頼らず)家族に犠牲を押し付ける法律などが正当化されるほか、結婚しない者は半端者、こどもを生んで一人前、といった社会的圧力にお墨付きを与えよう。家族を大切にするには、同性愛者を「生産性がない」などと差別するようなことでなく、安心して結婚や出産ができるように、非正規雇用や長時間労働を減らすことである。安倍内閣の教育基本法改定で「国を愛する態度」が教育の目的に加わった。祖国愛は好ましいと小生は考えるが、法律で規定し、たとえば国歌を歌わない者を処分するといったいまのやり方は逆効果である。そんな法律をつくることでなく、政治家の務めは、国民の多くが(法律で強制されなくても自然に)愛せるような国をつくっていくことでなければならない。価値観や思想を強制しないことが、「リベラル」の最も根幹の部分である。よって小生は、保守的な心情を持ちながらも、しいてどちらかと聞かれればリベラル寄りであると答えることになる。



◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓


哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1



2023/09/01 10:34 2023/09/01 10:34
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話59 私のカルチャー・ショック(その1)

二言居士

 

添付画像
 1976年、高校二年の夏のことである。ある用件で出かけ、乗り換えの本厚木駅の蕎麦屋に昼食に入った。食べながら大きなテレビを見た。はじめて見る番組だった。新婚夫婦に話を聞いていた。神奈川県で流れているということは全国放送なのだろうが、流ちょうには理解できない大阪弁のままだった。だがそれ以上に、内容に仰天した。

なれそめやつきあいの話だが、そんなことを見ず知らずの人に、それもテレビの前で言ったり聞いたりすることにである。つまりプライバシーだ。ひとに聞かれたくない、したがって聞くべきでないことなのではないか。だんだんわかってきたのは、どうもこれは関東と関西の文化的違いであるようで、このような番組は関西系に多い。番組としてのはじめは「夫婦善哉」(1955年、ラジオ、ミヤコ蝶々・南都雄二)で、「おもろい夫婦」(京唄子・鳳啓介)、「新婚さんいらっしゃい」(旧桂三枝、小生がみたのはたぶんこれ)から、現在なら明石家さんまの番組と続く。恋愛や結婚・離婚(についての意見でなく)の実体験は一番語りにくい、あるいは語りたくないところだろうに、そこをこそぐいぐい聞いてくる。のようなので、その司会者の伝記も少しのぞいてみたが、そこへらん、世の中の抵抗はなかったのか、という小生が知りたいことについては書かれていなかった。

蕎麦屋で見た番組でさらに驚いたのは、新婦が、まだ未確定の付き合いで、遊びに新郎の実家に連れていかれたとき、かなり富裕な豪農であるのを見て、それでこれは結婚を決めなければと意を決したと話したことである。ずいぶん現金な話である。これもだんだんわかったのだが、関西人は話を「盛る」のが好きで、また自虐的落ちとして笑いが取れるという計算もあろう。それにてもこてこての(というのは関西弁だが)関東人なら、ほぼ絶対にこういうことは言わないだろう。仮に事実として同じだったとしても、そういうことは人に言うことではないのである。なんでやねん(と関西人がつっこむ)。それは恥ずべきことであり、せめて口に出さないのが人間の尊厳、矜持、廉恥心であると答えられよう。やんやそれ。偉そうなこと言うて。だから東京もんはええかっこしいですかんわ。人間みんなちょぼちょぼやあらへんか。と関西人の「口撃」は続く。だが関東人はそうは思わない。多くの人間が、いや自分が実際はそう立派ではないにしても、だからこそ、そんなもんや、と居直ってしまうのでなく、それを恥ずかしく思うことが、せめて必要なことではないか、と考える。

添付画像
私生活については一切語らない「タレント」もおり、渥美清などが有名である。だがこの問題についてあまり論じられているようには思われない。

一般にSNSなどを通じ私生活の公表は広まっていよう。料理や服や化粧の写真、イベント参加の報告や日々の感想など、多少の自慢や毒があっても、微笑や苦笑で済むものがほとんどはある。しかしそのなかではじらいの意識が消えていくことや個人情報さらす危険への無自覚は、問題ではあるまいか。そしてそのことは狙われている。狙うのは国家であり、企業である。そのことは第47回(「中国の脅威」)・第49回(「ひみつきち」)でも触れた。

日本全体が「関西化」しているのだろうか。保険証や免許証を取り上げて「マイナンバーカード」を強制するなどはもってのほかと思うのだが。そしてそれに(ホリエモンのように推進を急がせる声のなかで)、異論を敢えて発言する「タレント」などもちらほらと出てはいるが、反対の大運動などは起こらないのだろうか






◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓

哲学史

哲学史

仲島 陽一 | 2018/4/1
両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, Francois Poulain de la Barre | 1997/7/1
共感を考える

共感を考える

仲島 陽一 | 2015/10/1
2023/03/15 17:16 2023/03/15 17:16
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

添付画像
屋道話58 


ウクライナ問題、日本人にできること

二言居士

 

 東部に手を出してくることはあるかもしれないと思っていた。しかしこのような全面侵攻を行うとは思っていなかった。なぜこの行動か。

ロシア側に立って考えてみると、直接には、前回述べたようにウクライナのNATO加盟へ動いたことである。まただんだんわかってきたところでは、「冷戦終結」後の三十年、ロシアは「西側」がその精神(ないし少なくともロシアの解釈では「約束」)に反してNATOを拡大させてきたことへの憤りや危機感があったようだ。だとしても、全面的な軍事侵攻には飛躍がある。特に、ウクナイナを兄弟国と言っていたことからすれば。

と書いたが、実はそこに答えの一環もあるように思われる。つまりウクライナを言うことを聞く弟分とみていたのであり、敵側と同盟を結ぼうとするような政権は力づくでも倒さなければならない、という論理である。こうしてみるとこれはスターリン以降のソ連が東欧に対した態度、たとえば「人間の顔をした社会主義」を求めたチェコスロバキアに軍事侵攻した(1968年)のと同じである。しかしソ連とチェコは「ワルシャワ条約機構」でつながっていたのに対し、ロシアとウクライナとは同盟関係はない。ただウクライナは旧「ソ連」を構成する国であったから、「ロシア」からすれば自分たちの勢力圏、という意識があるのだろう。しかしそれでは「ソ連崩壊」(1991年)の意味をロシアが理解していないことになる。

心理的にはそうなのだろう。それは多くのロシア人にとっては、旧ソ連における特権官僚の支配や自由の抑圧の終わりとして評価されても、覇権主義への反省にはつながらなかったのだ。むしろまさにその点で多くのロシア人は(ロシア以外の全世界と違って)ゴルバチョフ(執筆中に訃報を聞く)を否定的にみているのだ。東ヨーロッパを失い、さらには「ソ連」に加わっていた多くの国まで手放してしまった悪い奴、と。そしてまさにこの点で、スターリンをいまだに評価もするのだ。バルト三国などを「ソ連」に加え、また戦争に勝利して東欧をわが勢力圏にすることに成功した英雄として。ウクライナ侵攻に対してロシア人の反対論が思ったほど多くないことも、(情報統制や言論統制のせいだけでなく)ロシア人大衆における大国主義意識の強さが一因ではあるまいか。二十年ほど前、ある大学の新学部の立ち上げの会(教員だけ)で、新任講師が担当科目を紹介する場があった。ロシア語担当の女性が、ロシア語は世界で〇億人も使っている、と力説したこととその態度に小生は驚いた。小生はロシア語教育には大賛成だが、その有用性や魅力を伝えるには他のやり方もあると思う。しかしソ連崩壊して十年たっても、またふつうのロシア人でも大国意識が根強いことにショックを受けたのである。

だがこうしてみるとひとごとではない。わが日本も、領土や勢力圏の拡大を栄光とし、兄弟的な民族であるがゆえに日本人が導いてやるのだと高慢になり、あるいはその盟主として彼等を悪い奴らから解放するのが使命だと合理化したりしていた。いまのロシアを非難するのは正当であるが、その際日本自身が同様であったことの反省があるだろうか。

ウクライナ問題を日本にとっての他山の石とする論議では、日本がいまのウクライナのようにならないにはどうすべきか、がほとんどである。それは不要とは言わないし、前号ではそのごく一端について管見を述べもした。しかし日本がいまのロシアのようにならないにはどうすべきか、はほとんど聞かれない。そんな議論は必要ないならばなくてかまわないが、そうは言いきれない。日本人もまた、「大日本帝国」の反省をしっかりしたとは思われないからである。それなのにいまやまた、そこに戻ろうとする動きが強まっているからである。そしてそれを反省しようとする動きに対しては、「自虐的」であるとか、外国に洗脳されているとか言ってたたく力が激しいからである。だがそういうなかで、わが国も核兵器を持とうとか、五年で軍備を倍にしようとかすることは、「日本を守る」ためにも逆効果なのではあるまいか。念のために言えばこれは日本だけではない。ロシアもアメリカも中国も、かつての覇権時代をよしとして「メイク・グレイト・アゲイン」の風潮になっている。大国主義・帝国主義の価値観を変えさせる必要があり、日本こそその先頭に立たなければならないのではないか。

ウクライナ軍に加わりたいと志願したり、ロシアへのサイバー攻撃に参加している日本人もいるという。主観的には正義感でのことかもしれないが、日本人の行動としてはまったく的を外していよう。



添付画像

画像は著作権で保護されている場合があります。 詳細







◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓
通常配送料無料



通常配送料無料



通常配送料無料


通常配送料無料


両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, de la Barre,Francois Poulain
通常配送料無料


通常配送料無料
2023/01/03 11:23 2023/01/03 11:23
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話57 ウィル・スミスとプーチン

二言居士

 

添付画像
 このまえのアカデミー賞授賞式の出来事だ。ある人物が俳優ウィル・スミスの妻の容姿をネタに侮辱的な発言をした。これに怒ったスミスが登壇してこの人物をひっぱたき、このため処罰を受けた。スミスは妻思いなのだろうが暴力はまずいとして処罰はやむを得まい。またこれによって人々の関心や論議は元の問題発言よりもスミスの行動に向けられてしまった。彼のような有名人なら、手を出す以外に批判する方法は多いはずだ。

ロシアのウクライナ侵攻の理由は何か。当初ロシアが言った、ウクライナの中立化(NATO加盟の阻止、または加盟をめざす反ロシア政権の打倒)が最大の目的だったと受け取ってよいと思う。ウクライナを滅ぼすとか全体の併合をもくろんだというような推測は無理だろう。ロシアをそもそも悪魔的な侵略国とみなすのは陰謀論的な偏見であり、欺かれていないロシア国民は政権に賛成していないことも見逃してはならない。なんとかにも三分の理と言うのは、この場合にも多少は妥当する。想像してみよう。たとえば韓国と北朝鮮が統一を遂げ、「反日」を方針としてプサンなどに日本に向けたミサイルなどを並べたらどうか。他国の自由であるとして黙ってみているだろうか。もちろんそれにしてもロシアは、軍事侵攻することですべてをだめにしてしまった。ウクライナ国民に対しては無論、自国民に対してもプーチン政権は大きな損害を与えた。ではどうしたらよかったのか。武力以外の方法で相手に、また国際社会に働きかけるべきであった。ゼレンスキー政権下でロシア系住民が対等に扱われなくなった事例があることは、すべてがロシア側のフェイクではないと思われる。しかしそういうことは「手を出す」前に周知させるのでなければならない。いちばん根本的なところで言えば、ウクライナ国民に、ロシアを魅力的な国と思い、反ロシアの政権は支持されないようなロシアをつくることが、大統領の務めであっただろう。国際法違反の残虐行為が仮になくても、軍事侵攻にはまったく正当性がない。

「彼等」がどうすべきだったかはそれとして、では「我等」はどうすべきなのか。

アメリカの小学校で銃乱射事件があり、多くの被害が出た。高校などではもはや年中行事といった感もあるが、ついに小学校である。バイデン大統領は長年言われてきた銃規制に向け、「私達は行動しなければならない」と述べた。しかしこれにトランプ前大統領はさっそく反対の演説をした。「銃を持った悪人に対抗できるのは銃を持った善人である」として、教師に銃を持たせて訓練することを対策として挙げた。

これは力に対してより強い力で対抗するものである。それがよいのだろうか。相手が「悪人」ならば、もっと強い力で向かってくるようになり、いざというときの被害を大きくするだけではないか。そして相手が自分たちのほうが強いと(正しくなり間違ってなり)思ったときには、あるいはいちかばちかだと開き直ったときには、「抑止」はできない。むしろそのような力への信仰を克服することが、必要なのではないか。

日本の対外政策は、近年「戦争をする国」へ転換したが、このところの国際情勢の厳しさでこれを加速させる動きが強い。「敵基地攻撃能力」ということで専守防衛の放棄(少なくとも空洞化)や核兵器共有さえ語られだした。確かに平和を唱えているだけでそれで実現するというならば、ノー天気な「信仰」と非難され得る。「平和主義者」の側もその立場から、戦争を防ぐための積極的な方針を考える必要がある。いや既にいろいろ出てもいるので、少なくともそれらを知る必要はある。小生も基本的には平和主義者のつもりだが、専守防衛の維持といったことにとどまらない「積極的な方針」も少しは考えている。ここでは一つの論点に限り、そのための一つの提起だけを示すことにしよう。

尖閣諸島をどのように防衛するかの問題である。海自などの活動を無用とは言わないが、それとともに(ある意味でそれ以前に、そしてそれ以上に)重要なことがあるのではないか。日本政府は尖閣を「わが国固有の領土」と言っているが(そしてそれは正しいと小生も考えるが)、なぜそう言えるのかをちゃんと言える国民がどれだけいるだろうか。まずそれを自国民に対してはもちろん、国際的にも広く示すべきである*)。政府のホームページに出すのは、手間暇かかることではない。パンフレットも一冊百円でできる。日本語だけでなく、英語版、中国語版など大量に作ればよい。学生などに配るだけでなく、国内外の図書館などに寄贈すればよい。外国の外交官、専門家、ジャーナリストなどに送ればよい。そうした人や関心のある外国人に会う日本人にはたくさん渡して、お土産に渡すように頼めばよい。日本政府が会見や談話で「日本固有の領土である尖閣」というたびに、一言でもその根拠を言うべきである。記者などがより詳しい説明を求めるなら答え、中国側が反論するならそれが成り立たないことを示し、かみ合った反論が出きず(そのはずだが)に単に反対や「強烈な不満」なりを言うだけなら、「反論できなかった」としつこく言うべきである。こうして問題にされるほど日本の主張の正当性が世界中に広がり、誰もがいやというほど聞いてわかった、という状況をつくればよい。そして中国が領海侵犯など行動に出ることはもとより、言論で対抗しようとすれば、諸外国からも、そういう馬鹿な言動はよせとたしなまれるような状況をつくればよい。中国国民からも、そのような自国政府は恥ずかしいと思われるような状況をつくればよい。空母を作ったりするよりずっと安上がりでもある。

これに対してシニカルな力の信者は、そもそもそのような「正当性」を気にかける者は多くない、と言うかもしれない。であるならそのことも含めた対策に努めよう。すなわち、日本は(国益を追求するにしても)正当性に基づいて行動する方針であることを宣伝しよう。そして、(横井小楠が述べたように、)大義を世界に広めること、世界全体が道理に基づいてふるまうように尽力することが、日本国民の考えであることを知らせ、その支持者を増やしていこう。

*) 現政権がそれを行わない理由についての考察は長くなるので省く。



添付画像

トッド・グッドマン氏によるウォールアート
JUANITA HONG





添付画像

← ルボーク 『床屋の髭切り』
17世紀末のロシア帝国にて、勅令に従って“髭刈り”を執行する床屋(理容師。右)と、抵抗の意志を見せながらも応じざるを得ない古儀式派の大貴族(左)を描いた戯画。18世紀初頭の作。












◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓
通常配送料無料



通常配送料無料



通常配送料無料


通常配送料無料


両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, de la Barre,Francois Poulain
通常配送料無料


通常配送料無料
2022/09/14 18:37 2022/09/14 18:37
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

添付画像
床屋道話56 「分断」を考える

二言居士

 

 近年、「分断」ということがしばしば話題になる。英国の欧州連合からの脱退や米国のトランプ現象などがその大きなきっかけであった。多くは、これを困ったことだとし、どうすべきかという方向で論じられる。しかし事柄はそう単純ではない。

 第一に、分断自体よりも分断を嘆く声のほうを憂うべきと思われる面もある。批判を嫌う人が増えたと、近頃各方面で言われる。「つっこまない漫才」は新型としてあってもよいが、「推す批評が斬る批評を駆逐している」というのはどうか。特に政治では批判が大事である。同じ国民、仲良くやっていけばよいのに、といった感想はとても有害である。なぜ同じ国民は同じ意見でなければならないのか。これはまさにファシズムへの道である。もちろん暴力的な対立はよくない。しかし言論などでの批判は必要である。批判はあって当然であることによって、体制側や多数派の腐敗や圧政を、また暴力的対立も防がれるのである。

 ここ数年、「野党は批判ばかり(でよくない)」とよく言われた。それも批判だ、というのは揚げ足取りでもあるが、当たっている反批判として反省されたい。第二にこれはまったくのデマである。国会において半分以上、地方議会では大多数が全会一致かそれに近い賛成で成立している。リツイート組は、こんな単純な知識または確認もなく、そうだけしからんと乗ってしまうのは、マスコミで大きく取り上げられるのが主として「対決型」の問題だからに過ぎない。言うまでもなくリツイート組よりも発信元の罪は大きく、デマ、ないし穏やかに言えば「印象操作」の意図を読み取らなければならない。それは一つには、「翼賛政治」的なものを「日本の伝統」としたがるイデオロギー的反動派と、「効率主義」の新自由主義からの、手間暇かかる民主主義つぶしとがある。しかしその際にも、近年の日本国民が批判嫌いになってきた(さらに言えばそうさせる戦略が効果を表してきた)ということを感じての、戦術であろう。第三に、批判でなくて代案をと言っても、たとえばモリカケ桜のような案件は代案が必要なものではない。いつまで批判してるんだという者がいるが、隠したり逃げたりばっかりだから終わらないだけである。逃げ隠れする者を追求する側を批判してまで、悪を続かせたいのか。第四に、「改革」を競うよりもむしろ現状がよいものもある。「行政改革」「政治改革」「構造改革」は日本をよくしたのか悪くしたのか、検討すべきである。改革信仰や、「スピード感」の標語には用心しよう。第五に、しかし野党は重要な政策課題では代案を出している。NHKあたりではまともに取り上げないが、立憲民主党なり共産党なりのホームページをちょっと調べればわかることだ。このように「野党は批判ばかり」は嘘で固められており、「現実的になれ」「上の方針に協力しよう」という攻撃は、与党の支持者にとってもためにならない。なお「批判嫌い」の風潮について、玉川徹(編著)『強権に「いいね!」を押す若者たち』青灯社、2020、をぜひ読まれたい。

とはいえ、今日「分断」が憂慮されるにはもっともな面もある。それは対立する陣営の間で、話が通じなくなっている面である。先ほど議論での批判はあって当然と述べたが、議論が成り立つにはなにがしか共有するものが必要である。仮に価値観では完全に相いれないとしても、基本的な事実認識の共有などである。ところが、トランプ大統領の就任式にオバマのときよりずっと多い人が集まったかどうか、というような単純な事実問題についてさえ、認識が一致しない。一方が実証的な根拠を示しても、他方は「もう一つの事実」があるとか言って認めない。大手の新聞やテレビ(勿論それらに間違いや偏りがまったくないというわけではないが)を、まるごと「フェイク」のメディアと決めつけ、他方でネットの謀略情報こそ真実と思い込むような者が増えてしまっている。こうした意味での「分断」は、確かに現代的な現象であり、克服すべき状況である。

このような悪しき「分断」にはいろいろな原因があろう。直接にはネット空間の「エコーチェンバー」作用などが指摘されるが、政治経済的な基盤もあろう。思想的な要因もある。ポストモダンの相対主義、それと結びついたパラダイム論や社会構築主義がまず挙げられる。「事実などない、すべては解釈だ」という、罪が大きいニーチェ主義は、是非克服しなければならない。


添付画像





◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓
通常配送料無料



通常配送料無料



通常配送料無料


通常配送料無料


両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, de la Barre,Francois Poulain
通常配送料無料


通常配送料無料
2022/07/06 05:39 2022/07/06 05:39
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話55 バーミヤンの破壊
                                  二言居士

 今年はアフガニスタンからようやく米軍が撤退した。ほぼ同時に、米国(を中心とする多国籍軍)によって追い払われたタリバンが政権に復帰した。これを伝えるわが国のニュース映像では、旧タリバン政権の紹介としてバーミヤンの石仏の破壊が映し出された。これに対する小生の違和感が、本稿のきっかけである。
 それによって報道は、またそれに付随する「解説」やコメントなどでは、この行為が極悪非道であることを前提したような、またはそう印象付けようとしているようなものであった。つまりそれは、タリバンへの(ことによればイスラム全体への)悪いイメージを刻もうとしているかのようであれ、またそれでアフガン戦争を正当化するかのようでもあった。小生は、バーミヤン破壊は二択で言えば「よくない」と考えており、タリバン政権もそれ自体としてはよい政権と思っているわけでなく、イスラム教に対してもいいとは思っていない。しかしタリバン政権とアフガン戦争のどちらがより悪かったかは、難しい問題であろう。
 けれども本稿で問題にしたいのは、バーミヤン破壊がそれほどの極悪非道なのか、ということの違和感である。これも二択で問われれば、小生も「よくない」と答える。理由を問われれば第一はみんなと同じで、貴重な文化遺産だからと答える。補足するならば、現在この大仏が「偶像崇拝」に力があるとは思われないこと、また偶像崇拝をなくすために神仏の像の破壊が有効と思われないこと、を挙げよう。
 「よくない」と考えるが、「それほどの極悪非道」と受けとめられる、あるいは言い立てられることには違和感を持つのはなぜか。第一にそのような行為はイスラム過激派の専売ではなく、キリスト教も行ってきたからである。有名なのは宗教改革当時のものであるが、プロテスタントだけではなく、初期の教会もギリシャ・ローマなどの神像を、あるいは神殿ごと破壊したことも少なくない。いや初期だけではない。小生が大分県に行ったとき知ったことがある。戦国時代、「キリシタン大名」大友氏の統治下で、多くの寺社が破壊されたことである。いずれにしてもこうした行為を単純に極悪非道視する者には、宗教的熱意への不感症、あるいは反発があるのではないか。宗教を単なる年中行事かせいぜい御利益のためのものとしかとらえず、多数派または既存の価値観での「善行」を勧めるものとしかみないことが、この心理の裏面ではあるまいか。ここでも小生は宗教熱をよいことと言いたいのではない。宗教熱への不感症や反発のなかに問題もあると言いたいのである。
添付画像
 今日の日本人の多くがこの行為をよしとしない理由に、私が補足で挙げたことはほとんど含まれまい。ほぼもっぱら、それが保護すべき芸術作品だから、ということにおさまるであろう。ここで小生が提起したいのは、芸術という資格がその制作物を神聖不可侵にするのかということである。芸術性はあるが猥褻なものや暴力的なものはある。それらへの批判はあって当然だ。この「批判」を、物理的破壊や、発表者への暴力的脅迫や、法的弾圧とひとくくりにしてはならない。前衛美術家のクリストは、歴史的建造物などのラッピングで知られる。たとえばドイツの国会議事堂などであり、そうした「芸術活動」はしばしば批判の的にもなった。彼自身はしかし、それを「芸術への無理解」などと頭から撥ねつけはしなかった。むしろ批判が起こるのを当然と受けとめ、そのような論議を起こすこと自体も自らの芸術行為の重要な内容と位置付けた。このような公共的な討議空間が、かえって芸術活動への権力的統制やテロ行為を防ぐ土台になるのではなかろうか。
 近代において芸術は代理宗教になったとも言われる。かつて神の属性とされた「クリエイター」は、世俗的な制作者である「メイカー」と区別されて今日では芸術家に与えられている。芸術に対して宗教的、道徳的、教育的などの観点から批判することを信じられない蛮行のようにもし思うならば、それは実は「芸術」なるものへの宗教的信奉なのではあるまいか。


添付画像




◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓
通常配送料無料



通常配送料無料



通常配送料無料


通常配送料無料


両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, de la Barre,Francois Poulain
通常配送料無料


通常配送料無料
2022/03/18 14:25 2022/03/18 14:25
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話54 黒柳徹子

二言居士

添付画像
 

 長寿テレビ番組「世界ふしぎ発見」の回答者の一人である。小生より年長の者は、概して彼女に感心する。よく正解する、賢い、というほかによく勉強するということでも。しかし年下の世代(1960年代以降生まれ)ではそういういわば素直な賛嘆はあまり出ず、むしろ冷ややかな声が聞こえる。「東大枠」「インテリ枠」などで選ばれているクイズ番組ではないのだから、わからぬことはわからぬでしゃかりきに当てようとしなくても、適当にボケておけばいいのではないか、と。

「徹子の部屋」はさらに長寿のトーク番組である。すぐれた聞き手ゆえだ、と思っている者も年長者には多いようだ。これも若手の受け止めとは異なる。この十年くらい、これをネタにしたパロディがもはやベタであることが示している。そこではキャラ「徹子」がゲストに、「あなたが〇〇さんと一緒に××したとき△△になって困ったという話をしてくださらない」などとふって、「いや全部言われちゃったし」とゲストがこける。よく調べておくことはいいが、自分の予定通りに進めたがりすぎることや、ゲストが「想定外」の反応をしてもそれに対応する気がほとんどみえないことなどへのいらだちか感じられる。

こうした世代差は何を意味しているのか。実は小生は、1980年代の日本に重大な精神的変動があったと考えている。それに気づいている者と言えるのは、山藤章二である(『ヘタウマ文化論』岩波新書、2013)。この転換は、一つの言い方としては、「まじめ」に「努力」して「正解」や「上達」を得ることを野暮とする価値観の台頭である。70年代にみんなが感動したスポコン漫画や熱血学園ドラマが笑いのネタになったことにも表れている。これはそうした価値観にどっぷりつかった人々からすれば「堕落した」とも感じられよう。しかしそう単純ではない。というのは、「堕落した」面もまったくないことはないのだが、それを本質とみなせるほど、いわんやそれに尽きると片づけられるほど「単純ではない」ということである。よってこの小文で論じきれるものではないが、一つだけ言っておこう。これは新傾向ではあるが、実は日本精神において何度か現れたものへの回帰でもあり、ある意味での成熟の表れでもある、ということを。

「徹子問題」では正反対とも見える角度からのものもある。彼女の「自由さ」への評価であり、これはベストセラー『窓際のトットちゃん』の好評とも重なる。ただし新世代には素直にウケたり解放感を得たりはしにくい。たとえば王貞治とのインタヴューで、左打者は打ったら三塁に走ったら、と聞いたのは有名だ。「自由な発想」ではあろうが、スポーツはルールがあってのおもしろさだ。世の中自体もそうだが、ルールをよく知ったうえでそれを裏返してみるような視点を出すことは愉快であったり痛快であったりするが、単なる無知からくるボケた発言では興が醒める。(むしろ左打者が一塁に走るには有利であることは野球ファンなら誰でも知っている)。確かに世の中には理不尽な「ルール」もあり、たとえ「障害」による無知からくるものだとしても、それ(特に「暗黙の」ルール)に疑問を持ったり別行動をとったりすることも許される、というのは望ましい進歩ではあろう。しかし今日は次の段階にきているのではなかろうか。いや確かに、問題にされなければならない古い無理解や差別もいまだにある。それでもたとえば「障碍者」といえば、ハンディに負けず頑張っているといった紋切り型の美談や感動の押し売り、はやめてくれ、などと当事者側から大きく言われるようになった。障碍者にもこずるい者やだらしない者などもいるのを「ふつう」のこととして受け止めたうえで共生の道を広げてくれ、と言われる。これも一種の「成熟」ではあるまいか。

この文は、黒柳徹子が偉くないとかつまらないとか言いたいのではない。彼女への評価が変わったことが、単に若い世代が彼女の「偉さ」に無知であるとか彼等自身の人間性が低下したからではなく、そこにかなり大きな意識変化があることが理由として認められるのではないか、という考えの表明である。



添付画像

◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓

通常配送料無料



通常配送料無料



通常配送料無料


通常配送料無料


両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, de la Barre,Francois Poulain
通常配送料無料


通常配送料無料


2022/01/12 17:22 2022/01/12 17:22
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話53 文句は直接言え

 

 はじめに強く感じさせられたのはもう十数年前のことになろうか。北海道旅行のときである。小生は一人旅が多いのだが、そのときは、広い北海道で老母とともになので、有名旅行会社のツアーに加わった。終わりに質問紙を渡され、いろいろな項目についての評価を求められた。どこがよかったかとか、この宿はどうだったかとかの質問はわかる。今後の企画の参考になろう。ひっかかったのは添乗員に対する評価である。近くにいるのに、わざわざ紙に書かせるのか。なぜそういうことをやらせるのだろう。直接お礼なり苦情なりを言ってやれば、本人の参考になるではないか。

 まず考えられるのは、本人でなく本社の上司なり人事課なりの参考にするということである。なんの参考にか。好意的に推測すれば、教育のためであろう。だがそれは本人の経験がおのずから一番の教育なのではないか。客に喜ばれたり怒られたりすることでうまくなっていくのではないか。察しの悪い、または向上心のない者もいると言われようか。だがそれは上司なり教育係なりが彼(女)に接するなかでわかるべきことではあるまいか。とてもよいまたはとても悪い場合はアンケートをとらなくても利用者が上に声を届けもする。アンケートに頼るのは、「上」が、このように若い社員に丁寧に気を配る能力を失って、てっとりばやい数値や断片的な言葉で彼(女)を「把握」した気になっていることではあるまいか。好意的でない推測では、そのような「教育的」観点でなく、「考課」の材料にするためではあるまいか。あるいはまた、その「考課」により給与や昇進に差をつけられることが「インセンティヴ」になって本人を「育てる」ことになるという、新自由主義的な野蛮な人間観・経営論によるものかもしれない。

 そのような質問紙を自ら配らなければならない添乗員はどういう気持ちなのだろうか。配らせるほうでは、そんなことに気を使わないのか。しかし客の気持ちに寄り添おうというなら、まずは自社の社員の気持ちを考えたらどうなのか。それともいまは配るほうでもこういうものだと「自然に」うけとって疑問も反感も抱かないのか。

擁護論として、客としては直接よりも表明しやすい、というものがあるかもしれない。そしてそれゆえ会社としてそうすることはよい、という擁護論も。小生はそうは思わない。まずできる限りは直接言うのが人間関係として望ましいと考える。時には直接言いづらい、またはそれだけでは済まない苦情などもあることは認める。しかしそれを「上」に言うことが禁じられているわけではない。小生も正当な告発は卑怯な「チクリ」でなく重要な権利行使であることを述べた(第20回「密告の倫理」)。抗議や批判が直接言いづらいのは自然ではある。問題なのは、「相手が傷つくかもしれないから」でなく、「自分が反撃されるかもしれないから」のときである。だからこそ、その恐れがないかたちで行うのは卑怯である。

添付画像
今までの優位や利得を失うことへの抵抗が反動を生んでいる。

「在日特権」は、そんなものはないと身近に知っている関西人はあまり問題にしないが、ファッショ的団体やネトウヨ情報こそ真実だと思っているような者はまにうけてしまう。これにも、「在日」がどれほど不当な扱いや差別を受けてきたかという「全体」をみずに、歴史的事情による当然の措置まで彼等の不当な利得のようにみて、「自分たち」が苦労しているのに、あるいは自分たちのものを不正に奪って、「奴等」が支配している、あるいはそうなろうとたくらんでいる、と思いたがる心理がある。Q-anonの陰謀論を信じるトランプ派ほどでないにしても、わが国でも、在特会やN国党と言ったファッショ的団体が、各種選挙でそれなりの得票を得たり議員を出したりしていることは、かなり危ない状況である。


添付画像




◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓
通常配送料無料



通常配送料無料



通常配送料無料


通常配送料無料


両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, de la Barre,Francois Poulain
通常配送料無料


通常配送料無料
◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓
通常配送料無料



通常配送料無料



通常配送料無料


通常配送料無料


両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, de la Barre,Francois Poulain
通常配送料無料


通常配送料無料
2021/09/14 10:30 2021/09/14 10:30
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話52 反動の心理

二言居士

 

 トランプ現象には驚愕した。まさか当選しないだろうと思っていた。当選してもすぐに破綻するだろうとも思った。しかしまがりなりにも一期を終えた。とりあえずの一段落である。ただし僅差での敗北であり、その後も人気がどっと落ちたわけではないのでまだ終わったわけではない。その意味でも少し考えを記しておこう。

内容と形式の二面から考えられる。後者は、あからさまな大量の嘘や陰謀論に多くの人がひきつけられるようになったことである。重要な問題だがここでは取り扱わない。

前者は政策内容のことである。はじめから前面に出たのは移民問題だった。移民が米国経済にとって良いか悪いかは、純経済的には決め難い。無難に言えば、プラスになっている人々もマイナスになっている人々もいる。トランプ派は後者のほうが多いのだろうが、では移民を排除すればよくなるかと言えばそう単純ではあるまい。移民によって米国経済全体が支えられたり伸びたりしている面があり、間接的にはそれが反対派にもプラスになり得るからだ。経済的利害を離れて言えば、移民を受け入れるかどうかは主権国家の自由とも言えよう。しかしトランプ政権や支持者で問題なのは、それが利害以上に外国人嫌いという心理に、もっと言えば差別意識に結びついていることである。

人種差別は米国の宿痾ではある。しかしオバマ政権の誕生で克服の道も進みつつあると思われたのにである。いやむしろだからこそなのであろう。この道が喜ぶべき「進歩」でなく「古き良き」アメリカを滅ぼすものと、トランプ派は観念しているのだろう。外国や異教徒や移民や、またそれらに「寛容」なリベラル派やインテリは、米国白人の優越に敵対するものとして否定されるのだろう。

いま世界には大きな革命が進行している。Me too運動などに表れている、男女平等への動きである。しかし渦中にあっても嵐に気づいていない者もいる。二階氏流の言い方をすれば「一過性の」現象と思っている者や、あるいは騒ぐのは売名目的だとくさす者もいる。また外に出ればそれくらいはつきもので、昔はそんなに騒がなかったとあきれる者もいる。事実問題としてはその通りなのだが、それに黙らなくなったこと、また「わきまえて」黙る(泣き寝入りする)のが正しいことでないと思われてきたことが、革命なのだ。旧体制で優越や利得を持った者のなかには、そこでこれを進歩ととらえず「正統的秩序」への攻撃、少なくとも「一部の過激な現象」や「行き過ぎ」ととらえたがる者が出ている。今の日本の若者など「女子のほうが元気がある」というのはわからなくはないが、本気で「いまは男のほうが差別されている」と考えている者もいる。根拠を聞くと、通勤時の「女性専用車両」のような例しか出ない。通勤電車における被害ということでどれだけ性差があるかという「全体」が見えず、わずかな是正措置を機械的平等という点から問題視している。米国で有色人種がいままでどれだけ差別されてきたかという重みをはからずに、是正措置を逆差別と非難する白人と同様である。今までの優位や利得を失うことへの抵抗が反動を生んでいる。

添付画像
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%81


「在日特権」は、そんなものはないと身近に知っている関西人はあまり問題にしないが、ファッショ的団体やネトウヨ情報こそ真実だと思っているような者はまにうけてしまう。これにも、「在日」がどれほど不当な扱いや差別を受けてきたかという「全体」をみずに、歴史的事情による当然の措置まで彼等の不当な利得のようにみて、「自分たち」が苦労しているのに、あるいは自分たちのものを不正に奪って、「奴等」が支配している、あるいはそうなろうとたくらんでいる、と思いたがる心理がある。Q-anonの陰謀論を信じるトランプ派ほどでないにしても、わが国でも、在特会やN国党と言ったファッショ的団体が、各種選挙でそれなりの得票を得たり議員を出したりしていることは、かなり危ない状況である。






添付画像
↑昭和28年にここ豊洲で創業しました。
現在は3代目ご主人の泉野さんと奥さん、2代目のお父さんの3人で営んでいます。





◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓
通常配送料無料



通常配送料無料



通常配送料無料


通常配送料無料


両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, de la Barre,Francois Poulain
通常配送料無料


通常配送料無料


2021/06/23 17:17 2021/06/23 17:17
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST

床屋道話51 「ニュー・ノーマル」はノーマルなのか?

二言居士

 

 コロナ禍はなかなかおさまらないが、「ウィズ・コロナ」「ポスト・コロナ」の話題も「気が早い」とは言えないほど、既に耳慣れてきた。コロナ対策が厄介でうっとうしいのは、誰にとっても同じであろう。小生としては、それに加えて、以前からいやに思っていた風潮が、これで増幅されたことがある。

 昨年のここと思う、「伊達マスク」が現れているという話題を聞いたのは。「伊達眼鏡」は目が悪くない人のものであるように、風邪ひきでもないのにマスクをする人々がいるという話である。ただ伊達眼鏡はおしゃれのためだが、伊達マスクは顔をさらしたくないためだという。聞いていかにもという気がした。そういう人が増えている空気を感じていた。

さらに一、二年前のことだろうか。たまたまテレビで、マツコ・デラックスと有吉のおしゃべりを聞いた。中華料理屋で、カウンター席に仕切りをおいて、一人分の空間を隣席から隔てるようにした店が現れているという話題が出た。今日の「アクリル板」を連想させるが、無論新型ウィルスなど問題になっていなかった時期である。他者との直接の接触を防ぎたいという意図らしい。マツコの、「みんなこんなふうになっていくのかしら」という危惧と、「独房みたい」というたとえが印象的だった。

マスクにせよ仕切り板にせよ、共通するのは他者とのなまの、または「密」な関係を避けたいということである。電話を嫌がり、なんでもメールで済まそうする若者というのも、こうした流れの表れと言えよう。さらに言えば、言葉にやたらに「とか」をつけてぼかしたり、自分のことなのに「私って……じゃないですかぁ」と半疑問形にしたりするのも、同様であろう。

年配者の多くがそうであるように、小生もこうした風潮を苦々しく思っている。すぐありそうな反論は、それは時代に逆らう守旧派の嘆きにすぎないというものだろう。世の中は変わっていくこと、そして変化にはみなそれなりの理由があることは、もっともである。しかし変化がすべて「よい」変化とは限らないこと、悪い変化には反対すべきことも、見落としてはならない。さしあたり理由の問題はおいて、この変化を「いやに思っていた」人間にとっては、コロナがしかしそれを後押しする結果となったことが忌々しい。これを書いているとき、石田ゆり子さまが、「マスク会食」への嫌悪感を投稿したのをみたが、さすがゆり子さまと喜んだ。しかし慣れというのは強力であり、また新事態で利を得た者がそれを維持しようとすることは想定できる。つまり「ポスト・コロナ」においても、いろいろな意味での「ソーシャル・ディスタンス」を促す生活が権威づけられるのではなかろうか。無論「ポスト」でなく渦中における感染対策として協力するのはやぶさかではない。また発達障害のあるものが、新方式でかえって勉強や仕事で参加しやすくなったということなどは、多様な人々を包摂する合理的配慮として、生かされるべき経験であろう。しかし今度は逆に新方式全般、をすべての者が従うべき「ニュー・ノーマル」とか言って、ノーマル(ふつう・規範的)なことにしてほしくない。

 

添付画像
土屋恵一郎『独身者の思想史』(岩波書店、1993)という本を読んだ。近代英国の文化人の、主にホモセクシャル的な面について、主に私生活の面からとりあげている。題目も手法も主流なものでないので、特にその方面に関心があるわけでない小生としては、そういう論考があってもいいとは思うが、あまり気がはいらずに読んでいった。しかし最終章の「6」で、心のなかであっと言った。チャールズ・オグデンを扱っている。著書『意味の意味』がある「著名な言語学者」で、「二十世紀最高のエディター」と著者は言う。1943年9月、新聞記者が取材に来たとき、仮面(英語の「マスク」は本来この意味)姿で現れ写真を撮らせたというところからこの章は始まっている。彼は850の単語で済む「ベーシック・イングリッシュ」の提唱者であり、これによって、話し手の「人」でなく語自体の「観念」だけを問題にしたいらしい。実際の場面でも、「仮面」をつけることで顔や表情を消したいのだと言う。これは科学主義的な志向と言えよう。科学の言説では、「誰がそう言ったのか」は度外視すべきである。(「科学史」ではそうはいかないが、「科学史」が――歴史研究一般がそうであるように――「科学」に属するかどうかは難しい。)逆に言えばそれゆえ哲学は科学ではない。ベストセラーになった『ソフィの世界』の最初の問いが「あなたは誰」であって「あなたは何」でないことは示唆的である。確かに反対の極にいって、その人となりが好きだからその思想を信じる、というのは哲学ではない。言によって人をあげず人によって言を排さない区別は、思想でも必要である。しかし区別されながらも両者に「密接な関係がある」のは、思想も実生活と同じである。ただ問題は狭義の哲学を越えている。オグデンは。蓄音機やレコードを集めた。そこから聞こえるのは、身振りも顔も伴わない声であり、社会的文脈なく、特定の個人への感情もない、いつどこでも同一なものとして反復される音である。「オグデンの世界は、現在のコミュニケーション・ネットワークの独身者的世界を先取りしたものであったのだ。電話、ファクシミリ、パソコン・ネットワークによる独身者たちの共同体がそこに見えている」(196頁)と著者は記す。ここでまた、本の題にある「独身者」という語が、単に女嫌いで結婚しなかった、というだけのものでないことが現れてくる。

私達はそのような世界に向かっているのだろうか。


添付画像



------------------------------------------------------

◆画像をクリックして「Amazon通販」より仲島先生の本が購入できます。 ↓
通常配送料無料



通常配送料無料



通常配送料無料


通常配送料無料


両性平等論 (叢書・ウニベルシタス)

フランソワ・プーラン ド・ラ・バール, de la Barre,Francois Poulain
通常配送料無料


通常配送料無料
2021/03/17 19:37 2021/03/17 19:37
YOUR COMMENT IS THE CRITICAL SUCCESS FACTOR FOR THE QUALITY OF BLOG POST